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第一楽章

        1


 広島県尾道市を本州と向島に割って東西に延びる尾道水道に沿って、腰の高さほどの防潮堤に守られた遊歩道が長く続く。向島のなだらかな山並を彼方に望むその遊歩道は「海岸通り」と名付けられ、見栄え良く整備されて尾道の観光名所になっているが、早朝のためだろうか、人影は桟橋から釣り糸を垂れる二、三人を除いて皆無であった。

 季節は夏。静寂を破り、どこからか聞こえて来る繊細な木管楽器の音色。

 尾道水道を隔てた向島の造船所から、巨大龍の首のようなクレーンが何本もニョキニョキと頭をもたげているが、凍ったように静止したそれらのクレーンは、明らかにその音色の主ではない。

 音脈を追って遊歩道を行くと、その先にはスラリと均整の取れた体を譜面台の前に正し、海に向かって一心にフルートを吹奏する若い女性の姿があった。

 井上さつきである。

黒髪をショートにカットし、ジーンズにTシャツ、足にはスニーカーといったラフないでたち。日に焼けて化粧の薄い健康的な顔は、透き通った鋭い眼差しを保って譜面に向けられていた。

 傍にはさつきのロードバイク。すぐ横のベンチの上にはバックパックとフルートケースが無造作に置いてある。

 一旦、フルートを吹く手を止め、譜面台の上のスマホを操作すると、オーケストラによる『メンデルスゾーン・バイオリン協奏曲第3楽章・フルート・バージョン』の伴奏出だし部分が再び静寂を破る。

 即座にフルートの唄口を唇頭に当て演奏を始めるさつき。リズムを取って上体を揺らすと、朝日を受けたフルートの細長い管体がキラキラと銀色の光沢を放った。

 協奏曲の肝は、オーケストラとソロパーフォーマーの技術と魂の融合である。さつきは自分なりに納得のいく融合の完成を目指して、一心不乱にフルートを吹き続ける。その音色は水道を超えて向島の山々へと届かんばかりだ。

 ある程度演奏が進んだ時点でけたたましく鳴り響くスマホのアラーム。さつきはスマホを手に取って画面に表示された時刻を確認すると、不満そうに舌打ちし、手慣れた動作でフルートを分解しケースに収めた。


 井上さつきは、今年十九歳になる。作年、尾道市内の公立高校を卒業し、しばらく広島市にある理容美容専門学校に通っていた。

 尾道で理髪店を営む両親の意向を汲んだ結果の進学だったが、実はさつきにはもともとフルート奏者として京都か東京の音大に進みたいという希求があった。

 小学校の頃からレッスンを受けていたフルートの全国大会や地区大会で、優勝もしくは準優勝を何度か獲得するという華々しい経歴と実力があったからである。

 しかし、さつきの夢の先に立ちはだかった最大の障壁は、ワンマンな父、井上六三郎であった。六三郎は「音楽なんかでメシは食えん」というのが口癖で、「これからの時代は、手に職を持っている人間の勝ちだ」という揺るぎない信念を持っていた。

 大学に進学することには反対はしない。しかし、進学するにしても、実務的な専攻なら認める、と折に触れて六三郎は持論を打った。そして六三郎には、自分の信念に則って娘のさつきや、さつきの弟で高校生の大樹、まだ中学生である妹の紗栄子に進路を決定させる心算があった。

 さつきの母親である美子も、夫の考えにどちらかと言えば賛同していた。ただ、ここでは「どちらかと言えば」という言葉がミソになる。美子も理容師であるから、「手に職を持つ」ことの重要性は理解していた。しかし、同時に美子は、毎日の生活にあくせくしている自分や夫の六三郎の境遇を鑑み、子供たちにはもっと自由に生きて欲しいとも思っていたのである。

 そんな美子だったから、長年さつきの音楽の教師を務め、さつきの才能を認めてきた古橋多恵子が『第1回全日本フルート・コンチェルト・コンペティション』にさつきを参加させたいと申し出た時、敢えて反対はしなかった。

 反対どころか、さつきの意思を確認した上で、六三郎には内々で予選に参加できるよう画策した。その裏には、フルートをなかなか諦めきれない我が娘が、予選で敗退すれば踏ん切りがつくだろうという思惑と親心があった。

 その思惑はしかし、さつきがとんとん拍子に予選を勝ち上がり、日本全国から東京の決勝大会に出場することを許される五人の中のひとりに選ばれたことで見事に裏切られてしまう。

 当初、娘の快挙を美子から伝え聞いた六三郎は激昂した。決勝大会への参加権を得たことにではなく、妻の美子が内密に事を運んだことに対してである。

「そんな大事なことを、わしに秘密にしとるようじゃ、先が思いやられるわ」

 と、怒りに任せて六三郎は怒鳴り散らした。

「わしは、お前を見損なったわ」

 六三郎は直情的な男だったが、怒鳴り散らすようなことは滅多にしない人間でもあった。むしろ、普段は理容師らしい物腰の柔らかさで人に当たり、特に一目惚れしてプロポーズし、結婚に漕ぎ着けた相手である妻の美子には優しく接していた。

 だから美子は夫の言動に驚いた。驚いたが、怯まなかった。

「さつきに罪はないけん、責めるならわたしを責めてください。あんたが気の済むまで謝るけん、さつきには、絶対怒鳴らんといてください」

 最愛の妻の嘆願に、怯んだのは六三郎のほうだった。六三郎にとっても、次から次へと家に優勝トロフィーを持ち帰って来るさつきは自慢の娘であり、そんな娘の才能を摘んでしまう自分に、かねがね少なからず負い目を感じていたからだった。

