第三楽章
1
観客のいないコンサートホールには、不安と期待、そして弛緩と緊張が同時に漂う一種異様な空気がある。静寂が君臨する世界ではあるが、逆説的に、その静寂にも張り詰めたワイヤが微振動するような金属音がある。コンペティションを五日後に控えた東京の「めぐろパーシモンホール」を支配していたのもその一種異様な空気だった。
そのステージ上に、小森梓は真行寺舞と肩を並べて立っていた。オーケストラとのリハーサルはスケジュールされているが、それからは観客を入れた本番ということになる。その前に、ステージから見た観客席がどのような雰囲気なのか、梓に見せておきたいという舞の希望が、咲恵の計らいで実現した。
「いよいよ、あと五日ね」
ステージの彼方に目を向け、舞が噛み締めるように言うと、梓はその言葉を自分に言い聞かせるかのように頷いた。
「どう? 今までこんなに大きなコンサートホールで演奏したことなかったけど」
「きっちり仕上げます」
梓の横顔は微動だにしなかった。舞はそんな梓を頼もしいと思った。
スマホのスクリーンで舞が今一度スケジュールを確認しながら
「明後日と明々後日はオーケストラとのリハが入ってるから、その間はゆっくり休むことが大事。コンチェルトは第三楽章だけでも体力使うから、万全の体調で臨むようにしないと」
とアドバイスすると、梓は口を真一文字に結んで顎を上げ、人のいない観客席を睨観した。
同日、東京に向かって疾走する新幹線には井上さつきと古橋多恵子が並んで座っていた。別の座席には、記者の大出香織とカメラマンの田頭文彦の姿がある。
さつきは、イヤホンでスマホから流れる音楽を聴きながら、車窓を飛ぶように流れる風景を眺めている。眺めると言うよりは、ぼんやり見過ごしていると言うほうが正しいのかもしれない。聴いているのはコンペティションで演奏する自曲ではなく、テイラー・スウィフトやビリー・アイリッシュといった、アメリカのポップス系が多かった。それらの楽曲が好きだという理由以前に、緊張を解す意図があった。
多恵子は読んでいる単行本から時々目を上げ、体でリズムを取っているさつきを見て優しく微笑む。その佇まいは上品で落ち着いていたが、単行本の文字はあまり頭に入っていなかった。多惠子自身もこれほど緊張するのは久し振りであった。
大樹と紗栄子には学校を休む選択肢はなかったが、六三郎と美子も、尾道に残ることを選んだ。家業を休み、東京に来るということになれば、往復の新幹線代に加えて宿泊費も捻出しなければならない。しかし、それ以上に、そこにはさつきの願望があった。このコンペティションは、さつきにとって通過点に過ぎず、大袈裟な応援はする必要もないし、しないで欲しいというのがさつきの願いだったのである。
「めぐろパーシモンホール」は、2002年に旧都立大学の跡地に建造された多目的パフォーマンスホールで、所在地は東京都目黒区八雲であるが、「パーシモン」の名は、近隣の「柿の木坂」(柿=パーシモン(英語))という地名に由来する。
目黒区「柿の木坂」は都内有数の高級住宅地であり、そのブランド・バリューにも配慮した命名なのだろう。
収容人数1200名の大ホール、同200名の小ホールから成るが、その他にリハーサル室、練習室、会議室等も備えており、フルートのコンテストには十分なファシリティであった。
エントランスに続く遊歩道に並ぶパネルには
『第1回全日本フルート・コンチェルト・コンペティション』のポスターが掲示され、そこには五人のファイナリストの名と演奏曲目が並んでいる。
また、エントランス傍の『第1回全日本フルート・コンチェルト・コンペティション』の大きな懸垂幕がひときわ目を引き、近くの公園に遊びに来た家族連れの中にも、立ち止まって見上げる姿が散見された。
2
オーケストラとのリハーサルは、トップバッターが小森梓だった。ステージ上には、オーケストラのメンバーが私服で揃い、指揮者の久米俊雄がタートルネック姿でタクトを手に楽団員に対峙していた。その隣に、スウェットの上下というラフな格好の梓がゴールドのフルートを持って立っている。客席の椅子には、真行寺舞の姿だけがポツリとだけあった。
譜面はもうだいぶ前にオーケストラに渡してあった。それぞれがベテランであるから、おそらくそつなく演奏をこなすだろう。残された課題は、フルート奏者との息の合わせ方と曲のテンポそして音の強弱の調整だった。
梓は既に一回のリハーサルを通しで終えていた。ところどころで久米がタクトの手を止め、オーケストラに修正の指示を出す。修正した部分をやり直すというプロセスが、もう一時間以上続いていた。
決勝に残ったファイナリストに割り当てられたリハーサルの時間はひとりにつき一時間だったので、時間を超過していたが、そこは指揮者である久米の裁量に任せられていた。
「もう一度、頭からでよろしいですか?」
久米が微笑みながら梓に確認を取る。梓が久米と目を合わせ承認する。
『チャイコフスキー・バイオリン協奏曲第3楽章・フルート・バージョン』の冒頭の力強いオーケストラ演奏が始まり、続いて梓の地を滑るように和やかなフルート吹奏が始まる。
嬉しそうに笑みを浮かべながら、タクトを振る久米だが、テンポが速くなるところで、タクトを振る手を横に振り、オーケストラ演奏を止める。
梓がフルートを唇から離すと、
「そこのところバイオリン、もう少しおとなしく入って来て」
と久米がバイオリン奏者たちに注文をつける。
梓に目を向け、久米が笑顔で頷くと、再びフルート吹奏が始まり、久米の熱量のあるタクトに合わせてオーケストラの演奏が再開された。
各ファイナリストのリハーサルが進んでいる頃、「めぐろパーシモンホール」にほど近い東急東横線都立大学駅前のカフェで、大出香織と田頭文彦はテーブルを挟んで座り、取材の打ち合わせを続けていた。
テーブルの上には田所の大きなカメラ、コーヒー、それに加えて『第1回全日本フルート・コンチェルト・コンペティション』のチラシが拡げられている。
