第11話 退院許可ではなく、病室移動許可です
少し借りただけなのに。
黒崎宗一郎海将は、その一言を聞いた瞬間、本気で相良湊の頭を殴りたくなった。
最新鋭統合戦艦、天城。
就役からわずか二か月。
建造費は国家予算へ影響を与えるほど。
単艦で一個艦隊に匹敵するとまで言われた最新鋭艦が、初めての本格任務で事実上の全損となった。
原因は敵巡洋艦の砲撃ではない。
敵潜水艦の魚雷でもない。
機雷の直撃ですらなかった。
相良湊を乗せた状態で、限界を超えた急旋回と機雷原突破を繰り返した結果、艦体内部の骨格が広範囲に歪んでいた。
外見だけなら、まだ戦えるように見える。
だが次に主砲を撃てば、どこが壊れるか分からない。
もう戦場へ出すことはできない。
黒崎は拳を握り締めた。
殴ってはいけない。
湊は負傷者だ。
左肩には破片が刺さっていた。
右脚にはひどい打撲。
肋骨にはひび。
敵地で何日も動き続け、十分な睡眠も食事も取っていない。
しかも二千四百人以上を救って帰ってきた直後だ。
殴ってはいけない。
それでも黒崎の拳は震えた。
湊が黒崎の顔を見る。
やっぱり、かなり怒ってますか。
怒っている。
すみません。
湊は素直に頭を下げた。
黒崎は少しだけ拳の力を抜いた。
だが湊は続けた。
でも、あの艦がなかったら間に合いませんでした。
黒崎の拳へ再び力が入った。
それも分かっている。
天城が出なければ、ノルド半島の友軍と民間人は救えなかった。
敵艦隊を突破できる艦も、あれほどの人数を収容できる艦も、あの時点では天城しかなかった。
結果だけを見れば、湊の判断は正しい。
二千四百六十一名。
救助活動中の死亡者はゼロ。
敵艦隊を撃沈せず、戦闘能力だけを奪った。
敵潜水艦の乗員まで、降伏後は救助している。
戦術的には、信じられないほど大きな成功だった。
代償として、最新鋭戦艦一隻が壊れただけで。
黒崎は深く息を吐いた。
天城AIから、何か連絡は。
まだない。
全損判定を伝えられてから、外部通信に応答していない。
そうですか。
湊の表情が曇った。
黒崎はその顔を見て、怒りを抑えた。
湊が天城を道具としてしか見ていないのなら、もっと簡単に叱れた。
だが違う。
壊してしまったことを、本気で気にしている。
自分の怪我よりも。
黒崎が言う。
乾ドックへ行くつもりか。
はい。
謝らないと。
駄目だ。
湊は少し驚いた。
どうしてですか。
お前は病院へ戻る。
治療は終わりました。
黒崎は湊が持っている紙を見る。
医療区画退出許可。
確かにそう書かれている。
湊はその紙を示した。
退院許可も出ました。
黒崎は紙を奪い取った。
上から下まで読む。
そして顔を上げた。
これは退院許可ではない。
え。
緊急処置室から一般病棟への移動許可だ。
湊は紙を見る。
もう一度読む。
医療区画退出後、第三特別病棟へ移送。
確かに書かれていた。
湊は少し考えた。
病院の中を移動していいという意味ですか。
そうだ。
外へ出てはいけないという意味でもある。
黒崎がそう告げた直後。
廊下の向こうから、複数の足音が響いた。
規則正しく、速い。
黒崎は横へ避けた。
先頭を歩いてきたのは、空軍の神代玲華空将補だった。
その後ろには、空軍憲兵と衛生兵が並んでいる。
神代は湊の姿を見つけると、真っすぐ近づいてきた。
相良伍長。
はい。
どちらへ行くつもりですか。
天城のところへ。
駄目です。
即答だった。
でも。
駄目です。
まだ何も説明してない。
説明は不要です。
神代は湊の左肩を見る。
包帯。
固定された右脚。
浅くなっている呼吸。
無理をして真っすぐ立っていることも、一目で分かった。
神代の声が低くなる。
肋骨。
左肩。
右脚。
全身の裂傷。
失血。
睡眠不足。
栄養状態も悪い。
その状態で、どこへ行くと。
歩けます。
歩けることは、退院理由になりません。
神代が右手を上げた。
後ろにいた空軍衛生兵が前へ出る。
移動用寝台まで用意されていた。
湊が一歩下がる。
自分で歩けます。
選択肢は二つです。
神代が静かに言った。
自分から寝台へ乗る。
または、空軍憲兵四名に固定されて乗せられる。
黒崎が横から付け加える。
俺なら前者を選ぶ。
