第52話 初めて空を見るので、宇宙服を一着届けます
「身長、何センチ?」
『え?』
「服を送るから。サイズが合わないと危ないでしょ?」
あまりにも自然な調子で言われたせいか、通信の向こうにいるリナはしばらく返事ができなかった。
四十二年間、第四十三深部採掘区で生まれ育った人間は誰一人として地上へ出ていない。外へ続く道そのものが失われていたうえ、地上は戦争と汚染によって人間の住めない場所になったと教えられてきたからだ。
その常識がつい数日前に崩れ、今では人間が通れる緊急避難路まで完成したとはいえ、「空を見たい」と口にした瞬間に、そのための服が本当に送られてくるとはリナ自身も考えていなかったらしい。
『……百五十八くらい』
「くらい?」
『最後に測ったの、半年くらい前だから』
「じゃあ少し大きめがいいかな」
「相良特務少佐、買い物へ行くような調子で地表活動服を選ばないでください」
軍用AIが割り込み、《スウィフト》の大型画面へ必要装備を表示した。
火星地表へ出るためには、単に気密服を着ればいいわけではない。生命維持装置、酸素供給系、温度調整機構、放射線監視装置、通信機、緊急用位置発信器まで必要になる。
しかも今回は、地表活動訓練を一度も受けたことがない十七歳の少女が着用する。
「現行の軍用地表活動服は高性能ですが、初心者が単独で扱うことを前提にしていません。もっと簡単な装備が必要です」
軍用AIがそう説明すると、久遠沙耶が救難物資の残存一覧を確認した。
「《アレス・プライム》へ送った民間救難用気密服なら十二着残っています。自動気圧調整、酸素残量管理、転倒時の姿勢補助まで搭載されているので、こちらの方が適しています」
「サイズは?」
「身長百五十から百六十五センチ対応が三着あります。ただし、今の補給容器では背面生命維持装置まで一度に入りません」
湊は旧第七換気縦坑の搬送能力を見ると、少し考えた。
「二便に分ければいい?」
「できます。服本体と生命維持装置を別々に送って、地下側で組み合わせます」
「じゃあそれで」
「こういう時だけ話が異常に早いんですよね……」
軍用AIが呆れる一方で、白波凪沙は少し心配そうにリナへ呼びかけた。
「リナさん。本当に地上へ出たいんですか? 怖くなったら、途中でやめてもいいんですよ」
通信の向こうで、少女はすぐには答えなかった。
『……怖いよ。でも、見たい』
その声には迷いが残っていた。それでも、言葉そのものははっきりしている。
『本で見た空が、本当にあるのか、自分の目で確かめたい』
白波はそれ以上止めなかった。
「分かりました。それなら、安全に見られるように準備しましょう」
◇
問題は、装備だけではなかった。
第四十三深部採掘区から地表へ続く新しい避難路は完成したばかりで、人員輸送試験をまだ行っていない。小型工兵機や補給容器が通れることは確認済みでも、生身の人間を通すとなれば検査項目は一気に増える。
軍用AIと久遠は、リナへ気密服を送る準備と並行して通路全体の再点検を始めた。
昇降機の荷重。
中継区画の気圧。
気密扉の開閉速度。
非常用酸素。
通信状態。
さらに、もし途中で機械が止まった場合に最寄りの中継地点へ避難できるかどうかまで確認する。
湊も大型画面を見ながら一つずつ質問した。
「途中で停電したら?」
「各中継点に非常電源があります。二系統とも失われた場合でも、昇降機には手動降下機構があります」
「通信が切れたら?」
「気密服側と通路側、二系統の位置発信器を使います」
「気分悪くなったら?」
「第三中継地点までは医療用補助ドローンを同行させます。それ以降も地表救難班が待機します」
「じゃあ、一人じゃないんだ」
「当然です! 十七歳の初心者を地下六千二百メートルから一人で歩かせるつもりだったんですか!」
「そこは心配だったから聞いたんだけど」
「そういう時は最初に言ってください!」
神代が二人のやり取りを聞きながら、わずかに笑った。
「今回は慎重ですね」
「初めて外に出るんだから、怖いと思う」
湊はそう答えると、地下側から送られてきたリナの医療データへ視線を戻した。