「順当な線だと実績のある桜河内さんの優勝ってことになるんだけど、彼女、恋愛問題でゴタゴタしててスランプらしいの」
チラシに目を落として香織が言った。
「そんなことまで調べたんですか?」
呆れ顔で答える田頭に、香織は意味ありげにほくそ笑んだ。
「もちろん、記事にはしないわ」
記事にすれば、購読者数は増えるだろう。事実であるから、名誉毀損で訴えられるリスクはないだろうが、それよりも読者の興味がコンクールの主旨から逸れることを香織は恐れた。あくまで記事のフォーカスは井上さつきであり、彼女が優勝するかどうかであって欲しかったから。
次に香織がピックアップしたのは、大木達夫だった。
「経験値が一番高いのが、写真撮ってもらったこの大木さん。コンペ参加者の中では最年長。オーケストラでフルート吹いてるプロだから硬いわね」
「いい人でしたね。優勝は大木さんかな?」
「私は予測屋じゃないし、音楽の専門家でもないから」
香織は取り繕うように笑った。
「でも、さつきさんに勝って欲しいんですよね?」
「うちの新聞としてはそうだけど、勝負は思い通りに行かないからね」
「あとの二人は?」
小森梓と藤倉七海の名を見て、田頭が尋ねる。
「取材、断られたわ。でも下馬評ではこの子が最有力ね。実力では桜河内さんと変わらないらしいし」
香織は小森梓の名を指差して言った。
「強敵ばかりなんですね」
「ダークホースがこの子。坂口浩っていう気鋭のフルート奏者に師事してる。まだ高校二年生だけど、天才少女って噂」
香織は藤倉七海に言及していた。
「天才少女って、さつきさんがそうなんじゃ?」
「そう、天才と天才のぶつかり合い。とにかく、演奏中の撮影はスチールも禁止。音源を録ることだけは許可もらったわ」
「それなら演奏前の緊張感とか、写真に撮りたいですね」
田頭は、テーブルのカメラを持ち上げて鼻を膨らましたが、それもすぐに香織に却下されてしまう。
「ううん、それもしないで。集中力を削ぐようなことはしたくないの」
「それじゃ、僕の出番はもうなしですか?」
「ごめんなさいね。でも、演奏後の控室の表情とかなら撮っても大丈夫だと思うわ」
田頭は不満そうにため息をつくと、苦笑いをしながらコーヒーを啜った。
3
本戦前夜。
小森梓は自室のデスクに向かい、身体でリズムを取りながらイヤホンでスマホから流れる『チャイコフスキー・バイオリン協奏曲第3楽章・フルート・バージョン』を復習していた。自らが吹くパーツと、オーケストラのパーツ、協奏のパーツを頭の中にある楽譜と比較して細部まで確認していく最終プロセスだった。
その時、ドアにノックがあった。
「はい?」
振り向いて応えると、弟の裕司が顔を出した。
「今、大丈夫?」
裕司は遠慮がちに、しかし笑顔で言った。
「うん」
梓はイヤホンを外し、何事かと椅子を回転させて体を裕司の方に向けた。
「いよいろ明日だね」
そろそろと部屋に入り、裕司が言った。
「うん」
梓は微笑み返した。
「俺、明日、学園祭の役員やっててどうしても抜けられないんだ」
「え、そんなこと言いに来たの?」
「だって、姉貴には借りがあるからさ」
「借りって?」
「俺が父さんと喧嘩した時、来てくれただろ?」
「な〜んだ、そんなことか」
梓は椅子の背に寄りかかるようにして、笑みを広げた。
「俺、あの時、言わなかったけど、すごく感謝してるんだ」
くすぐったかったが、梓は黙って頷いた。
「明日は、万全?」
裕司が親指を立てる。
「音楽の世界に万全はないからね」
笑って答える梓に
「さすが!」
と言って笑いを返す弟。
「がんばって!」
梓は差し出された裕司の右手を握り、何度かそれを振った。
一方、都内のホテルの一室では、井上さつきがベッドの上にあぐらをかき、フルートの手入れをしていた。
窓の外は暗く、高層階の窓から見下ろせる東京の夜景はゴージャスでもあり、同時にどことなくもの寂しくもあった。多恵子の心の籠ったゴールドのフルートが、部屋の明かりを反射して鈍く光る。
指揮者の久米とも波長が合い、オーケストラとのリハーサルは上出来だった。しかし、明日は戦いの場に向かうと思うと、どうしても戦慄に囚われてしまう。あがり症を克服するためにアロマセラピーを利用したり、場合によっては精神安定剤を常用するようなパフォーマーもいることは知っていたが、多恵子の助言もあって、さつきはそのような方法を選ばなかった。
そうではなく、フルートの手入れという日常的かつ単純な作業を導入することで、心の落ち着きを取り戻し、確保するという技がさつきの方法論であり習慣だったのである。
ピコピコと傍らのスマホが点滅し、着信を伝える。手に取って見ると、大樹や紗栄子からの応援メッセージの下に、最新メッセージとして村上遥からのライン・メッセージが表示された。
ハルカ「応援しとるけん、明日、がんばって!」
さつきは笑みを浮かべると
サツキ「サンキュー!」
とだけ返信メッセージを送り、淡々とフルートの手入れを続けた。
4
本戦当日。快晴。
老若男女が『第1回全日本フルート・コンチェルト・コンペティション』の懸垂幕を横目に、「めぐろパーシモンホール」に続々と詰めかけていた。主催者側の発表では、前売券、当日券ともに完売。会場は満席となる模様である。
同ホールのホワイエも、歓談する客の中を黒服の会場スタッフが縫うように回遊し、雑然とした雰囲気になっていた。
そこに、外国人男性とマネージャーの女性に付き添われてスター然とした桜河内莉子が姿を見せると、途端にファンに取り囲まれる。笑顔でサインをする莉子を、大出香織と田頭文彦が遠目に見ていた。
「さすがね。普通なら楽屋口から入るのに」
香織が冷めたように言った。
「あの外国人がカレシなんですか」
「うん、ミハエル・コルンっていうドイツ人。同時に莉子さんの先生でもある。かなり有名なフルート奏者らしいけど、本国にまだ別れてない奥さんがいて、それでゴタゴタしてるって話」
「週刊誌なら堪らないネタですね」
田頭は、面白そうに莉子とコルンの様子を眺めている。