 だから渋々ではあったが、六三郎はさつきが理容学校を休学し、フルートのコンペに全力を注ぐことに同意した。

「今回のコンペが最後やぞ。これが終わったら、学校に集中するんやぞ」

「それはうちもわかっとるけん。ありがとう、お父ちゃん」

 父の譲歩の言葉に、さつきはそう答えた。

 この「約束」には休学中、さつきがアルバイトで家計を幇助するという交換条件が付随していた。決勝大会は東京で開催されるので、多額の費用が発生する。大樹と紗栄子の進学を控え、井上家にはさつきの遠征費用を捻出できるだけの財的余裕がないというのが実情だった。

 さつきには、当然と思えるような交換条件であり、逆にそんな容易い条件で決勝大会参加を許可してくれた父の寛容に心から感謝した。そして同時に、諦めていたフルートで、今一度輝ける時が来た幸運に、意を新たにしたのであった。


        2


 東京都目黒区の一角に、世に知れた高級住宅街がある。どの家を取っても邸宅と呼ぶに相応しい中にあって、打ちっぱなしのコンクリートで固められた要塞のような家屋が、ひときわその威風を誇っていた。

 エントランス脇に「小森」と大仰な表札が掛かっている。ここに、今年二十二歳になる音大生、小森梓が父親の小森健一、母の小森咲恵、そして同じく大学生で二十歳の弟、裕司と暮らしていた。

 小森梓は井上さつきのそれに勝るとも劣らないフルーティストとしての経歴を持ち、幼少期から現在に至るまで、多くの入賞と優勝を積み重ねて来た猛者である。彼女もまた、『第1回全日本フルート・コンチェルト・コンペティション』の地区予選を勝ち抜き、決勝大会に招かれた五名の中のひとりであった。

 この日の朝も、フルートの師である真行寺舞のピアノ伴奏に付いて、梓の猛レッスンが既に始まっていた。

 部屋の中央にでんと置かれたグランド・ピアノに対面して座し、鍵盤に指を走らせている真行寺舞は三十八歳。色白で聡明かつ柔和な印象を与えるが、その表情からは練習への並々ならぬ熱意と厳しさが汲んで取れた。

 舞の横で伴奏に合わせながら体を左右に動かし、手にしたゴールドのフルートを奏でている白いワンピース姿の女性が梓である。長い黒髪が窓から遮光されて漏れ入る朝日に映え、そのおとなしい丸顔を裏切るように、瞳の奥には秘められた芯の強さと気品を窺い知ることができた。

 防音設備の整った部屋は明るく、広さにして三十畳はあるだろうか。一方の壁には、アナログの壁掛け時計があり、時刻は九時半を指していた。

 もう一方の壁沿いには陳列棚があるが、その他に目立った家具類はなく無機質かつ機能的な部屋だ。陳列棚には多くのトロフィーと表彰状が並んでおり、そのいずれもが小森梓の輝かしい受賞歴を物語るものであった。また、陳列棚の脇の壁には『第1回全日本フルート・コンチェルト・コンペティション』のポスターが貼ってあるが、そのポスターには決勝大会が十一月三日「文化の日」に開催されることが表記されていた。

 そして部屋の中に、もうひとりの人影。梓の母親である小森咲恵が部屋の片隅の高椅子に座して娘の練習風景をじっと見据えている。髪を後ろにまとめた美形であるが、どことなく冷たい雰囲気があった。

「そこのところもう一度やって」

 ピアノを弾く手を止めて、舞が梓に強い調子で要求した。

 梓が唇からフルートを離し、キッと頷くと、ピアノ伴奏がまた始まり、合奏が再開される。合奏から曲目が『チャイコフスキー・バイオリン協奏曲第3楽章』のフルート・バージョンであることがわかる。

「そこを強く!」

 舞の声に梓のフルートの音量が上がる。

「繊細に!」

 梓の吹奏が静かに細やかになる。

「クレッシェンド!」

 梓が一気に音調を上げ、演奏をクライマックスへと導いていく。

梓が演奏を終えると、その高揚感も冷めやらぬうちに舞が立ち上がり、傍に立て掛けてあった自分のフルートを手に取って梓の吹奏の最後の部分を自分で吹いて見せる。音量は梓のものと変わらないが、音にキレがある。

「梓ちゃん、違い、わかる?」

「はい」

「もう一度、最後の部分やってみて」

「はい」

 梓が最後の部分をピアノ伴奏なしで演奏する。明らかに以前よりキレがある。満足そうに頷く舞。その二人の様子を微笑みながら凝視している咲恵。


 咲恵の夫であり、さつきの父親でもある小森健一は、家柄も良くまた大企業に勤める高学歴、高収入というエリートを絵に描いたような人物だった。自他ともに認めるワーカホリックだが、その代償として育児教育のほとんど全てを妻の咲恵に依存しており、養育費を提供すること以外には父親らしいことをして来なかった。

 また、夫としても模範的とは言い難く、咲恵には気づかれていないと思ってはいるが、過去にも、そして現在も進行中の不倫関係を社交クラブで知り合った若い女性と続けていた。

 フルートに心血を注いでいる梓にとっては、たまに夕食の席で顔を合わせることがあっても、健一は家にいながらいないような遠い存在だった。濃密な母との関係が父との希薄な関係を補って余りあると言っても良いのかもしれない。その皺寄せはしかし、弟の裕司と咲恵、そして裕司と健一との人間関係に顕著に発現した。

