遅くて、確かな祈り(四) 「褒美は、何がいい」「まだ一割も解けてませんけど!?」「前払いだ」
そして、屋敷での、いちばん大事なお仕事。当主さまの、呪いの解呪です。
これは、十日にいちど、と決めていました。
毎日、というわけには、いかないのです。凍りついた呪いは、無理に急かせば、固く縮こまってしまう。だから、十日。じっくり温めて、また十日おいて、様子を見て、また温めて。相手の速さを、尊重する。焦らない。急かさない。
最初のうちは、正直、変化なんて、目に見えるほどのものは、ありませんでした。私は、当主さまの手のあたりに、そっと両手をかざして、心の中で、呪いに話しかけるだけ。
(——こんばんは。今日も、ご挨拶に来ましたよ)
もちろん、返事は、ありません。けれど、十日、また十日と重ねるうちに。凍えて縮こまっていた呪いの芯が、ほんの少しずつ、こちらの温もりに、耳を澄ませてくれるように、なっていきました。
変化は、ごく小さなところに、現れました。
あるとき、ホルガーさんが、廊下で、ふと足を止めて、私にこう言ったのです。
「聖女さま。……不思議なことが、ございましてな」
「なんでしょう」
「旦那さまの、指先。——あそこだけ、以前より、ほんの少し、あたたかくなっておられるように、見えるのです」
私は、内心で、そっと、うなずきました。
そう。呪いは、指の先から、ゆっくりと、ほどけはじめていました。かちかちに凍っていた氷が、いちばん先の、ほんの一点から、じわりと溶けていくように。
もっとも、そんなことを、大げさに言い立てるつもりは、ありません。まだ、指先だけです。呪いの根っこは、依然として、深く、固く、凍りついたまま。道のりは、長い。私は、ただ、自分の速さで、それを、少しずつ溶かしていくだけです。
解呪の夜、当主さまとの会話は、いつも、ごく短いものでした。
「今日は、ここまでです。お疲れさまでした」
「……今日は、早かったな」
「そうですか? いつもと、同じくらいだと思いますけど」
「……そうか」
それで、おしまい。
この方は、とにかく、言葉が少ないのです。「今日は早かったな」「今日は冷えるな」「……変わりは、ないか」。判で押したような、一言だけ。私が何か返しても、たいてい「そうか」で、会話は終わってしまいます。まるで、球を投げても、投げ返してくれない、壁打ちのような。
でも、ふしぎと、嫌な感じは、しませんでした。
言葉は少なくても、この方は、ちゃんと、私の祈りを、受け取ってくれている。壁打ちだって、壁が、ちゃんとそこに在るから、球は返ってくるのです。
それに——十日にいちど、この、静かな執務室で、二人きりで過ごす時間は。なんだか、嫌いじゃ、ありませんでした。理由は、うまく、言えないのですけれど。
ある夜、私が祈りを終えて執務室を出ると、廊下で、ホルガーさんが、胃の薬を口に放り込んでいました。
「ホルガーさん、また胃薬ですか。お体、大丈夫ですか」
「ええ、まあ……。時に、聖女さま。ひとつ、申し上げたいことが」
ホルガーさんは、少し言いにくそうに、それから、しみじみと言いました。
「旦那さまは——あなたが来てから、食事の量が、増えられました」
「まあ。それは、ようございました。……あ。もしかして、食費がかさんで、それで胃を? でしたら、そのぶん、私のお代から、引いていただいても」
「そういう話では、ございません」
ホルガーさんは、真顔で、ゆっくりと、首を横に振りました。
「そういう話では、ないのです。……まったく」
なんだか、呆れられてしまいました。おかしいですね。食費の心配をするのは、家計を預かる者として、当然のことでしょうに。この方は、有能な家宰さんですから、きっと、私なんかより、ずっと、お屋敷のお財布に、詳しいはずなのに。
まかないのおばさんも、当主さまの食が細いことを、あんなに気に病んでいました。その当主さまが、たんと召し上がるようになったのなら。それは、めでたい話のはずです。ホルガーさんが、どうして、そんな、困ったような、それでいて、どこか嬉しそうな、妙な顔をするのか。私には、さっぱり、分かりませんでした。
まあ、いいでしょう。世の中には、私に分からないことも、たくさんあるのです。
その夜。何度目かの、十日目の、祈りの夜のことでした。
いつものように祈りを終えて、私が帰り支度をしていると。暖炉の前に立った当主さまが、その炎を見つめたまま、ぽつりと、言いました。
「……褒美は、何がいい」
私は、支度の手を止めて、きょとん、としました。
「褒美、ですか」
「ああ」
「えっ。ど、どうしてです? まだ、一割も、解けてませんけど!?」
本当のことです。呪いは、まだ指先が、ようやく溶けはじめたばかり。道のりは、九割以上、残っている。仕事が、まだ、ほとんど終わっていないのに、褒美をいただくだなんて。そんな、ずうずうしいこと、できません。
けれど、当主さまは、炎を見つめたまま、静かに、こう言ったのです。
「前払いだ」
前払い。
私は、その言葉を、額面どおりに、受け取りました。なるほど。前払い。仕事の完成を待たず、先に対価を支払う。商いの世界では、たまに、あることです。それだけ、私の仕事を、信用してくださっている、ということでしょうか。ありがたい話です。
「まあ。……気前が、よろしいのですね」
「……そういう、ことに、しておけ」
当主さまは、なぜか、少しだけ、口ごもりました。耳のあたりが、また、ほんのり赤いような気も、しましたが。暖炉の火のせいでしょう。きっと、暖炉の火のせいです。
「では、遠慮なく。……何を、いただこうかしら」
私が言うと、当主さまは、こちらを、ちらりと見て。それから、また、炎に目を戻して、ぼそりと、付け足しました。
「……ゆっくり、考えろ。急がなくて、いい」
急がなくていい。
それは、私が、呪いにいつも言っている言葉と、同じでした。なんだか、可笑しくて。私は、こみ上げる笑いを、こらえながら、ぺこりと頭を下げて、執務室を後にしたのでした。
あてがわれた部屋の、ふかふかの寝台に潜り込みながら。私は、さっそく、褒美について、考えはじめました。
金貨——うーん。たくさん積まれても、正直、こわい。あんな大金、持ち慣れていないので、どこにしまえばいいのか、盗まれやしないか、夜も眠れなくなりそうです。
お屋敷の一室を、もっと立派なところに——いえいえ。掃除が、大変です。今の小部屋で、じゅうぶんすぎるくらい。
宝石——きれいだけれど、換金の手間を思うと、気が重い。私が欲しいのは、きらきらではなく、ちゃりん、なので。
金貨は、こわい。屋敷は、掃除が大変。宝石は、換金が手間。
——そういえば、と、私は、窓の外へ、目をやりました。
雪明かりの下、屋敷のすぐ裏手に、黒々とした山の影が、こんもりと横たわっています。この土地に来た、初めての夜から、なんとなく、気になっていた、あの裏山。
胸もとの、古い鈴が。ちりん、と、鳴った気がしました。