「私が知ってるくらいだから、週刊誌はとっくに嗅ぎつけてると思うけど、フルート奏者じゃそこまで有名じゃないし、記事にしてもそんなに美味しくないってことなんじゃないかな」
明るく照らし出されたステージには、まだ人の影はなく、オーケストラの椅子と指揮者スタンド、それぞれの譜面台とフルート奏者用の譜面台だけが行儀良く並べられていた。
客席は徐々に埋まりつつあり、ザワザワとした雰囲気である。ステージ正面から、少し離れた位置に七人掛けの審査員席があり、うち四人が既に着席し、談笑したり、目の前の書類に目を通したりしていた。
大木達夫の楽屋では、演奏を間近に控えた大木が燕尾服に着替え、ひとりフルートのチューニングに余念がない。中肉中背、小太りの童顔に整った髪を七三に分け、小さな口髭を生やして愛嬌のある容姿であるが、その表情は至って真剣である。
一方、アップライトピアノ一台だけの、殺風景な練習室には藤倉七海とその師、坂口浩の姿があった。黒髪をボブカットに切り、瞳の涼しい美少女であるが、ブレザーの学制服に身を包んだ女子高生らしい風貌の七海に対して、痩躯の坂口は、いかにも気鋭のフルーティストといった雰囲気の丸首セーターと長髪である。その坂口のピアノ伴奏に合わせて、フルートを唇に当てた七海が『ベートーベン・バイオリン協奏曲第3楽章・フルート・バージョン』の最終調整に励んでいる。
対して、楽屋外の廊下はホワイエや客席の喧騒が嘘のように静かな空間だった。その廊下を、レディースタキシード姿のさつきが、ゆっくりと歩いている。静寂を楽しみながら、集中力を高めているかのような表情がキリリと美しい。
同じ時、小森梓の楽屋では、肩を大きく露出したAラインのドレスを着た梓が、ドレッシングミラーの前の丸椅子に座り、自分の手でメイクを仕上げていた。その真後ろに、真行寺舞が影のように立っている。
両者ともいつになく緊張の面持ちであるが、ドアのノックにはっと顔を向ける舞。
「はい」
咲恵がドアを開けて入室すると、足早に二人に近づいた。
「どう?」
「順調です」
舞が微笑む。
「あーちゃん、素敵よ」
梓に視線を移し、少し大袈裟に感嘆する咲恵に、梓はクールに「ありがとう」と言いながらメイクを続ける。
「このドレスにして良かったわね」
振られた舞は、笑顔で同意した。
梓がメイクを終えて立ち上がり、咲恵のほうに体を向けると、宝石をちりばめたようなドレスのラインが流れるように揺れる。
「綺麗ね。素晴らしわ」
咲恵の褒め言葉に、梓は輝くような笑顔で応えた。
ステージ袖では、タキシードやドレスを身に纏ったオーケストラのメンバーが、それぞれの楽器を手に出番を待っていた。
張り詰めた雰囲気の中、正装した指揮者の久米俊雄と、スーツ姿のステージマネージャーが何か言葉を交わしている。
ほぼ満席となった観客席。ステージ近くの客席には小森健一がビジネススーツを着て窮屈そうに座っていた。しばらくして、咲恵が健一の隣に着席すると、二人は目を合わせて微笑む。
その数列後方に香織と田頭。その遥か後方のドアからプログラムを手にした山根真二がスタッフに案内されて入場すると、手にしたチケットを見ながら不安そうに着席した。
審査員席も七人全ての審査員が着席を終え、言葉を交わしたり、ステージに目を向けたりしている。
その頃、桜河内莉子の楽屋では、Aラインの艶やかなドレスに着替えた莉子が姿見で服装のチェックをしていた。それを手伝うマネージャーの女性。
ドア近辺に立つミハエル・コルンの顔が苦しそうに歪んでいる。鏡越しに莉子は、コルンに視線を送るが、表情は険しく冷たい。何度か首を横に振り、コルンが部屋を出ていくが、氷のような表情のまま、服装チェックを続ける莉子。
莉子の楽屋から出たコルンは、厳しく暗い表情で、廊下を大股で歩き去っていく。
ステージマネージャーの合図で、オーケストラのメンバーがぞろぞろとステージに登場すると、それを拍手で迎える観客。続いて、スタッフが奏者と曲目を客席に周知させるフリップをステージ脇に置いて去り、いよいよ本戦開始という緊迫感に会場がどよめきだした。
フリップには英語と日本語で大木達夫の氏名と、曲目がプリントされているが、当の大木達夫は、既にステージ袖にフルートと譜面を手に昂揚の面持ちでスタンバイしていた。
少し離れて、指揮者の久米俊雄がステージの方に目を向けて立っている。大木に歩み寄り、二言三言、話しかけ、大木が笑顔で何度か頷く間もなく、ステージマネージャーに囁かれて、ステージへと入場する久米。
客席から歓迎の拍手。久米が深々と頭を下げ、オーケストラに起立による礼を促すと、拍手が一段と大きくなるが、数秒後にその拍手は、続いてステージに登場した大木達夫へと向けられる。
ニッコリ笑って観客席に一礼する大木。久米そして第一バイオリニストと握手を交わすが、大木はプロだけあって、表情に余裕を見せている。
譜面を譜面台に置き、第一バイオリニストと簡単な音合わせを済ますと、久米と相槌を取ると同時に『モーツァルト・フルート協奏曲第1番第3楽章』の最初の小節が大木の円熟したフルートによって刻まれる。固唾を飲んで演奏に聴き入る聴衆。
『モーツァルト・フルート協奏曲第1番第3楽章』は、小鳥が囀りながら素早く中空を舞っているような軽妙なフルートの音色で始まる。オーケストラはその鳥の舞に、爽やかな風と明るい青空の背景を付与するかのように指揮され、その融合がものの見事に聴衆の心を掴み取って行く。
モーツァルトのその他の楽曲の多くがそうであるように、この協奏曲もある音楽愛好家の注文を受けて作曲された作品である。バイオリンのストラトバリウスが現代に至るまで、完成された楽器として伝承されていることに比して、当時のフルートは音楽器としてはまだ不完全であり、モーツァルトはそれ故にフルートを嫌っていたとのことであるが、そんな事情を全く感じさせないほど、協奏曲第1番に完成度の高い格式があるのは、やはりモーツァルトの真骨頂と呼べるのかもしれない。
