【幕間】はじめまして
俺は、期待という感情を、とうに捨てたつもりでいた。
その夜。執務室で、あの燭台級の聖女——スズランは、俺の手に、触れずに、手をかざした。
これまでの聖女たちは、みな俺の手を取ろうとした。呪いを力ずくで引き剥がそうとした。強い光を浴びせ、俺の内側へ無理やり押し入ろうとした。そのたびに、呪いは牙を剥き、聖女は弾き返され、傷つき、去っていった。
だから、身構えていた。今度も、同じだろうと。痛みに耐える覚悟も、していた。
ところが、この聖女は、違った。
「今日は、ご挨拶だけです。呪いさんに、『はじめまして』を、するだけ」
呪いに、挨拶。
馬鹿げた話だ、と思った。呪いは、意思を持つものではない。ただの、災いだ。俺の生を蝕み続ける、冷たい檻だ。それに向かって、挨拶をするなど。
だが、彼女は、大真面目だった。目を閉じ、息を整え、俺の手のあたりに、そっと手をかざした。
そして——温かいものが、流れ込んできた。
いや。流れ込む、という言葉は正しくない。押し入ってくるのではなかった。彼女の祈りは、俺の内側の凍りついた場所のすぐ外側で、ただ静かに寄り添っていた。まるで、凍える者のそばで黙って焚き火を焚いてくれるように。
急かさない。こじ開けようとしない。ただ、そこにいる。
——はじめまして。
その声は、彼女の口からは、聞こえなかった。けれど、なぜか、俺の内側の、いちばん深いところに、確かに届いた気がした。長いあいだ、固く縮こまっていた呪いが、ほんの少しだけ、その温もりに、耳を澄ませたような。
俺は、動けなかった。
「今日は、ここまで。……お疲れさまでした、呪いさん」
彼女は、そう言って、呪いに向かって、ぺこりと頭を下げた。
俺は、自分の手袋をした手に、目を落とした。何かが、いつもと違う。指先に、かすかな——ほんの、かすかな、温もりのようなものが、残っている気がした。
気のせいだ。そう思おうとした。
「……どうかなさいましたか?」
「……いや」
俺は、短く答えて、手を握ったり、開いたりした。確かめるように。だが、彼女は、それ以上、詮索しなかった。ただ、「また十日後に」と言って、一礼して、去っていった。
——今日から一年、どうぞ、よろしくお願いします。
その言葉を、俺は、うまく受け止められなかった。一年。この聖女は、一年、逃げないつもりでいる。呪いに挨拶をして、俺の手のあたりで、焚き火を焚くように、祈るつもりでいる。
どうせ、また、だめだろう。
そう、自分に言い聞かせた。十二人が、だめだった。十三人目も、同じだ。うかつに期待して、また裏切られるのは、もう、こりごりだ。
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その夜、俺は、眠れなかった。
寝室の窓辺で、手袋を外し、自分の手を、月明かりにかざしてみる。
十年。この手で、俺は、何一つ、触れてこなかった。触れれば、凍らせてしまうから。侍女の手も、馬のたてがみも、庭に落ちた小鳥の羽根さえも。すべて、遠ざけて生きてきた。
温度、というものを、俺は、忘れかけていた。
なのに、今夜は。指先に、あの、かすかな温もりが、まだ、消えずに、残っている。
——馬鹿な。
俺は、その手を、握りしめた。期待するな。あの聖女とて、いずれ音を上げる。この呪いは、解けない。俺は、一生、誰にも触れられぬまま、この屋敷で朽ちていく。それが、俺の定めだ。
そう、何度も、自分に言い聞かせた。
それでも。あの「はじめまして」だけは、いつまでも、耳の奥に、残っていた。
呪いに挨拶をする聖女など、聞いたことがない。俺のことを、化け物とも、哀れな男とも見ずに、ただ、「治せる患者」として扱った者など、この十年、一人もいなかった。
……おかしな、聖女だ。
窓の外は、まだ、深い夜だった。
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翌朝。
俺は、いつものように、一人で、朝の茶を淹れた。誰の手も借りずに。それが、十年来の習慣だった。
湯気の立つ紅茶を、手袋を外した、素手で、そっと持ち上げる。——いつもなら、俺の手が触れた瞬間、カップは、みるみる白い霜に覆われ、中の茶は、たちまち冷えて、凍りつく。だから俺は、いつも、ほんの一瞬で、手を離さねばならなかった。
だが。
今朝は。
ティーカップは、すぐには、凍らなかった。俺の手のひらの中で、しばらくのあいだ、温かいまま、湯気を立て続けていた。
俺は、そのカップを、じっと、見つめた。
……ほんの、わずかな時間だ。数えるほどの、瞬きの間。それでも、確かに。この十年、一度もなかったことだった。
俺は、その、温かいティーカップを、両手で包んで、長いこと、握っていた。
冷めてしまうまで。凍りついてしまうまで。ずっと。
ふと、視線を感じて、顔を上げると、戸口に、ホルガーが立っていた。いつから、そこにいたのかは分からない。老いた家宰は、俺の手の中でまだ湯気を立てている湯のみと、それを両手で包んだ俺の手とを、じっと見つめていた。そして何も言わないまま、そのしわだらけの目に、みるみる涙をためていった。
俺が、この男に、初めて救われたのは、十歳の冬だ。誰も俺に触れられなくなった、あの日から、この男だけは、ずっと、そばにいてくれた。触れられぬまま、それでも、飯を作り、部屋を暖め、俺の孤独を、黙って見守り続けてくれた。
その男が、たった一つの凍らない茶のために泣いている。
俺は、気まずさからカップをそっと机に置いた。「……なんでもない」とだけ言った。ホルガーは、深く、頭を下げて、「はい」と、それだけを答えた。だが、その短い返事には、この十年ぶんの何かが、確かに、込もっているように聞こえた。
——期待するな。
俺は、また、自分に言い聞かせた。たった一度、湯のみが凍らなかっただけだ。偶然かもしれない。ぬか喜びは、するな。
だが、どうしても。手のひらに残る、この、かすかな温もりだけは。
消えて、くれなかった。




