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第二楽章

        1


 同日、東京の小森梓の家では、コンペティションに向けて熱の入ったレッスンが続いていた。

座してピアノの鍵盤を叩いているのは真行寺舞である。少し離れた椅子には、咲恵が腰を下ろしている。

「そう、そこトゥ〜リラララララララよ。タ〜リララらじゃないよ。もう一度」

 ピアノを弾く手を休めて、舞が指摘する。梓は一旦フルートを唇から離していたが、舞の伴奏再開に沿ってまた演奏を始める。

 舞が再びピアノ伴奏を止め、楽譜に何か書き込み

「えっと、そこのところ、もう少しアップテンポでやってみて」

 と指示すると、梓は伴奏なしでフルートを吹いてみせる。それを聴いて満足そうに頷く舞。

「じゃ、もう一回、そこから行くよ」

 ピアノ伴奏と共に、梓の演奏が再開される。梓の顔は紅潮し、体はリズムに合わせて揺れ動く。首を微かに振り上半身を動かしながら、咲恵は娘のパフォーマンスを見つめている。


 一方、向島の古橋多恵子邸では、荷物を解いたさつきが、フルートケースからフルートを取り出し、組み立てていた。

 シングルベッドに簡単なデスクと椅子、一棹の洋服ダンスがあるだけの殺風景な洋間である。開け放した扉。南向きの窓からは明るい日差しが注いでいた。

「さつきちゃん、ちょっといい?」

 多恵子の声にさつきが顔を上げ、「は〜い」と答えて部屋を出て行った行き先は、教室になっているピアノのある洋間である。

 さつきが部屋に入ると、多恵子はデスクの上に古めかしい革張りのフルートケースを置いて椅子に座っていた。

「こっちに来て」

 言われて近づくと、多恵子がおもむろに開けたケースの中で、金色のフルートが光っていた。

「これね、私がだいぶ前に私の先生から頂いたフルートなの」

 フルートを取り出し、組み立てながら多恵子は言った。

「金ですか?」

「そう、ゴールド」

「凄いですね」

 以前、さつきは有名楽器店で14Kのフルートを手に持ったことがあるが、実際に吹いてみたことはまだなかった。

「小森梓ちゃんがゴールド・フルート吹いてるの知ってるでしょう?」

 多恵子は続けた。

「はい」

「もちろん、それぞれの奏者に向き不向きがあるから、必ずしもゴールドだからいいってものじゃないんだけど。これ、あなたに吹いてみて欲しいの」

「私にですか?」

 組み立てられたフルートを手渡され、さつきは珍しい動物を扱うかのように、恐る恐る感触を確かめた。その様子を、笑みを浮かべながら多恵子は眺めている。

「あなに吹いてもらいたくて、広島のお店にオーバーホールお願いしてたのが、今朝帰って来たの」

 さつきが姿勢を直し、ドレミファソラシドと音を鳴らすと、精緻な音階が見事に奏でられる。目を丸くして手にしたフルートを改めて眺めるさつき。

「やっぱり思った通りね。シルバーとは違うでしょう?」

 愉快そうに笑いながら、多恵子が聞いた。

「はい」

 言われる通りだった。今まで吹いたどのフルートよりも、素晴らしい音色が実現できるかもしれないと、さつきは思った。

「じゃ、これからはそれを吹くようして」

「貸して頂けるんですか?」

「貸すんじゃないの。あなたに差し上げます」

 古橋多恵子は、今年で八十三歳になる。奏者として教師として、なんらかの形でフルートという管楽器に関わってから、もう七十年が過ぎようとしていた。

 幸い健康には恵まれ、自分ではあと十年は大丈夫だと思っている。しかし、高齢であることに疑いはなく、残りの人生をどう生きて行くのかは、常に課題として心の中に秘めていた。

 特に気になっていたのが、自らのフルーティストとしてのレガシーである。国際的なフルーティストとして身を立てることに挫折してから、多恵子は優秀な生徒を育て上げることに情熱を傾けて来た。

 教師としての歴史も、そろそろ五十年になろうという中で、井上さつきは飛び抜けて才能と実力のある演奏家だった。そんなさつきが、自分が大切にしてきたゴールドのフルートを受け継いでくれることに、多恵子はこの上ない喜びを感じていた。

「でも、これ、高いものですよね」

 金製のフルートが、ものによっては数百万円、数千万円することをさつきは知っていた。だから、ますます目を丸くした。

「あなたはもう、一流の仲間入りをしたんだから、一流の楽器を持っていいのよ。小森梓がゴールドで勝負するなら、あなたもそれに負けないような武器を持たないとだめ」

「はい」

 多恵子がそこまで自分を買ってくれていることに、さつきは戸惑っていたが、同時にそれに身が引き締まる思いがした。

「さあ、じゃあ、驚いてばかりいないで、練習しましょう。楽譜と譜面台持ってきて」

 多恵子は立ち上がると、手を叩いて言った。

 そう、ここからが闘いだ。さつきは黄金のフルートを抱きしめるような仕草をすると、明るく頷いた。


        2


 父との約束通り、さつきは向島のコンビニでバイトを続けていた。以前はレッスンを終えてからの自宅までの帰宅時間を気にしていたので、朝の七時半から三時半まで働いていたが、今はそれを九時五時に変えてもらった。

 早朝のランニングを終えてから、簡単な朝食を摂り、自主レッスンをしてから出勤し、勤務を終えてから買い物や夕食の手伝いをする。食事と入浴を済ませてから午後七時には多恵子とのレッスンに入った。そこからは、約三時間、合間に休憩が入るとはいえ、みっちりフルートと向き合うことになる。

 管楽器は肺活量で演奏するものであるから、長距離走のように体力を使う。従って管楽器は体力勝負というのが、多恵子の信条だった。早朝のランニングは多惠子が組んだトレーニングプログラムの一環である。

 また、バランスの良い食事と十分な睡眠は必須条件として教えていたが、それに加えて適度な休養も肝に銘じさせていた。オーバーワークで体を壊したのでは元も子もない。


 その日もさつきは、カウンターの後ろで接客に当たったり、店内の商品の整理に追われたりしていたが、表にオートバイが停まる音がして、自動ドアがチリンと鳴ったのに気がついて顔を上げた。そして

「いらっしゃいませ」

 と振り向いて、思わず「あっ」と声を上げた。山根真二がそこに立っていたからである。

「よう、久しぶり」

 くったくのない笑顔が言った。

「いつ、帰って来たん?」

「昨日」

「教えてくれたらえかったのに」

「サプライズじゃ」

「大学は?」

 普通であれば、もうそろそろ夏休みが終わる頃だ。

「ここ、何時に終わるん?」

「五時じゃけど」

「待っとるけん」

 平常心であったのなら、何を勝手なことを言っているのかと、突っぱねたのかもしれないが、さつきの心は突然の真二の出現に動転していた。

「うち、練習があるけん」

 と言い返すのがやっとだった。

「せっかく帰って来たんじゃから、一日くらいええじゃろう?」

「そんなん言われても」

「五時に迎えに来るけん」

「ちょっと待って」

 有無を言わせずヘルメットを被り、オートバイに跨って颯爽と走り去る真二を見送りながら、相変わらずの真二だとさつきは思った。

 山根真二は尾道市内にある鉄工所の次男坊だった。高校でさつきと知り合い、二年生の時に付き合ってくれと言われて付き合うようになった。

 ドラ息子の評判があり、不良っぽかったが、イケメンでサッカー部のキャプテン、その上に成績優秀と来れば、女子生徒からキャアキャア言われても不思議ではなかった。

 そんな真二に言い寄られて、さつきも悪い気はしなかった。さつきには音楽があり、真二にはサッカーがあったが、その合間を縫ってあちこち連れ回されているうちに、男女の関係になった。

 暴力的なことはされなかったが、半ば強引にホテルに連れて行かれたのである。両親に秘密を作ったことに、さつきは悩んだが、その後もズルズルと関係は続いた。

 真二が大阪の大学への進学を希望し、さつきは広島の理容学校が志望だったので、進路を分つことはわかっていた。それでも連絡を取り合い、付き合って行こうとしていた時に真二の二股が発覚した。相手は年上の女子大生だった。

 真二は平謝りに謝り、相手の女性とはきっぱり精算すると言ったが、さつきは許せなかった。自分のことをプライドの高い人間だとは思っていないし、特に潔癖症だとも思っていない。しかし、何度も逢瀬を重ね、将来の約束すら口にしていた真二が、自分を欺き続けていたことを、忘れることはできなかった。

 喧嘩別れしたわけではない。真二は未練がましいことを言っていたが、四月から大学が始まり、さつきの学校も始まったので時期的にも別々な道を行く決断が下しやすかった。

 最初の頃は真二からはラインやメールが頻繁にあったが、さつきはフルートの予選で忙しくなったこともあって、ほとんど既読スルーにしていた。そのうちに連絡もあまり来なくなっていたので、心のどこかで寂しさを感じつつも、さつきは真二とはもう終わったと思っていたのである。


        3


 同じ頃、都内の某ファミリー・レストランには小森咲恵・梓親娘の姿があった。梓は上腕から二の腕にかけて包帯を巻き、首には膏薬が見えるが、これは先刻まで鍼灸院で腱鞘炎の治療を受けていた証左である。

 腱鞘炎は、フルーティストの職業病と呼んでも差し支えなく、銀製なら重さ約400グラム、金であれば500グラム以上になる全長65センチメートルの円筒状の棒を一時間、二時間とほぼ同じ姿勢で支え続け、しかも指を迅速に動かすことで旋律を奏でるという重労働を繰り返せば、何度か患うことを覚悟していなければならない。

 通常は温熱パッドや湿布薬で対応していた梓であったが、今回は本戦も近づきつつあり、大事を取ろうということで馴染みの鍼灸院まで母と足を運んだ。

 その帰りに立ち寄ったのが、このファミレスだった。

「お食事に支障はなさそうね」

 空腹に耐えかねて食事に夢中な梓を見て、咲恵は笑いながら言った。

「お医者さんは全治二週間って言ってたけど、腱鞘炎は前にも何回かやってるしね」

一旦、フォークとナイフを持つ手を止めて小さく笑い返し、梓はまた食事に埋没する勢いだ。

「舞に少しお休みするって言う?」

「大丈夫」

「でも、今までみたいにハードにやって怪我がひどくなってもね」

「大丈夫だから、舞先生には何も言わないで」

 梓は語勢を強めて言った。

 自分の面倒は自分で見れるという自信と誇りが梓にはあった。舞に怪我のことを言うことで、変に手加減が加わり、レッスンのクォリティが落ちることを恐れたのである。


 向島、午後五時。山根真二はコンビニの前にバイクを停め、さつきを待っていた。

 勤務を終えて店から出て来たさつきは、自分のロードバイクに鍵がかかっていることを確認すると、そのままヘルメットを手渡されてオートバイの荷台に座り、真二の腰に手を廻した。真二の体に触れるのも半年振りだった。それが照れ臭くもあり、嬉しくもあった。

