第八章 本当に迎えに来た
施設の下見から戻って、まだ半日ほどしか経っていない。
それなのに、膝へ手をついて見上げた建物は、昼間よりずっと大きく見えた。
板で塞がれた窓の下を雨染みが幾筋も走り、外壁の上の方は、ライトを向けなければ闇と区別がつかない。
道路の街灯が照らしているのは入口の一角だけで、消えかけた白線は、駐車場の奥へ続く途中で見えなくなっていた。
あの奥に、もう半分がいる。
少なくとも、昨夜はいた。
肩を動かすと、転んだ時に打った場所が疼いた。
右膝も痛み、靴の中では指が擦れている。
それでも二本とも動き、ここまで俺を運んできてくれた。
今夜は、それだけでも十分ありがたかった。
「……着いたぞ」
背後で一度、手のひらが地面を打った。
振り返ると、十メートルほど離れたところに女がいた。
両腕で身体を支え、髪を垂らしてこちらを向いている。
ライトの端が顔をかすめると、髪の奥で目が光を返し、俺は思わず視線を逸らした。
六キロ近く一緒に来ても、慣れはしない。
急に迫られれば逃げるだろう。脚がまだ、その相談に乗ってくれればの話だが。
「ここで見たんだ」
駐車場を示してから、女へ目を戻す。
「お前の足かどうかは、まだ分からない」
女は動かなかった。聞こえているのか確かめる方法もないまま、俺は入口へ向き直った。
「……行こう」
*
入口を越えたところで、背後の音が止まった。
振り返ると、女は敷地の手前にとどまっていた。
道路についた腕と肩だけが街灯に照らされ、腹の先は暗がりに沈んでいる。
「どうした?」
数歩戻ってみる。右手がわずかに動いたものの、女は前へ出てこなかった。
建物沿いへライトを向けると、昨夜、足が現れた辺りに壁の影が溜まっていた。
女もそこを見ているのかと思ったが、顔はこちらへ向いているようだった。
「……ここまで来て、俺だけ先に行かせる気か」
言ってから、返事を待ってしまった。
ここまでついてきたからといって、俺と同じものを見て、同じことを考えているとは限らない。
入れないのか、入りたくないのか、それとも俺の動きを待っているだけなのか。
「先に確かめてくる」
奥へ歩き出すと、背後でテケ、と鳴った。
女が入口を越えていた。もう一度腕を動かし、数メートル後ろまで来て止まる。
「……そうかい」
俺はライトを前へ戻した。
*
駐車場の中央でカメラを持ち上げると、画面が消えていた。
いつ止まったのか分からない。途中で確かめた時には録画していたが、そのあとも転び、身体の下へ挟んでいる。
電源を入れ直すと画面は点いたので、電池の残量を確かめ、念のため予備へ交換した。
録画ボタンを押す。
赤い表示が現れ、俺はそれを少し長く見ていた。
こういう時でも、機材を触れば次にすることが分かる。
画角を決め、明るさを確かめ、音を残す。
何をしていいか分からないまま立っているよりは、手が動いた。
レンズを建物沿いへ向け、ライトで白線を辿る。
壁際の雑草も、ひび割れた舗装も、昨夜と変わっていない。
その同じ場所に、今は上半身だけの女を連れてきている。
テケ。
肩が跳ねた。
女が少し近づいていた。ライトを向けかけ、手を止める。
相手はもう動いておらず、俺は光を壁際へ戻した。
「……いるか」
声が広い駐車場に響いた。
口も耳もない足へ、何を尋ねているのだろう。
それでも昨夜は、呼びかけたあとに現れた。
ポケットから石を取り出してしゃがむと、破れた生地が膝の傷を擦った。
息を詰め、痛みが落ち着くまで待つ。
「……終わったら休ませる。もう少し働いてくれ」
膝へ言い聞かせ、ライトを地面に置いた。
光を奥へ向け、胸元へ預けたカメラの角度を確かめてから、石を振り下ろす。
カツン。
響きが壁から返ってきた。もう一度叩くと、背後でも地面を打つ音がした。
振り返った先に、白い腕が見える。
さっきより近い。
石を握ったまま待ったが、女はそれ以上来なかった。
「頼むから、今は待っててくれ」
奥へ向き直り、息を整える。
「迎えに来た」
自分の声が消えるまで待ってから、もう一度言った。
「迎えに来た」
背後で音はしなかった。
「迎えに来た」
石を下ろし、建物の影を見つめる。
何も動かなかった。
*
遠くの道路を車が通った。
ヘッドライトがフェンスを横切り、細長い影を駐車場へ落としていく。
その明かりが去ると、さっきより奥が暗く見えた。
ライトを拾い、建物の入口から壁際へ光を動かす。
雑草、雨樋、舗装の割れ目。右へ照らし直しても、黒い靴は見つからない。
いなかったら、どうする。
もう少し待つか。呼びかけを繰り返すか。
昨夜いたからといって、今夜も同じ場所にいるとは限らない。
振り返ると、女がこちらを向いていた。
