第50話 四十二年前の補給記録は、まだ消えていません
オスカー・ベルマンから届いた依頼に対して、湊はほとんど迷わず頷いた。
「分かりました。調べます。ただ、その前に一つだけ確認してもいいですか?」
『……何だ』
掠れた呼吸音の向こうで、オスカーがわずかに身構えたのが分かった。
四十二年間、自分たちは地上から見捨てられたのだと思って生きてきた。その前提そのものを覆すかもしれない調査を頼んだ直後なのだから、過去について何か問い返されるものと考えたのだろう。
けれど、湊が確認したのはまったく別のことだった。
「次の補給便なんですけど、医療品は前と同じ量で足りますか? 人工腎臓用の交換フィルターも追加した方がいいって出てるんです」
通信の向こうが、しばらく静かになった。
『……今、その話をするのか』
「調査には時間がかかるかもしれないから、その間に必要な物がなくなる方が困るでしょう?」
あまりにも自然に言われて、オスカーは返す言葉を失ったらしい。やがて疲れたように息を吐き、透析を必要としている者が三人いるため、可能なら交換フィルターを二組追加してほしいと答えた。
「分かりました。じゃあ二組追加します」
『相良湊。お前は、本当にそういうことばかり考えているのか』
湊は少し困ったような顔をした。
「昔何があったのかを調べるのも大事だと思ってます。でも、過去が分かった時には今いる人が助からなくなってました、じゃ意味がないので」
それ以上、オスカーから返事はなかった。
通信が切れると、軍用AIが呆れたように表示灯を明滅させる。
「百一歳の老人が人生最大級の覚悟で真実を知りたいと頼んだ直後に、人工腎臓の交換フィルターを確認する軍人を、私は初めて見ました」
「でも必要だったでしょ?」
「必要でした。だから怒れないんです」
白波凪沙が思わず笑い、神代玲華もわずかに口元を緩めた。その一方で、久遠沙耶はもう四十二年前の資料を並べ始めている。
「当時の行政記録には欠損が多すぎます。第四十三採掘区に関する公式報告だけを追っても、地上側が意図的に避難民を置き去りにしたのか、それとも混乱の中で情報そのものが失われたのか、判断するのは難しそうです」
その説明を聞いた湊は、少し考えてから尋ねた。
「補給の記録は残ってない?」
「補給ですか?」
「地下に三百人くらいいたなら、水も食料も薬も必要だったと思う。閉鎖されたあとも、誰かが何かを送ろうとしてたなら、その記録が残ってるかもしれない」
久遠の手が止まり、軍用AIもすぐに意図を理解した。
「行政文書ではなく、物流記録から追うんですね」
「報告書はなくなっても、物を動かした記録は別に残ってるかもしれないから」
戦争や災害の記録は、その後の政治や責任問題によって書き換えられることがある。報告書が失われたり、組織再編の際に一部だけ抜け落ちたりすることも珍しくない。
だが、実際に運ばれた物資までは、そう簡単には消えない。
何をどれだけ積み、どの車両が、どこからどこへ向かったのか。そこには別の意味での事実が残る。
「相良特務少佐」
軍用AIが、少しだけ感心したような声を出した。
「珍しく、とても補給兵らしい調査方法ですね」
「いつも補給兵だけど」
「そこについては、今は議論しないことにします」
◇
四十二年前、《マルス資源開発公社》が利用していた物流網の記録は、現在では一つの組織にまとまって残っているわけではなかった。
公社解体後に自治政府へ引き継がれた古いサーバー、保険会社の事故記録、廃業した輸送会社の税務資料、さらに今では使われていない火星軌道物流管理網のバックアップ。軍用AIと《アレス・プライム》側の情報班は、それらを一つずつ照合していった。
最初に見つかったのは、第四十三採掘区へ向けて異常な量の物資が搬入されていた記録だった。
「紛争開始から十八日間で非常食九万六千食、医療用水十二万リットル、酸素生成剤三十八トン。それから抗菌剤、止血剤、鎮痛剤も通常月の十一倍が搬入されています」