 真二とは仲違いしたが、決して嫌いになったわけじゃない。真二の謝罪を拒絶した半年前の自分を、僅かではあったが自省の目でさつきは見ていた。

 自分は間違った決断を下したのではないだろうか。そして、自分を好きになってくれた真二に申し訳ないことをしたという気持ちが、今になってさつきを困惑させていた。

 多恵子には電話を入れ、自宅に急用ができたのでレッスンは休ませて欲しいと言っておいた。後ろめたい気持ちになったが、真二と過ごす時間への楽しみがそれに優っていた。

 爆音と共に発進するバイク。その急撃な加速が、自由を象徴しているかのように体感される。父との間の摩擦や、連日のレッスンに疲れていたさつきにとっても、真二との再会は、思いがけない息抜きになりそうだった。

「どこ行くん?」

 疾走するバイクがしまなみ海道に入ると、さつきは真二の耳に問いかけた。

「ええとこじゃ」

 暦上では秋だったが、顔に当たる風はまだ晩夏の風だった。


 日没近い瀬戸田サンセットビーチを、さつきは真二と肩を並べて歩いていた。「しまなみレモンビーチ」とも呼ばれるこの場所は、さつきが過去に何度か真二と訪れている思い出の海岸だった。

 瀬戸内らしい穏やかな海原が、残照に騒いでいる。その夕暮れ時の一瞬の輝きをカメラに収めんと集まった観光客の姿もまばらではなかった。

さつきをロマンチックな気持ちにさせるのが目的だったのなら、真二はその目的を達成していた。

「そんで大学は?」

 さつきは聞いた。

「俺には合わん思うたんじゃ」

「どうすんの?」

「働こう思うちょる」

「尾道に帰って来るん?」

「そうじゃな。鉄工所で一からやり直しじゃ」

 言って真二は笑ったが、どこか自虐的な笑いだとさつきは感じた。

 真二が自分と寄りを戻したいと思っていることは、さつきにも察しがついた。しかし尾道に帰って来るという真二の決断に、どれほど自分が関係しているのかはわからなかった。どっちにしても、自分には音楽学校に進学する意図があることを伝えておく必要があるだろう。

 急に立ち止まってしまったさつきを、真二は振り向いて見つめた。

「どうした?」

「うちな、音楽学校に行くかもしれん」

 さつきは暮れなずむ海の方を向いて言った。真二の顔を直視するのが少し怖かった。

「音楽学校? どうして? 家の仕事継ぐ言うとったろ?」

 さつきの気持ちは揺れていた。終わったと思っていた恋だったが、こうして真二と二人きりでいると、別れを告げる前の自分に戻ったような気がする。しかし、だからと言って、せっかく手に入れた音楽へのチャンスを手放そうとは思ってはいなかった。

「俺のこと好きじゃ言うとったろ?」

 先を歩き始めたさつきに追いついて、真二は言った。

「好きじゃ」

 さつきはまた立ち止まった。今度は真二の顔をしっかりと見据えて言った。

「ほなら、尾道におれよ」

 そんなに簡単に決められるのなら、とっくにそうしていると、さつきは言いかかったが言わなかった。真二は駆け寄ると、さつきを抱きしめた。

「俺が戻って来た理由がわかるか? さつきにおうためじゃ。さつきと一緒にいたいからじゃ。俺、さつきのためなら何でもするけん。な、ええじゃろ。尾道におれ。俺と結婚してくれ」

 結婚という言葉に、さつきはめまいを感じてよろめいた。そして、力を込めて真二を押し返した。

 この人は何を言っているだろうか。冗談のつもりなら可笑しくも面白くもない。しかし、さつきを見つめる真二の目は、ギラギラと光り、真剣そのものだった。

 真二はさつきに考える時間を与えてくれなかった。再びさつきを抱きしめると、その場でキスを求めた。もう抗えない。さつきはキスを許した。

 二人の黒い影が、暮れて行く海を背景に揺れていた。愛撫するような波が寄せては引いて行った。


        4


 さつきと真二がホテルで一夜を過ごしている頃、東京・六本木の路上を小森裕司がふらふらと歩いていた。

 時刻は十時を回っていたが、六本木の夜はこれからだ。ついさっきまで飲んでいた友達と別れ、裕司はかなり酩酊していた。今夜は家に帰るつもりはなかった。

 六本木通りから外苑東通りに入ると、正面にオレンジ色にライトアップされた東京タワーの勇姿が見えてくる。裕司にとっては見慣れた風景だったが、ふと道路の向こう側に目をやって、ハッと立ち止まった。

 歩道から一歩はみ出て、タクシーに手を上げている男がいる。傍らにモデル風の若い美女を連れたその男は、父、小森健一に間違いなかった。

 福岡にいるはずの父が、六本木にいる。薄々勘づいてはいたが、そんなことだろうと思った。母は知っているのだろうか。姉は知っているのだろうか。

 どうでもいい。裕司は首を振った。家族なんて、俺には必要ない。裕司は薄ら笑いを浮かべながら、美女を先に乗せて一緒にタクシーで走り去る父を見送っていた。


 翌日、目黒の自宅では、小森梓がいつも通りの練習に励んでいた。ピアノを弾く真行寺舞、少し離れた椅子にかけてレッスン風景を見張っている母の咲恵。これも、いつもと変わらない。

 変わっていたのは、梓の体調だった。

「そこは、ラタータタタタ。ラタン、ラタタターじゃないよ」

 舞が伴奏の手を止めて誤った箇所を矯正する。

「はい」

 口をへの字に曲げて、梓が吹奏を再開するが、すぐにやめてしまう。腱鞘炎の痛みが、尋常ではないのだ。

「大丈夫?」

 痛そうに手首を振り、指を動かしている梓に舞が聞いた。

「はい」

 フルートを構え、息を吹き込もうとする梓の腕に激痛が走る。腕を振る梓。

「痛いの?」

 顔を歪め椅子に座ってしまった娘を見かねた咲恵は、立ち上がり歩み寄った。

「お医者さんに腱鞘炎って言われたのよ」

「え、そうなんですか?」

 舞自身、演奏家を目指していた頃は、何度か腱鞘炎を経験している。梓も同様だった。その都度、温熱療法等で対応して来たが、今回は練習量が増えたこともあって、関節や腱がより大きなダメージを受けていることが懸念された。正式な診断が出たのであれば、しばらく練習はトーンダウンする必要があるだろう。

「梓ちゃん、じゃ、今日はレッスンはここまでにしよっか?」

 手首を揉むような仕草をしている梓の顔を覗き込んで舞が言った。

「大丈夫です。続けます」

 梓はキッと顔を上げたが、苦痛がその顔に現れていた。

「湿布薬とかもらってきてないんですか?」

 舞が咲恵に尋ねる。

「貼り薬と飲み薬の両方もらってきてるんだけど、梓が指の動きが悪くなるって言って」

 咲恵の顔には同情と不安が混在していた。

「大丈夫です、私」

 立ち上がってポジションに着こうとする梓を、舞が制止した。

「無理は良くないわ。我慢して吹いてもっと悪くなることもあるし。とにかく今日はここまでにしましょう。今夜しっかり湿布して、明日続けよう」

 確かにそのほうが賢明かもしれない。舞が言うように、無謀なことをすれば大きな怪我につながる可能性があった。渋々頷いて、椅子にへたり込んでしまった梓を、咲恵と舞は心配を隠すことなく見つめていた。


        5


 期せずして、真二との愛を確かめ合う結果となったさつきであったが、翌朝には真二のバイクに乗せられてしっかりと出勤し、午後五時半には、自分のロードバイクで多恵子の家に到着していた。

 真二は毎日さつきに逢うことを懇望したが、さつきは次のデートがいつになるかは未定ということで理解してもらった。

「ただいま〜」

 と努めて明るい声で帰宅したさつきであったが、いつものような「お帰り」という多恵子の声がしない。

 買い物にでも出かけているのかと、さつきは居間を通りかかったが、そこに座椅子に腰かけてテレビを見ている多恵子を見出し

「あ、先生、ただいま」

 と改めて笑顔で声をかけた。

「お家、どうだった?」

 多恵子はさつきを見ずに尋ねた。多恵子の物憂げな様子がさつきの気になった。

「あ、はい、別に。昨日はすいませんでした、レッスンできなくて。今日はお願いします」

 多恵子はゆっくりとさつきを見上げた。その表情は無表情に近く、冷たいものだった。

「さつきちゃん、あなた、誰のためのレッスンだと思ってるのかしら?」

 声に表情があるとしたら、多恵子の声も無表情であった。こんな多恵子を過去に見たことがない。さつきは戸惑いながら

「え? うちの、あ、私のためですけど」

 と辛うじて言葉を発した。

「あなた、私に嘘ついてない?」

 さつきはギョッとして息を呑んだ。

「どういうこと?」

 多恵子はしばらく考えるようにしていたが、

「昨日、ご実家から電話があったのよ。あなたの携帯が繋がらないって」

 と暗い微笑を交えながら告げた。

 さつきには答えがなかった。自分の顔が強張り、身体が凍りつくのを感じていた。

「お母様が、ご挨拶遅れましたって。あなたは疲れて寝てるって言っておいたわ」

 最悪だった。多恵子の信頼を裏切ったばかりか、家族への尻拭いまでしてもらっている。さつきはうつむいて言葉を探したが、頭の中が混乱していてどこをどう探せば良いのかもわからなかった。

「どこにいたのかは詮索しないけど、ご家族に心配かけるのは良くないわね」

「すみませんでした」

 さつきは床に正座をすると、小さく言って深々と頭を下げた。それ以外の言葉もアクションも全てが不適切に思えた。

「さつきちゃん、私はあなたを責めようとは思ってないの。あなたは若いんだし、いろんなことに興味を持って当然。でも、物事には優先順位ってものがあるのよ。私はあなたにはとてつもない才能を感じてる。だから、このコンペに参加することも提案したの。でも、それがあなたの負担になってるのなら、いつやめてもいいって思ってるの」

 多恵子の声は穏やかで悲しそうだった。それでもさつきには、多恵子の顔を見る勇気がなかった。

「やめたくないです」

 さつきは声を振り絞って言った。

「よく考えて。これは私のためでも、ご家族のためでもないのよ。あなたが自分のために決めること。今すぐに答えを出す必要はないわ。二、三日考えて、それから答えを出してもいいの。それまではレッスンはお休みしましょう」