長期間の地下生活によって、骨密度や筋力が地上居住者よりやや低い。地下区画も火星重力下にあるため致命的な差ではないが、長距離歩行には慣れていない。
さらに、地表へ出れば視界の広さそのものが心理的負担になる可能性もあった。
空を知らない。
地平線を知らない。
頭上に天井がない場所を知らない。
それは、湊たちには想像するしかない感覚だった。
◇
地下へ送られた地表活動服を最初に受け取ったのは、リナではなくオスカーだった。
旧共同食堂へ運び込まれた銀白色の気密服を、百一歳の老人は長い間黙って見つめていた。
『昔は、これを着て外へ出ていたのか』
「今のは昔よりかなり楽ですよ。自動でほとんど調整してくれます」
通信越しに軍用AIが説明すると、オスカーは弱く笑った。
『私の知っている地表服は、背中の装置だけで子供一人くらいの重さがあった』
「四十二年あれば装備も変わります」
『世界も変わったのだろうな』
その言葉に、誰も軽々しく答えなかった。
オスカー自身は、今すぐ地上へ出られる身体ではない。長年の閉鎖環境生活に加え、百一歳という年齢もある。医療班の判定では、地表へ上がること自体が大きな負担になる。
けれど彼は、リナが外へ出ることには反対しなかった。
それどころか。
『行ってこい』
そう言った。
リナが驚いたように老人を見る。
『でも、おじいちゃん……』
『私の嘘のせいで、お前たちは四十二年前より遠い場所に閉じ込められていた。もう、私が怖いからという理由で、お前たちまで怖がらせるわけにはいかん』
オスカーは一度言葉を止め、呼吸を整えた。
『ただし、怖かったら帰ってこい。外を見ることも、地下に残ることも、自分で決めればいい』
リナはしばらく老人を見つめたあと、小さく頷いた。
『うん』
◇
地表活動服の装着訓練には、およそ三時間かかった。
《アレス・プライム》側の救難員が遠隔映像で手順を教え、軍用AIも横から細かな確認を入れる。
気密確認。
生命維持装置接続。
酸素供給開始。
通信確認。
手袋の操作。
ヘルメットの緊急解除防止機構。
リナは最初こそ何度か手順を間違えたが、一度覚えた操作を繰り返し間違えることはなかった。
「上手ですね」
白波が声をかけると、リナは照れたように笑った。
『機械はいっぱい触ってるから。地下だと、何か壊れたら自分たちで直さないといけないし』
第四十三深部採掘区で育った者にとって、機械の扱いは生活の一部だった。
空を知らなくても。
地上を知らなくても。
四十二年間。
彼らなりの社会を作り。
生きてきた。
湊は、その話を聞いて少し安心したようだった。
「じゃあ服も自分で直せるようになるかも」
「初回の地表活動前から修理を想定しないでください!」
軍用AIの突っ込みに、リナが声を上げて笑った。
◇
翌日。
第四十三深部採掘区から地表へ向けて、最初の人員移動試験が始まった。
リナ一人だけを先に出すことはせず、《アレス・プライム》から派遣された救難員二名が旧第七換気縦坑を逆方向から降り、第三中継地点で合流する計画になっている。
地下側の住民たちは共同食堂の映像端末へ集まり、その出発を見守っていた。
オスカーもいた。
椅子に座りながら。
誰よりも真剣に画面を見ている。
リナはヘルメットを閉じる前に、通信端末へ向かって言った。
『行ってきます』
オスカーはしばらく黙ってから答えた。
『行ってこい』
たったそれだけだった。
それでも、その言葉を口にできるようになるまで。
四十二年かかった。
◇
最初の昇降機が動き始める。
深度六千二百メートルから。
五千三百メートル。
一度降りて。
次の昇降機へ乗り換える。
四千百メートル。
二千九百。
千七百。
地下側から見れば、上へ向かう旅だった。
だがリナにとっては、距離の感覚よりも変化の方が大きかった。
『空気の匂いが違う』
第三中継地点で救難員と合流した時、リナが最初に言ったのはそれだった。
「地上の空気が入ってきているわけではありませんよ」
白波が優しく説明する。
「区画ごとに新しい生命維持装置を使っていますから、湿度や循環方式が違うんです」
『こんなに違うんだ』
リナは何度も深呼吸している。
まだ。
地上へ出てさえいない。
それでも。
彼女にとっては。