 咲恵は、二人の子供たちの幼少時から、時に厳しく時に優しく、そして均等に接触することを心がけて来た。しかし、梓の演奏者としての才能が明らかになってからは、フルートのレッスンに多くの時間が割かれ、自ずと裕司との接点が減るようになっていた。その事実に十代という難しい年代も加味されて、有名大学に進学はしたものの、裕司の素行は咲恵の手に負えないほど悪化していた。裕司にとっても、親はもう邪魔な存在になって来ており、特に厳格な父親の健一に対しては、反感すら覚えるようになっていたのである。


        3


 井上さつきの音楽の師である古橋多恵子の家は、尾道水道を隔てた対岸の地、向島にあった。木戸門と生垣、そして広い庭を備えた古風で大きな和洋家屋である。

 さつきの日課は自宅から自転車のままフェリーで向島に渡り、船着場から自転車でコンビニ、そこでバイトを終えてからまた自転車で多恵子の家、約二、三時間のレッスンを受けた後に再び尾道水道を渡って自宅に帰宅するという密なものであった。

 その日も午後四時には、多恵子の家の門前にさつきのロードバイクが停められていた。

家の中の十畳ほどの洋室にスタンドアップピアノがあり、多恵子が座っている。白髪の老婦人であるが、目の光が情熱的で若々しい。

 その横の楽譜スタンドの前には、フルートを手に持ったさつきが、緊張の面持ちで立っていた。

 他に部屋には、古めかしい本棚とソファ、小さなデスクと、それに付随した椅子。ソファの横の壁には、『第1回全日本フルート・コンチェルト・コンペティション』のポスターがこれ見よがしに貼られていた。

「さつきちゃん、こないだ言ったところ、ちゃんとお家で練習して来た?」

 多恵子の声は優しかった。

「はい」

 と自信なさげな返事がさつきの口から漏れる。

「時間があまり取れなかったんでしょう?」

「すみません」

「お家の中で練習できないことはわかってるわ。埠頭で練習してるのよね」

「はい」

「でも、あなたにはお勤めもあるんだし、それじゃ、仕上げに間に合わないかもね」

 終始、微笑みを絶やさない多恵子であったが、その厳しい言葉にさつきは顔を顰めて

「がんばります」

 と強く返した。

「打倒、小森梓」

 笑顔で拳を振り上げる多恵子。

「はい!」

 明るく答えたさつきから、多恵子は視線を壁の『第1回全日本フルート・コンチェルト・コンペティション』のポスターに移した。

 もうあまり時間がない。小森梓に限らず、決勝大会に参加する他の奏者たちも、相当な練習量を連日こなしていることだろう。才能に限って言えば、いずれの決勝進出者も同等と考えて差し支えないだろう。だとすれば、結果は練習の量と質に比例する。

「どうさつきちゃん、しばらく私のところに住んでみない?」

 視線をさつきに戻し、多恵子はそう提案した。

「え、ここにですか?」

 さつきは思わず部屋を見回した。

「そう。炊事洗濯は自分でやってもらうけど、ここなら気兼ねなく練習できるし、通って来る必要もないし、あなたもそのほうがいいんじゃない?」

 それはさつきにとって願ってもないことだった。小森梓以外に、誰がファイナリストに選ばれたのかは知らなかったが、梓とは、何度かコンクールで鉢合わせになり、互いにしのぎを削り合ってきた強敵であることは確かだった。

 切磋琢磨しているであろう梓に引けを取らないためには、レッスン時間を増やすしかない、とさつきも多惠子と同じ結論に達していた。しかし問題はまた、父の六三郎だった。

「お母さんには私から話しておくから」

 多惠子が言った。

「お母さんが問題じゃないんです」

「お父さん?」

 図星だが、さつきは多恵子に親子の問題に介入して欲しいとは思っていなかった。

「そうなのね」

 うつむいてしまったさつきに、多恵子は畳み掛けた。

「それなら、私がお父さんに話してもいいわ」

「いいえ、大丈夫です。私から話します」

 意固地な父ではあっても、できれば多恵子と対決させるような構図を作りたくはない、とさつきは思った。父に恥をかかせたいとは思わないし、多恵子に嫌な思いもさせたくなかった。ただ、父とネゴするとしても余分なコストがかかるということになれば、ノーと言うに決まっている。

「あの、お部屋代は?」

「そんなの頂かないわ。でも、お部屋は綺麗に使って」

 さつきの懸念が何に基づくものなのか、わかっていたから多恵子は快活に笑いながら答えた。

「あんまり時間がないから、できるだけ早いほうがいいわね」

「はい。よろしくお願いします」

「それじゃ、また始めるわよ」

 多恵子のピアノ伴奏と共に、さつきの演奏が再開された。曲は『メンデルスゾーン・バイオリン協奏曲第3楽章・フルート・バージョン』である。

 小森梓に決して引けを取らない旋律が、甘く力強く、満ち潮のように部屋の中の空間の隅々にまで浸透して行く。


        4


 夜の帷が落ち、帰路についたさつきの心は重かった。フェリーから見える対岸の尾道市街の灯が人懐かしく煌めいていても、自宅の部屋に戻り、ラインで親友の村上遥とメッセージをやり取りしても、さつきの憂鬱は晴れなかった。

 さつきが帰宅した時、六三郎は商店街の寄合とかで家にいなかった。だから、父とのネゴはしばらく待たなければならなかった。それがまたさつきに落ち着きを失わせていた。

「さっちゃん、お父ちゃん帰ったよ〜」

 階下からの母の呼ぶ声に背中を押され、階段を降りて行くと、父はもうテレビの前のリビングルームのソファに腰を落ち着け、缶ビール片手にお笑いバラエティを見ながら笑っていた。