 遠回しに言っているが、これは実質的に師弟関係を解消したいということなのではないだろうか、とさつきは恐れ慄いた。

 そうなったら自分はどうすれば良いのか。音楽を諦めて真二と結婚するようなことをすれば、一生後悔するのではないだろうか。サポートしてくれている六三郎や美子、大樹や紗栄子に、子として姉として合わす顔すらなくなる。

 いろんな思惑がグルグルと頭の中で回転し、さつきはただ硬くなって震えていた。

「今夜は疲れたから私は、先にお休みするわね」

 多恵子がそう言って立ち上がろうとしたので、さつきはスッと立って補助をした。

「ありがとう」

 優しく笑って部屋を出て行く多恵子の背中に、さつきは深く礼をして見送った。


        6


 さつきは多恵子の家の自分の部屋の椅子に座り、悶々としていた。いくら理解者だとは言え、先生を騙して男と外泊したなどということを母に相談するわけにはいかない。

 そうかと言って真二に相談すれば、フルートなんかさっさとやめて俺のところに来いと言うに決まっている。

 残るは村上遥しかいなかった。遥の家は、やはり尾道本通り商店街で、古くから土産物店を営む自営業だった。中学校時代からの同級生で、進学をせず家で店の手伝いをしている。唯一無二の親友と呼べる存在であると同時に、物理的にも身近な存在だった。

 ラインには、さつきと遥のやり取りが並んでいた。

サツキ「明日、天寧寺、OK?」

ハルカ「なんで? どしたん?」

サツキ「複雑じゃけん、会った時に説明する。来れる?」

ハルカ「OK」

サツキ「サンキュー」

 それだけで何がしたいかわかるツーカーの仲だった。


 翌朝、井上さつきと村上遥は、他の客に混じって天寧寺の坐禅堂に座してあった。

 最初は面白半分で、後には精神を落ち着かせるために、過去に何度か訪れている静謐が支配する空間だが、眠くなったり雑念に囚われたりして姿勢が崩れるようなことがあると、背後から僧侶が歩み寄り、肩を警策で叩く。

 今朝は妄念が妖怪のように浮いたり消えたりしているさつきの肩を、僧侶が叩く。次は遥の肩を叩いて行く。

 二人はお辞儀をして身を正した。

「びっくりしたわ。急に座禅組みたいとか言うから」

 座禅が終わり、さつきと遥は千光寺公園のベンチに並んで座っていた。前方眼下に尾道市街、その向こうに向島。朝日を受けて、尾道水道が光っている。

 さつきは「ごめん」と言って小さく笑った。

「そんで? どうしたん?」

「シクったんよ、うち」

 さつきは遥と目を合わせずに静かに言った。

「どういうこと?」

「真二が帰って来た」

 二人の視線が合い、遥は納得したように頷いた。沈黙が流れた。遠く、尾道水道を漁船が行く。

「結婚してくれって言われた」

 遥は驚いてさつきを見ると、腫れ物に触るように

「そんで? どうするん?」

 と尋ねた。

「遥やったら?」

「うちは、さつきやないけん」

 笑って答えた遥に、さつきは弱々しく笑い返した。

「フルートは続ける」

 さつきは遠い山並に目を移して言った。遥は当然だろうといった風に頷いた。

「けどな、先生に合わす顔がないんよ。嘘ついて、レッスン休んで。全部バレたから」

「先生なんて?」

「先生はああいう人じゃけん」

「ほんじゃ、ええんと違う?」

「うちの気持ちの問題」

「真二のこと?」

 さつきは顔を顰めて首を縦に振った。

「そう」

 別な船が尾道水道を出て行こうとしている。

「結婚するん?」

 さつきは遥を見て、今度は弱々しく首を横に振った。

「いいん?」

「ええかどうかわからんし。でも、今は大事なことがあるけん」

「待ってもらうってこと?」

「それもわからん」

 言って、さつきは天を仰いだ。

「あぁ、なんでこんな時にあいつ帰って来たんじゃろ」

 遥と話すことで、問題が即座に解決できるとは思っていなかった。ただ、禅を組み、遥に相談したことで、心が軽くなったことは確かだった。そして、さつきはひとつの結論に達していた。


 夕方五時、真二はコンビニの前にバイクを停めてさつきが出て来るのを待っていた。昼過ぎにさつきから話があるから来て欲しいというメッセージがあった。

 定時にさつきは業務を終え、コンビニから出て来た。真二と目が合ったが、笑顔ではなかった。

「なんじゃ、話って?」

「こないだのことじゃ」

 さつきは暗い声で言った。

「ホテルのことか?」

 真二はニヤついて聞いた。

「茶化さんで」

「結婚のことか?」

 今度は真面目な顔になっていた。

 さつきは、眉を寄せて頷いた。

「そんで?」

「うち、結婚できん」

 しっかり真二を見据え、きっぱりと発言した。

「なんでじゃ?」

「音楽がやりたいけん」

「結婚しても、音楽はできるで」

 真二はわかってないなと、さつきは思った。

「音楽学校に進みたいんじゃ」

「学校行かにゃあできんことか?」

 さつきは黙って頷いた。

「俺、待てるけぇ。さつきが学校に行きたい言うなら、待つ」

「ここで?」

「そうじゃ。ダメか? 俺たちの生まれ故郷じゃろ?」

 コンペティションで優勝できるかどうかは、誰にもわからないことだった。しかし、優勝しようがしまいが、さつきは音楽の道に進むことを心に決めていた。その先は未知数だったが、結婚どころか住むところまで今のこの段階で拘束されることは嫌だった。

「俺のこと好き言うたの嘘じゃったんか?」

 無論、嘘ではないと、さつきは頭を横に振った。しかし、それとこれとは違う。

「あんなことまでして、俺と結婚しないってあるか?」

 その「あんなこと」が一昨晩のことを指していることに、さつきは嫌悪感を覚えて真二を睨視した。そして、あんなに容易くまた真二と体の関係を持ったことを少し後悔した。

「な、わかるじゃろ」

 真二は一歩進み、さつきの両腕を掴んで訴えた。

「俺はさつきのために帰って来たんじゃ。なんでもする。いつまでも待つ。じゃけぇ、俺と結婚しよう?」

「ごめん。結婚できん」

 さつきは、声を上げて言った。

「なんでじゃ? なんでか言うてみぃ。他に好きな男がおるんか?」

 真二も大声になっていた。

「そんなんちがうわ。今は、音楽に集中したいんじゃ」

「だから、待つ言うとるが」

「将来のこととか、約束できんから」

「なんで?」

「真二、うちのこと好きならわかって」

「いや、わからんわ。さっぱりわからん」

 これ以上の議論は無駄だと、さつきは思った。そして、握られている腕を強引に振り解いた。

 立ち去ろうとするさつきの前に、真二が立ちはだかる。

「俺はどうすりゃあええんじゃ?」

「どいて!」

 さつきの気迫に、真二はたじろいだ。そのままロードバイクに跨って走り去ったさつきの心中は、真二に理解されないもどかしさと別れの予感に掻き乱されていた。


        7


 その夜、八時ちょっと前に健一が「出張」から帰宅した時、東京目黒の小森家では、咲恵と子供たち二人が、遅い夕食のテーブルを囲んでいた。

「ただいま」

 玄関のドアを開けた健一の第一声に、咲恵が迎えに出た。

「お疲れさま。どうでした、出張」

 手にスーツケースとお土産の包みを持った夫を見て、決まり文句のように咲恵は言った。

「ああ、ちょっと疲れたよ」

 言葉とは裏腹に、健一は上機嫌に見えた。

「お食事できてますけど」

「わかった」

 土産を手にダイニングルームに現れた健一を、梓は立ち上がって「おかえりなさい」と笑顔で迎えた。比して裕司は、挨拶もせず、意図的に父を無視するかのように黙食を続けている。

「お風呂も沸いてますけど」

「まず、飯だな。腹が減ったよ」

 息子の不孫な態度に腹を立てながら、まるで裕司のことなど目に入らないかのように、健一はどっしりとダイニングチェアに腰を下ろした。

「練習はどうだ?」

 問われた梓は、笑顔のまま腕を前に伸ばし、包帯を巻いた手首を健一に見せた。

「どうしたんだそれ?」

「腱鞘炎なんですよ」

 咲恵がキッチンから言った。

「腱鞘炎? じゃ練習は?」

 梓は、変わらずニコニコしている。

「大丈夫。先生も温熱療法と湿布で治療しながら練習できるって」

「そうか、無理するなよ」

 不倫をしている父が、家庭的な父親を演じようとしていることが、裕司には不興だった。だから食事を終えて何も言わずに席を立った。

「裕司!」

 健一の怒声に、裕司はびくっと立ち止まった。

「なんだお前のその態度は? 最近ちょっと度が過ぎるぞ!」

 二十歳になり、身長は父より高くはなっていても、やはり裕司にとって健一は怖い存在だった。

「すみませんでした」

 裕司は呟くように言って部屋を出ようとした。

「待て! まだ話が済んでない!」

 裕司は振り向いて父を睨みつけた。

「なんだ貴様、その目は?」

 健一の逆鱗に、咲恵はキッチンの手を止めた。梓もここまで怒った父を見るのは初めてであり、なすすべもなく上体を硬直させて座っていた。

 父の目の中に燃え盛る怒りの炎に、裕司は思わず目を逸らした。

「親に向かってなんだと聞いてる」

「あなた、もうやめてください! お食事中なんだから」

 咲恵の声に、健一は一瞬躊躇した。

「父さんこそなんだよ!」

 裕司が跳ね返るように叫んだ。

 健一は息子を睨み返した。

「出張とか言って、女と逢ってるだろ! 俺が知らないと思ってんのか?」

 健一は喫驚したが、同時に裕司がハッタリをかましているのではないかと、その表情を探った。

「綺麗事ばっかり並べやがって!」

「なんだと貴様!」

 健一が立ち上がるのと咲恵が

「やめて!」

 と叫ぶのが同時だった。

 掴みかかろうとする健一を裕司が突き飛ばす。

「やめてよ、二人とも!」

 梓の悲鳴に、裕司は興奮の面持ちでそのまま家から飛び出し、健一は床に突き倒されたまま、自分の身に起きたことが信じられず、しばらく動こうとはしなかった。


        8


 同夜、古橋多恵子の家では、さつきのレッスンが再開されていた。夕方五時過ぎになって、只ならぬ様子で帰宅したさつきに、多恵子は多くを聞かなかった。

 いつも通りに料理の手伝いをさせ、いつも通りに夕食を済ませ、後片付けをしてそのまま教室に入り、多恵子はピアノの前に座った。

 その時には、さつきはゴールドのフルートを手に、楽譜を置いた譜面台の前に直立し準備が整っていた。

「そこのクレッシェンドのところ、もっと強く」

 多恵子の指導にも熱がこもる。頷きながら、演奏を続けるさつき。

「もっとタンギングを早く」

 また頷いて、続けるさつき。

 多恵子がピアノの手を止めて立ち上がり、シルバーの自分のフルートを手に取ってさつきの隣に立つ。

「さっきのところはこうよ」

 先刻さつきが演奏した部分を、多恵子が見事に吹いて見せる。

「あなたのは、こうなっちゃてるの」

 さつきの真似をして吹いて見せる多恵子。

「どう? 違いがわかる?」

「はい」

 さつきが真剣な表情で答える。

「あなたは技術は確かなんだけど、表現が、ここの部分がフラットになっちゃってる。もっと感情を込めていいの。一番感情が盛り上がるところなんだから。音楽の優劣は、どれだけ人を感動させることができるか。それには、奏者が感情移入できるかどうかよ」

