色無き風
(……思い返すと、少々、仰々しい出立になってしまったような気が……)
村を出てから数日後の昼下がり。
空に浮かぶ鱗雲を眺めながら、ルテは、ふと思った。
東西南北、どこを見ても、森、森、森――。
幾つもの渓谷を渡り、切り立った崖を飛び降りる。
支え合うようにして生い茂る木々の間を、縫うように歩く。
道と呼べるようなものはなく、枝をかき分け進む。
村を出てからこれまで、町も里も村も目にしていない。
木の洞や沼に暮らす、神や妖怪と話をした程度だ。
小休止を終えれば、また歩き出さねばならない。
最後に見た涼多の顔を思い浮かべ、ルテは溜息を吐く。
「……貴方、意外と顔に出やすいのね」
心を見透かしたような薔薇の言葉に、肩を跳ね上げる。
「少し大げさなくらい、別にいいじゃない。……誰にだって、『明日が等しくやってくる』なんてことはないのだから。むしろ、ちょうどいいくらいよ」
薔薇は、何かを思い出すように青い目を細めた。
ルテは言葉を噛み砕くと、「そうですね」と頷く。
(明日が等しくやってくるなんてことはない。……分かっているはずなのに、気がつけば薄れてしまっている事ですね)
赤く色づいた葉が、膝の上にはらりと落ちる。
それを拾い上げ、ルテは目を閉じた。
(ほんの少し前までは、こうして、まったく知らない場所で紅葉を見ることになるなんて、思いもしなかった。去年と同じように、一路さんの里や寒梅屋の農園で見るのだろうなと、疑いもしなかった。……特に、理由もなく)
ルテは目を開くと、そっと葉を地面へと置いた。
そして、ショルダーバッグから汽車土瓶を取り出した。
言わずもがな、涼多から借りた汽車土瓶だ。
川で汲んだ水をフタに注ぐルテを、薔薇はじっと見つめる。
「……あの、私の勘違いでしたら申し訳ないのですが、毎回、水を飲む様を見つめられているような気がしてなりません」
「謝らなくても大丈夫よ。現にこうして見つめているのだから」
「な、何故ですか?」
「後悔するかもしれないけど、……知りたい?」
薔薇の含みを孕んだ言葉に、ルテは、怪訝な表情を浮かべながらも頷いた。
「貴方に力を返すために、涼多が血を注いでいたな、と思って」
ルテの手から離れたフタを、薔薇は「おっと」と受け止める。
「陶器でできているから、割れたら大変よ」
「……っ、ぁ、す、すみません」
青白い顔をしたまま、ルテは頭を下げた。
半分ほど水が零れてしまったフタを見下ろし、唇を噛む。
(兎火さん、そんなことは一言も……いや、言えるはずもないか)
想像していた以上に動揺しているルテを見て、薔薇は若干の後悔を募らせる。
「涼多のこと、怒らないであげてね?血を入れるのにフタを使った事なんて、すっかり忘れていると思うから。そうじゃないと、貸したりしなかったでしょうし」
(きれいに洗っているとはいえ、血の注がれたフタで水を飲むなんて、抵抗感があるわよね。……もしかしたら、涼多も今頃になって思い出しているかも)
「……勿論です」
ルテは、事情を知らない薔薇に向かい、力なく微笑んだ。
ぐっと水を飲み干すと、両の頬を叩き気合を入れる。
その様子に、薔薇は胸を撫で下ろした。
「さっ、参りましょうか」
「そうね。……にしても、困ったわ」
薔薇は「白蛇様の町のことや、貴方たちを探している方たちの話を聞いたことがある、って存在が、一人くらいはいると思ったのだけれど」と呟く。
憂いを帯びた瞳を見つめ、ルテは微苦笑を浮かべた。
そして、自身が歩いてきた道を振り返る。
日の光が木の葉に遮られた、薄暗さを宿した森が広がっていた。
暗がりの中を、見たことのない虫や獣が通り過ぎてゆく。
生い茂る木々や草花も、見たことのないものばかりであった。