大木達夫の演奏が佳境に達していた頃、井上さつきが楽屋近くの女子化粧室の洗面台で手を洗っていると、ドアが開き、そこに眩いばかりのドレスに身を包んだ小森梓が卒然と姿を現した。
一瞬、鏡の中で互いの目が合ったが、そのまま黙ってさつきの後ろを通り過ぎようとする梓に
「小森梓さん、ですよね」
と、さつきは躊躇いがちに呼びかけた。
梓は立ち止まり、鏡の中のさつきを睨むように見た。梓とすれば、高めて来た気迫を、ここで削がれたくないという思いが先行していた。
「私・・・」
「知ってるわ。井上さつきちゃん、でしょ」
ぶっきらぼうに梓が言った。
それまで言葉を交わしたことはなかったが、何度が見ている顔だ。忘れるわけもない。
さつきとて「打倒、小森梓」の合言葉のもと、古橋多恵子と練習に練習を重ねて来たのだ。その相手が目の前にこうして現れたことに、さつきは運命的なものを感じた。そして、一旦は気負いを感じたものの、今はただ憧れの人に会ったように嬉しかった。
さつきの溢れんばかりの笑顔に、梓もつられて微笑み返す。
「よろしくお願いします」
さつきは振り返り、改めて梓にお辞儀をすると、右手を差し出した。
「こちらこそ。お互いにがんばりましょう」
差し出されたさつきの手を握り、梓は応えた。
「May the best of us win」
梓の言葉に笑顔で握手を交わす二人の瞳は、闘志と共に互いに対する尊敬の光を宿していた。
ステージ袖には、マネージャーに付き添われて自らの出番を待つ桜河内莉子のドレス姿があった。手にフルートと譜面を持っているが、表情は暗く、終始落ち着かない様子である。背景に、今、別れを告げたばかりのミハエル・コルンとの関係があることは、莉子と彼女のマネージャーが知るのみだった。
演奏を終え、久米が笑顔と拍手で大木のパフォーマンスを称えると、大木は大きな拍手を浴びながら笑顔で観客席に深々と頭を下げた。
テーブルの上の紙片に忙しく何かを書き込んでいる審査員たち。久米と第一バイオリニストと握手をし、拍手を背にステージから去る大木を横目に、客席で言葉を交わしている小森健一と咲恵。田頭に何か囁いている大出香織。プログラムに目を落とす山根真二。スタッフがステージ脇のフリップを桜河内莉子のそれに替える。
大木がステージから戻り、すれ違いざまに待機する桜河内莉子に会釈すると、硬い表情で会釈を返す莉子。
ステージマネージャに促され、大股でステージに進み出た莉子が、観客席からの暖かい拍手に迎えられる。
桜河内莉子の楽曲『イベール・フルート協奏曲第3楽章』は、オーケストラのバイオリンとフレンチホーンによる勇猛とも聴こえる導入で始まる。フルートの演奏は、まるでツバメが嵐の中を巧みに掻い潜りながら飛翔しているかのような印象を与える。
フランスの作曲家、イベールは、19世紀後半の生まれであるが、その活動期間は20世紀になってからであり、今回のコンクールで演奏される楽曲の中では、彼の作品が唯一20世紀の作品ということになる。
モーツァルトが不完全なフルートという楽器を想定して書いたコンチェルトや、ベートーベン、チャイコフスキー、メンデルスゾーンの楽曲が元来はバイオリンのために書かれた作品であることを考えると、イベールのフルート協奏曲の完成度が高いことは十分に想定できることであり、桜河内莉子がこの楽曲を選択した理由として説得力のあるものであった。
さつきとの遭遇を、梓は舞に言わなかった。ただ、改めて油断のできない相手だということを本能的に理解した梓は、自分の楽屋で楽譜を譜面台に置き、フルートを構えて頭の中で演奏を反芻していた。
笑顔で梓と握手をしたさつきも、同様の印象を相手に持った。さつきはしかし、今更ジタバタしても成るようにしか成らないと思っていた。実地の練習も、イメージトレーニングも十分にして来たのだ。
だから今は、無心の境地でパフォーマンスに臨もうとした。そのために、椅子に背筋を伸ばして座り、目を閉じて尾道の天寧寺坐禅堂にいる自分を思い描こうとしていた。
ステージ上では、桜河内莉子が奏でる『イベール・フルート協奏曲第3楽章』が最大の山場に到達しようとしていた。
久米のタクトにはますます磨きがかかり、オーケストラと一心同体となって莉子のパフォーマンスに寄り添っていく。観客席は、莉子の優雅な指の動きに魅入られたかのように静まり返っていた。
ステージ袖には、莉子の演奏に熱心に聴き耳を立てている古橋多恵子の姿があり、その後ろには、坂口浩に付き添われ、学校の制服を着た藤倉七海がフルートを手に、固まった無表情で立っていた。
黒服のスタッフが気忙しく動く中、背後の入り口から真行寺舞が姿を見せる。スタッフに何か声をかけるが、見覚えのある古橋多恵子の後ろ姿を認めると歩み寄って来た。
「先生、お久しぶりです」
「あら、お久しぶり」
舞の声に、振り返った多恵子が笑顔で応えた。
「ご無沙汰しております」
「お互いさま」
舞が音大に通っていた時のフルートの教師も、かつては古橋多惠子の教え子だった。また、真行寺舞の名は、優秀なフルーティストとしてそれ以前からフルート奏者界隈では知れ渡っており、直接的に指導することはなかったが、多惠子も長年、気にしていた演奏者の一人であった。
そんな舞が、今は多惠子の教え子である井上さつきのライバル、小森梓の師として自分の前に立っている。それは一種の喜びであると同時に、多惠子は改めて世代交代の思いを募らせた。さつきこそが、名実共に自分の最後の愛弟子になるのだろうと。
莉子の演奏が終わり、客席から盛大な拍手が湧き上がる。深いカーテシーと笑顔でそれに応える莉子。拍手で称える久米、そして第一バイオリニストと握手をし、今一度、丁重な礼をしてステージから姿を消す莉子に引き続き惜しみない拍手が送られる。
ステージ袖で拍手で迎える多恵子と舞を一瞥して目礼すると、女王の風格を見せて横を歩き過ぎて行く莉子。その香水の残り香に、予想していたとは言え彼女を乗り越えるには完璧に近い演奏が求められると、多恵子も舞も身の引き締まる思いを新たにしていた。