 何を言うかについては、母の美子と相談済みだった。キッチンに立つ母に、さつきが父の背後から目配せすると、母は小さく頷いた。

「お父ちゃん」

「なんじゃ」

 さつきの呼びかけに、六三郎は振り向かずに答えた。

「ちょっと話があるんじゃけど」

「おう、言うてみ」

 相変わらず六三郎の注意は、テレビに向けられている。さつきが美子に目を向けると、母はさらに大きく頷いた。

「大事な話じゃけん」

 娘の真剣な声に、六三郎はようやくテレビを消して振り向いた。迷惑そうな父の視線に、さつきは一瞬たじろいだが、ここは突進あるのみである。

「実はな、フルートの練習のことなんじゃけど、多恵子先生が先生のとこに住み込みで練習したほうがええって」

 六三郎の表情が厳しくなるのが見て取れたが、さつきは臆せず続けた。

「それでな、お父ちゃんさえ、ええんじゃったら、そうしたい思うとるんじゃ」

 美子に一瞥をくれると、六三郎は不機嫌な面持ちのまま腕組みをし、押し黙ってしまった。

 そしてその沈黙は、

「母ちゃん、腹減った〜」

 と階段を駆け降りて来たさつきの弟の大樹が、部屋に充満した気まずい雰囲気に呑まれ、そのままダイニングチェアに座ってしまうまで破られることはなかった。

「コンペはいつじゃった?」

 六三郎はさつきに重く静かに尋ねた。

「十一月三日じゃけど」

「それまで学校は行かんつもりか?」

 父がなぜ学校の話を持ち出して来たのか、さつきには理解できなかった。学校のこともコンペのことも、既に話し合いは終わっていたと思っていたから。

「それは前にも言うたじゃろ。学校はコンペが終わったら行くって」

 さつきは口を尖らせた。

「学校、続けるの来年になるな」

「お父ちゃん、それでええって言うたじゃろ?」

「家のことせんでええって言うた覚えはない」

 六三郎自身、自分がなぜここまで頑なになっているのか測りかねていた。娘が自分の許可なくコンペに参加したことを、いまだに引き摺っていることを自覚しながら、父親としての威厳を保つことが精一杯だった。

「家のことは大丈夫じゃけん」

 見かねた美子がさつきに目で相槌を打ちながら、助け舟を出した。

「お前には聞いとらん」

「じゃけん、家のことは私がええ言うたら、ええん違います? 紗栄子もおるし」

「お前は、店があるじゃろうが。紗栄子には受験勉強もあるし」

「家のことはなんとかなります」

「バイトもやめるんか?」

 容易に引き下がらない美子をから目を逸らし、六三郎はまたさつきに矛先を向けた。

「バイトは続けるけん。ちゃんと家にお金は入れるけん」

 再び、部屋には息苦しい沈黙が流れた。

「ほんじゃあ、バイト終わったら一旦家に帰って、それから多恵子先生のとこ行けばええんね?」

 さつきはイラつきを隠さずに言った。

「なんじゃと?」

 さつきのバイト先は、向島のコンビニだ。古橋多恵子の家が向島にあるから、同じ場所のコンビニを選んだ。バイトの後で尾道水道を隔てた対岸の自宅に一旦帰り、それからまた向島に行くとなると少なくとも三十分から四十分は無駄な時間と労力を行ったり来たりで費やすことになる。

「そぎゃなことしたら、先生のとこに住み込む意味がなくならんね? 練習する時間もなくなるけん」

 美子にはそれが良くわかっていた。

「姉ちゃん、多恵子先生のとこ行くんか?」

 横から口を出したのは、じっとやり取りを聞いていた大樹だった。

「うん、コンペ終わるまで、住み込みで練習したほうがええって言われて」

「俺も前から気になってたんじゃ。それええアイデアじゃと思う」

「お前は黙っとれ」

 大樹までがさつきの援護に回り、形成不利になった六三郎は声を荒げた。

「家事は俺が手伝うよ」

 大樹も引き下がらない。

「野球の練習があるじゃろが」

「練習の帰りに、買い物くらいはできるわ」

「大樹、あんたは気にせんでぇ。大丈夫よ」

 美子が声を上げた時、玄関のドアの鍵が開く音がして

「ただいま〜」

 と次女の紗栄子が学校から制服姿で帰宅した。

「お帰り」

 といういつも通りの美子の声に

「恵とお茶しとって遅くなった〜」

 と、紗栄子はドタドタとリビングに乱入するが、兄の大樹同様、ただならぬ雰囲気に気圧されて立ち止まってしまう。

「何? どうしたん?」

「勉強もせんで、どこほっつき歩いとったんじゃ?」

「何? なんでうちがそんなこと言われんの?」

 父の口から唐突に発せられた叱責の言葉に戸惑いを隠せず、思わず涙ぐんでしまった紗栄子にさつきが優しく声をかけた。

「紗栄ちゃんが悪いんと違う。姉ちゃんのせいじゃけん」

「どういうこと?」

「みんなの犠牲の上で、お前の姉ちゃんが笛吹き続けるっちゅうことじゃ!」

 六三郎のこの発言には、さすがの美子も堪忍袋の尾を切らした。

「あんた! いい加減にして!」

 美子の怒声で一気に緊張が部屋中に走り、さつきは険しい表情のまま階段を上がって行ってしまう。

 射るような視線を美子からも、子供たちからも浴び、言いすぎたという表情で、六三郎は再びテレビをオンにした。鉛のような空気がリビングルームに居座ったままになった。


        5


 天井から煌びやかなシャンデリアが下がる、二十畳はあるような大きなスペースが小森梓の自宅のダイニングルームだった。

 中央に北欧家具メーカーの手による長方形の強化ガラス製ダイニングテーブルが配置され、外のテラスに続く二重ガラスの扉を背に梓の父である小森健一、反対側に咲恵、長方形の長い辺側には健一から見て左側に長男の裕司、右側に梓が座り、粛々と食事をしている。