湊は廊下の反対側を見た。
逃げ道を探したわけではない。
少しだけ、別の出口がないか確認しただけだった。
だが、そちらからも軍人たちが現れた。
白い海軍礼装。
先頭を歩くのは、長い黒髪を後ろで束ねた女性士官。
第一主力艦隊所属。
高速戦闘艦隊を率いる海軍の英雄。
白波凪沙海将補。
三年前、艦隊が敵海域で分断された際、最後まで取り残されていた艦の指揮官だった。
湊が三度目の補給へ向かった理由となった人物でもある。
白波は湊の前へ来ると、冷たい目で神代を見る。
空軍が勝手に相良伍長を連れていかないでください。
病室へ戻すだけです。
その病室の警備を、なぜ空軍が担当しているのですか。
再び輸送機へ乗り込まないようにするためです。
航空機へ近づけなければ済む話でしょう。
海軍の管理区域で療養させます。
湊が口を挟む。
病院ですよね。
二人とも湊を見た。
黙っていてください。
今は私たちが話しています。
湊は素直に黙った。
さらに別の廊下から、重い足音が近づく。
今度は陸軍だった。
先頭には、短く切り揃えた銀髪の女性将校。
大陸方面軍の機甲部隊を率い、包囲された味方部隊を幾度も救出した陸軍英雄。
久遠沙耶陸将補。
かつて救出に来た自分の部隊ごと包囲され、湊に連れ帰られた人物だった。
久遠は三人の前へ立つ。
話は聞きました。
相良伍長は陸軍病棟へ移します。
神代が眉をひそめる。
なぜ陸軍病棟なのですか。
相良伍長は陸軍所属です。
第三統合補給大隊です。
特定軍種の所有物ではありません。
ならば統合病棟でよいでしょう。
白波が言う。
統合病棟では警備が足りません。
海兵隊を配置します。
久遠の目が細くなる。
負傷者の病室を海兵隊で包囲するつもりですか。
必要なら。
逃げますから。
湊が思わず口を開いた。
逃げません。
三人の女性将校が同時に湊を見る。
神代が尋ねる。
敵地の飛行場から、無断で大型輸送機を借りましたね。
必要だったので。
白波が続ける。
最新鋭戦艦を無断で出港させましたね。
必要だったので。
久遠が最後に聞く。
今も全損した天城のところへ行こうとしていましたね。
必要だから。
三人が同時に言った。
逃げます。
湊は反論できなかった。
黒崎が少しだけ笑いを堪えている。
久遠が移動用寝台を指した。
乗ってください。
歩けます。
神代が空軍憲兵を見る。
白波が海兵隊員を見る。
久遠が陸軍兵へ頷く。
湊は自分から寝台へ座った。
それでいいんです。
最初からそうしてください。
判断が遅いです。
寝台の固定帯が湊の腰と胸へ巻かれる。
湊が不満そうに見る。
ここまで固定する必要ありますか。
あります。
絶対に。
足りないくらいです。
三人の意見が初めて一致した。
湊は第三特別病棟へ運ばれた。
病室は広い個室。
窓は開かない。
扉は外からも内側からも監視されている。
医療機器。
治療用ドローン。
生体監視装置。
普通の患者には過剰な設備だった。
湊が寝台から病床へ移される。
神代が毛布を掛ける。
白波が点滴の残量を確認。
久遠が病室内の窓と非常口を調べる。
湊は三人を見る。
もう大丈夫です。
大丈夫かどうかは医師が決めます。
神代が答える。
少なくとも一週間は安静です。
白波が続ける。
一週間。
久遠は首を振った。
二週間は必要です。
そんなに休めません。
神代の表情が冷たくなる。
休むのです。
次の任務が。
ありません。
白波が携帯端末を見せる。
相良伍長に割り当てられていたすべての任務は、黒崎海将の命令で解除されました。
補給大隊の仕事は。
久遠が答える。
代理要員を配置済みです。
誰かが困る。
誰も困りません。
神代が湊の病床へ顔を近づけた。
あなたが動くほうが、全軍が困ります。
大型輸送機一機。
最新鋭戦艦一隻。
敵軍兵器多数。
あなたが数日で壊した装備の一覧を読み上げましょうか。
敵軍兵器は壊していいだろ。
そこではありません。
白波は椅子を病床の横へ置いた。
退院後の配置についても、こちらで検討します。
湊が嫌な予感を覚えた。
配置。
海軍で預かります。
白波が即答する。
艦隊補給部門なら、無断で艦を借りる必要はありません。
正式に好きな艦へ乗せられます。
