使い道のない山(二) 知ってる。この匂い。うちの社の御神水と、同じだ
その裏山へ下見に出かけたのは、翌日のことでした。屋敷の裏手にある門をくぐると、もう、そこが山の登り口です。屋敷と山は、それほど、地続きでした。
案内役は、昔この山に入ったことがあるという、年寄りの猟師のおじさん。そして、なぜだか当主さままで、当たり前のような顔をしてついてきました。
「あの、当主さま。わざわざ、いらしてくださらなくても」
「領主の、視察だ」
当主さまは短くそう言って、さっさと先を歩いていきます。領主の視察。なるほど、ご自分の屋敷の裏山を、領主さま自らが見て回る。ご立派な心がけです。——地図に載せる意味もないと言い切ったばかりの山を、わざわざ? という疑問は、いったん脇に置いておきましょう。深く考えると、なんだか、負けるような気がしますので。
心配性のホルガーさんまで、胃の薬を握りしめて後ろからついてきて、ずいぶんと大所帯の下見になりました。何もない山の下見に、領主と家宰と聖女がそろって出向く。傍から見たら、さぞ、奇妙な一行だったことでしょう。
さて、その眠り山は、聞きしにまさる荒れようでした。
登り口こそ、なんとか道らしきものが残っていましたが、少し進むと、倒れた木が行く手をふさぎ、崩れかけた獣道が頼りなく続くばかり。落ち葉は幾重にも深く積もり、人の手が入らなくなって、いったい何十年になるのか見当もつきません。枝を払い、ぬかるみを避け、私たちは一列になって、ゆっくりと山を登っていきました。
その途中のことです。私は、苔むした岩にうっかり足を取られて、ひやりと体を傾けました。あ、と思ったときには、もう遅い。
ところが次の瞬間、すぐ隣で、当主さまの手が、さっと持ち上がったのです。傾いた私の腕を、とっさに支えようとして——けれど、その手は、私に触れる寸前で、ぴたりと止まりました。宙で、行き場を失ったように、こわばったまま。
当主さまは、その手を、静かに引っ込めました。そして、何事もなかったかのように前を向いて、低く、ひとことだけ言いました。
「……足元」
「あ。……はい、すみません」
私は、自分の足でなんとか体を立て直しました。当主さまは、もう何も言わずに歩いていきます。……おやさしい方だこと。転びかけた供の者に、ちゃんと気をかけてくださるのですから。あの、触れる寸前で止まった手の意味を、私がもっと深く考えるのは、まだ、もう少し先のことでした。
「あっしも、ここから先は、よく知らねえんで」
案内の猟師さんが、中腹のあたりで足を止めて、そう言いました。
「昔から、この山にゃ、あんまり人が入らねえんです。なにせ、呪われた領主さまの、お膝元の裏山だ。うっかり入ったら、氷の呪いにあてられる、なんて言う者もいて。……まあ、実のところは、何もねえから、誰も来ねえだけなんでしょうがね」
呪い、呪い。まったく、物騒な話ばかりです。屋敷のあるじも、その裏山も、この土地では、ぜんぶひとまとめに、呪い扱い。どうやら、みなさん、そういう話がお好きなようです。話の種には、事欠かない土地柄と見えます。
けれど、私はちっとも怖くありませんでした。それどころか、山を登れば登るほど、胸の奥が、だんだんと、あたたかくほどけていくのです。まるで、久しぶりに故郷へ帰ってきたような、そんな、なつかしい心地でした。
その、あたたかさの正体は、中腹の少し開けた場所に出たとき、はっきりと分かりました。
そこに、泉があったのです。
小さな泉でした。水は浅く濁っていて、水面には枯れ葉が幾枚も浮かんでいます。まわりの石は苔むして、いかにも長いこと打ち捨てられてきた風情でした。水はもう半分ほども涸れかけていて、今にも消えてしまいそうな、頼りない泉です。
でも。
私は、その泉のふちに吸い寄せられるように歩み寄ると、しゃがみ込んで、じっと水面を見つめました。
(——知ってる)
胸の奥が、ざわ、とざわめきました。
(この感じ、知ってる。この匂いだ。うちの社の御神水と、そっくり同じ匂いがする)
前世で、毎朝、柄杓ですくっていた、あの冷たい御神水。傾いた社のすり減った石段の、そのわきに、こんこんと湧いていた清らかな水。あの水とまったく同じ気配を、この涸れかけの泉は、たしかにまとっていました。
濁ってはいます。浅くもなっています。それでも、その芯には、澄んだものがまだちゃんと生きている。消えかけてはいるけれど、消えてはいない。長い眠りのなかで、じっと、目覚めの時を待っているような——そんな水でした。
私は、そっと、その水に手を浸してみました。
冷たい。指の先から、じん、としみとおるような冷たさです。けれど、身震いするような不快な冷たさではなくて、むしろ、どこか、なつかしい。前世で、毎朝、柄杓ですくっていた御神水の、あの、きん、とした手ざわり。それと、そっくり同じ冷たさでした。ずっと昔に別れたものと、思いがけず再会したような。指先から、じんわりと、泣きたくなるような、なつかしさが、のぼってきます。
そのときです。
胸もとの古い鈴が、ちりん、と、澄んだ音で鳴りました。
風は、ありませんでした。私が身じろぎしたわけでもありません。それなのに鈴は、ひとりでに、たしかに鳴ったのです。まるで、この泉に向かって、ひさしぶり、と挨拶でもするように。
……ああ、やっぱり。
この泉は、ただの泉ではありません。この山は、ただの何もない山では、ないのです。
誰にも顧みられなくなって、忘れ去られて、少しずつ涸れていった泉。それでも、その芯の澄んだものだけは、まだ、消えていない。——なんだか、他人事とは思えませんでした。教会で忘れられ、燭台級と笑われ、それでも消えずに残っていた、私の遅い祈りと。この泉は、どこか、似ている気がしたのです。
私は、この水を、もう一度、満たしてあげたい。心の底から、そう思いました。人が集い、祈りがこの場所に積もっていけば、涸れかけた泉も、きっと、もとの清らかさを取り戻す。忘れられたもの同士、私とこの泉とで、もう一度、はじめからやり直せる。そんな気が、たしかに、したのです。
水面にそっと指を立てると、小さな波紋が、いくつも、いくつも広がっていきました。その揺れる水鏡の中に、私は、ほんの一瞬、遠い前世の景色を見た気がしました。
しんと冷えた早朝の境内。竹箒の音だけが、さく、さく、と響く掃き掃除。柄杓ですくう御神水の、きん、とした冷たさ。そして、年に一度お参りに来てくれた、氏子のおばあちゃんたちの、あのやわらかな声。
『——また、来年ね』
毎年そう言って、手を振って、山を下りていった。また来年、また来年。その約束の言葉だけが、貧しい社にともる、たったひとつの灯りでした。
……いけない、いけない。
私は、ぱちん、と両手で頬を叩きました。しんみりするのは、どうも性に合いません。前世は前世、今は今です。それに、こんなに胸が躍っているのですから、感傷にひたっている暇なんて、あるはずもないのでした。




