第49話 外を信じられないなら、信じなくても届く補給にします
お名前は伏せさせて頂きますがここに感謝を。
地下六・二キロとの通信が強制的に切断されても、旧第七換気縦坑を利用した補給リレーは止まらなかった。
地表では第十便の円筒形補給容器が大型ウインチへ吊り下げられ、水や保存食、抗生物質、栄養剤、さらに地下側から追加要求のあった人工腎臓用交換フィルターを載せて、暗い縦坑へゆっくりと降りていく。六段に分けて設置された中継地点では無人工兵機が待機しており、到着した容器を次のケーブルへ付け替えながら、六千二百メートル下の第四十三深部採掘区へ順番に送り届けていた。
会話を拒絶されても、物資を受け取る設備そのものは停止していない。
《スウィフト》の艦橋でその事実を確認した湊は、地下管理AIから返されてくる受領記録を眺めながら、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「通信は切られたけど、ご飯も水も受け取ってくれてるんだね。それなら、今は無理に話してもらわなくてもいいかな」
「食料、水、医療品はいずれも受領済みです。酸素濃度も危険域を脱し、水の配給制限は一段階緩和されました。重症者三十七名についても、先ほど送った医薬品によって処置可能になった者が出ています」
軍用AIが生命維持状況を一つの画面へまとめると、その隣で神代玲華がわずかに眉を寄せた。
「物資が届いているのは喜ばしいですが、通信を強制的に遮断した人物については警戒しておく必要があります。四十二年間、地下住民へ外界との接触を禁じていた管理責任者がいるのでしょう?」
「うん。でも向こうはずっと、外は危険だと思って暮らしてきたんだよね。そこへ急に知らない人間が現れて、『今まで教えられてきたことは全部違います』なんて言っても、すぐには信じられないと思う」
湊の返答に、軍用AIはわずかに間を置いた。
「その管理責任者が、意図的に虚偽の情報を広めていた可能性もあります。住民を外界から隔離し続けた危険人物という可能性まで、現時点では否定できません」
「それもあると思う。でも、その人が良い人なのか悪い人なのかを調べることと、七百八十一人がお腹を空かせていることは別だから。補給を止める理由にはならないよ」
湊は相手を庇っているわけではなかった。疑うべきところは疑えばいいし、四十二年間の経緯についてもいずれ調べる必要がある。ただ、その結論が出るまで水も薬も止めてしまうという考えが、彼には最初から存在していなかった。
神代はその横顔を見て目を細め、白波凪沙は小さく息を吐いた。久遠沙耶だけは会話に加わることなく、すでに次便へ積載する医療品の量を調整している。
「あなたは本当に、こういうところだけは一切ぶれませんね」
軍用AIが呆れ半分の声を出すと、湊は不思議そうに端末から顔を上げた。
「補給だから。必要な人に必要な物を送るのが先でしょ?」
「その一言で全部説明できてしまうのが、最近いちばん困っています」
◇
《アレス・プライム》中央救難司令所では、エレナ・フォーク大佐が四十二年前の記録を片端から掘り起こしていた。
地下六・二キロの第四十三深部採掘区には現在七百八十一人が生活している。その祖先になった可能性が高いのは、四十二年前の行政紛争期に行方不明となった三百十二名。そして、その集団を現在まで率いている百一歳の管理責任者についても、ようやく身元を特定することができた。
「オスカー・ベルマン。当時五十九歳、《マルス資源開発公社》第四十三採掘区の副管理責任者か」
古い職員記録には、今よりはるかに若い男の顔写真が残っていた。専門は地下環境維持設備と閉鎖型生命維持施設で、武装組織への所属歴や戦闘参加記録はない。
通信士が別の資料を開きながら説明する。
「行政紛争への直接関与は確認できません。ただ、紛争終盤の第四十三採掘区には避難民が流入していた形跡があります。正式記録では百二十名を受け入れたことになっていますが、当時搬入された食料や医薬品の量から考えると、実際にはその三倍近い人数がいた可能性があります」
「行方不明者の一部が、戦闘を避けるために地下へ逃げ込んだということか。それなら疑問は、その後だな。紛争が終わっても、どうして誰一人戻ってこなかった」
