↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
111/132

【幕間】いつものスズラン

しくじった、と思った。


 なぜ俺はもっと早く、あのばかげた見世物を止められなかった。


 教会の一行が山をのぼってきたと聞いた時から、いやな予感はあった。それなのに俺は警備だなどと理由をつけて、人垣のいちばんうしろで、ただ腕を組んで見ていた。白い壇。まばゆい光珠。勝ち負けを競わせる、くだらない茶番。——あんなもの、はじまる前に当主の権限で蹴散らしてやればよかったのだ。


 なぜスズランが倒れるより先に、割って入れなかった。


 あの女が光の渦のまんなかへ、たったひとりで手を伸ばしていくのを、俺は見ていた。見ていて動くのが一拍遅れた。そのたった一拍のせいで、こいつはいま俺の腕のなかで血の気を失っている。


 腹の底が、焼けるようだった。


 半分は、自分への怒りだ。そしてもう半分は——こんな茶番を、辺境の祝いの日にこんな画策をした、あの大聖堂の男ゲルニウス。聖女ひとりの位を取り上げるだけでは足りず、わざわざ格上の聖女を対決させ、結果的にスズランを危険な目にあわせた。そのやり方に、腹の底から怒りがこみあげてくる。


 ——だが。


 いまはそれより先にやることがある。


 この、腕のなかの宝物を、一刻も早くあたたかいところで、休ませてやらねばならない。


「帰るぞ」


 俺は、崩れた体を抱え上げた。呪われた手だ。触れれば相手の体温を奪う、氷の手。だがこの女だけは俺の手で凍えない。——ただこの腕のなかの熱が下がっていかないことだけを、俺は祈った。


 山を下りはじめた、その時だった。腕のなかで、スズランがなにかつぶやいた。


「……ジークさまの、いい匂いがします」


 俺は、足を止めそうになった。


 ……なんだ、それは。いま、この状況で。半分気を失いかけて、顔はまっさおで。それなのにこの女は、よりによって俺の匂いがいいだと。


 耳の先が熱くなるのが、自分でも分かった。近づくものを凍えさせる体だ。匂いだのぬくもりだのを、だれかに好ましく言われる日が来るとは、思ってもみなかった。


「……そうか」


 小さく、そう返す。腕のなかの女は、もうこたえなかった。すう、と力を抜いて俺の胸に頭をあずけて。子どものように、眠ってしまっていた。


 俺はいつもよりうんとゆっくり、山を下りた。この腕のなかの熱を、こぼさないように。ゆらさないように。


     *  *  *


 屋敷に着くなり、俺は声を張った。


「ホルガー。医者だ。医者を、早く呼べ」


「もう、手配してございます」


 片腕の返事は、いつもどおりはやかった。ほどなく駆けつけた領医が、眠るスズランをていねいに診ていく。俺はその一挙一動を、まばたきもせずに見張っていた。


「……どうだ」


「ご案じなさいますな」領医は、おだやかに言った。「脈も、しっかりしております。熱もありません。ひどく気をお使いになったのでしょう。しばらく休めば、じきに目をお覚ましになります」


 その一言で詰めていた息が、ようやくほどけた。


 医者とホルガーが下がったあと。俺は枕もとに腰を下ろして、布団からのぞくその小さな手をそっと握った。


 いつもの、この手だ。——握っているとふしぎと、次から次へとスズランとの日々が、あふれてくる。


 初めて見かけたのは、王都のあの晴れがましい席だった。満座の前で婚約を破棄され、追放を言い渡されて。それなのにこいつは、青ざめもせず深々と礼をしてこう言ってのけた。「——謹んで、お受けいたします」。なんて女だ、とあきれた。あきれて少し目を離せなくなった。


 俺の屋敷へ来たときもそうだ。氷の呪いに縮みあがるどころか、けろりとした顔で言ったものだ。「一年、ください」。一年でこの呪いを解いてみせる、と。ばかを言うな、と思った。——思ったのになぜか追い返せなかった。


 初めて祈りをかけるとき、スズランは俺の呪いに向かって、ちょこんと頭を下げた。「呪いさん。……はじめまして」。呪いにあいさつをする人間を、俺は生まれて初めて見た。思わず噴き出しそうになったのを、いまでも覚えている。


 褒美になんでもやろう、と言ったときも。屋敷でも金でも宝石でもなく。こいつが選んだのは、寂れてだれも見向きもしなかった、あの山だった。「ではこの山をください」。


 そうして始めた社の、祈祷料がそのお守りの値が、——銅貨五枚。何度、腰を抜かしかけたことか。


 王都からの、帰り道。並んで歩きながら、スズランはまぶしそうに笑って言った。「……またいつか、行きましょうね。王都」。——ああ、と俺は答えた。何度でも連れていってやると。


 ……まったく。思い出そうとしなくても、いくらでもあふれてくる。楽しいことばかりだ。気がつけば俺の口もとはゆるんでいた。


 この続きをまだいくらでも作ってやれる。だから、


「……早く、もどってこい」


 眠る寝顔に、俺はそっと語りかけた。柄にもないやさしい声が出た。


     *  *  *


 夜が、更けていく。


 窓の外の参道の灯が、ひとつまたひとつと消えていく。俺は握った手をはなさずに、その寝顔を見ていた。


 この胸にあるものの名前を、俺はとうに知っている。——ただこの女が、まだ追いついてこないだけだ。


 焦るな、とホルガーに笑って言われた。女の心の支度は、こちらの都合では進まない。だから、急かすつもりはない。こいつが自分から俺の隣に来るその日を。春のこもれ日のような顔で、また笑うその日を。俺はただかまえて迎えてやればいい。


     *  *  *


 スズランが目をさましたのは、明け方だった。


 まぶたが、ゆっくりとひらく。ぼんやりした瞳が、見なれない天井をしばらくさまよって。それから、枕もとの俺をとらえた。


 俺は一晩ぶんの言いたいことを、ぜんぶ飲みこんで。ただ、ひとことだけ尋ねた。


「……大丈夫か」


 スズランは、ぼんやりと半身を起こした。そして少しだけ考えて。こてん、と首をかしげて。心の底から素直な顔で、こう答えたのだ。


「……おなかが、すきました。ジークさま」


 俺はしばらく、無言でそのけろりとした顔を見つめた。


「……ふ」


 こらえきれず、俺は笑っていた。張りつめていたものが、ぜんぶゆるんだ。ばかばかしい。ほんとうに、ばかばかしくて。——そして、どうしようもなく安堵していた。ああ、いつものスズランだ。ちゃんと腹を、すかせている。生きている。


「……いま、パン粥を持ってこさせる」


 俺は、立ち上がってそっぽを向いた。たぶん、また耳が赤くなっていた。


 ——待つのは、性に合わん。だがこの女を待つのだけは、なぜだか少しも苦にならなかった。……いまは、これでいい。

ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

 続きが気になりましたら、ブックマークと★での応援をいただけますと、更新の励みになります。

 ——お代は、銅貨五枚。……ではなく、ブックマークをひとつ、いただけたらうれしいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。