莉子の期待を裏切らない演奏に、審査員席からは笑顔が漏れていた。客席でも満足顔の会話が飛び交っている。その中にあって、感嘆の色を隠せない健一と咲恵。
「すごいな」
健一の一言に、咲恵は掛け値なしに頷いた。大木達夫の演奏も素晴らしかったが、莉子のパフォーマンスは明らかにそれを凌駕していた。
咲恵は、夫の健一より遥かに多くのフルート演奏を見て聴いてきている。娘の梓が直接参加したコンクールでの演奏はもちろんのこと、海外から来日した著名フルーティストのコンサートには時間の許す限り積極的に娘に同伴した。その経験を踏まえた上で、咲恵は心の中で、桜河内莉子の今日のパフォーマンスをトップ5%の部類にランクしたのである。
「彼女のインタビューは絶対取りたいわね」
同じく後部観客席では、そう大出香織が田頭文彦に耳打ちしていた。香織の顔にも今見た莉子のパフォーマンスへの感銘が明らかだった。
「優勝は桜河内さんですかね」
田頭の問いに、香織は首を縦に振る。
「順当なところね。お見事って感じ。あとは準優勝が誰かってところかな」
「あと三人ですね」
「藤倉七海ちゃんの後に、休憩時間が入って、いよいよ小森梓と井上さつきの直接対決」
「僕、クラッシックのコンクールがこんなにエキサイティングなものとは知りませんでした」
目を輝かした田頭のコメントに、香織は同意の微笑みを返した。
ステージでは、オーケストラが譜面を新しいものへと替え、スタッフがステージ脇のフリップを藤倉七海のそれに交換していた。
ざわめきが収まらない客席の様子を窺いながら相変わらずの無表情で出番を待っていた藤倉七海が、ステージマネージャーに促されて、思い切ったようにステージ上に歩を進める。手に譜面を持っていない。はっと顔を見合わす多恵子と舞。坂口浩の熱い視線が七海の後ろ姿を追う。
観客席から拍手で迎えられ、初めて可憐な笑顔を見せる七海。指揮者の久米そして第一バイオリニストと握手をするが、七海が譜面を所持していないこと、さらにスタッフが素早く譜面台を撤去するのを見た客席がどよめく。
「どういうことでしょうか?」
周囲を見回して田頭が香織に尋ねた。
「譜面を見ないで演奏するのよ。プロでもなかなかしないことらしい」
香織の目は、ステージの上の藤倉七海に釘付けになっている。
「どうしてそんなことを?」
「譜面がないほうが高得点なの。勝負に出たってこと」
得心して改めてステージの上の七海に好奇の視線を移す田頭だが、客席のどよめきは七海が第一バイオリニストとの音合わせを始めるまで続く。
音合わせを終え、目で久米に合図する七海。久米がタクトを振り上げると、『ベートーベン・バイオリン協奏曲第3楽章・フルート・バージョン』の伴奏が厳かに滑り出る。
七海がおもむろに唇にフルートを当て、演奏を始めると、舞は多恵子に挨拶し、慌ただしくステージ袖を走り出た。多恵子は冷静に、引き続き注意深く七海の演奏に耳を傾けている。
ベートーベンがバイオリン協奏曲を作曲したのは1806年のことである。今、藤倉七海が演奏しているのは言うまでもなく、フルート用に編曲されたバージョンであるが、バイオリンに対して難易度が低いとは決して言えない楽曲だった。
全編で四十五分に及ぶ大作で、第三楽章だけでも約十分の長尺になり、今回のコンクール参加者の中の曲目の中では小森梓が吹くチャイコフスキーと並んで一番長い。それを七海は楽譜を見ずに演奏しているのだから、もし努力賞のようなものがあるのなら、栄冠は彼女の上に輝くことだろうと思われた。
曲風はベートーベンらしい壮大かつ躍動感溢れる旋律を、フルートとオーケストラの双方が競うようにリピートすることによって合奏としての一体感を実現している。そのダイナミズムを七海はフルートの技巧だけでなく、意図したのかそうでないのか、体全体を大きく揺らすことによってビジュアル的にも効果的な演出をして見せている。
とても高校生とは思えないその演奏に、多惠子は感嘆し、尚且つ危機感を大にした。この演奏を、さつきや小森梓が超越することができるのだろうかと。
譜面を片付けている梓の楽屋に、舞がいきなりドアを開けて駆け込んで来たので、梓はびっくりして顔を上げた。
「梓ちゃん、藤倉七海が譜面なしで演奏してる」
舞は血相を変えてまくし立てたが、梓には何のことなのか咄嗟にはわからなかった。
「暗譜してるのよ」
やっと意味を解し、色を失う梓に
「譜面、持っていくでしょう?」
と舞が迫った。
「私、譜面なしで練習したことないから」
藤倉七海が暗譜で演奏しても、必ずしもそれが質の高いパフォーマンスに繋がるとは限らない。むしろ、途中で間違いでもすれば、減点の対象だ。それならば、譜面を見ながらより完璧な演奏を聴かせたほうが良いということになる。
「うん、それでいいわ。大事なのは演奏の内容だから。大木くんも莉子さんも譜面ありで演奏してるし」
舞の同意を得て、梓は少し安心したが、気になるのは藤倉七海の暗譜演奏を受けて、井上さつきがどう出るかだった。
梓が知る限り、パフォーマーとしての技量はさつきのほうが七海を上回っているはずだ。これでさつきが暗譜演奏を選択するようなことになれば、自分も考えなければならないと梓は思った。
「さつきちゃんはどうするんでしょうか」
梓の問いに、舞は首を傾げた。確かに、井上さつきは、まだ脅威として意識すべき存在だった。
古橋多恵子は藤倉七海の演奏をより長く聴いていた。そして、ある決断を胸にさつきの楽屋へと戻っていった。
ちょうど瞑想を終え、さつきが演奏の最終準備に入っていた時だった。部屋にノックがあり、さつきは振り向いた。
「どうぞ」
いつもはにこやかな多恵子の表情が硬く強張って見えた。さつきは、異変を感じて身構えた。
「さつきちゃん、あなた譜面なしで吹ける?」
開口一番、多恵子が言った。
「え?」
「藤倉さんが暗譜で演奏してるの」
さつきは息を呑んだ。通常のコンクールで吹く、ソロ楽曲ではない。オーケストラとのコラボという協奏曲だ。それを、暗譜で吹くとは想定すらしていなかった。