「はい」

「じゃ、もう一回やろうか? それとも、ちょっと休む?」

 微笑みながら問う多恵子に、さつきが継続を希望すると、多恵子はピアノに戻り、また伴奏を始めた。

 上半身を揺すりながらの、気合いを隠さないさつきの演奏が四方の壁を超えて響き渡った。


 その夜のレッスンを終え、入浴を済ませたさつきが就寝の準備をしていた頃、小森健一と咲恵は、ダイニングテーブルを挟んで対座していた。

 部屋には重苦しい空気が澱んでいる。

「それでどうするんですか?」

 咲恵の声は沈んでいた。

「なんのことだ?」

「お相手の人のことも、裕司のことも」

 健一は苦い顔をして目を逸らせた。

「放っておいていいの?」

「あいつはそのうち帰って来るさ」

「裕司のことじゃないわ」

 健一は周章して咲恵を見た。捉えた獲物に刃物を入れるかのような、冷たい顔がそこにあった。

「お相手の人のことは、薄々知ってました」

 健一は驚くと同時に、目を落として自分の迂闊に歯軋りした。今までも、妻に不貞を働いたことは何度かあった、その全てが発覚していたとは思えなかったが、今回は言い訳すら思い浮かばなかった。

「お若い人なんでしょう? 将来とか考えてあげなくていいの?」

 余計なことを言うな、と言いそうになって、健一は口をつぐんだ。傲岸なことを言える立場ではなかった。

「もし私と離婚したいなら、梓のコンペが終わってからにして」

 健一は目を上げて、咲恵の顔を凝視した。能面のような感情のない顔が却って恐ろしく見えた。

「俺は、離婚なんて考えてない」

 健一は唸るように言った。事実、離婚を想定した不倫ではなかったし、それは相手にも伝えてあった。

「お仕事に影響するものね」

 咲恵は鼻で笑うように言った。

「そうじゃない。俺はもともと家庭を壊すつもりなんてない」

「もう壊れてるでしょう?」

「俺のせいだって言うのか?」

「違いますか?」

 これは健一には看過できない発言だった。

 自分が模範的な父親ではないことは知っていたが、咲恵にも責任がないわけではない。

「お前にだって非があるだろう。梓のフルートばかりにかまかけて、裕司のことを疎かにして来たのはお前だろう」

「裕司はもう大学生ですから、母親ができることなんてないわ」

「あいつが帰ってこなくても、知らんぷりしてる。交友関係も知らない。それじゃ、あんまりじゃないか?」

 仕事は自分、家庭のことは妻、というのがお互いの暗黙の了解だったはずだ。それを怠った咲恵に、100%問題がないと言うのは虫が良すぎると健一は思った。

「私だって、できることはしました。でも部屋にも入れてくれないのに、どうしろって言うの? 携帯だって見せてくれないのよ」

「それなら携帯なんて解約しちまえ」

「あなたがしたらいいでしょう? あなたのお金なんだから」

 キッチンカウンターの上のデジタル時計は、十一時半を示していた。

「携帯、繋がらないのか?」

「GPSも切ってるの」

 男の子だから、身の危険を案ずることはないだろう。未成年ではないから、警察に補導されることもない。たぶん、どこか友達のところに泊まるか、最悪でもネカフェあたりで夜を過ごすのだろうか。

 健一にとっても咲恵にとっても、落ち着かない時間だけが過ぎて行った。


        9


 昨夜の父と弟の争いが、梓の心の中で黒煙のように渦を巻いていた。父に愛人がいるという裕司の言葉は、本当なのだろうか。それが原因で、母は父と離婚するのだろうか。そうなったら、家族はどうなるのだろうか。

 舞が午前中のレッスンのために家に来ていることは知っていたが、まったくやる気が起きなかった。

 自分の部屋でぼんやりとスマホを弄っていると、ドアにノックがあった。返事をするもの億劫なので黙っていると、勝手にドアが開いて、母の咲恵が顔を出した。

「あ、いるの? 先生、待ってるわよ」

 咲恵は少し驚いた様子で言った。

「今日はお休みするって言って」

 梓はスマホのスクリーンを見ながら答えた。

「手が痛い?」

「ううん、やる気が出ないから」

 心配そうな顔が険しく豹変したかと思うと、咲恵はつかつかと梓に詰め寄った。

「何言ってるの? そんなこと言ってる場合じゃないでしょう?」

 それでも自分を無視しようとする梓の腕を咲恵は掴み、立ち上がらせようと引っ張った。

「やめてよ! 痛いじゃない!」

 梓は声を上げて、力ずくで腕を振り解く。

「あーちゃん! どういうつもり?」

 珍しく反抗的な梓に、咲恵はどう対応したら良いのか、経験則がなかった。

「やりたくないの。そういう日もあっていいでしょ?」

「舞、わざわざスケジュール調整して遠くから来てるのよ?」

 咲恵は声を張り上げた。

「お金払えばいいんでしょう? お金払って追い返して!」

 食いつくように叫ぶ梓の頬に、咲恵の平手打ちが飛んだ。条件反射のような、咲恵自身も予期しなかった行動だった。

 梓は頬を抑え、咲恵を瞠若していたが、急に涙を目に湛えると、立ち上がって部屋から走り出た。咲恵は自分の取った行動が信じられず、ただ呆然としていた。


 梓は体調が悪いからと舞に説明し、レッスンをキャンセルしてもらった咲恵は、そのまま外に出た。耳には自分の放った平手打ちの音が、そして右手にはまだ梓の頬の感触が残っていた。

 携帯を机の上に残して、娘はどこに行ったのだろうか。裕司に続いて梓まで行方不明という事態にするわけにはいかないと、咲恵は焦っていた。

 とりあえず商店街のある方角に歩いてみようと、咲恵は道を急いだ。途中、ちょっとした遊具を備えた児童公園がある。その公園のブランコに、梓が座っているのを見つけて、咲恵はホッと胸を撫で下ろした。

 梓は呆けたように、ぼんやりと中空を眺めていた。歩み寄った咲恵の姿も、目に入らないかのようだった。

「舞、帰ってもらったわ」

 咲恵は、微笑みながら伝えた。自分でも笑顔が不自然なことに気がついていた。

 梓は、何も答えず、ブランコを漕ぎ出した。咲恵はしばらくそれを見ていたが、耐えきれずにブランコの鎖を掴んで制止させた。焦点の合わない目で、梓は咲恵のほうに目を向けた。

「さっきは、ごめんね」

 兎にも角にも咲恵は梓に詫びた。

「私、どうかしてた」

 梓は咲恵の謝罪が耳に入らないかのように、またゆっくりとブランコを揺すり始めた。そして急に思い出したかのように、咲恵に目を向けると

「お母さんは平気なの?」

 と静かに聞いた。

 何について「平気」と言っているのか、咲恵の頭は追いついて行けていなかった。

「昨夜のこと、平気なの?」

 梓は、声を強めて問い直した。

 昨夜の何について問われているのか、咲恵は答えに窮して立ち尽くしていた。

「私は平気じゃない」

「あれはあれ、これはこれでしょう? 勝ちたいんでしょう、コンクール」

 今は、そんな言葉しか思い浮かばなかった。

 梓は答えず、またブランコを漕ぎ出し、咲恵はそれをまた制止した。

「昔は、ここにいるだけで幸せだったな〜」

 周囲を見回しながら、梓が独り言のように言う。昨日までは、手に取るようにわかっていた娘の心の中が、咲恵にはまったく見通せなくなっていた。

「私もう、コンペやめる」

 漠然とした口調で言う梓に、咲恵は動揺を隠せなかった。

「何言ってるの?」

「もうレッスンしたくない」

「おかしなこと言いださないで。今日はお休みでいいから。明日から、またレッスンしましょう」

「何のために?」

「あなたのために決まってるでしょう?」

「そうなのかな。本当はお母さんやお父さんのためじゃない?」

 咲恵にとっては、長年、考えたこともない質問だった。最初の頃は娘が練習を嫌がり、続けるべきかを逡巡した。しかし、今は、梓のほうから率先して練習に励んでいる。だから、これは娘のためだと自分にも言い聞かせてきた。

「それならそれでもいいんだけどね」

 言いながら、梓はブランコから立ち上がり、お尻の汚れを手で払った。

「先生には謝っといて」

 家の方角とは反対方向に歩き始める梓。

「どこに行くの?」

「心配しないで。遅くなるかもしれないけど、危ないところに行ったりはしないから」

 振り向いて笑顔で答える梓に、咲恵は慌ててスマホを手渡した。

「レッスンは続けるのね?」

 梓は答えず、歩いて行く。その小さくなる後ろ姿を、咲恵は放心したように眺めていた。


        10


 弟の裕司が西麻布交差点近くのレストランで働いていることを、梓は友達から聞いて知っていた。その夜も、裕司が出勤していることをレストランに前もって確認し、梓は七時半に客として入店した。

 エントランスで接客係の案内を受けながら、梓はウェイターとして働いている裕司の姿を目で追っていた。照明を暗くした店内は、ザワザワと騒がしく活気のある店だった。

 テーブル席に通され、メニューを開ける。間もなく、姉とは知らない裕司がおしぼりと水を持って来た。

 梓が顔を上げると同時に

「姉貴!」

 と裕司が声を上げた。

「ひとり?」

 と周囲に目配りして聞く。

 梓は笑顔で頷いた。

「どうして?」

「ここで働いてることは知ってたの」

 梓は、手短に経緯を説明した。

「父さんと母さんは?」

「言ってない」

「何しに来たの?」

「話があるから」

「それでわざわざ?」

「裕司、携帯出ないじゃん」

「俺、今、忙しいから」

 流行りのレストランだ。ウェイターが長話のできる状況ではなかった。

「いいよ。何時に終わるの?」

「十時には出れる」

「待ってるから」


 レストランで食事を終えた梓は、裕司の提案で近くのバーに連れ立って入った。そして薄暗いバーのテーブル席に裕司と対面で座り、裕司はジントニックを、梓はスクリュードライバーを注文した。