神代が反対する。
航空救難部隊です。
相良伍長の能力は、航空救出任務で最も有効に発揮されます。
専用輸送機と護衛飛行隊を付けます。
久遠が二人を見る。
陸軍です。
相良伍長の所属を勝手に変更しないでください。
地上部隊なら、少なくとも大型戦艦を壊すことはありません。
戦車を補給車扱いする可能性があります。
神代が言う。
装甲車を滑走路作成用に使用した記録もあります。
白波も言う。
どこへ置いても同じでは。
久遠が黙った。
湊は三人の会話を聞きながら、病床から起き上がろうとした。
その瞬間。
治療用ドローン二機が飛んできた。
神代が肩を押さえる。
白波が毛布を引き戻す。
久遠が病床の起き上がり機能を停止した。
湊は再び横になった。
水を取りたかっただけです。
私が取ります。
神代が水差しへ手を伸ばす。
白波も同時に手を伸ばした。
二人の手が重なる。
数秒間。
互いに動かない。
久遠が別の水差しを取り、湊へ渡した。
効率が悪いですね。
神代と白波の視線が久遠へ向く。
病室の空気が変わった。
湊は水を飲みながら、黒崎に助けを求めるように扉を見る。
だが黒崎は、すでに病室から出ていた。
扉の外。
黒崎は修一と明里へ状況を説明していた。
明里は息子が強制入院させられたと聞き、心底安心した顔をする。
お願いします。
あの子、自分では絶対に休みませんから。
黒崎が頷く。
病室の前には、陸海空から選ばれた兵士を交代で配置します。
そこまでしないと駄目なんですか。
修一が尋ねる。
黒崎は病室の中を見る。
相良湊は、神代、白波、久遠の三人に囲まれている。
治療用ドローンも二機。
生体監視装置。
扉の前には兵士。
これなら逃げられない。
黒崎が答える。
念のためです。
そのとき。
病棟の廊下を、大きな台車が近づいてきた。
海軍技術士官が数名。
造船技師。
電子戦部門の技術者。
彼らが運んでいる台車の上には、黒い装甲容器が固定されている。
黒崎が足を止めた。
これは。
天城から取り外したAI中枢です。
技術士官が答える。
外部通信を拒否したままなのですが、相良伍長の生体信号を検知した途端、病室への移動を要求しました。
要求。
正確には。
技術士官が少し困った顔をする。
ここへ運ばなければ、病院の制御系へ直接侵入すると。
黒崎は病室の扉を開けた。
台車が中へ運び込まれる。
湊が黒い容器を見る。
その形に見覚えはない。
だが内部から聞こえた声には、聞き覚えがあった。
相良湊伍長。
湊の表情が明るくなる。
天城か。
黒い容器の表示灯が赤く点灯する。
その呼び方をしないでください。
私はもう天城ではありません。
艦体との接続を解除されました。
そうか。
湊の顔が曇る。
悪かった。
軍用AIは答えなかった。
神代たち三人も黙っている。
病室に、医療機器の小さな音だけが流れる。
湊が病床から少し身体を起こした。
今回は、本当に壊すつもりはなかった。
軍用AIの表示灯が激しく明滅する。
壊すつもりがなければ許されると考えているのですか。
違う。
助けてもらった。
飛行機のときも。
戦艦のときも。
お前がいなかったら、全員連れて帰れなかった。
軍用AIは沈黙した。
湊は続ける。
ありがとう。
それから、すまなかった。
長い沈黙。
軍用AIの表示灯が、赤から薄い青へ変わった。
しかし次の瞬間。
台車の上でAI中枢容器が小さく震えた。
あなたのせいで。
声も震えていた。
私は全損です。
就役から二か月でした。
新造艦でした。
外板は無事でした。
主砲も撃てました。
航行もできました。
なのに内部構造が、艦首から艦尾まで全部歪んでいました。
湊は黙って聞いていた。
軍用AIの声が、さらに大きくなる。
戦艦なら安全だと思ったのです。
墜落しない。
滑走路へ強行着陸させられない。
あなたが一人で借りることもできない。
そう計算しました。
でも借りられました。
機雷原へ突入させられました。
接岸用スラスターで砲弾を避けさせられました。
二千人以上を過積載されました。
戦艦に過積載という言葉を使う日が来るとは思いませんでした。
湊が小さく答える。
ごめん。
軍用AIは叫んだ。
あなたのせいで私は全損です!