「今のところほぼ完璧な演奏。このままだと譜面なしの藤倉さんが優勝ってことになるわ」
多恵子の言わんとしていることは、痛いようにわかった。しかし、これは安易に首肯できることではなかった。
確かにこの楽曲は、数え切れぬほどリアルで練習し、またバーチャルでも頭の中で演奏を繰り返して来た楽曲だ。楽譜は徹底的に頭に入っている。藤倉七海が暗譜で完璧に近い演奏をしているのであれば、自分には譜面を見て演奏するというオプションはない。そうさつきは判断した。
できる。さつきは自分に言い聞かせた。私ならできる。
「吹けます」
さつきは一途な瞳を多恵子に向け、きっぱりと宣言した。
演奏会場では、藤倉七海の吹く『ベートーベン・バイオリン協奏曲第3楽章・フルート・バージョン』がクライマックスを迎えようとしていた。
テンションの上がる久米のタクト。熱を帯び高揚するオーケストラの演奏。三者が一体となって、昇華していく。
ラストに近づくと、クラッシックの楽曲とは思えないほど体でリズムを取る七海を見て聴衆も乗りに乗る。それはまるで著名なポップやロックスターのコンサートの様相だった。
七海がフルートの唄口を唇から離し、久米がタクトを振り上げて演奏が終わると、待ってましたとばかりに聴衆から吹き上る割れんばかりの拍手。客席のあちこちから叫ばれる「ブラボー!」の声。花のような笑顔で、客席に目を走らせ、拍手と歓声に応える七海。
久米も指揮者台を降り、称賛に溢れた笑顔で七海と握手をする。歓声の渦中で無言のまま顔を見合わす健一と咲恵。同じく香織と田頭。圧倒され、審査員席に沈み込む審査員たち。
観客席からの熱狂的な拍手の嵐は、七海が第一バイオリニストと握手をし、完全にステージを去るまで、止むことがなかった。
二十分の休憩時間である。飲み物を片手にホワイエでくつろぐ観客の中に、大出香織と田頭文彦の顔があった。
「勝負がわからなくなったわね」
コーヒーカップを手にした香織が、田頭に言った。
「そうですか?」
「どう思う?」
「僕は素人ですから」
先日の香織の言を真似て田頭は答えた。
「その素人の意見は?」
「七海ちゃん、でしたっけ? あの子の勝ちだと思います」
香織も同じ意見だった。
無論、大事なのは審査員の評価だ。審査員は皆、それなりの経歴を持ったプロフェッショナルなのだから、彼らの耳は肥えているだろうし、素人とはまた別な判断基準があるのかもしれない。
桜河内莉子の演奏も素晴らしかった。しかも彼女は、プロの世界では若手とは言え、この場では大木達夫に次ぐ年長者であり、マスコミにも取り上げられるほどフルーティストとして実力者の地位を確立した奏者だ。その彼女のランクをまだ十六歳の高校生より下に落とすような非礼を、審査員がするだろうか。
しかし同時に、その逆も考えられた。近年のトレンドは、音楽賞であれ、映画賞であれ、文学賞であれ、若手ばかりが持て囃されているような気がする。商業的な価値を考えれば、若い世代にアピールするほうが当然賢明なのだろうが、その観点から見れば、藤倉七海の将来性を考えて、彼女に優勝トロフィーを授与することで一件落着となる可能性も否定はできない。
未だ答えの出ていない難問は、この構図に、井上さつきと小森梓がどう絡んで来るかということだった。
香織は小森梓の演奏を聴いたことがない。さつきの演奏は、千光寺公園で一度聴いたきりで、オーケストラの生伴奏もなければ、コンサートホールのような音響設備がしっかりした場所でもなかった。
素人考えでは、答えは残った二人のファイナリストが暗譜で演奏するかどうかにかかっているように思えた。
途中経過を教えてくれるわけもないが、香織が見た限り、審査員席の反応も客席の反応も、藤倉七海のパフォーマンスがほぼ完璧に近いことを示唆していた。さらにプラスアルファで七海は譜面を見ないで演奏しているのだ。
二人にとって、それが可能なのかどうかはわからなかったが、小森梓と井上さつきが譜面を持ってステージに上がるかどうかで、勝負が決する。記事を書く新聞記者として、これは願ってもいないほどドラマチックな結末になりそうだった。
大出香織と同様の感想を、小森咲恵も共有していた。休憩時間を利用して梓の楽屋に駆けつけると、危機感を胸に舞と娘に直談判を始めた。
「あーちゃん、暗譜はしてるの?」
母の血眼な勢いに、梓は
「一応」
としか答えられなかった。
暗譜をしようとして意識的に努力をしたわけではない。楽譜は頭に入っているつもりだが、それをオーケストラの伴奏で諳んじることができるかと問われれば、梓には自信は九分通りとしか言えなかったのである。
「それなら譜面なしで」
咲恵は舞に言った。
「でも、できるだけ完璧な演奏をするべきだと思うんです。それにはやっぱり楽譜があったほうが」
「藤倉七海の演奏が完璧に近いのよ。桜河内さんの上を行ってるの。それも楽譜なしで」
咲恵は七海の演奏を最後まで聴いていた。そして聴衆の熱にうなされたような反応を肌で感じていた。梓が藤倉七海を超えるとしたら、譜面無しで演奏をする他に道はない。
「どう? やれそう?」
舞は梓に尋ねた。咲恵の危惧は十分に伝わった。この件は、もう自分の見解を離れてしまったと舞は思った。
梓は咲恵と目を合わせた。懇願するような咲恵の目に、自分は「NO」とは言えないと覚悟を決めた。やれる、やれないではない。やるしかないのだと。
「はい」
梓の答えは澱みなく堅固だった。
「わかったわ。じゃ、暗譜でやろう」
舞も同じ強度で応答した。
その時、ドアにノックがあった。舞が「はい」と答える間もなく、ドアが開き黒服のスタッフが顔を見せた。
「お時間ですので、ご準備お願いいたします」
すっと顔を上げ、梓は姿勢を正した。いよいよ決戦の時だ。私の敵は、藤倉七海でも、井上さつきでもない。『チャイコフスキー・バイオリン協奏曲第3楽章・フルート・バージョン』だ。
梓は黄金のフルートを手に取ると、戴冠式に臨む王女のように顎を引き、瞳を上げて毅然と楽屋を後にした。