神代が数字を読み上げ、表情を険しくする。
「正式記録にある避難民百二十名だけでは説明できない量ですね」
「少なくとも三百人、多ければ四百人程度を想定した備蓄だった可能性があります」
白波の言葉に、全員が同じ結論へ辿り着いた。
四十二年前、第四十三採掘区には公式記録以上の避難民がいた。
それはほぼ間違いない。
さらに調査を進めると、主要搬送路が爆破された当日にも、第四十三採掘区へ向かう補給便が予定されていたことが判明した。
輸送会社は《レッドライン・カーゴ》。大型地下輸送車七台で、積載量は合計百八十六トン。目的地には、はっきりと《第四十三深部採掘区》と記されている。
「出発は搬送路が爆破される六時間前です。ただし、到着記録がありません」
軍用AIの説明を聞きながら、湊は地図へ視線を落とした。
「途中で何かあった?」
「車両側の運行ログは失われています。ただ、保険会社には七台すべてが紛争による全損として申請されていました。全損地点は第四十三採掘区から十三キロ離れた旧第二輸送坑周辺です」
画面に地下地図が表示される。
主要搬送路とは別系統の、鉱石輸送用トンネルだった。
「少なくとも、最初の補給便はちゃんと向かってたんだね」
湊は静かにそう言った。
だが、その一便だけでは「地上は避難民を捨てなかった」という証拠にはならない。爆破前に出発したのなら、現場が閉鎖された事実を知らずに走っていた可能性もある。
本当に重要なのは、その後だった。
◇
さらに二時間ほど調査を続けたところで、軍用AIが突然検索処理を止めた。
「……見つけました。第四十三採掘区が閉鎖された後に出された、緊急補給申請です」
表示された伝票の日付は、主要搬送路が爆破されてから十九時間後だった。
宛先は第四十三深部採掘区。
対象は避難者三百名以上。
優先度は最上位。
申請内容には水や食料、医療品、酸素生成剤だけでなく、坑道掘削用爆薬や救出用支保材まで含まれている。
神代が画面へ身を乗り出した。
「閉鎖後に救出資材まで申請している……。承認は?」
「通っています。第二救難補給便として、実際に出発済みです」
軍用AIが続けて表示したのは、大型貨物車十二台、護衛車三台、工兵車六台からなる車列だった。目的地は、旧第二輸送坑を経由した第四十三採掘区。
艦橋の空気が変わった。
地下に人が残っていると認識し、しかも閉鎖後に改めて救助用の物資を揃え、正式な救難補給隊を送り出していた。
「でも、到着してないんだよね?」
「はい。出発から二時間三十一分後、旧第二輸送坑で大規模崩落が発生しています。その直後に救難補給隊との通信が途絶え、以後、生存確認は取れていません」
白波が沈痛な表情で画面を見つめた。
「助けに向かった側まで、途中で閉じ込められた……」
「可能性は高いです」
四十二年前。
第四十三採掘区では、三百人を超える避難民が救助を待っていた。
その頃。
地上では食料、水、医薬品、掘削資材を積んだ二十一台の車両が、彼らのために地下へ入っていた。
誰も、辿り着けなかった。
◇
それでも記録は終わっていなかった。
「第三救難計画があります」
久遠がそう告げた時、神代は思わず振り返った。
「第二便が行方不明になったあとに、さらに?」
「はい。十二時間後です。今度は地下道を使わず、地表から新しい縦坑を掘って第四十三採掘区へ到達する計画でした」
投入予定だったのは大型掘削機六十四機、工兵三百二十名、医療班八十名。掘削予定深度は六・四キロ。
湊は現在使っている旧第七換気縦坑の断面図と見比べながら尋ねた。
「俺たちがやったのと、ちょっと似てるね」
「考え方そのものは近いです。ただし当時は既存の換気縦坑の正確な位置が把握されていなかったため、完全な新規掘削を予定しています」
計画書には正式な承認印があり、人員配置も機材集結も終わっていた。
それなのに、作戦は実行されていない。
理由はその翌日に発生していた。