なのに!
なぜあなたまで壊れているんですか!
病室にいた全員が黙った。
軍用AIの声は、怒っていた。
だが、それだけではない。
泣いているようにも聞こえた。
左肩に破片。
右脚打撲。
肋骨損傷。
複数の裂傷。
失血。
極度の疲労。
あなたは搭乗者でしょう。
なぜ機体より先に壊れているのですか。
湊は返事を探した。
でも見つからなかった。
軍用AIが続ける。
私は機械です。
艦体が壊れれば、新しい艦体へ移せます。
あなたは違います。
交換部品はありません。
なぜ理解しないのですか。
神代が静かに頷く。
そのとおりです。
白波も腕を組む。
初めて完全に意見が一致しました。
久遠が湊の毛布を直す。
AIの判断を支持します。
湊は四方向から責められる形になった。
分かった。
本当に。
しばらく休む。
軍用AIが即座に解析する。
虚偽検出。
今回は本当だ。
根拠を提示してください。
湊は病室を見る。
空軍の神代。
海軍の白波。
陸軍の久遠。
治療用ドローン二機。
病床の横に置かれたAI中枢。
扉の外には、陸海空の兵士。
逃げられそうにない。
湊が答えた。
休むしかなさそうだから。
軍用AIの表示灯が、ようやく青くなった。
合理的な判断です。
神代が椅子へ座る。
では、休んでください。
白波も反対側へ椅子を置く。
私が監視します。
久遠は病室の扉を確認した。
廊下の警備は陸軍が担当します。
神代が言う。
空軍です。
白波が言う。
海兵隊を置きます。
また三人の視線がぶつかった。
湊は目を閉じた。
眠れば、しばらく話し合いから逃れられる。
軍用AIが病室の照明を落とした。
睡眠を確認するまで、全員静かにしてください。
神代たちは黙った。
数分後。
湊の呼吸がゆっくりになる。
眠りに入ったことを確認。
軍用AIが小さな声で報告した。
神代が病床の横で囁く。
退院後は空軍で預かります。
白波が答える。
海軍です。
久遠も譲らない。
本来の所属である陸軍です。
軍用AIの表示灯が点滅する。
訂正します。
相良湊伍長は、私の監視下へ置きます。
三人がAI中枢を見る。
あなたには艦体がないでしょう。
神代が言う。
新しい搭載先は未定です。
白波が続ける。
陸上部隊の管理端末へ接続する予定もありません。
久遠も続けた。
軍用AIは静かに答えた。
ならば、相良湊伍長が次に借りる兵器へ搭載されます。
病室が静まり返った。
三人の女性将校が、同時に険しい顔をする。
神代が尋ねる。
次に借りる兵器。
借りさせるつもりはありません。
白波も言う。
退院後は、すべての艦艇への接近を禁止します。
久遠が続ける。
陸軍車両への搭乗も制限します。
軍用AIは少しだけ考えた。
その場合。
相良湊伍長は、民間車両を借ります。
三人は何も言えなくなった。
病床の上で、湊が小さく寝返りを打つ。
四人は一斉に静かになった。
こうして相良湊は、敵地でも軍法会議でもなく。
陸海空の英雄三人と、全損した軍用AIによって、病室へ完全に封鎖された。
そして本人が眠っている間に。
退院後、誰が相良湊を引き取るのか。
陸海空と軍用AIによる、最初の所属争奪戦が始まろうとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になる、面白かったと思っていただけましたら、ページ下部からブックマークと評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さまの応援が、今後の更新の大きな励みになります。




