【幕間】前払い
十日にいちど、彼女は執務室に来る。
手を清め、息を整え、俺の手から少し離れたところに、両手をかざす。派手な光はない。ろうそく一本ぶんの、頼りない灯り。それだけだ。歴代の聖女が放った、目を灼くような光とは、似ても似つかない。
だが、あの光でなければ、俺の呪いは溶けなかった。
最初の夜のことは、よく覚えている。彼女は俺の呪いに「はじめまして」と挨拶をした。馬鹿げている。凍てつきの呪いに、挨拶をした聖女など、後にも先にも彼女だけだ。あの夜、俺は十年ぶりに眠れなかった。指先に、忘れていた温度が戻っていたからだ。
翌朝、ティーカップが凍らなかった。素手で持っても、白い霜が張らなかった。ホルガーが、それを見て泣いた。あの老人が人前で涙を見せたのを、俺は初めて見た。
それから、十日ごと。
指先の温度は、少しずつ、上へのぼってきている。今では、手首のあたりまで。かちかちに凍っていた氷が、先の一点から、じわりと溶けていくように。
速くはない。彼女の祈りは、いつも遅い。だが、確かだ。
この十日ごとの時間を、俺は——待っている。認めるのは、癪だが。
彼女は、俺を恐れない。
これが、何より奇妙だった。誰もが俺を恐れた。触れれば凍る男。呪われた領主。使用人は手袋をして俺に仕え、聖女たちは俺の顔を見ただけで震えた。当然だと思っていた。俺自身、自分の手を、化け物の手だと思っていたのだから。
だが、彼女は違う。俺の手のすぐそばに、平然と自分の手をかざす。凍らせるかもしれない、とは考えもしないらしい。祈りを終えれば、俺の呪いに向かって「お疲れさまでした」と頭を下げる。呪いに、ねぎらいの言葉をかける聖女だ。おかしな女だ。
祈りのあと、俺はいつも、同じことを言う。「今日は、早かったな」。彼女は決まって、きょとんと首をかしげる。「そうですか? いつもと、同じくらいだと思いますけど」。それで、会話は終わる。
本当は、早かったわけではない。ただ、この執務室で、彼女と二人きりでいられる時間が、いつも、あっという間に過ぎるだけだ。もっと、何か話せばいい。そうも思う。だが、その言葉を、俺は持たない。だから毎回、同じ、間の抜けた一言を繰り返す。彼女は、それを不思議がりもせず、律儀に返事をして、自分の部屋へ下がっていく。
報告は、ホルガーから聞いている。
彼女は、町で子どものすり傷を治し、銅貨一枚しか取らなかったという。頑固で通った老石工の腰をほぐし、差し出された礼を、二枚だけ受け取って残りを押し返したという。祈りには正当な代を、しかし法外な額は取らない——それが彼女の筋らしい。厨房で芋の皮をむき、まかないの女と笑い合っている、とも聞いた。
妃候補だった聖女が、厨房で芋をむく。俺の屋敷は、いったいどうなっているのか。
だが、悪くない。
この屋敷には、長いこと、笑い声がなかった。呪いを負ってから、俺の周りの音は、少しずつ消えていった。皆、俺に気を遣い、声を潜めた。静かな屋敷は、俺のための、静かな墓のようだった。
その静けさに、彼女の来た日から、ひびが入りはじめている。厨房から笑い声がする。廊下で使用人が世間話をする。ホルガーの胃薬の減りが、少し遅くなった。
——彼女が来てから、飯が旨い。
長いこと、味など分からなかった。何を食っても、冷たい灰を噛んでいるようだった。それが、近ごろは、腹が減る。まかないの女が、俺の膳を見て嬉しそうにするのが、面映ゆい。
この温度を、失いたくない。
その考えが、ふいに、胸をよぎった夜のことだ。
彼女が祈りを終え、下がろうとしている。次にこの部屋で二人きりになるのは、また十日先。——だが、本当に俺が落ち着かないのは、そこではない。一年が経てば、呪いは解け、彼女はこの屋敷を去っていく。もう、祈りに来る理由もなくなる。当然だ。それが、契約だ。
その、当然のはずのことを想像して。俺は、ひどく、落ち着かない気持ちになった。
気づけば、口が動いていた。
「……褒美は、何がいい」
言ってから、自分でも驚いた。まだ呪いは、一割も解けていない。褒美を出す道理など、どこにもない。
彼女は、きょとんとした。当たり前だ。
「えっ。ど、どうしてです? まだ、一割も、解けてませんけど!?」
「前払いだ」
嘘だ。前払いなどではない。
これは、繋ぎ止めるための、口実だ。金貨でも、屋敷でも、宝石でもいい。何か一つ、彼女がこの土地に留まる理由を、渡しておきたかった。一年で去るのだとしても、その前に、少しでも長く。
だが、それを、なんと呼べばいいのか。俺は、知らない。名前のつけ方を、知らない。十歳で人の温もりから切り離されて以来、この手で誰にも触れず、誰にも触れさせずに生きてきた俺には、この、胸の内側の妙な落ち着かなさに、名前をつける言葉が、ない。
だから、前払いだ、と言った。
「まあ。……気前が、よろしいのですね」
彼女は、俺の言葉を、額面どおりに受け取った。それでいい。そのほうが、いい。
彼女が執務室を出ていったあと、俺は、窓の外を見た。同じ屋敷の東の棟に、彼女の部屋の灯りが、小さく灯っている。何を褒美に選ぶのか、あれこれ悩んでいるのだろう。金貨は怖い、などと言い出しかねない女だ。
おかしな聖女だ。
ろうそく一本ぶんの、頼りない光で。俺の十年を、少しずつ、溶かしていく。