通信士も答えられなかった。
ところが資料をさらに遡るうち、第四十三採掘区が正式閉鎖される三日前、地上と地下を結んでいた主要搬送路が爆破されている記録が見つかった。
公式報告には「撤退完了後の安全封鎖」とだけ記されている。
しかし実際の爆破時刻と、避難民の移動記録を重ね合わせると、地下にまだ多数の人間が残されていた可能性を否定できなかった。
エレナの表情から、次第に色が消えていった。
「事故で取り残されたんじゃない。地上へ戻る道そのものを、上から塞がれた可能性があるのか」
通信士は答えず、ただ記録を見つめた。
もしそれが事実なら、オスカー・ベルマンがなぜ地上を信じなくなったのかについて、少なくとも一つの筋道は見えてくる。
助けを求めた相手によって出口を塞がれたのだとすれば。
四十二年という時間は、人間一人の不信を確信へ変えるには十分すぎた。
◇
第十一便の補給容器が五段目の中継地点へ到達した頃、地下側から久しぶりに通信が入った。
音声ではなく、短い文字通信だった。
《補給停止を要求》
続けて、《外部物資による生物学的汚染の危険》《地下環境への未知病原体侵入を懸念》《追加搬入を停止せよ》という警告が表示される。
白波は内容を読み終えると、すぐに地下側の立場を理解した。
「外界そのものが滅びた、あるいは毒に汚染されていると教えられてきたのなら、そこから届く物資まで危険だと思うのは自然ですね。こちらでは安全だと分かっていても、向こうには確認する手段がほとんどありません」
久遠も補給容器の衛生仕様を呼び出した。
「現在送っている物資はすべて救難用基準で滅菌処理され、密閉容器へ封入されています。ただ、こちら側の検査記録だけ提示しても、外そのものを信用していない相手への証明にはなりません」
湊はしばらく考え、地下から返された警告文と補給容器の構造図を交互に見た。
「だったら、向こうが自分で安全を確かめられるようにすればいいんじゃないかな。食べ物や水は二重に包んで、外側だけ地下で捨てられるようにする。中身も一つずつ密封して、開ける前に検査できるようにするとか」
久遠はすぐに意図を理解した。
「可能です。外装を汚染防止用として切り離し、内部容器は独立密封。さらに封入工程と滅菌記録を記録媒体へ付ければ、地下側で照合できます」
「簡易検査装置も追加しましょう。細菌や真菌、主要なウイルス汚染程度なら、相手側で物資ごとに確認できます」
軍用AIが補足すると、神代が湊を見る。
「補給停止そのものには応じないんですね」
「止めたら本当に困る人がいるから。でも、怖いと思っている物を無理やり使わせるのも違うよ。届かせるだけ届かせて、安全だと思えた時に使ってもらえばいい」
湊が地下側へ送った返答は、その考えをそのまま文章にしたものだった。
《補給は継続します。ただし、受け取りたくない物資を使用する必要はありません。未開封のまま保管して構いません。次便から地下側で安全確認できる検査機器を同梱し、食品・飲料水・医療品については二重包装へ変更します。必要になった時だけ使用してください。ほかに不足物資があれば教えてください》
送信後。
地下から返事はなかった。
それでも第十二便の準備は、そのまま進められた。
◇
その文章を、第四十三深部採掘区の最深部居住区で読んでいる老人がいた。
オスカー・ベルマン、百一歳。
旧式の医療補助椅子に細い身体を預け、白濁した片目で表示端末を見つめている。若い頃には頑丈だったであろう肩はすっかり痩せ、呼吸も補助器具なしでは長く続かない。
それでも彼は、四十二年間この地下を守り続けてきた。
始まりは、三百人ほどだった。
火星北部で武装衝突が激化した夜、負傷した作業員だけでなく、逃げ場を失った家族や親を亡くした子供たちまで、第四十三採掘区へ次々と逃げ込んできた。オスカーたちは本来の採掘作業を止め、非常用の閉鎖型生命維持設備を起動して避難民を受け入れた。
地下から何度も救難信号を送った。
最初のうちは、地上からわずかな応答もあった。
ところが紛争が激しくなるにつれて通信は途切れ、ある日、主要搬送路の向こうで大きな振動が起きた。
出口が塞がれた。