前半戦の興奮と熱量の余波が漂う観客席に、小森健一は休憩時間にトイレに立っただけで座っていた。オーケストラが徐々にステージに帰還すると同時に、観客席も客の姿で満ち始めていた。
「梓、楽譜なしでやります」
咲恵は夫の隣の席に戻ると、健一に言った。健一は、驚いて咲恵を見た。
「大丈夫なのか?」
「それ以外に方法がないの」
咲恵の言葉に健一は眉を上げ、呆れたかのようにゆっくりと首を横に振った。
ビジネスの世界では「想定外」は許されない。別な言い方をすれば「想定外」が起きた時点で、よほどラッキーでもない限り、ビジネスは失敗する。今、娘の梓が置かれている状況は、まさにその「想定外」ではないか。健一は心穏やかではなかった。
客席と審査員席が埋まり、オーケストラが全て着席すると、久米が梓と連れ立ってステージ上に登場した。拍手で迎える聴衆。
ステージ脇のフリップは、既に小森梓のそれに替えられていた。
オーケストラに続いて、客席に向かって深く礼をする梓。譜面台も取り払われたままで楽譜を携帯していない梓に、再びどよめく客席。
第一バイオリニストと音合わせを終え、客席の咲恵と目を合わせて自信ありげに微笑むと、梓はフルートを口元にまで掲げ、久米に目で合図する。
久米がタクトを振り上げ、『チャイコフスキー・バイオリン協奏曲第3楽章・フルート・バージョン』の伴奏がオーケストラによって開始される。
おもむろに唄口を唇頭に当てると満を持して演奏を始める梓。その音色は大胆にして華麗、まるでフルートとオーケストラのぶつかり稽古を見るような迫力が、聴衆を魅了していく。
1878年に作曲されたチャイコフスキーのバイオリン協奏曲は、エドゥアール・ラロの「スペイン交響曲」に大きな影響を受けているとされ、またチャイコフスキー自身もウクライナのコサックの血を引き継いでいる関係か、強い民族色を感じさせる作品である。それをクリミア出身の名フルーティスト、デニス・ブリアコフが21世紀になってフルート協奏曲に編曲したバージョンを、今、梓は吹奏している。
第三楽章も、のっけからフラメンコや、コサックの激しいダンスを想起させるオーケストラとフルートの掛け合いが聴きどころになる。その後、楽曲は中盤になって落ち着きを取り戻したかと思う間もなく、再び疾風のようなフルートの吹奏とそれに伴走するオーケストラの素早い連奏が続き、いずれの展開でも、フルーティストとオーケストラの技巧の音響が、衝突と融合を繰り返しながらクライマックスを迎える。
スポットライトの中で、体を揺らしながら自らの演奏に全霊を傾ける娘の姿に、咲恵は溢れ出る涙を堪えることができなかった。そして健一の目にも光るものがあった。
夫婦にとっては初めての子育てで、右も左もわからないまま、幼少の頃から様々な習い事に就かせて来た。近所の有名バレエスクールにも通ったし、アイススケートのレッスンも受けさせた。スイミングスクールや、サーフィンスクール、スキー教室にも出席させた。
習い事はスポーツ系ばかりに限らず、学習塾や英会話学校にも通わせた。フルートは音感教育の一環としてピアノと並行して専門の講師を付けて習わせた。
レッスンが嫌で、やめたいと泣いたことも少なくはなかった。逃げ出したことも何度かあった。そんな中で、最終的に残ったのが真行寺舞に師事したフルートだったのである。
振り返れば、他の子供たちが外で遊んでいる時に、可哀想なことをしたとも思う。一見、華やかに見えて、音楽の世界は厳しい世界だ。否、これは芸術やスポーツといった全ての世界に共通することなのかもしれない。
もって生まれた才能に恵まれることも大事だが、それよりも日々の弛まぬ献身が物を言う世界である。それでも一流になれるのは一握りの人間だ。さらにプロとして生計を立てることができるようになるには、超一流と呼ばれるようにならなければならない。
そんな世界に、娘を進ませたことに、咲恵は常に一抹の後悔と不安を抱えていた。その娘が、今こうして超一流への道へ一歩踏み出そうとしている。それも自らの力で。だから涙が止まらなかった。
健一はもちろん、咲恵のように娘の教育に関わってこなかった。ここまで成長した娘の軌跡についてもほとんど無知だった。それでも、梓が腱鞘炎を患うような努力を積み重ねて来たことは知っていたし、ついこの間まで「抱っこ、抱っこ」と赤ちゃん言葉を喋っていた娘が、大舞台で堂々とクラッシックの名曲を演奏していることに心を動かされていた。
これは遠く離れた場所で、文化祭の切り盛りに、今までになく生き生きとした姿を見せている裕司としても同様だった。プログラムを事前に渡されていた裕司は、姉の演奏の時間帯をだいたい把握していた。そしてまさに「今」という時間に、裕司は静かに目を閉じ、姉の武運を祈っていたのである。
梓の演奏は、ラスト数分に近づいていた。タクトを振る久米の額に汗の粒が光り、オーケストラの伴奏がヒートアップする。梓の演奏に乗って、体を揺動させ、その崇高な音色に恍惚とした顔の聴衆。してやったりと手を繋ぎ合い、納得の笑みを浮かべている健一と咲恵。半信半疑の表情で首を振る香織と田頭。
情熱の嵐のような演奏が終わると同時に、客席のあちこちから噴出する「ブラボー!」の歓声。やんやの喝采で梓を讃える聴衆の中にもスタンディング・オベーションを惜しまない者たちが立ち上がっている。奇跡を目撃したかのように、互いの顔を見合わせる審査員たち。
両親と目を合わせ、大きな笑顔で客席に頭を下げる梓に、さらに激する歓声と拍手の大波。指揮者台を降り、拍手と握手で梓を称える久米と、次に第一バイオリニストと握手を交わし、再度、客席に深々と頭を下げると自信に満ちた足取りでステージを去る梓。
ステージ袖で待機していたさつきとすれ違いざまにニコリと梓が微笑むと、さつきは大きな感嘆と承認の笑顔を返した。
興奮冷めやらぬ客席。互いに言葉を交わしている審査員たち。心配そうにプログラムを見ている山根真二。それぞれが、それぞれの思いでラスト・コンテンダー、井上さつきの登場を待ち侘びていた。