 テーブルの上に並ぶ料理は、いずれも高級レストランのそれと見間違うほど上品に整っていた。

「今日のレッスンはどうだった?」

 健一が無表情のまま、落ち着いた声で梓に聞いた。

「順調に進んでるって先生に言われました」

 穏やかな笑顔ではきはきと答える梓に、健一の相好が若干崩れる。

「そうか。でも、何事も油断は禁物だよ。コツコツと毎日の努力を積み上げることが成果に繋がる」

 父の視線が時折、盗み見るように自分に向けられていたことを裕司は知っていたが、意図して顔を上げず、黙して食事を続けていた。

「あーちゃんは大丈夫よ。頑張り屋さんだもん」

 微笑む咲恵に、梓も恥ずかしそうに微笑み返した。

「今日も正味六時間は練習したもんね」

 咲恵の言葉に

「肩凝った〜」

 と梓は自分の肩を大げさに叩いて見せる。

「明日は午後からだから、午前中にマッサージの先生に来てもらおう」

 咲恵の提案に、梓がニコニコしながら頷いた。円満そうな母娘関係を健一は満足げに眺めていたが、それだけ裕司の存在が黒羊のように際立って見えた。

「明日の夕飯は要らないよ」

 健一が咲恵に言った。

「ディナーミーティングですか?」

「いや、出張だ」

「どちらに?」

「福岡だよ」

「一晩ですか?」

「その予定だが、もしかすると二晩になるかもしれない」

 両親のやり取りが、全く耳に入らないかのように裕司は

「ご馳走さまでした」

 とだけ言うと、うつむいたまま席を立ち、退室してしまう。

 怒りを込めた目で裕司を追っていた健一だったが、息子の姿が見えなくなると

「あいつ、毎日ずっと家にいるのか?」

 と咲恵に問い質した。

「相変わらずですよ。帰って来ないこともあるし」

 眉を顰め、咲恵が小声で答える。

「誰と遊んでるのか把握してるのか?」

「いいえ。聞いても言わないから」

「犯罪に手を染めるようなことはしてないだろうな」

「あの子に限ってそんなことはないと思いますけど」

 経済的な苦労がなく、精神的にも安定した環境で子育てをする。それが万人の理想だとすれば、咲恵も理想に近づこうと努力を重ねて来た。

 恋愛結婚であったとは言え、そもそも健一にそれなりの教育がなく、将来性もないと判断したならば、咲恵の恋愛対象にもならなかっただろう。打算のあった結婚であったが、幸いにも子宝に恵まれた咲恵はそれに関して一縷の悔恨も感じてはいなかった。

 ただ、日々の生活の不安がなく、家族の健康状態にも問題がないとしても、全てが順風満帆とは行かないのが人生である。目下のところ、小森家にとって台風の目になっているのが裕司だった。

 幼少の頃から裕司は活発な子であり、尚且つ優等生でもあった。性格が比較的おとなしく、勉強があまり好きではない梓とは、正反対とも言えたが、姉弟に共通項があるとすれば、内に秘めた負けん気の強さなのかもしれない。

 私立幼稚園から小中高とエスカレーター式に進み、順調に名門と呼ばれる私立の有名大学へと進学した裕司であったが、そこから急に学校に行かなくなった。

 不登校などといったことは他人事だと思っていた咲恵にとって、これはショックだった。しかし振り返って見れば、高校の時にそれまで続けていたクラブ活動や他の習い事を、親に言わずに突然辞めた時から兆候があったのかもしれない。

 裕司の素行問題の原因の一部が、自分にあることに咲恵は気づいていた。言うまでもなく、梓のフルートのレッスンに自分が付きっきりになったからであるが、それ以上に、裕司がティーンエイジャーになり、思春期特有の男子の言動に、違和感を覚えたからであった。まして現代は、咲恵が十代だった頃とは隔世の感がある。

 インターネットとスマホの普及によって、子供がどんな情報に触れているのかが親にとっては全くの闇の中になってしまった。SNSを通じて、基本的には世界の誰とでも繋がれる時代は、便利である反面、空恐ろしくもある。そうかと言って、それを頭ごなしに禁止することもできないところに、親の苦渋はあった。

 普通の家庭ならば、こんな時、父親の健一が会話を通じて裕司の心中を探り、そのニーズを補うのかもしれない。しかし、健一は基本的に子供の日常にはあまり興味のない父親であった。

 また、仮に健一がもっと家庭的な男性だったとしても、現状がどれだけ改善されるのかも咲恵にはわからなかった。最近になって気がついたことは、父親と母親とでは、子供を見る目が違うのではないかということである。

 父親にとって子供は、精子を提供することによって、簡単にこの世に生まれて来る存在だ。母親にとっての子供は、九ヶ月という長い月日の後に、陣痛を繰り返し、多くは産痛の末に場合によっては命懸けで産む存在である。

 生まれるということと、産むということの決定的な違いが、男親と女親の子育てに対するその後の意識にも大きく反映されているのではないだろうか。

 だから夫が裕司や梓を見る目と、自分が子供たちを見る目とでは自然と違いが生じて来る。これは理解してと理性に訴えても、永遠に超えられない障壁なのではないかと咲恵は思い始めていた。