「ここよく来るの?」

 梓はバーの店内を見回して聞いた。マホガニー調で統一した落ち着いた内装の、一見、老舗っぽい店だった。

「俺の給料じゃ無理っしょ。前に何回かレストランのオーナーに連れてきてもらったことがあるだけ」

「いつからあのレストランに?」

「もう三ヶ月くらいになる」

「じゃ、お小遣いだいぶ溜まったでしょう?」

「ウェイターは薄給だし、昼二、夜一の週三だからね」

 裕司は笑って答えた。昨夜のことが、まるで気になっていないかのような、あっけらかんとした笑顔だった。

「話ってそんなことじゃないよね」

「裕司のこと、私のこと、お父さんのこと、お母さんのこと、家族のこと」

 梓が声を落として言うと、裕司の顔が急に暗くなった。

「このまま帰らないつもり?」

「さあ」

 ふてくされたように、裕司はカクテルを啜った。

「家族がバラバラになるよ」

「そんなことなら、父さんに言ってよ」

「お父さんが私の言うこと聞くと思う?」

「姉貴は優等生だから、あの人のお気に入りだろ? なんでも聞いてくれるんじゃ?」

 裕司は姉を嫌っているわけではなかった。しかし、自分の中のわだかまりが、ある程度、フルートで優秀な成績を残し、堅実な道を歩んでいる姉に対する嫉妬に起因していることには気づいていた。

「そんなことないよ。私だってコミュニケーション取るの苦労してる。それに出来の悪い子ほど可愛いって言うじゃん」

 笑って言う姉につられて、裕司は笑いながらまたカクテルに口をつけた。

「ひでぇな」

「家族って、みんなで守るものだと思うの。私も、裕司も、お父さんも、お母さんも力を合わせて」

 真剣に言う姉から、裕司は目を逸らせた。

「だからそれ、あの人に言うべきじゃない? 外で女作って遊んでる人だよ」

「それって、お父さんとお母さんの問題でしょ?」

 鼻白む裕司に、梓は抗議した。

「大人の男性なんだから、私たちが口出すことじゃないと思う」

 裕司は半ば呆れて姉を見た。姉が本気で言っているのか、測りかねていた。

「ずいぶんあの人の肩持つんだな」

「別に肩持ってるわけじゃないわ。私だって嫌だけど、干渉したくないだけ」

「お姉さんだね」

「全然。家族をバラバラにしたくないの」

 裕司がグラスを上げてバーテンダーにお替りの合図をすると、中年のバーテンダーが笑顔でそれに応えた。

「それで、俺にどうしろって言うの?」

 探るように裕司は尋ねた。

「お父さんに謝れない?」

「姉貴、わかってないな」

 わかってないと言われて、梓は眉根を寄せて裕司を睨んだ。

「学校もずっと行ってないんでしょ?」

「ああ、単位落とすと思う」

「それでいいの?」

「姉貴は俺のことなんかよりフルート吹いてればいいじゃん」

 裕司が嘲笑的に言った。それが梓には心外だった。

「私、そんなにメンタル強く見える?」

「姉貴は強いよ。俺なんかよりずっと」

 お替わりのカクテルをテーブルに置いて行ったバーテンダーに、裕司は軽く会釈した。

「私、コンペやめるかも」

 梓はポツリと言った。

「え、どうして?」

 裕司は眉を上げて姉の顔に見入った。

「辛いんだ、最近」

「まさか、俺のせいとか言わないでよ」

「それ以前の問題。腱鞘炎も辛いし、レッスンも楽しくないの。前はもっと楽しかったんだけどね」

 弟に言いながら、梓は答えを探していた。辛いことを乗り越え、何かを得ることの価値は知っているつもりだった。しかし、そのプロセスで、何かもっと大きなものを失うのであれば、果たしてそこに価値があるのだろうかという疑問への答えであった。

「俺は姉貴のこと応援してるよ」

 既成事実のように弟は言ったが、梓がそれを聞くのは初めてだった。

「カッコいいと思うし、尊敬してる」

カッコいいと思っているからこそ、尊敬もするし、嫉妬もする。裕司はそう思った。

「やめてよ」

 梓は笑ったが、裕司の言葉は素直に嬉しかった。

「いや、マジだよ。俺もギターか何かやっとけば良かったって思う」

 照れ臭そうに裕司は続けた。

「じゃ、尊敬ついでに私の頼み聞いて」

 梓は言った。

「直接謝るのが嫌なら、私が謝っといてあげるから」

「余計なことはしないで」

 裕司は強く反駁した。尊敬する姉であっても、父と自分の間に歴然と存在する断裂を修復することは至難の技であり、却って関係が拗れることを裕司は恐れた。

「あ、もうこんな時間だ。母さん、心配してるよ」

 裕司の腕時計は十一時を指していた。

「大丈夫、遅くなるかもって言っといたから」

「途中まで送ってくよ」

「今夜も帰ってこないの?」

「彼女のとこのほうが楽しいから」

 ニヤリと笑ってうそぶいた弟に、姉として言えることはもうないと梓は感じた。しかしそれは、決して満足できる帰結ではなかった。


        11


 順調という言葉が、とりあえず大きな事件や争い事もなく、妄念からも解放されているという意味で使えるのであれば、山根真二に別れを告げてからの井上さつきのレッスンは、古橋多恵子の監督下、順調に進んでいた。

 その日も、そつなく一日の仕事を終え、コンビニの店舗を出たさつきは、ロードバイクの鍵を外そうとして背後から近づくオートバイの音に振り向いた。

 それは、荷台に大きな荷物を積んだ、真二のバイクだった。真二とは、先日の口論以来、連絡を取っていなかった。

「よかったわ、間におうて」

 真二はエンジンを切ると、バイクに跨ったままヘルメットを脱ぎ、白い歯を見せて言った。

「どうしたん?」

 荷台の荷物に目をやって、さつきは聞いた。

「いや、さよなら言おう思うてな」

「どこ行くん?」

「大阪に帰るわ。さつきに振られたからな」

 真二は笑って答えたが、さつきにはドシンと来る言葉だった。結果的には仲違いし、自分が「振った」ことになるのかもしれないが、真二のプロポーズには今も感謝していたし、また真二を思う気持ちにも変化はなかったから。

「あ、俺のことは気にせんでええけん」

 捨て台詞とも取れる真二の言葉に、やりきれない思いが、さつきの胸に込み上げて来ていた。

「まあ、フルートがんばって」

「大学に戻るん?」

 差し伸べられた手を、さつきは無気力に握りながら聞いた。

「ああ、他にやることもないし。また、休み取って戻って来るけんな」

 自分の決断に間違いはない。そう心の中でさつきは繰り返し自分に言い聞かせた。

「あ、心配せんでええよ。もう結婚とか言わんから」

 そうじゃないの。あなたはわかってないの、とさつきは叫びたい思いを抑えながら首を振った。

「でも、心ではずっと思ってるけん」

 笑顔の中に、真二の涙が光った。さつきも涙を堪えることができなかった。

「ごめん、真二」

 言いながら、さつきは真二を抱きしめた。

 筋肉質のその体が抱きしめ返し、さつきは一瞬、溶けてしまうような錯覚に襲われた。

「ええんじゃ、これで」

 真二の声が震えていた。

 離れて、さつきは真二と見つめ合った。

「ほんじゃ、これで」

 笑顔が、苦しそうに曲がっていた。

「いろいろ、ありがとう」

 さつきの顔も涙で曲がっていた。

「こっちこそ。時々メールとかしてもええか? 邪魔にならんようにするけん」

 さつきはしっかりと頷いた。

「ほんじゃ」

 ヘルメットを被り直しバイクのエンジンを吹かして走り去る真二の後ろ姿が完全に見えなくなるまで、さつきはそこに立ったまま見送っていた。


 翌日、さつきは仕事休みを利用して、千光寺公園まで長い石段を登って行った。子供の頃から何度も訪れている公園だが、ここもさつきにとっては真二と桜の季節に恋を囁いた思い出の場所である。

 1500本の桜の木を園内に誇り、敷地も1300坪以上ある広い公園なので、フルートを吹いても人迷惑にならない箇所がいくつかあるのは知っていた。石段を登るのは一苦労するが、一旦上まで来てしまえば眺望が開け、心地よくフルートを奏でることができる。

 譜面台を立て、楽譜を置いていつも通りスマホのボタンを押すとオーケストラによる『メンデルスゾーン・バイオリン協奏曲第3楽章・フルート・バージョン』の伴奏が始まる。さつきは即座にフルートを唇に当て演奏を開始した。

 上体でリズムを取り、演奏に力が入って来ると、その音色の美しさに、ひとり、またひとりと周囲に人が集まって来る。

 感心しながら、さつきの演奏に聞き入る人々。演奏が終わると、満場の拍手と歓声がさつきを包み込んだ。笑顔でお辞儀をするさつきに、子供たちが駆け寄りサインを求めて来る。

 応じるさつきの様子を遠巻きに見ていたのは、尾道新聞の記者、大出香織だった。

「すみません。お話し伺っていいですか?」

 今年三十五歳の大出香織は新卒で東京の大手新聞社に入社し、記者としてのキャリアを積んだ後、今年になって故郷の尾道に舞い戻って来た。新聞の斜陽が伝えられる中、地元の新聞社に再就職した香織は、常に虎視眈々と購読者数を増やすような目玉になる記事を探していた。

「尾道新聞で記者をやってる大出という者ですが」

 名刺を手渡され、さつきは何だかわからず軽く会釈した。

「素晴らしい演奏でした」

「ありがとうございます」

「お名前、伺って構わないですか?」

「あ、井上さつきです」

 さつきはまた頭をペコリと下げた。

「井上さつきさん」

 香織は、さつきの名前をリピートして、何かメモ帳に書き込んだ。

「今、お時間ありますか?」

 さつきの携帯は、午後四時を示していた。五時には多恵子の家に帰っていたかった。

「すいません、もう帰らないとならないので」

「そうなんですね。じゃ、二、三日中に是非」

さつきは当惑したが、とりあえず「はい」と答えておいた。

「連絡してくださいね。お時間のある時でいいので」

 悪い人じゃなさそうだな、とさつきは思った。何にせよ、自分ひとりで勝手に取材に応じるわけにはいかない。今は雑念を払うこと。それだけに集中したかった。


        12


 『チャイコフスキー・バイオリン協奏曲第3楽章・フルート・バージョン』の演奏が、ピアノを伴って部屋に鳴り響いていた。奏者は小森梓、伴奏は真行寺舞。咲恵の姿はなかった。