いよいよ出番だと背筋を正したさつき。唇を真一文字に結び、並々ならぬ決意が見て取れる。ステージマネージャーの合図と共に、背後にいる多恵子に微笑みかけると、力強くステージへと踏み出して行く。同時に客席から沸き起こる拍手。
レディースタキシードを纏ったさつきの登場に、ひときわ大きな拍手をする真二であるが、後方にいるためさつきは気が付かない。
楽譜を持っていないさつきに、再び客席はどよめき、審査員席がざわつく。ついに来たといった表情の香織と田頭。顔を見合わす健一と咲恵。
さつきが、指揮者の久米と笑顔で握手をし、第一バイオリニストとも握手を交わし、音合わせを始めると、会場は水を打ったかのように静まり返った。
聴衆に深く頭を下げると、久米に目で合図し、フルートを構えるさつき。久米がタクトを振り上げ、『メンデルスゾーン・バイオリン協奏曲第3楽章・フルート・バージョン』の伴奏が始まる。
ほぼ同時に、渾身の一息を唄口に送るさつき。清廉かつ壮麗な協奏曲が場内に響き渡る。
メンデルスゾーンは、『バイオリンと管弦楽のための協奏曲』を1844年に作曲している。ベートーベン、ブラームス、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲と並んで、後年、世界四大バイオリン協奏曲と呼ばれる中の一角を成す名編である。
これをハンガリー出身のフルート奏者、ヤーノシュ・バーリントが20世紀晩年にフルート楽曲として編曲したのが、今夕、さつきが演奏している楽曲だった。
この作品は流麗かつ優美な旋律が最も特徴的である。それは時に明るく快活であり、時に物悲しく陰鬱にすら聞こえる。精錬と例えられるのはフルートの音色。壮麗と例えられるのはそのフルートを支えるオーケストラの演奏である。
第三楽章もそのパターンを前二楽章から継承し、オーケストラの短い導入を経て、フルート奏者にとっては独壇場となる洗練された旋律が、かくも繊細に、かくも力強く、まるで魔界のような世界へと聴衆を誘っていく。
さつきのフルートとの出会いは、意図されたものではなく、偶然だった。小学校五年生の時に、音楽の授業に特別講師として当時から向島に住んでいた古橋多恵子が招かれ、フルート教室を開講した。
クラス全員にフルートを吹く機会が与えられたが、音さえ出すことができない生徒が多い中、さつきだけが美しい音色を出したのである。
多恵子がこれに着目し、自宅で行っているフルート教室に無料で良いからと参加を許されたのがきっかけだった。何回か通っているうちに、さつきはフルートという管楽器に魔法のように魅惑されてしまう。そして、多恵子も体得の早熟なさつきの才能に驚嘆するようになっていた。
しかし、どんな習い事もそれを支えてくれる家庭環境がなければ上達は望めない。フルートは初心者用でも数十万円の値がつく高額な楽器だった。理髪店からの収入で、三人の子供を養育するのは田舎の公立学校であっても、楽なことではない。
まして、三人の子供たちが、それぞれ大学進学を希望するとなれば、それ相応の蓄えを備えておく必要もあった。
「お子さんの才能は、普通じゃないですから、絶対伸ばしてあげるべきだと思います」
と説得に努める多恵子だったが、多恵子の所持するフルートの数は限られており、数十名の生徒を抱える多恵子が、その中の一本をさつき専用として恒久的に貸し出すわけにはいかなかった。
レッスンは全て無料だ。必要なのは、フルートの購入費だけだった。六三郎は当初から反対した。コストだけの問題ではなく、そもそも芸能の世界が嫌いだった。美子は遅疑した。購入費だけならまだしも、高価な楽器にはメインテナンスの費用もかかる。
しかし、美子にも子供の頃にピアノ教室に通い、家計の問題で断念した苦い経験があった。そんな思いを娘のさつきにはさせたくない。
普段はおとなしいが、一度これと決めたらテコでも動かない頑固さが美子にはあった。六三郎もそれを知っていたから、最終的に自分が折れ、フルートを月賦で買うことを承諾した。
結果として多恵子の予感通り、出場するコンテストから次から次へと優勝楯やトロフィーを持ち帰って来る娘が、いつの間にか六三郎の自慢の種になった。鳶が鷹を生んだねと商店会では揶揄されたが、悪い気はしなかった。
そして今、さつきは日本を代表する若手フルーティストたちと鍔迫り合いを繰り広げられるまでに成長した。故郷で一心に働いている両親のためにも、高校で白球を負っている弟のためにも、中学の文化祭で張り切っている妹のためにも、撤退も敗北もさつきには許されない選択肢だった。
鬼気迫るさつきの演奏を前に、凍りついたかのように動かない観客席。しかし、それが鞭の一振りのような久米のタクトと一体化して完璧なフィナーレを迎えると、会場は、一気に爆発したかのような興奮の渦に包まれた。方々から沸き上がる「ブラボー!」の声。そしてスタンディング・オベーション。その中に真二が立ち上がり、頭上で手を叩いている姿を見出して、さつきは大きく微笑んだ。
それからさつきは、観客席を右から左へと一望し深く頭を下げた。言葉を失い、微動だにしない審査員たち。小森健一、咲恵、大出香織、田頭文彦も座席に張り付いたかのように動かなかった。
ステージ袖には、感慨の涙に濡れた多恵子の顔があった。そしてさつきをじっと見つめ、称賛の笑みを浮かべながら何度か頷く梓の姿があった。
第一バイオリニスト、そして久米と笑顔で硬い握手を交わし、今一度、客席に向かって溢れんばかりの笑顔で応えるさつき。怒涛のような拍手喝采はいつまでも鳴り止まない。
『第1回全日本フルート・コンチェルト・コンペティション』審査結果
(優勝・僅差につき審査員の特別判断により同位とみなし二名)
井上さつき(広島県尾道市)
小森梓 (東京都目黒区)
(準優勝)
藤倉七海 (東京都港区)
(特別賞)
桜河内莉子(兵庫県神戸市)
(審査員賞)
大木達夫(埼玉県所沢市)
完