「一度、調べてもらったほうがいいな」

 健一は裕司のことを意味して言った。

「調べるって、精神科ですか?」

 健一は容易く人を信用しない男だった。それは我が子に対しても同様である。「あの子に限って」や「うちの子に限って」という先入観が将来の火種になることは、憲一にとって未然に防ぐ必要があった。

「いや、興信所だ。おかしな交友関係がないかどうか。下手すると俺の仕事に影響するからな」

「そこまでする必要があるでしょうか?」

「あるね」

「わかりました」

 自分と夫の会話を梓が目を丸くして見ていたのを咲恵は知っていた。今は夫婦間の言い争いで娘の集中力を削ぐようなことはしたくなかった。それに健一は、少しばかりの反駁で自分の考えを曲げるような人間でもなかった。


          6


 さつきの家では、子供たちのいない夕食後のテーブルで、六三郎と美子が向き合っていた。六三郎は憮然とした表情のまま腕を組み、美子の顔には哀願の色が明らかである。柱時計はもうすぐ夜の十時を回ろうとしていた。

「一度ええ言うたのに、取り消したら可哀想じゃ」

 美子は抗言した。

「住み込みがええって言った覚えはない」

「そうじゃけど、中途半端に練習して、コンペ勝てんかったら元も子もないのと違う?」

「あんなもん、どうせ金持ちの道楽じゃ。うちみたいな家がやることやない。笛吹いてメシ食えるようになるわけじゃなし。もっと現実を見いって俺は前から言うとるわ」

「ほやから、コンペ終わったら学校戻る言うとんね」

不快そうに目を背けた六三郎に美子は追い討ちをかける。

「ええね? さつきにあんたから許可出た言うてええね?」

「俺が心配なんは、さつきに勝手なこと許したら大樹や紗栄子も勝手なことするようになるっちゅうことじゃ」

 美子の言うことがもっともであることには、六三郎も気づいていた。しかし、子供たちの前で啖呵を切った手前、はいそうですかと引き下がるわけにはいかなかった。

「勝手なことしてどこがいけんの? あの子たちも、うちらのロボットじゃないけんね。うちは、子供にはできるだけ好きなことさせてやるのが、親の役目じゃと思うとるけん」

 柱時計が十時を伝え、六三郎はあくびをして立ち上がった。

「それじゃ、いけんの?」

「明日も早いけん。お前も寝んと」

 美子はこの問題をどうしても今夜中に解決したかった。

「さつきのこと、ええね?」

 美子は六三郎の腕を取って引き止めた。

「お前の好きにしたらええじゃろ。俺は知らんけん」

 振り向きざまに六三郎は渋い顔で答えたが、美子にとってはそれが十分な戦利品だった。


 さつきは自分の部屋で机に向かって座り、スマホにイヤホンをつけて、音楽を聴いていた。

 先刻のゴタゴタが尾を引いていて、気持ちが落ち着かない。こんなことなら、最初からコンペになど参加しなければ良かったとすら考えていた。

 眠れるかどうかわからなかったが、そろそろ寝ようかと思っているところに部屋のドアにノックがあった。イヤホンを外して振り向くと、またノックがあった。

「はい」

 さつきが応えると、母の美子が遠慮がちにドアを開けた。

「ええ?」

 笑顔で聞く母を、さつきは部屋に呼び入れた。

「ご飯、まだ食ベンの?」

「お腹空かんけぇ」

 友達の遥などは、ストレスがあるとドカ食いすると言うが、さつきはストレスがあると食欲を失うほうだった。

「お父ちゃんな、ええってよ」

「えっ?」

「多恵子先生のこと、ええって」

 美子の笑顔が大きくなった。

さつきには、なんだかよくわからなかった。あんなに怒っていた父が、こんなに短時間で軟化するとは思えなかった。

「どうしたん? 嬉しくないん?」

「お母ちゃん、うち多恵子先生に断ろう思っちょった」

 本音を言った。

「断るって、なんで?」

「うちもう、フルート辞める言おう思っちょった」

 言いながら、さつきは涙が溢れてくるのがわかった。

「何言ってんの、今更」

「だって、そうじゃろ? お父ちゃん、うちがフルート吹くからみんなが辛い思いせにゃいけんて思っちょるんじゃろ?」

 泣きたくはなかった。泣きたくはなかったが、母の顔を見ると涙が止まらなくなった。

 身体はとっくに自分より大きくなっていたが、美子にとってさつきはいつまでも子供だった。美子は泣きじゃくるさつきの両肩に手を置いて言った。

「そんなことないよ。知っとんね? さっちゃんが賞取って、一番喜んどったのお父ちゃんね?」

「あれは、うちがまだ子供だったからじゃ」

「今だって同じよ。お父ちゃん、身体悪くしてから、将来が不安なんよ。大樹は高校生やし、紗栄子はまだ中学生なんじゃから」

 美子が言及した「将来の不安」というのは、六三郎が過労から肝臓を患い発熱、数週間の入院生活を余儀なくされたことを指していた。幸いにも大事にはならなかったが、医師からは仕事をセーブするように勧められ、ビタミンDとリンを含有した薬剤を処方された。

 しかし、その後も六三郎の体調は100%とは言えず、疲労感の拭えぬまま現在に至っていた。断腸の思いで、やはりさつきにはフルートは諦めてもらおうと夫婦で相談し決めたのにはそういう成り行きがあったのである。