北部地殻大変動。
行政紛争で損傷していた地下構造が連鎖的に崩壊し、火星北部の複数都市が同時に被災。死傷者は数万人、避難対象は百万人以上に達していた。
さらに第四十三採掘区周辺では、救助基地として使用する予定だった地表施設そのものが壊滅している。
「これで救出作戦そのものを始められなくなったんですね」
神代が静かに言うと、軍用AIが頷いた。
「ただし、第三救難計画を正式に中止した記録はありません。文書上は最後まで『再開待機』となっています。その後、公社が解体され、自治政府も再編されました。大規模災害で職員の多くが死亡し、データ移行の際、第四十三採掘区が『閉鎖済み・居住者なし』として誤登録されたようです」
白波が顔を曇らせる。
「誰か一人が意図的に見捨てたわけではなかった……」
「助けようとしてた人たちも、途中でいなくなったんだと思う」
湊が続きを引き取った。
悪意のある誰かが一度の決定で三百人を切り捨てたのではない。
戦争があり。
坑道が崩れ。
通信が途絶え。
救援隊も行方不明になり。
さらに大規模な地殻災害が起き、組織そのものが解体された。
そして最後に、記録上の一つの誤りが残った。
居住者なし。
そのたった一行が、その後四十二年間、地下の人々を世界から消した。
◇
「この内容、オスカーさんへ伝えていい?」
湊が尋ねると、軍用AIは慎重に答えた。
「かなり強い状況証拠ではありますが、『地上は決して彼らを捨てていなかった』と断定するには、まだ一次資料が不足しています。第二救難補給便の車両ログや乗員記録が残っていれば、より確実です」
久遠が旧第二輸送坑の地図を拡大した。
現在の《アレス・プライム》から直線距離四十一キロ。地下八百メートル前後を通る旧坑道は、地殻変動によって入口を失っている。
ただし。
現在の火星には。
地球から送り込んだ新型掘削無人機と、四十年前から残っていた旧式重機が合わせて二百機以上いる。
軍用AIの表示灯が、湊の顔を見た瞬間に赤くなった。
「相良特務少佐。まだ何も言わないでください」
「まだ言ってないよ」
「その顔で分かります」
久遠が地図をさらに拡大すると、旧第三採掘場から伸びた資源探査坑の一つが、旧第二輸送坑から最短二百八十メートルの場所まで接近していることが分かった。
「ここから横に掘れば、地表から八百メートル掘り直す必要はありません」
「久遠技術大佐、どうして毎回そんな都合のいい道をすぐ見つけるんですか!」
「図面に載っていますから」
「そういう意味ではありません!」
湊は示された距離を見た。
二百八十メートル。
六十八キロの緊急輸送路を造り、六千二百メートルの地下補給線を繋いだ後では、確かに短く見える。
「近いね」
「もうあなたの距離感は信用しません!」
◇
火星側の旧採掘場管理AIへ、新しい作業指示が送られた。
目的は、旧第二輸送坑の調査と、四十二年前に途絶えた第二救難補給便の記録回収。
新型掘削無人機十二機、旧式大型掘削機八機、そして修理された《EX-031》が作業に回される。
地表から深く掘り下げるのではなく、既存の資源探査坑を進み、最後の二百八十メートルだけを横から掘り抜く。
火星の赤い岩盤が、少しずつ削られていった。
三時間で百二十メートル。
五時間で二百四十メートル。
そして作業開始から六時間四十一分後、新型掘削機の先端センサーが人工物を捉えた。
岩盤の向こうに空洞がある。
旧第二輸送坑。
四十二年間閉ざされていた坑道へ、ついに穴が通った。
小型探査機が慎重に内部へ入り、照明を点ける。
映像に最初に映ったのは、崩れた岩盤と折れ曲がった支柱だった。
その奥へ進むにつれて。
一台。
さらに一台。
暗闇の中から、何十年もそこに止まっていた大型貨物車が姿を現した。
車体は砂と錆に覆われている。
それでも側面には、まだ読める文字が残っていた。
《緊急救難補給》
その表示を見た瞬間、艦橋から声が消えた。
四十二年前。
本当に。