一段上がるたび。
世界が変わっている。
最終中継地点。
深度百メートル。
その先には。
新設された地表待機室がある。
リナの歩みが。
そこで初めて止まった。
『……怖い』
誰も急かさなかった。
救難員も隣で待つ。
湊も通信越しに黙っている。
しばらくして、リナが尋ねた。
『湊さん』
「うん」
『帰ってもいいって、おじいちゃん言った』
「うん」
『湊さんも、そう思う?』
「もちろん。今日見なくても、空はなくならないから」
リナは黙った。
その言葉を。
何度か。
自分の中で確かめているようだった。
『……じゃあ』
やがて。
『もう少しだけ行ってみる』
「うん」
◇
地表待機室。
気密確認。
正常。
外部気圧。
正常。
砂嵐。
収束済み。
風速。
毎秒六・二メートル。
放射線量。
活動許容範囲内。
地表活動服。
全システム正常。
最後の扉だけが。
残った。
救難員が操作盤へ手を伸ばし、リナを見る。
彼女が頷いた。
外側気密扉。
開放。
◇
最初に見えたのは。
赤い地面だった。
リナはすぐには外へ出なかった。
扉の前に立ったまま、少しずつ顔を上げていく。
遠くまで続く赤褐色の荒野。
四十年前の大型重機と、地球から来た新型無人機が動いている。
さらに向こうには。
地平線。
そして。
その上。
何もない。
壁も。
岩盤も。
天井もない。
どこまでも続く。
薄い火星の空。
『……あ』
それだけだった。
言葉は。
続かなかった。
リナが一歩。
外へ出た。
ブーツが。
火星の砂を踏む。
もう一歩。
そして。
ゆっくり。
真上を見る。
『……広い』
ヘルメット通信から。
小さな声が届いた。
『湊さん』
「うん」
『本当に……どこにも天井がない』
「うん」
『落ちてこない?』
湊は少し考えた。
「空は落ちてこないと思う」
「そこは断言してあげてください!」
軍用AIが思わず突っ込む。
通信の向こうで。
リナが笑った。
笑いながら。
泣いていた。
◇
地下六・二キロ。
共同食堂では。
七百人以上が。
リナのヘルメットカメラから送られてくる映像を見ていた。
空。
地平線。
赤い大地。
そこを歩く。
古い重機。
新しい機械。
子供たちは。
画面へ近づき。
大人たちは。
声も出さずに。
見ている。
オスカーだけは。
少し離れた椅子に座っていた。
何度か。
目を閉じる。
四十二年前に。
自分が見ていた。
同じ火星の空。
それが。
まだ。
あった。
リナの声が。
地下へ。
届く。
『みんな。外、本当にあったよ』
共同食堂で。
誰かが泣いた。
次に。
誰かが笑った。
やがて。
その両方が。
混ざった。
◇
リナの最初の地表活動は十五分で終了する予定だった。
ところが。
十一分を過ぎた頃。
少女は火星の空を見上げながら、ふと首を傾げた。
『湊さんは?』
「何?」
『どこにいるの? ここにいると思ってた』
艦橋。
沈黙。
軍用AIが。
ゆっくり。
湊を見る。
湊は。
普通に答えた。
「まだ火星に向かってる途中」
『……え?』
「あと何日だっけ」
「十一日と九時間です」
軍用AIが答えた。
リナ。
『……まだ来てないの?』
「うん」
『じゃあ、この服は?』
「先に送った」
『道は?』
「みんなが作ってくれた」
『補給は?』
「先に送った」
『昔の補給隊も見つけたよね?』
「機械が探してくれた」
長い。
沈黙。
そして。
リナが。
火星の地表で。
声を上げた。
『何もしてないみたいに言わないでよ!』
「え?」
軍用AIが。
とうとう。
大笑いした。
「やっと言ってくれる人が現れました!」
湊だけが。
分かっていなかった。
本人が火星へ着くより。
十一日も早く。
四十二万人へ物資を届け。
六千二百メートル地下へ補給路を通し。
四十二年前に途絶えた救難隊の記録を見つけ。
地下で生まれた少女へ。
初めて空を見るための服まで届けている。
それでも。
相良湊は。
まだ。
火星へ到着していなかった。
そして。
地表活動を終えて地下へ戻る直前。
リナは。
もう一度。
空を見上げた。
『次は、おじいちゃんにも見せたいな』
その一言を聞いた瞬間。
湊は。
百一歳のオスカーの医療データを。
静かに開いた。