「ほいじゃけえ、うちも学校通って理容師になろうとしちょる。お父ちゃんの代わりに早うお店に出るつもりでおったんじゃ。多恵子先生から誘われんかったら、学校続けとったんじゃ」

「わかっとるよ。お父ちゃんじゃてわかっとるよ」

「うち、このコンクール終わったら、ほんまにフルートやめるけん」

 美子はさつきの決心に涙した。才能のある娘に音楽の道を諦めさせている自分たち夫婦の不甲斐なさを恥じた。

「ごめんな。お母ちゃん、さっちゃんに好きなこと思いっきりやって欲しかった。東京の音楽学校にも行って欲しかったんよ」

「そんなこと言わんで。うちもう、決めとるけん。このコンクールで優勝して、うちの音楽人生は終わりって。それからはお父ちゃんやお母ちゃんに負けんような理容師になるんじゃって」

 嗚咽の中から搾り出される娘の言葉を、美子は一語一句噛み締めていた。

「うんうん、がんばって。お母ちゃんも、お父ちゃんも、みんな応援しとるけん」

「ありがとう、お母ちゃん。心配かけてごめんね」

 泣き止まないさつきを、美子はしっかりと抱きしめた。この子のためなら、なんでもしようと思った。自分の涙も止まらなくなっていた。


       7


 同じ夜である。小森健一は、自宅の書斎のデスクでPCに向かい、仕事の処理に追われていた。明かりを落とした書斎の中で、健一のメタルフレームのメガネにPCのスクリーンが反映し、怪しく光っている。

部屋のドアにノックがあり、健一が顔も上げずに

「どうぞ」

 とだけ応えると、咲恵が盆に湯呑みを乗せて入室して来た。

「お邪魔ですか?」

「いや、今ちょうど切りのいいところだ」

 健一が顔を上げ、神経質そうに答えると、湯呑みをデスクの上に置いてから咲恵は低い声で切り出した。

「先ほどのことなんですけど」

「先ほど?」

「裕司のこと」

 健一は回転椅子を回して咲恵のほうに体を向けた。二人の間に重要事項があった場合には、それが経済的なものであれば、健一がだいたい実権を握っていたが、子供の教育問題などでは咲恵が主導権を持っていた。

 仕事の場では多くの部下を従え、周囲から一目も二目も置かれる健一であったが、家庭内にあっては、夫婦はほぼ対等な立場だったのである。

「ああいうお話しは、梓のいないところでしてください」

 咲恵の忠言に、健一は眉間に皺を寄せた。

「梓は今が大事な時ですから」

「そんな話をしに来たのか?」

「大事なことですから」

 咲恵の言うことに異論はなかった。感情的にはならないようにはしていたが、目の前で子供に反抗的な態度を取られると、つい怒りを露わにしてしまう。しかし、そんな自分の欠点を指摘されることは健一にとって不愉快でもあった。

「それから、もう少し梓のことも構ってあげて」

 腕組みをして黙ってしまった健一に咲恵は進言した。

「また、その話か」

 咲恵の射るような視線が、健一の不快感を増幅させた。

「だから、今夜もレッスンのこと聞いてやったろう?」

「あの子は敏感なんです。あなたの質問が社交辞令なことくらいお見通しです」

 健一は平手で強く机を叩いた。仕事を邪魔されたばかりか、自分の子供の扱いのことでとやかく言われる筋合いはない。

 咲恵が、びくっと身体を震わせるのがわかった。

「いい加減にしてくれ。どこまで俺が妥協すれば気が済むんだ?」

 大声になっていた。

「妥協って、自分の子供のことでしょう?」

「そんなことはわかってる。前にも話したろう? 俺には大事な仕事があるんだ。そこらの安サラリーマンと一緒にするな」

「あなたの仕事のことはわかってるわ。本当にお仕事だけが問題なら」

 夫の定型発言には慣れていた。また、夫の仕事が激務であることも知っていた。しかし、それ以外に夫には若い愛人がおり、出張という名目で留守にする夫が、実は愛人と時間を過ごしていることに薄々であるが、咲恵は勘づいていた。

「どういうことだ?」

 咲恵にとって、健一の女関係はさほど重要な問題ではなかった。家庭と子供たちさえ守ってもらえるのなら、事を荒立てる必要はない、と前々から思っていた。

「とにかく、一度、レッスンでも見に来てあげて」

「それでお前の気が済むなら」

 健一は不器用に笑った。愛人のことに触れられなかっただけ、命拾いしたという感があった。

「あの子のためです。それに、あなただって梓がコンペティションに勝ったら鼻が高いでしょう? 自慢の娘になるんじゃないんですか?」

「今だって自慢の娘さ。それより裕司のことはいいね?」

「そのことですけど、興信所なんて頼む必要がありますか?」

 健一は咲恵の質問の意図を解せず、首を傾げた。

「そんなところに頼んで、もし悪い交友関係とかが発覚したら、良からぬ噂の元にならないかなって」

「興信所だって商売だからな。守秘義務は守るだろう」

「信用できますか? リークしたら、それこそあなたのお仕事に影響するんじゃない?」

 健一の要請が、裕司の身の上より自分の仕事上の評判への懸念から発出したものであることは咲恵にはわかっていた。

 健一は敵の多い男である。特に今のようにSNSが発達した時代では、変な噂を立てられただけで社会的に致命傷となるダメージを覚悟しなければならない。その観点からは、咲恵の言うことにも一理あった。