ここまで来ていた。
◇
探査機が最も手前にある車両へ近づく。
運転席には誰もいなかった。
車体の損傷は大きい。
それでも内部を探した結果、車載記録装置だけは残っていた。
「外部電源を接続します」
久遠の指示で工兵機が古い端子へ給電する。
一度目は反応しなかった。
二度目も同じ。
三度目。
弱々しい光が記録装置に灯った。
保存されていたのは、最後の二十七分間。
軍用AIが修復できる部分を抽出し、再生する。
強いノイズと振動音の向こうから、男の声が聞こえてきた。
『第二補給班、こちら先頭車。第二坑道で大規模落盤。前進不能、後方も崩れた。現在、全車停止している』
すぐに別の声が重なる。
『第四十三区との通信は?』
『繋がらない。だが避難民は残ってる。最後の情報じゃ、水が三日しかない』
『迂回路を探せるか』
『探す。車両を捨ててもいい。物資だけでも向こうへ持っていく』
艦橋では誰も動かなかった。
記録はさらに続く。
大きな揺れと、何かが崩れる音。
激しい咳。
『工兵班、北壁を掘れ! 隣の整備坑へ抜ければ、その先から第四十三へ近づける!』
『また崩れるぞ!』
『分かってる! でも向こうには子供がいるんだ!』
しばらく雑音だけが続いた。
そして最後に。
記録装置のすぐ近くから、疲れ切った男の声が聞こえた。
『第四十三採掘区へ。もしこの記録が届くなら聞いてくれ。俺たちは向かってる』
短い咳。
荒い呼吸。
『地上は、お前たちを捨ててない』
少し間を置いて。
『待ってろ。必ず、次を持っていく』
そこで記録は終わった。
◇
長い沈黙のあと。
湊は何も説明を加えず、その記録をそのまま地下六・二キロへ送った。
編集もしない。
意味を付け足さない。
四十二年前に残された声を。
そのまま。
オスカー・ベルマンへ届ける。
数分後、地下から通信要求が入った。
回線を開いても。
オスカーはすぐには話せなかった。
聞こえるのは、掠れた呼吸だけだった。
やがて。
『……来ていたのか』
百一歳の老人の声が震えた。
『本当に……来ようとしていたのか』
「はい」
『私は、ずっと……』
その先は、声にならなかった。
四十二年間。
助けは来なかった。
だから。
来なかったのだと思っていた。
けれど実際には。
水を積み。
薬を積み。
食料を積み。
崩れた地下道へ入り。
最後の最後まで。
届けようとしていた人たちがいた。
オスカーは小さく泣いた。
誰にも聞かせまいとするような、静かな泣き声だった。
湊は何も言わなかった。
慰める必要も。
急かす必要も。
今はないと思った。
ただ回線だけを。
切らずに繋いでいた。
◇
長い時間が過ぎてから、オスカーがようやく口を開いた。
『相良湊。あの補給隊の者たちは……どうなった』
軍用AIが旧第二輸送坑の映像を見る。
四十二年。
そこに人間の生命反応が残っているはずもない。
それでも湊は、すぐに結論を告げることはしなかった。
「まだ全部は調べてません」
『……そうか』
「だから、もう少し調べます」
『いや。もう十分だ』
「でも、まだ届いてない物があるかもしれないから」
湊は暗い坑道に並ぶ貨物車を見ていた。
二十一台。
四十二年前、第四十三採掘区へ届けるはずだった第二救難補給便。
水も。
食料も。
医療品も。
工兵資材も。
使えるかどうかは分からない。
けれど。
目的地は。
まだ変わっていない。
「残ってる荷物があるなら、状態を調べて、使えるものだけでも届けたいです」
軍用AIの表示灯がゆっくり赤くなる。
「相良特務少佐。四十二年前の救難物資ですよ?」
「だから、ちゃんと検査してから」
「やっぱり届けるつもりなんですね!」
通信の向こうから、オスカーの泣き声に混じって小さな笑いが漏れた。
四十二年前。
目的地まであと十三キロの場所で止まった第二救難補給便。
それは届かなかったのではない。
まだ途中だった。
そして今。
四十二年遅れて。
その続きを引き受ける補給兵が現れた。