その直前に聞いた最後の地上通信には、第四十三採掘区を「完全閉鎖する」という言葉が含まれていた。
オスカーたちはそれでも救助を待った。
一日。
一週間。
一か月。
一年。
何度信号を送っても誰も来なかった。
やがて遠距離受信設備も壊れ、地上で何が起きているのか知る方法さえ失われた。
最初の頃、オスカーは子供たちへ「もうすぐ助けが来る」と言っていた。
だが、二年が過ぎても来なかった。
五年が過ぎても来なかった。
その頃には、子供から尋ねられる言葉が変わっていた。
どうして誰も助けてくれないの。
地上の人は、私たちが嫌いなの。
自分たちは捨てられたの。
オスカーには、その問いへ答えられなかった。
地上は自分たちを見捨てた。
そう子供へ教えることだけは、どうしてもできなかった。
だから彼は別の答えを作った。
地上は戦争で滅びた。
外は汚染され、人間が生きられる場所ではなくなった。
ここだけが安全なのだと。
最初は、残酷な真実から子供たちを守るためについた嘘だった。
ところが十年、二十年、三十年と閉鎖生活が続くうち、外を知る第一世代は少しずつ死んでいった。地下で生まれた者が増え、地上は記憶ではなく昔話になった。
そして気づけば。
嘘をついた本人であるオスカー自身まで、本当に地上は消えたのかもしれないと思うようになっていた。
「……補給、か」
老人は端末に表示された返答を何度も読み返した。
外から来た男へ、物資を止めろと命じた。
男は止めないと言った。
だが、使えとも言わなかった。
危険だと思うなら開けなくていい。
必要になった時だけ使えばいい。
安全かどうかは、自分たちで調べて構わない。
そんな返答だった。
「何者なんだ……こいつは」
そばで介助していた若者が、戸惑いながら答える。
「相良湊という人です。軍人らしいのですが、自分では補給兵だと言っています」
「補給兵……?」
オスカーはゆっくりと目を閉じた。
「そんな補給兵がいるものか」
◇
それから二時間後。
地下側から再び通信要求が入り、今度は発信者名として《オスカー・ベルマン》が表示された。
《スウィフト》の艦橋が静まり、軍用AIが回線を開く。
強いノイズの向こうから聞こえてきたのは、百年以上を生きた老人らしい、乾いて掠れた声だった。
『……相良湊。聞こえているか』
「はい、聞こえます」
『お前が、外の部隊を指揮している人間か』
「違います。火星救難部隊にはちゃんと指揮官がいます。俺は補給担当です」
即答した湊を見て神代が小さく目を閉じ、軍用AIも「やはりそう答えますよね」とでも言いたげに表示灯を明滅させた。
オスカーはしばらく黙っていたが、やがて警戒を隠さない声で尋ねた。
『軍人なのだろう。それなら命令を受けて、我々のところへ物を送っているのか』
「火星へ来たのは救難任務です。でも、地下に補給を始めたのは救難信号を見つけたからです。誰がいるのか分からなくても、酸素や食料が足りないという信号は出ていましたから」
『我々が犯罪者だったとしてもか。あるいは、地上の人間にとって敵だったとしても、お前は同じことをしたのか』
「たぶん。同じようにお腹が空いてたり、薬が足りなかったりするなら」
あまりにも迷いのない返事だった。
通信の向こうでオスカーが息を吐く。呆れたのか、それとも笑ったのか、ノイズ越しには判別できない。
『……愚かな男だ』
「それ、わりとよく言われます」
「そこは一度くらい否定してください!」
軍用AIの声が思わず回線へ入り込んだ。
その直後。
地下側から、ほんのわずかな笑い声が聞こえた。
小さく、すぐ消えた声だった。
それでもオスカー・ベルマンにとって、外の人間と話しながら笑ったのは、四十二年ぶりのことだった。
◇
会話が少しだけ穏やかになったあと、オスカーは長い間迷っていたことを尋ねた。
『相良湊。お前たちは、いずれ我々へ地上へ出ろと命じるのか』
湊はすぐには答えなかった。
地下には七百八十一人がいる。
三世代にわたり、そこを家として暮らしてきた人々だ。空を見たことのない者もいれば、地上は人間が生きられない毒の世界だと教えられて育った者もいる。
助けるという理由で彼らを無理に外へ引きずり出せば、それはもう救助とは呼べない。