「裕司のことは放っとけって言うのか?」

「もう一度、あの子とお話ししてみたら?」

「無駄だ。あいつは俺が嫌いなんだよ。俺のことを敵か何かとしか見てない。俺の子育てが間違っていたと言われれば、その通りかもしれないが、あいつは失敗作だと思ってる」

「子供は作品じゃないわ。不完全なものです。あなたは、自慢できるような子供じゃないと愛せないんでしょう?」

 咲恵の厳しい言葉が、部屋の隅々から反響して聞こえた。

「バカ言うな」

 咲恵の言う通りなのかもしれない、と健一は狼狽した。自分がそんな人間だとは思いたくなかった。しかし、だからと言って何ができると言うのか。ビジネスマンとして成功して来た自分が、父親としては失格者であるという現実に、健一はまだ向かい合うことができていなかったのである。


       8


 遅い夕食を済ませたさつきは、パジャマに着替え、本を読みながらベッドに横になっていた。就寝時には刺激の強いスマホより、読書をすることがさつきの習慣になっていた。

 父の許可が下りた今、明日は古橋多恵子の家に向かうばかりである。

そろそろベッドサイドの電灯を消して寝ようかとしていた矢先に、またドアにノックがあった。

「はい?」

 今夜は忙しいなと思っていると、ドアが開いて、弟の大樹が首を出した。何やら意味不明の薄ら笑いを浮かべて、おずおずと部屋に入って来る。

「どうしたん?」

 さつきが聞いた。

「姉ちゃん、お父ちゃんからOK出たんじゃって?」

「うん」

 さつきは本を閉じて微笑んだ。

「そうか。えかったな」

「さっきはありがとう」

 まさか弟から援護射撃に与るとは思っていなかったので、これは心からのサンキューであった。

「なーんも。それで引っ越しはいつ?」

 引越しと言っても、大したものは何もない。持って行くのは、着替えと身の回りのもの、本とフルート、そして楽譜だけである。

「そうか、なんぞ手伝えるか思うて」

「ううん、大丈夫」

「姉ちゃん、フルート命じゃな」

「今回で終わりじゃけん」

「それでええんか?」

 急に真顔になって大樹は、さつきの顔を覗き込んだ。

「ええって?」

 さつきには、大樹の問いの意味がわからなかった。

 大樹は、しばらく言い淀んでいたが、

「姉ちゃん、俺な、大学行くのやめよう思うとるんじゃ」

 と決心したように告げた。

「何?」

「大学、行かずに理容学校行こう思うちょる」

 弟は何を急に言い出すのだろうか。大樹が大学に進学することは、紗栄子同様、既定路線だった。少なくともさつきの理解ではそうなっていた。

「誤解せんで欲しいんじゃけど、姉ちゃんのためじゃないけん。俺、昔から勉強が嫌いじゃろ? そんで大学行って、何になるかって思ってな」

 大樹ははにかんだように笑って言った。

「あんた、何言ってんの? お父ちゃんやお母ちゃんに相談したん? そんなこと勝手に決めちゃいけんよ」

「お父ちゃんは家を継ぐ人間がいれば、文句言わん思うし、お母ちゃんかて反対しない思う」

「じゃけん・・・」

「じゃけん、姉ちゃん、今度の大会優勝したら、音楽学校に行ったらええけん。この家に理容師は三人いらんけえ」

 さつきの言葉を遮り、それだけを伝え残すと、大樹は「おやすみ」と言って部屋を後にした。さつきは狐につままれたような気持ちで、それを見送るだけであった。


 翌日、着替えと身の回り品を大きめのバックパックに詰め、肩から袈裟がけにフルートケースを下げたさつきは、ヘルメットを被ってロードバイクに跨り、古橋多恵子宅へと向かっていた。

 大した距離ではない。さつきの自宅から船着場までが自転車で十五分、フェリーに五分、向島に渡ってからまた自転車で十分も走れば到着する。

 しかし船着場に行く前に、さつきには寄らなければならない場所があった。尾道本通り商店街にある父と母が働く理髪店である。

 引越しがあるからと、バイト先から休みをもらっていたので、六三郎と美子が家を出た時にさつきはまだ寝ていた。荷物をまとめるのに少々時間がかかったので、さつきが出発した時間は午前十一時近くになっていた。

 尾道本通り商店街は東西に長い。その一角にさつきの父と母が経営する「バーバー井上」はあった。半透明の薄いクロスが覆う大窓が通りに面し、波模様の板ガラスが特徴的な木枠のフロントドアを手動で開閉して店内に入るレトロチックな理髪店だ。

 さつきがロードバイクを店先に停め、バックパックを脇に下ろして入店すると、接客をしていた両親は、ほぼ同時に顔を上げて仕事の手を止めた。

「お父ちゃん、お母ちゃん」

「さっちゃん、行くの?」

 首からフルートケースを下げた娘に、美子が優しく声をかけた。

「うん」

 六三郎は僅かに顔を顰めると、黙って仕事を再開した。

「がんばって」

 美子が微笑んで言った。

「うん、しばらくは家に帰れんけど」

 さつきは父にも何か言おうと思ったが、脇目も振らず淡々と仕事を続ける様子を見て踏みとどまった。

「ほんじゃ、また」

 軽く頭を下げて踵を返したさつきの背後から

「身体、気いつけろよ」

 という六三郎の声が聞こえた。

 振り返って、さつきは父を見たが、六三郎は相変わらず仕事の手を休めず、自分のほうに目を向けようともしなかった。

 溢れる涙を堪えて、さつきは深々と頭を下げ、店を出た。無表情で仕事を続ける六三郎とは対照的に、美子は何度も涙を拭いた。


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