「そこ音が違う!」

 鍵盤の上の手を止めて、舞が声を上げる。梓が目を見開いてフルートの吹奏を止める。

「違うでしょう! 何回言ったらそこのところ間違わずに吹けるの? 梓ちゃんらしくないわ。もう一ヶ月しかないんだよ!」

 舞がピアノ伴奏を再開するが、梓はフルートを吹こうとしない。

「どうしたの? ちょっと休む?」

 梓はむっとした顔で答えない。

 舞は顔を顰めて梓をじっと見ていたが、止むを得ないといった表情で静かに言った。

「お母さんから聞いたわ」

 梓は驚いて舞を見つめ返した。

「コンペ出るのやめたいんだって?」

 今さっきとは別人のように、穏やかな舞の物言いだった。嘘を言っても仕方がない。梓は頷いた。

「梓ちゃん、ここまで一生懸命やってきて、それってもったいないと思わない?」

 梓には予期していた発言だった。そんなことは、もう十分に考えた上での結論だった。

「梓ちゃんが、誰にも負けないくらいにがんばってるのは私が一番良く知ってるわ。だから疲れることもあるでしょう。辛いこともあるでしょう。私は、ここまで来たら、少しペースダウンしてもいいって思ってるんだけど」

「そういう問題じゃないんです」

 梓は呟くように言った。

 実際、母は舞にどこまで話したのだろうか。まさか、父の女性関係のことには触れてないだろう。でも、全てを知らなければ自分の気持ちなどわかるはずもない、と梓は思った。

 それでも舞は、察したように視線を落として考えていたが、ふと思い直したように顔を上げると

「梓ちゃん、こんなこと今更あなたに言うことじゃないかもしれないけど。音楽の力って何だと思う?」

 と聞いた。

「音楽ですか?」

「そう」

「人を楽しませたり、感動させたりできること」

 梓は教科書で覚えたような、無難なことを言った。

「そう。だけどね、その楽しみとか感動って、時には何物にも替え難いものなの。あなたはまだ若いから実感がないかもしれないけど、人生って本当にいろんなことがあるのよ。苦しいことも悲しいことも、辛いことも山ほどあるの。そんな時に、ある音楽と出会ったことで勇気づけられたり、生きる力を与えられたりする人が沢山いるの」

 梓には、なんとなくわかるような、わからないような説得だったが、舞の真摯な気持ちは伝わっていた。

「あなたが演奏しようとしているチャイコフスキーの曲、元々はバイオリン・コンチェストだったって知ってるでしょ? ベートーベン、ブラームス、メンデルスゾーンのバイオリン・コンチェルトと並んで世界四大バイオリン協奏曲の中の一つ。そんな作品を、チャイコフスキーは一ヶ月足らずで書き上げてるの。だからこれは、天才の産物なのよ」

 それが1878年のこと。ところがそのスコアは技術的に演奏が難しいからと、誰にも認めてもらえず、1881年にやっと初演に漕ぎ着けるが、その初演も批評家からも聴衆からも散々の評判だった、と舞は続けた。

 しかし、そんな作品が一人のバイオリン奏者が熱心に演奏し続けたために、後になって世界中の名バイオリニストや名オーケストラによって演奏されるようになり、今や四大バイオリン・コンチェルトの一つに数えられる地位を確立している。

「つまりね、この作品は天才と多くの人たちの努力の結晶みたいな作品なの。それを今、梓ちゃんはフルートの世界まで引き上げしようとしてるのよ。世界的に有名な何人かのフルーティストがやったことを、日本でやろうとしてるの。そんな力をあなたは持ってるのよ。でもね、その力は誰もが持ってるわけじゃないの。なぜかって言うと、その力を手に入れるには、やっぱり才能とものすごい時間と努力が必要だから」

 自分に特別な才能があるのかどうか、梓にはわからなかった。ただ、努力を積み重ねて来たことには、自負できるだけのものがあった。

「良く聞いてね。今回のコンペをやめても、あなたの人生が終わるわけじゃないし、フルートだって続けることはできる。でも、あなたにとって一番辛い時にがんばることが、勝ち負け関係なく絶対将来の財産になるから。私はそう信じてる。だから、あと少し、私についてきてくれない? きっと良かったと思う時が来るから」

 梓は舞の言葉を噛み締めて受け取った。それはずっしりと重い言葉として心に響いていた。そしてそれは、梓の中で澱んでいた因循からの解放を誘発するだけのエネルギーを秘めたものであった。

 確かに止めることはいつでもできる。しかし、ここから先に進むことは、今しかできない。実力であれ運であれ、自分に廻って来た千載一遇のチャンスを、生かすも殺すも自分しだいなのだ。

 真行寺舞という稀代の教師を得たことで、自分は今まで生かされて来たという実感が、以前から梓には少なからずあった。舞の明察に、自分は幾度助けられ、結果として成功を収めて来ただろうか。道に迷った時に、もう一度、この賢明な人生の先輩に道案内を依頼しても良いのかもしれない。

「いい? 大丈夫?」

 100%じゃない。でも、ここからまた自分を高めて行こうという決心が、梓の中に豁然と湧き起こって来ていた。

 梓は大きく頷くと、フルートの唄口をまた唇に当てた。


        13

 

「あーちゃん、今日は凄く良かったんだって?」

 母と娘、二人だけの夜の食卓で、咲恵が嬉しそうに言った。久々に見る、晴れやかな母の笑顔に、梓も相槌を打って微笑んだ。

「もうほとんど仕上がってるんじゃない?」

「改善の余地はあるけど」

「もちろん、気を緩めるには早いけど。あーちゃんには楽しんで欲しいから」

 母の言を、梓は怪訝に思った。「楽しむ」という言葉を、ことフルートに関しては、母の口から聞いたのは初めてのような気がした。

「どうしたの?」

 不思議そうな顔をしている梓に、咲恵は聞いた。

「ううん、お母さんから楽しんでって言われたの初めてかも」

 梓は微笑みを保ちながら言った。

「え、そんなことないと思うけど」

 正直、咲恵にもそれはわからなかった。ただ、ここ数日の出来事を経て、自分の考え方、感じ方が徐々に変化してきているという自覚はあった。それは咲恵にとって、母親として少し恥ずかしい覚醒でもあった。

 含羞を隠すように、咲恵は笑った。梓も明るく笑った。その時、咲恵の携帯が鳴った。見慣れぬ番号からの着信だった。

「誰かしら。もしもし」

 電話は、麻布警察署からだった。


 自宅の書斎のデスクに、健一は姿勢を崩して座っていた。帰宅したばかりで、まだネクタイも解いていない。正面には咲恵が、顔を曇らせて立っていた。

「まったく下らないことをしてくれたもんだな」

 健一が吐き出すように言った。

「それで、どうしますか?」

「どうもこうも、迎えに行く他ないだろう。誰かが身元引受人にならなきゃ、前科がつくからな」

「万引きで前科?」

「万引きだって犯罪だ。店側で訴えれば裁判にだってなるさ。そこまでしない店がほとんどだけどね」

「お金で解決できないの?」

「もちろん、そうなれば示談にするさ。どうせ大した額じゃないだろう」

「常習じゃないらしいけど」

 健一は苦々しく舌打ちをしたが、咲恵にしてみれば、万引き程度という安堵感があった。

 警察署から裕司の名前が出た時、親として一番心配したのが交通事故であり、次が重犯罪だった。幸い、裕司はそのどちらにも巻き込まれていない。梓への悪影響も、あったとしても限定的に思えた。

「迎えに行くの?」

 咲恵の問いに、健一は虚を突かれたように目を上げた。

「俺がか?」

 咲恵は黙って顎を上げた。

「冗談じゃない。お前が行ってくれ」

「私は行きません」

「なぜ?」

「あなたが行くべきだと思うから」

「だから、どうして俺なんだ?」

 健一は苛立ちを隠せず、声を荒げた。

「あなたが父親だから」

 咲恵は冷静だった。

「父親だから、行くのか?」

「はい」

 健一は立ち上がり、デスクの後ろのスペースを行ったり来たり歩き始めた。考え事がある時、神経が尖っている時にする、いつもの健一の仕草だった。

「あの子には、あなたが必要なの。それがわからない?」

 咲恵は強く言った。

 立ち止まり、自分を威圧的に傲睨する夫を見ても、咲恵は臆さなかった。

「今を逃したら、もうチャンスはないわ。あの子は体は大人でも、心はまだ子供なの。どうしていいのかわからないのよ。この万引き事件は、あの子からのSOSだと思う。手遅れになる前に、歩み寄らないといけないのは、大人のあなた」

 声の限り訴えかける妻から、健一は視線を外した。前から思っていたことを、そのまま代弁されたような気がした。

 出るところに出れば、俺は泣く子も黙る小森健一だ。しかし、父親として、子供たちのために、何かをして来ただろうか。今になって何かをしても、もう遅いという頭があった。同時に、今からでも何かをしてやりたいという切願もあった。

「梓も心配してるから、行ってあげて」

「梓に言ったのか?」

「言わないわけにいかないわ。目の前で警察から電話があったんだから」

「バカだな、大事な時に」

「一度でいいから、裕司のこと考えてあげて! お仕事のことじゃなく、梓のことでもなく、裕司のこと!」

 それは咲恵の母なる魂の叫びのようにすら聞こえた。健一は揺動していた。そしてそれが悔悟として意識されるまで、それほど時間はかかならなかった。


        14


 以前は六本木通り沿いにあった麻布警察署が、三河台に移転したことは人づてに聞いていた。ロケーションがよくわからなかったので、健一はタクシーを拾って来たが、来てみればなんのことはない、六本木交差点から少し入ったところで、旧麻布警察署からは目と鼻の先だった。

 正面にいかつい警察官が立っていたので、要件を言うとすぐに入館を許される。婦人警官に誘導され通された先は、簡素なテーブルとソファ、肘掛け椅子が置かれた殺風景な部屋だった。

 ソファに座って待っていると、同じ婦警が盆に湯呑みを乗せて茶を持って来る。健一が礼を言い、それに手をつけようとした時にドアにノックがあった。

「はい」

 入室して来たのは、一眼で刑事とわかる私服の中年男だった。眼光鋭いその男は、ニコリともせずに

「どうも、刑事をやってます唐木田といいます」

 と自己紹介した。

「この度は、ご迷惑をおかけしました」

 健一は立ち上がり、差し出された名刺を受け取りながら深々と頭を下げた。

「小森裕司君のお父さんで間違いないですね」

 唐木田は、健一に席を取るようにソファを指差すと、自分は正面の椅子にかけて尋ねた。

「はい、父親です」

「ご立派なご職業だ」

 唐木田は、健一の手渡した名刺を見ながら言った。

 しばし、ぎごちない沈黙が流れたが、唐木田は改まった様子で

「息子さんのことなんですが、まだ学生さんだし、初犯のようなので、警察としても前科がつくようなことは避けたいんですよ。店側も円満な解決を望んでいるようなので」

 と、健一に伝えた。

「恐縮です」

「ただ、私のような若輩者が申し上げることじゃないかもしれませんが、お父さんを大変恐れていらっしゃるようで」

 健一は言葉に詰まって唐木田を見た。

「今回のことも、お父さんには絶対知らせないで欲しいと」

「そうなんですか」

 これではまるで、自分は児童虐待の常習犯のようではないかと、健一は息苦しさを感じていた。確に今まで自分は、息子に対して強権的な態度をとって来た。暴力こそ振るったことはなかったが、怒鳴りつけたことは数え切れないほどある。そしてそれは、必ずしも愛の鞭ではなかった。自分の言うことを聞かない息子を脅し、萎縮させようとした意図も否定できないのである。