「出たい人は出ればいいし、出たくないなら無理に出なくてもいいと思います。地下がみんなの家なら、住み続けること自体は悪くないです」
オスカーは予想外の答えに戸惑ったらしい。
『……ならば、なぜ我々へ通路を繋ごうとしている』
「地下に住み続けるとしても、病気になった時に薬がないとか、水が足りなくなった時に誰にも頼れないとか、そういうのは困るでしょう。だから人が出入りするためじゃなくても、物が通れる道だけは残しておきたいんです」
『外へ出るための道ではない、と?』
「補給路です。外を信じられなくてもいいし、俺たちを信用しなくてもいい。ただ、困った時に必要な物が届く道だけあれば、選べるから」
再び。
長い沈黙が訪れた。
オスカーは四十二年前、地上へ繋がる道を失った。
その瞬間から、地下の人間には選択肢がなくなった。
外へ出たくても出られない。
助けを求めても届かない。
薬が尽きても、水が減っても、自分たちだけで耐える以外になかった。
その老人へ。
今度は外から来た補給兵が、出てこなくていいと言った。
信じなくてもいいと言った。
ただ道だけは繋ぐ、と。
『……我々がお前を信じなくても、物資を送り続けるのか』
「必要なら送ります。補給なので」
オスカーは返事をしなかった。
けれど、その沈黙は。
最初に回線を切った時とは。
少しだけ違っていた。
◇
通信終了から間もなく、地下側から第十三便への追加希望が届いた。
軍用AIが要求一覧を読み上げていく。
「医療用鎮痛剤、抗菌剤、栄養剤、衛生用品。それから、現在の地上や宇宙について子供でも理解できる資料を希望しています」
白波が柔らかい表情になった。
「リナたちのためでしょうか」
「発信者はオスカー・ベルマン本人です。希望品目には『絵本』とあります」
湊も少し嬉しそうに画面を覗き込んだ。
「じゃあ、できるだけいっぱい送ろう」
「紙の本を大量に積む余裕はありませんよ」
「データなら?」
その問いには久遠がすぐ答えた。
「耐衝撃記録媒体一つで数千冊分入ります。端末も既に地下へありますから、問題ありません」
「それでお願いします」
「そう言うと思いました」
第十三便の内容が変更された。
医療用鎮痛剤、抗菌剤、栄養剤、衛生用品、簡易検査装置。
さらに一枚の記録媒体。
収録された子供向け電子図書は三千二百冊。
火星の地表や空を扱ったもの。
地球の海や山、森を紹介するもの。
動物や植物の図鑑。
月や惑星、宇宙船、星空について説明するもの。
四十二年間、外界から切り離されていた子供たちが、好きなものから読めるように選ばれていた。
第十三便は旧第七換気縦坑から、六段の補給リレーを通って静かに地下へ降りていく。
七百八十一人は、まだ地上を完全には信じていない。
外へ出るとも決めていない。
けれど、それでよかった。
外へ来なくてもいい。
こちらを信じなくてもいい。
扉を開ける覚悟ができなくてもいい。
必要な物だけは届く。
その選択肢だけは、もう二度と失わせない。
湊にとって、それは特別な理念ではなかった。
補給兵として、当然のことだった。
◇
第十三便の補給容器が最下部へ到着した直後、オスカーからもう一度だけ通信が入った。
『相良湊。まだ聞こえているか』
「はい。どうしました?」
老人は何かを言いかけて、何度か言葉を飲み込んだ。
四十二年前、救難信号を送り続けても誰も来なかった。
道を塞がれ、地上との通信を失い、子供たちへ「自分たちは捨てられた」と伝えることすらできず、外そのものが滅びたのだと教えることで生き延びてきた。
もし。
それが違っていたら。
自分が四十二年間信じ続け、子供や孫の世代にまで教えてきたものは、何だったのか。
掠れた呼吸音だけがしばらく回線を流れたあと、オスカーはようやく口を開いた。
『一つだけ、頼みがある。怖くて……ずっと確かめられなかったことだ』
「何ですか?」
『四十二年前、地上が本当に我々を捨てたのか。それとも、何か別のことが起きていたのか……調べてくれないか』
その声には、怒りよりも恐怖が滲んでいた。
四十二年間、自分が地下の七百八十一人を守るために支えにしてきた過去を、これから自分自身の手で壊すことになるかもしれない。
それでも。
百一歳になったオスカー・ベルマンは初めて、真実を知りたいと願った。




