聖女の力比べ(四) 強い光が人を害し、弱い灯が救った。——「いい匂いがします」
どっ、と。
世界の、音が戻ってきた。
歓声。ざわめき。風。止まっていたものが、いっせいにまた動きだす。とろりと遅くなっていた時間が、もとの速さにはじけてもどる。
私のなだめた光が、こんどはゆっくりと、おじいさんの弱った体にしみわたっていくのが分かった。あんなに苦しげだったうめき声が、やんでいく。青かった唇にじわり、と赤みがもどってくる。
「……じ、じいさんが」
「息を、ふきかえしたぞ! だいじょうぶだ!」
人だかりのなかから、小さな女の子がころげるように飛び出してきた。おじいさんの孫だろうか。青ざめてべそをかいていた顔が、地面のおじいさんが、ゆっくりまぶたをあけたのを見て、くしゃくしゃにほどける。
「じいちゃん! じいちゃんっ!」
「おお……なんだ、泣くな。……ちょいと、まぶしいのにあたっただけだ」
しわだらけの手が、孫のあたまをそっとなでた。わあ、と参道じゅうがどよめいて、いっぺんにあたたかい息を吐きだした。よかった。よかった。あちこちで、そんな声がはじけている。
けれど、私の手の下で、プリメラさまのあのずっとふるえていた指先が——ぴたっ、と止まっているのに気づいたのは、たぶんこの世で私とプリメラさま、ふたりだけだった。
はっ、と彼女が目を見開く。まるでなにか、あってはならないものに触れてしまったみたいに。あわい色の瞳が、大きくゆれた。ぱっ、と私から手を引いて、よろめきながら一歩二歩とあとずさって、片手で、自分の胸をきつくおさえる。
「……いまなにを、したの」
あの鈴のようなつめたい声が、はじめてみだれていた。
私はなにも、答えられなかった。答える、なんてことはできなかった。だって——私のなかに、まだあの人の一生ぶんの悲しみが、渦を巻いてあふれかえっていたのだから。
プリメラさまの、あわい色の瞳が、ゆっくりと動いた。息をふきかえして、地面で肩を上下させているおじいさんへ。それから、その胸を包んでいる私の手へ。そして最後に——自分自身の、ふるえの止まった白い両手へと。
その、うつくしい顔から、さあっと、なにかが引いていくのが分かった。
この人はたぶんいま気づいてしまったのだ。いちばん強いいちばんまぶしい、だれもがひれ伏したあの光が、弱ったひとりの命を、あやうく消しかけたことに。そしてそれをすくいあげたのが、ろうそく一本ぶんの、あの笑われた灯だったことに。
寸分の狂いもなかった、この人の世界の——いちばん確かだったはずの一点に、細い、細いひびがはしった。
参道は、しんとしていた。
だれも勝ち誇らなかった。だれも、聖灯級さまを笑わなかった。ただノルデンの人たちが、青ざめたおじいさんと、まだ手を離せずにいる私と、立ちつくすプリメラさまとを見くらべて、なにか、大きなものを静かに飲みこんでいた。
「……聖女さんのあのちいさな灯はよ」だれかが、ぽつり、とつぶやいた。「あれは消えねえだけじゃなかったんだな」
私には勝ったなんて気持ちは、これっぽっちもわいてこなかった。むしろ——胸のなかで渦を巻く、あの人の一生の重さのぶんだけ。目の前のひびの入ったこの人が、ただただいたましくて、しかたがなかった。
* * *
だめだ、と思った。
受けとめ、きれない。
他人の、一生ぶんの感情が。よろこびも、ほこりも、さみしさも、こわさも、ぜんぶいっぺんに私のちいさな胸のなかで、行き場をなくして、ぐるぐると渦を巻いている。視界が、ぐにゃりとゆがんだ。地面が、かたむく。耳の奥で遠くの歓声が、水のなかみたいにぼやけていく。
膝から、力が抜けた。
——そのとき、だった。
人垣がざっ、と割れた。
だれかが大股で、まっすぐにこちらへ歩いてくる。まわりの人を、片手で静かにどかしながら。日ざしを、背に受けて。その背の高い影を私はぼやけた視界の、いちばん端で見た。
ジークさま、だ。
「もういいだろう」
低い静かな声が広場にひびいた。
その声は、プリメラさまに向けられていた。ひとかけらの、遠慮もなく。
「気は、済んだか」
プリメラさまが、なにか言おうとした。けれど、その口はうまく動かなかったようだった。まだ胸をおさえたまま。ただぼうぜんと、その氷の当主さまを見上げている。
ジークさまはもう、プリメラさまのほうを見ていなかった。
くずれかけた、私のすぐそばに膝をつく。そして、手袋をはずしたあたたかい素手で、私の体をふわりと抱え上げた。
「帰るぞ」
たった、ひとこと。
ふわ、と体が宙に浮く。私は、ジークさまの腕のなかにいた。遠ざかっていく歓声。ざわめく人だかり。まぶしい、秋の日ざし。それらがぜんぶ、するすると遠くなっていく。あんなに渦を巻いていた、だれかの悲しみさえも、そのあたたかい腕のなかでは、ふしぎとすこしずつほどけて、しずんでいった。
遠ざかる、その景色のまんなかに、プリメラさまがひとり立っていた。
あんなに大勢の従者にかこまれ、あんなにまばゆい光を放った人が、いまは、だれの声も耳に入らないみたいに、ただぽつん、とひとりきりで、自分の白い両手を、じっと見おろしている。その姿が——さっき景色のなかで見た、あのだれもいなくなった広い部屋に、ぽつんとすわりこんでいたちいさな背中と、私のなかで、そっとかさなった。
……プリメラさま、あなたはいまもあの部屋にいるんですね。
言葉にはならない、その思いを最後にひとつ。私は遠ざかる腕のなかから、その人へそっと置いてきた。
体の力が、抜けていく。まぶたが、重い。
そのとき。ふわり、と鼻先をなにかがかすめた。
あたたかい、ひなたのような匂い。この人の、匂い。
私は遠のいていく意識のはしっこで、脈絡もなくぽつり、とつぶやいていた。
「……ジークさまの、いい匂いがします」
頭の、ずっと上のほうで。ジークさまがぐっ、と息をつまらせたような気がした。
けれどそれをたしかめる力は、もう私には残っていなかった。
あとはもう。ふわふわとあたたかい腕のなかで、浮いているようなそんな感覚だけをのこして。
——私の意識はしずかに、しずかに闇へと飲みこまれて、いったのでした。
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