【幕間】いつものスズラン
しくじった、と思った。
なぜ俺はもっと早く、あのばかげた見世物を止められなかった。
教会の一行が山をのぼってきたと聞いた時から、いやな予感はあった。それなのに俺は警備だなどと理由をつけて、人垣のいちばんうしろで、ただ腕を組んで見ていた。白い壇。まばゆい光珠。勝ち負けを競わせる、くだらない茶番。——あんなもの、はじまる前に当主の権限で蹴散らしてやればよかったのだ。
なぜスズランが倒れるより先に、割って入れなかった。
あの女が光の渦のまんなかへ、たったひとりで手を伸ばしていくのを、俺は見ていた。見ていて動くのが一拍遅れた。そのたった一拍のせいで、こいつはいま俺の腕のなかで血の気を失っている。
腹の底が、焼けるようだった。
半分は、自分への怒りだ。そしてもう半分は——こんな茶番を、辺境の祝いの日にこんな画策をした、あの大聖堂の男ゲルニウス。聖女ひとりの位を取り上げるだけでは足りず、わざわざ格上の聖女を対決させ、結果的にスズランを危険な目にあわせた。そのやり方に、腹の底から怒りがこみあげてくる。
——だが。
いまはそれより先にやることがある。
この、腕のなかの宝物を、一刻も早くあたたかいところで、休ませてやらねばならない。
「帰るぞ」
俺は、崩れた体を抱え上げた。呪われた手だ。触れれば相手の体温を奪う、氷の手。だがこの女だけは俺の手で凍えない。——ただこの腕のなかの熱が下がっていかないことだけを、俺は祈った。
山を下りはじめた、その時だった。腕のなかで、スズランがなにかつぶやいた。
「……ジークさまの、いい匂いがします」
俺は、足を止めそうになった。
……なんだ、それは。いま、この状況で。半分気を失いかけて、顔はまっさおで。それなのにこの女は、よりによって俺の匂いがいいだと。
耳の先が熱くなるのが、自分でも分かった。近づくものを凍えさせる体だ。匂いだのぬくもりだのを、だれかに好ましく言われる日が来るとは、思ってもみなかった。
「……そうか」
小さく、そう返す。腕のなかの女は、もうこたえなかった。すう、と力を抜いて俺の胸に頭をあずけて。子どものように、眠ってしまっていた。
俺はいつもよりうんとゆっくり、山を下りた。この腕のなかの熱を、こぼさないように。ゆらさないように。
* * *
屋敷に着くなり、俺は声を張った。
「ホルガー。医者だ。医者を、早く呼べ」
「もう、手配してございます」
片腕の返事は、いつもどおりはやかった。ほどなく駆けつけた領医が、眠るスズランをていねいに診ていく。俺はその一挙一動を、まばたきもせずに見張っていた。
「……どうだ」
「ご案じなさいますな」領医は、おだやかに言った。「脈も、しっかりしております。熱もありません。ひどく気をお使いになったのでしょう。しばらく休めば、じきに目をお覚ましになります」
その一言で詰めていた息が、ようやくほどけた。
医者とホルガーが下がったあと。俺は枕もとに腰を下ろして、布団からのぞくその小さな手をそっと握った。
いつもの、この手だ。——握っているとふしぎと、次から次へとスズランとの日々が、あふれてくる。
初めて見かけたのは、王都のあの晴れがましい席だった。満座の前で婚約を破棄され、追放を言い渡されて。それなのにこいつは、青ざめもせず深々と礼をしてこう言ってのけた。「——謹んで、お受けいたします」。なんて女だ、とあきれた。あきれて少し目を離せなくなった。
俺の屋敷へ来たときもそうだ。氷の呪いに縮みあがるどころか、けろりとした顔で言ったものだ。「一年、ください」。一年でこの呪いを解いてみせる、と。ばかを言うな、と思った。——思ったのになぜか追い返せなかった。
初めて祈りをかけるとき、スズランは俺の呪いに向かって、ちょこんと頭を下げた。「呪いさん。……はじめまして」。呪いにあいさつをする人間を、俺は生まれて初めて見た。思わず噴き出しそうになったのを、いまでも覚えている。
褒美になんでもやろう、と言ったときも。屋敷でも金でも宝石でもなく。こいつが選んだのは、寂れてだれも見向きもしなかった、あの山だった。「ではこの山をください」。
そうして始めた社の、祈祷料がそのお守りの値が、——銅貨五枚。何度、腰を抜かしかけたことか。
王都からの、帰り道。並んで歩きながら、スズランはまぶしそうに笑って言った。「……またいつか、行きましょうね。王都」。——ああ、と俺は答えた。何度でも連れていってやると。
……まったく。思い出そうとしなくても、いくらでもあふれてくる。楽しいことばかりだ。気がつけば俺の口もとはゆるんでいた。
この続きをまだいくらでも作ってやれる。だから、
「……早く、もどってこい」
眠る寝顔に、俺はそっと語りかけた。柄にもないやさしい声が出た。
* * *
夜が、更けていく。
窓の外の参道の灯が、ひとつまたひとつと消えていく。俺は握った手をはなさずに、その寝顔を見ていた。
この胸にあるものの名前を、俺はとうに知っている。——ただこの女が、まだ追いついてこないだけだ。
焦るな、とホルガーに笑って言われた。女の心の支度は、こちらの都合では進まない。だから、急かすつもりはない。こいつが自分から俺の隣に来るその日を。春のこもれ日のような顔で、また笑うその日を。俺はただかまえて迎えてやればいい。
* * *
スズランが目をさましたのは、明け方だった。
まぶたが、ゆっくりとひらく。ぼんやりした瞳が、見なれない天井をしばらくさまよって。それから、枕もとの俺をとらえた。
俺は一晩ぶんの言いたいことを、ぜんぶ飲みこんで。ただ、ひとことだけ尋ねた。
「……大丈夫か」
スズランは、ぼんやりと半身を起こした。そして少しだけ考えて。こてん、と首をかしげて。心の底から素直な顔で、こう答えたのだ。
「……おなかが、すきました。ジークさま」
俺はしばらく、無言でそのけろりとした顔を見つめた。
「……ふ」
こらえきれず、俺は笑っていた。張りつめていたものが、ぜんぶゆるんだ。ばかばかしい。ほんとうに、ばかばかしくて。——そして、どうしようもなく安堵していた。ああ、いつものスズランだ。ちゃんと腹を、すかせている。生きている。
「……いま、パン粥を持ってこさせる」
俺は、立ち上がってそっぽを向いた。たぶん、また耳が赤くなっていた。
——待つのは、性に合わん。だがこの女を待つのだけは、なぜだか少しも苦にならなかった。……いまは、これでいい。
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——お代は、銅貨五枚。……ではなく、ブックマークをひとつ、いただけたらうれしいです。