「お父さんの携帯番号はとうとう教えてもらえませんでした」

 苦笑する唐木田に、健一は「申し訳ございません」としか言えなかった。

「いやいや、我々としては、ちゃんとした身元引受人さえ来ていただければ、それでいいことですから」

 婉曲にではあるが、この刑事は俺に説教をしているのだなと健一は思った。しかし、そこまで息子に自分を恐れさせていたという事実は、反省して然るべきだろうとも感じていた。

「それじゃ、裕司君を呼びますがよろしいですか?」

「はい」


 数分後、裕司は健一にエスコートされ、秋の夜空の下、麻布警察署ビルの外に出ていた。

「お父さんにはよく話しておいたから、今日はこれで帰りなさい」

 という唐木田の言葉を聞いても、裕司は健一と目を合わせようとはしなかった。そして当の健一も、息子に何と声をかければ良いのか、わからずにいた。

「タクシー拾うけど、お前どうする?」

 夜空を見上げて、やっと出た言葉がそれであった。

 裕司は、恐れるように健一と目を合わせた。

「行くところあるのか?」

 健一は聞いた。

「あることはありますけど」

 ボソボソとした語り口だった。

「そうか、そこへ行くか?」

 気まずそうにうなだれる裕司を尻目に、健一は先を歩き始めた。

「父さん」

 背後からの声に、健一は振り向いた。

「すいませんでした」

 九十度腰を折って頭を下げた裕司の口から漏れ出たのは、泣くような声だった。

 健一は息子の行動に戸惑った。同時に「あの子には、あなたが必要なの」と必死で訴えた咲恵の声が聞こえて来た。今を逃したら、もうチャンスはないと妻は言った。

 健一は裕司に歩み寄った。そして肩に手を乗せ、姿勢を正させた。

「もういい、済んだことは済んだことだ」

 父親としての不甲斐なさが、言わせた言葉だったのかもしれない。今にも泣き出しそうな息子の顔を見て、憐憫の情に絆されたのかもしれない。否、そこに健一が感じていたのは、間違いなく父の子に対する愛情だった。

「父さん、俺・・・」

 何も言うなとばかりに、健一は大きく頷いた。探るような目で、裕司は健一を見ていた。無理もない、今までいなかった父親が、帰って来たのだから。

「どうだ、ちょっと飲んで帰るか? お前、飲めるんだろう?」

 腕時計を見て、健一は言った。

 裕司は驚いたように目を瞬かせていたが、やがてその驚きは、安堵と笑みに淘汰された。

「今日は、家に帰ります。母さん、心配してるし」

「そうか、それもそうだな。また怒られるな」

 健一が笑い、裕司が笑った。

 そして二人は、肩を並べて大通りまで歩いた。

 大通りまで出ると、裕司が「ちょっと待って」と言って歩道脇のコンビニに駆け込んだ。持って出て来たのは冷えた缶ビール二個だった。

「お、これで本当にタク飲みができるな」

 健一の言葉に、二人はまた大声で笑った。

 仰ぎ見た空は暗かったが、きっとそこには爽やかな秋空が広がっているのだろうと健一は思った。


        15


 その頃、さつきは多惠子の家の自室の床にあぐらをかき、入念にフルートの手入れをしていた。一日のレッスンも終わり、パジャマに着替えて歯も磨いたさつきは、もう寝るばかりであったが、そこにやはり寝支度をした多恵子が顔を出した。

「さつきちゃん、私もう休みますから、戸締りよろしくね」

「あ、はい」

 去ろうとする多恵子を、思い出したようにさつきは呼び止めた。

「先生」

「何?」

「今日、新聞記者の人から取材の申し込みを受けました」

「取材って?」

「公園でフルート吹いてたら来て、取材したいって。尾道新聞の記者の人です」

 さつきは立ち上がり、椅子の上に畳んで置いてあったジーンズのポケットから大出香織の名刺を取り出し、多惠子に手渡した。

「フルートのことかしら」

 多惠子は名刺に目を落として、首を傾げている。

「そうだと思います」

「でも、どうして私に?」

「先生に確認しておいたほうがええと思って」

「私は別にいいのよ、あなたの好きにして。でも、もしフルートのことだとしたら、フルート奏者が注目されるきっかけになるかもしれないから、進んで取材受けてみたら?」

 かつて超一流と呼ばれる楽器奏者には変人が多く、マスコミとは相性の悪い場合も少なくなかった。しかし、今やクラッシック音楽は世界のどの国でも衰退期にあると言っても誇張ではない。フルートばかりではなく、クラッシック音楽に再び大衆の注目を集めるには、マスコミへの積極的なアピールが必要不可欠だと多惠子は思っていた。

 マスコミに自らを売り込みに行くような下品な行為をさつきに課したいとは思っていなかったが、今回は向こうからのアプローチである。これを利用しない手はない、と多惠子は即断した。

「先生のこととか言ってもええんですか?」

「それは構わないけど、あくまであなたが中心に」

「はい」

「それから、記事の内容は確認させてもらったほうがいいわ。間違ったこと書かれて損を

するのはあなただから」

「わかりました」

 マスコミへのエクスポージャが、諸刃の剣となり得ることも、多惠子は心得ていた。楽器奏者に限らず、スポーツ選手にせよ、他の芸術家にせよ、マスコミに注目されて誹謗中傷のターゲットになったり、名声を得た結果、本人が堕落した例は後を断たない。

 世間からチヤホヤされて舞い上がったり、逆に糾弾されてどん底に突き落とされるような経験を、多惠子は自分の教え子にはして欲しくなかった。有頂天にならず、かつ極度に落ち込むこともなく、平常心を保ち、同時にハングリーであること。それが一流と呼ばれるパフォーマーの共通項だろう。

 しかし、そうかと言って世間とのコネクションを排除すれば、プロとして生計を立てることはほぼ不可能になる。リスクはあるが、リスクのないところ飛躍はない。この信条が、多惠子がさつきに積極的に取材を受けるように後押しした理由だった。


 山陽本線尾道駅に隣接するホテルのカフェで、さつきは尾道新聞の記者、大出香織の取材を受けていた。秋の日差しが目の前に横たわる尾道水道に反映して、キラキラと砂金のように散って行く。

「そうなの、そんな大きなコンクールのために練習してるのね」

 香織が、テーブルの上のアイスコーヒーをストローで啜りながら言った。

「はい」

 さつきは、オレンジジュースを口にして答えた。

「じゃ、世界的なコンクールなの?」

「そんなんじゃないです。今回が第一回やし、新しい試みって聞いてるけど、私はたまたま予選通過したからファイナルに出れることになっただけです」

 謙遜ではなかった。他の奏者はどうか知らないが、さつきは自らの能力がそれほど突出したものだとは思っていなかった。

「決勝は東京で?」

「はい。予選は大阪で、課題曲だけだったんですけど、本選は自分の好きなコンチェルトの最終楽章で競うことことになってます」

 さつきが吹く「メンデルスゾーン・バイオリン協奏曲」は三楽章から成り、全編を吹けば三十分の長尺になる。多惠子が言うには、最終楽章だけなら六分から七分程度なので、観客が飽きることなく聴いていられるだろうという、コンクール主催者の思惑がルールに反映されているのだろう、ということだった。さつきは、しかし、おそらくもう一つの理由として、全編を澱みなく吹くことは超一流の奏者にも至難の技だからなのではないか、と思っていた。

「そんなに大変なことなのね」

「私は、そう思いますけど。自分で吹いてみて、わかります。肺活量をすごく使うので、体力的に、若い人じゃないと無理なんじゃないかなって」

 事実、ベルリンフィルの主席フルート奏者であるエマニュエル・パユは、さつきと同い年の頃に国際フルート・コンクールで優勝し、弱冠二十二歳で主席フルート奏者に抜擢されている。パユがさつきが吹く楽曲と同じコンチェルトを演奏した動画を見たことがあるが、1970年生まれなので、そんなに歳を取ってからではなかった。

「アスリート並みね」

「こんなこと言ったら、バイオリニストの方に叱られるかもしれないけど、元々はバイオリンのために書かれた楽曲なので、バイオリニストのほうが楽なんじゃないかなって思ったりします」

