遅くて、確かな祈り(二) 遅い祈りは、痛くない。——初めての祈祷料は、銅貨一枚
屋敷の暮らしに慣れてきた、ある日のこと。私は、まかないのおばさんに頼まれて、領都エルデの町へ、買い出しに出かけました。
久しぶりの、町歩きです。籠を抱えて、市場をひやかしながら歩いていると、なんだか、心が浮き立ちます。
その、市場の外れでした。
どすん、と鈍い音がして、続いて、火のついたような泣き声が上がりました。見ると、小さな男の子が、石畳につまずいて、派手に転んだところでした。膝を抱えて、うわーん、と大声で泣いています。膝小僧が、すりむけて、うっすら血がにじんでいました。
「あらあら。痛かったわね」
私は、籠を置いて、その子の前に、しゃがみ込みました。母親らしき女の人が、慌てて駆け寄ってきます。
「まあ、すみません。この子ったら、すぐ転ぶんだから……」
「よかったら、少し、診せてもらえますか」
私が言うと、母親は、少し戸惑ったようでした。それでも、痛がる我が子を前に、こくりとうなずいてくれます。
私は、その小さな膝に、そっと手をかざしました。
目を閉じて、時間をかけて。傷ついた肌の、そのすぐ下に、じんわりと、温かいものを送り込む。急がず、焦らず。痛いのが、飛んでいきますように。この子が、また笑って駆け回れますように。そう、願いを込めながら。
派手な光は、出ません。私の祈りは、いつだって、ろうそく一本ぶん。けれど、ゆっくりと、確かに。すりむけた傷が、少しずつ、少しずつ、塞がっていきます。血が止まり、赤みが引いて、やがて、つるりとした肌に戻りました。
「……いた、くない」
泣きじゃくっていた男の子が、きょとんと顔を上げました。膝をさすって、ふしぎそうに、何度も、何度も、確かめています。
「痛くない! 母ちゃん、痛くないよ!」
「まあ……まあ、まあ」
母親が、目を丸くして、我が子の膝と、私の顔とを、交互に見比べました。その顔には、驚きと、それから、どこか、戸惑いが浮かんでいました。
「聖女さまの、その……祈りというのは、もっと、こう。痛いほどまぶしくて、一瞬で、ぱっと治るものだと、思っておりました」
そう言われて、私は、思わず笑ってしまいました。
ええ、そうでしょうとも。教会の聖女さまがたの祈りは、まばゆい光を放って、傷をたちどころに塞いでしまう。それが、みなさんの知っている「聖女の光」なのです。私のような、ろうそく一本ぶんの、ゆっくりとした祈りは、たぶん、生まれて初めてご覧になったのでしょう。
「私のは、遅いんです。でも、遅いぶん、痛くないでしょう?」
男の子は、こくこくとうなずきました。ちっとも、痛くなかった、と。
急に光で焼くのではなく、ゆっくり、じんわりと。だから、しみない。だから、こわくない。——教会では、ずっと欠点だったこの遅さが、この子には、やさしさになったようでした。
母親は、しばらく言葉を探して、それから、慌てて、財布を取り出しました。
「あの、お礼を。おいくら、お支払いすれば」
私は、少し考えて、それから、指を一本、立てました。
「銅貨一枚で、結構です。すり傷ですから」
「え……銅貨、一枚?」
母親は、また、目を丸くしました。それはそうでしょう。聖女の祈りといえば、金貨を積んでも足りない、というのが、世間の相場なのですから。
けれど、これには、私なりの、譲れない筋があるのです。
祈りには、正当なお代を、いただきます。教会のただ働きには、二度と、戻りません。——ただし、金額は、私が決めます。
これが、私の信条でした。この十年、私は「奉仕の誉れ」という美しい言葉のもとで、パン一切れで働かされてきました。祈りは、尊い仕事です。尊い仕事には、お代が支払われるべきなのです。ただ働きは、しません。
でも、だからといって、足元を見て、法外な値をふっかけるのも、違う。すり傷はすり傷ぶん。大怪我は大怪我ぶん。この子の膝の痛みは、銅貨一枚で、じゅうぶんに釣り合う。それが、私の、値付けなのです。
「銅貨一枚は、ちゃんといただきますよ。施しは、受けない主義なので。……その代わり、おつりが出るような、高いお代は、いただきません」
母親は、きょとんとした顔で、それから、そっと、銅貨を一枚、私の手に握らせてくれました。あたたかい手でした。
「……変わった、聖女さまですねえ」
「よく言われます」
私は、その銅貨を、大事に財布へしまいました。
その日、お屋敷に戻ってから、私はさっそく家計帳を開きました。給金の欄が、十年ずっと空白続きだった、あの家計帳。その新しい頁に、私は、震える手で、書き込みました。
『祈祷料——銅貨一枚』
(……ふふ)
たった、銅貨一枚。けれど、私が、私の祈りで、正当に稼いだ、初めての一枚です。数字を、そっと指でなぞって、私は、一人、にんまりしてしまいました。人が見たら、さぞ、けちくさい顔をしていたことでしょう。それでも、いいのです。この一枚は、私にとって、金貨百枚より、ずっと重いのですから。