花冷図書館の図鑑や、冒険家の本にも載っていない。
ルテは、自身の知る世界の狭さを、改めて認識した。
同時に、知識欲や探求心が刺激され、気分が高揚するのを感じた。
知りたい、見たい、そう望むのというのは、『生きたい』と同じことだ。
ふとした時、捨て鉢のような心持になっていたくせに、と心中でルテは嗤う。
(そう、春さんや蛍さんのことを思いながらも、私は誰かにこの命を絶ってほしいと思っていた。その癖、死ねないとも思っていた。全てにおいて宙ぶらりんで、全てにおいて勝手だった。……今までもそうだったし、これからも……)
だが、ルテは思いの地層から、『芯』を探り当てられたような気がした。
よろめいたときに支えとなる、決して折れることのない芯。
それを見つけられたからこそ、気分が高揚するのだ、と。
胸に手を当て微笑むルテに、薔薇は首を傾げる。
「……あら、なにかグダグダと考え込んでいた感じだったのに、急にニコニコしちゃってどうしたの?まぁ、旅の相方が楽しそうで何よりではあるけれど」
「ご心配をおかけしました」
「いえいえ」
薔薇はやんわりと首を横に振ると、ルテの頭に体を置いた。
ふわり、と腐臭が舞うが、ルテが気にする様子はない。
「もう少ししたら、また浮き上がってみましょ――」
いつの間にか、空には鈍色の雲が垂れこめ始めていた。
「降りそうね」
「それなら……」
ルテは、少し離れた所にある岩屋のようになっている場所を指さした。
薔薇は、異論はないとばかりに頷く。
鰭を器用に動かし、空を切る。
すると、周囲に生えていた木が、七、八本倒れた。
ルテは、短刀で木の皮を剥ぐと、岩屋の入口に三本ほど立てかけた。
残りの木は、蔓を使い、立てかけた木へ梯子のように固定する。
木の骨組みの上に剥いだ木の皮を置き、その上に、雨が入り込まないよう笹に似た植物を下向きに重ねて留めてゆく。
即席ではあるが、簡易的な小屋が出来上がった。
薔薇は小屋の中へと入り、上下左右を確認する。
「煙が抜けるように……なっているわね」
岩の傍に薪を置くと、器用に火打石を打ち、火をつけた。
「これで、岩が蓄熱してくれるから、朝まで温かいわ」
満足そうに頷くと、薔薇は近くの川へと向かい、数匹の魚を獲ってきた。
「ありがとうございます」
「水臭いわね。お互い様じゃない」
ルテは、骨に突き刺さっている魚を引き抜くと、焚火で焼き始める。
ぱちぱち、と木の爆ぜる音が小屋の中に響く。
二人が腰を下ろすと同時に、雨が降り始めた。
深雨というほどではないが、それなりに勢いがある雨だ。
「……こういうのを、『漫ろ雨』って言うのかしらね」
焼けた魚に味噌をつけ、薔薇は骨ごと噛み砕く。
「懐かしいわ。誰かと楽しく遠出をするなんて。……今までは、一人で考え事をするために、あてもなくフラフラと旅をするだけだったから」
薔薇は、「ま、どれだけ旅をしても、心は晴れなかったけど」と笑う。
晴らすための旅でもなかった、とも。
「鬱屈とした感情を引きずって、ただただ辺りをぐるりと回って戻って来ていただけ。もう、一生こんな感じなんだろうな、と思っていたわ」
先程の自分を思い出し、ルテは何とも言えない気持ちになった。
薔薇はルテを見上げると、にこり、と微笑んだ。
「貴方たちと出会えて、本当に良かったわ」
ルテの返事を待つことなく、薔薇は目を閉じる。
「私の勘だと、朝まで雨は止まない。だから寝るわ」
「はい。おやすみなさい」
暫くすると、小さな寝息が小屋の中に満ちた。
ゆっくりと上下する胴体を見つめながら、ルテは髪紐へと手を伸ばす。
「…………本当に……」
ぽつり、と呟かれた声は、誰にも届くことなく消えた。