「だいぶ前に、パガニーニの映画を見たことあるんだけど、パガニーニっていう人はわざとすごく難しい曲を書いて、他のバイオリニストが弾けないのを見て喜んでたみたい」

 香織はそう言って笑った。

「あの人は、バイオリンの神様って呼ばれてる人だから」

「フルートの神様とかっているの?」

「さあ」

 さつきは、笑って答えなかった。エマニュエル・パユのような有名なフルーティストは何人かいるが、神様という称号はまだ見たことがない。

「あなたのことちょっと調べさせてもらったの」

 香織はメモ帳から顔を挙げると、笑みを浮かべてそう告げた。

「素晴らしい受賞歴ね」

 さつきははにかんで首を横に振った。褒められるのは嬉しいが、本当にそんなに大した業績だとは思っていなかった。

「それもまだ十九歳」

 矢継ぎ早に称賛の言葉を投げつける香織が可笑しくて、さつきは小さく笑った。

「どうしてもっと世の中に知られてないのかしら」

「フルートは地味な楽器じゃけん。国際大会とかもあるけど、ピアノとかバイオリンみたいな世界的に有名な大会があるわけじゃないので」

 香織は、また何かメモ帳に書き込んだ。

「ね、あなたの特集みたいなもの、うちの新聞で組みたいと思うんだけど、どうかな?」

「私は有名人でもないから」

 さつきは面食らって答えた。

「これから有名になるんでしょう?」

 香織は大真面目だったが、その大真面目が何か可笑しくて、さつきはケラケラと笑った。

「うちの新聞も令和元年創刊の新しい新聞なの」

「私の家でも購読してます」

「そう、ありがとう。うちの新聞も、井上さんと一緒に育っていけるような気がする」

 能天気とは違うが、大出香織には底抜けな楽観主義があるようで、さつきは自分が買い被られているような気がしていた。

「私、ほんまにそんなんじゃないですから」

「ご迷惑でなければ、いくらかお支払いするわ。お小遣い程度でよろしければ」

さつきは慌てて手を振って辞退した。

「でも、お金がかかるでしょう? 東京に行く旅費だけでも」

「先生に助けてもらってますけん」

「先生って、さっき言ってた古橋多恵子先生?」

「優勝でも、準優勝でも、賞金が出るので、いくらか恩返しができるかなって」

「ね、クラウドファンディングって知ってる?」

 香織はしばらく考えていたが、思いついたように聞いた。さつきは首を横に振った。

「簡単に言うと、寄付みたいなもの。正確には、多くの人からあなたに投資してもらうんだけど」

「そんなこと。私、そんな実力ないですから」

「謙虚なのね」

「そうじゃなくて、プレッシャーかかるけん」

「新聞に出ることは大丈夫なの? プレッシャーにならない?」

「それは先生が、フルート奏者が注目されることはええことだって言ったから」

「話のわかる先生なのね」

「でも、記事の内容はちゃんと確認しろって言われました」

 香織が大声で笑った。さつきもつられて笑った。

「じゃ、特集で決まりね。練習の邪魔になるような取材はしないし、ご家族の迷惑になるようなこともしないから安心して」

 笑顔で言う香織に、さつきは異を唱えようとは思わなかった。手早く何かメモしている香織の手元をじっと見ていた。

「今度、カメラマンと一緒に井上さんの写真を撮りにお伺いしたいんだけど。ご自宅でいい?」

「え、あ、はい」

「それともご両親の理髪店のほうがいいかな? ご両親と一緒の写真も欲しいから」

「両親に聞いてみます」

「お願いね」

 父は何と言うだろうか。それが気になったが、その時はその時だ。さつきは勢いをつけてオレンジジュースを飲み干した。


        16


 コンクールの主催者側から『第1回全日本フルート・コンチェルト・コンペティション』の綺麗に印刷されたチラシが、多恵子の自宅に送られて来ていた。さつきの実家にも同じチラシが届いていると、先刻、学校から帰宅した紗栄子から連絡があった。

 ファイナリストの発表は、もうずいぶん前に出ていたが、チラシを見るのはさつきも多恵子も初めてだった。

 チラシには演奏順に五名のファイナリストの名が、演奏曲目とともに並んでいた。


大木達夫(モーツァルト・フルート協奏曲第1番第3楽章)

桜河内莉子(イベール・フルート協奏曲第3楽章)

藤倉七海(ベートーベン・バイオリン協奏曲第3楽章・フルート・バージョン)

小森梓(チャイコフスキー・バイオリン協奏曲第3楽章・フルート・バージョン)

井上さつき(メンデルスゾーン・バイオリン協奏曲第3楽章・フルート・バージョン)


「錚々たるメンバーね」

 多恵子がチラシを俯瞰しながら言った。

「そうなんですか?」

 さつきが名前を知っているのは、桜河内莉子と小森梓だけだった。

「莉子さんは、やっぱりフルート協奏曲を選んできた。大木さんもフルート協奏曲。堅実に、リスクは取らないって姿勢ね」

 なるほど、とさつきは頷いた。

「前にも説明したけど、フルート協奏曲は、元々フルートのために書かれるから、オーケストラとの相性はいいわけ。演奏が楽ってわけじゃないんだけどね。私としては、あんまり面白いとは思わないけど」

 多惠子は、いらずらっぽく笑った。

 多惠子によると、モーツァルトのフルート協奏曲第一番は、三楽章全部を吹いても二十五分程度。第三楽章に限っては、約七分の吹奏時間になる。イベールのフルート協奏曲は、全体で約二十二分、第三楽章のみだと約八分になる。ただ、これはあくまで一般的な尺度であって、奏者の選択するカデンツァやオーケストラの指揮者の趣向で、演奏時間は数分長くなったり短くなったりもする。

 さつきが吹くメンデルスゾーンは、全体では約三十分であるが、第三楽章に関しては約六分だから、演奏時間に限っては僅かに楽だと言えた。

「大木さんは、K響のフルート奏者、三十歳未満っていう年齢制限ギリギリの参加かな。桜河内さんは、知ってるわね?」

「はい、テレビとかで」

「うん、若手ではナンバーワン。もう中堅って呼んでもいいかしらね。手強いわ」

「藤倉七海って?」

 さつきは目を上げて聞いた。

「私は知らないわ。予選で会わなかった?」

「会ってないです。東日本枠で上がって来たんだと思います」

「そうなのね。ベートーベンか」

 多恵子が思惑顔で呟く。

 ベートーベンのバイオリン協奏曲をイギリスの名フルート奏者、ウィリアム・ベネットが、20世紀になってフルート曲に編曲したものである。全編約四十分の長尺であり、第三楽章も、演奏時間が約十分。今回コンクールで演奏される他の作品と比較すると、チャイコフスキーの楽曲に並ぶ長さだった。

「みんなそれぞれ違うコンチェルトなんですね」

「そうね、ルール上では同じコンチェルトでもいいはずだけど、オーケストラが大変ね。ベートーベンも、梓ちゃんのチャイコフスキーとか、あなたのメンデルスゾーンとかはもともとバイオリンのために書かれたコンチェルトだから。でも、面白くなりそう」

 そんな大層なイベントに、自分がパフォーマーとして参加するという実感が、さつきの中ではまだ熟成していなかった。期日が近づけば、もっと緊張感が湧いて来るのだろうか。さつきは遠く東京の空を思い浮かべていた。


 ほぼ同じ時刻に、東京では梓、舞、咲恵が頭を突き合わせ、閉じたピアノの屋根上に広げた『第1回全日本フルート・コンチェルト・コンペティション』のチラシに見入っていた。

「一番の強敵は大木さんと桜河内さんだと思うけど、梓ちゃんのほうが順番が後だから有利だと思います」

 舞が咲恵に言うのを聞いて、梓はニコリと笑った。

「この井上さつきって、あのさつきちゃん?」

 咲恵がさつきの名を指差して舞に聞いた。

「はい、何回かコンクールで会ってるよね?」

 梓は聞かれて頷いた。目の鋭い、勝ち気そうな子だなという印象があったが、演奏にムラがあり、成熟した奏者ではないという意見を梓は舞と共有していた。ただ、これはあくまで過去の話である。

「どうなの? 順番最後だけど」

 咲恵が顔を上げて舞に質問する。

「本命じゃないですけど、古橋多恵子先生なので、完成度の高い演奏になると思います」

「この子は?」

 次に咲恵が注目したのは藤倉七海だった。

「坂口浩に師事してる十六歳の高校生です」

「演奏聴いたことあるの?」

「ないんです。でも、ジュニアでは敵なしって聞きました。予選も最高得点で通過してるので」

「知ってる?」

 咲恵は梓に聞いた。

「私のグループにはいなかったから」

「ベートーベンを選ぶとは思ってなかったですけど」

 舞が訝しげに言った。

「難しいの?」

「難易度って意味じゃなくて、もともとフルートのために書かれた楽曲じゃないですから、それを審査員がどう見るかですね」

「それは、私も同じだよね」

 梓が指摘した。

「そうね。でも、梓ちゃんはチャレンジできるだけの成熟度があるけど、藤倉さんにそんな力があるとしたらちょっと驚きかも」

 舞のコメントに、梓と咲恵は顔を見合わせた。

「ただ、演奏時間はベートーベンとチャイコフスキーが同じくらい」

 舞は咲恵の不安を払拭するように付け足した。

「他の人たちは長くても七、八分だけど、チャイコフスキーは第三楽章が約十分だから。それをちゃんと吹けたら、審査員の評価はかなり上がると思うし、さっきも言ったけど、梓ちゃんの順番が藤倉さんの後っていうのもアドバンテージになると思います」

 

        17


 休業日で客のいない「バーバー井上」では、店内にさつきを除いた井上ファミリーが集合していた。

六三郎と美子は理容師の白衣を纏い、手持ち無沙汰に立っているが、長男の大樹と次女の紗栄子は、いずれも学校の制服を着て客用の椅子に座り、スマホの画面に見入っている。

「遅いな」

 壁の時計を見上げて、六三郎がイラついたように言うのを聞いて、美子が六三郎に微笑んだ。

「大樹、お前、もういっぺん電話してみ」

「大丈夫じゃけん。十分遅れる言うとったじゃろ」

 大樹はスマホから顔を上げて、面倒そうに六三郎を見る。

「もう十分過ぎとるで」

 六三郎が時計を差した指を震わせながら声を上げるので、

「あんた、ちょっと落ち着いて」

 と美子が、笑いを堪えて嗜める。

「お父ちゃん、新聞に載るの嬉しそうじゃ」

「何言うとんじゃ、お前」

 紗栄子がからかうように言ったのを受けて、六三郎は目を三角にした。

 実際、六三郎自身、自らの心境の変化には当惑していた。コンペティションの日取りが近づくに連れ、一生懸命精進している娘を全面的にバックアップしたいという気持ちが強くなってきていた。

 大樹から大学に進学しないという意向を伝えられ、そもそも学者になるわけでもない人間が、猫も杓子も大学教育を受ける昨今の風潮を快く思っていなかった六三郎には反対する理由がなかった。さつきが音楽家への道を歩むために音大に行き、大樹がさつきに代わって店に立つことで全てが丸く収まる、六三郎自身の葛藤も、妻の美子との不和も、解消したと言うに等しかった。

 店の表に大型のバンが到着するのが見えて、大樹が「来た」と言って席を立った。紗栄子がそれに従う。

 バンから、フルートケースを持ったさつき、大出香織、そしてカメラを手にした長髪の若いカメラマン、田頭文彦が降りて来ると、ますます六三郎は落ち着きを失い、店内を右往左往し始めた。

「ごめん、遅くなった〜」

 とさつきが入口のドアを開けて入店し、背後に香織と田頭が続いた。

「お待たせしてしまって、申し訳ありません」

 香織は頭を下げてそう挨拶すると、六三郎の前に進み出て名刺を差し出した。

「この度はお忙しいところ、お時間を頂きましてありがとうございました」

「いえいえ」

 名刺を受け取った六三郎は緊張から硬い面持ちである。

「お母様ですね」

 美子は微笑んで香織に頭を下げた。

「尾道新聞で記者をやっております大出香織です。本日はどうもありがとうございました」

「こちらこそ」

 名刺を手渡されて、笑顔を崩さずに会釈する美子。大樹と紗栄子は、両親の様子を楽しそうに眺めている。

「それじゃ、早速ですけど集合写真を撮らせて頂きますので、よろしくお願いします」

 香織の一声に、ざわざわと家族五人が寄り合い、中央にフルートを手に持ったさつき、さつきの両側に六三郎と美子、その外側に大樹と紗栄子が並んだ。

「じゃ、よろしく」

「それじゃ、皆さん、思いっきし明るい笑顔でお願いします」

 香織に指示された田頭は、微笑んでいる家族の前にひざまづくと、何度かシャッターを切った。

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