色のない唇が少し開いている。何か言おうとしているようにも見えたが、表情からは何も読み取れず、俺はかえって身体を硬くした。
ここまで案内した。
その先には何もいなかったと、どう伝えればいいのだろう。
「……出てくれ」
壁際へ目を戻す。
「今回は、本当に迎えに来たんだ」
ザッ。
靴底を引きずる音がした。
ライトを向けると、光の端を黒い靴が横切った。
もう片方が続き、その上に膝と太腿が現れる。
腰の上には何もなく、光はそのまま背後の壁へ届いていた。
下半身だけが、こちらへ歩いてくる。
*
右足を出し、左を引き寄せる。
途中で止まり、腰を大きく傾けてから、また姿勢を戻す。
その不器用な歩き方も、黒い靴も、昨夜見たものと同じだった。
俺はカメラを持ち上げた。
画面の奥に歩いてくる足が映り、手前には、地面についた女の腕が入っている。
画角を少し広げると、二つの身体が同じ画面に収まった。
腹から下のない女と、腰から上のない足。
別々に見ていた時には、どちらも、そういう姿のものとして目の前にいた。
ところが並ぶと、一方の身体が途切れた先に、もう一方が続くように見えてしまう。
俺は画面から目を上げた。
女の顔は、足の方へ向いていた。
ザッ、と靴が進む。
テケ、と女が手をつく。
俺の動きを追っていた頭が、今は下半身の方へ動いている。
ライトをずらして二つの間を照らすと、足の歩き方が変わっていることに気づいた。
腰の傾きが小さくなっていた。
右の靴が路面を捉えると、左が続く。
さっきまでのように片足を出したまま止まらず、こちらへ向かって歩いてくる。
何かを思い出したようだった。
そう考えかけて、口を閉じる。何を見て動きが変わったのかは分からない。
ただ、俺へ近づいた昨夜とは違い、今は足を止めずに進んでいた。
*
女が俺の横を通り過ぎた。
一メートルも離れていなかった。
思わず身を引くと、ライトが揺れ、腕の影が舗装を走る。
白い手のひらが地面を捉え、肩が前へ出た。
髪が路面を擦る音とともに、湿った土のような匂いがした。
女は俺を見なかった。
近くにいるのに、その目がこちらへ向かないことが、かえって不思議だった。
俺は身体を回してカメラを構え直し、女と足を追った。
ザッ。
テケ。
二つの間が少しずつ狭くなる。
もし、違っていたら。
ここで初めて出会った、無関係なもの同士だったら、何が起きるのだろう。
止めるべきなのかと考えたが、女へ触れることも、歩いてくる足の前へ立つこともできそうになかった。
ここまで連れてきたのは俺だ。
だが、二つが近づいていくのを見ているほかに、できることが見つからなかった。
足が止まった。
女も動かなくなり、靴底の擦れる音と、地面を打つ音が一度に消えた。
間には、まだわずかに舗装が見えている。
女の右手が持ち上がった。足に触れるのかと思い、俺はカメラを握り直したが、手は地面についた。
テケ。
身体が少し前へ進む。
下半身も一歩近づき、靴底がザッと鳴った。
女はすぐ前の足を見上げている。髪に隠れて顔はよく見えなかったが、踏切で俺へ迫ってきた時よりも、ずっとゆっくりした動きだった。
本当に、自分の足なのだろうか。
俺は女の顔を見た。
何が起きて身体が分かれたのかも、どれほど長く離れていたのかも知らない。
名前さえ聞いていなかった。資料を読み、噂を集め、ここまで追われてきても、俺が知っている呼び名は、テケテケのままだった。
*
下半身がまた一歩進み、女も手をついた。
二つの音が重なった瞬間、カメラの画面が暗くなった。
すぐに戻る。
録画表示は赤いままで、電池も残っている。
俺は眉を寄せ、構え直した。
女の手が動いた。
少し遅れて、画面の中の手が動く。
顔を上げると、下半身はもう足を引き寄せていた。
だが、画面の靴は、まだ一歩前の位置にある。
転んだ時に壊したのか。
持ち直しても遅れは消えず、目を落とすたびに、今見たばかりの動きが小さな画面の中で繰り返された。
これを見ていては、手が伸びても気づくのが遅れる。
俺はレンズを向けたまま、画面から目を離した。
女の唇が開く。
声は聞こえなかった。白い手がゆっくり浮き、黒い靴が前へ出ようとしている。
何か言いかけたが、言葉にならなかった。
待て、と言うのか。
何を待たせる。出てこいと呼び、ここまで連れてきたのは俺なのに。
女の手が、靴のすぐ横についた。
テケ。
靴がわずかに向きを変え、ザッと擦れる。
同じ場所から聞こえた二つの音に、俺は息を詰めた。
足を奪われるか、その前に逃げ切るか。
読んできた怪談には、そこまでしか書かれていなかった。
その先を知りたいと思った時、俺はまだ、明るい部屋で椅子に座っていた。
今、女が何をしようとしているのか、目の前で見ていても分からない。
伸ばされた手が、どこへつくのかさえ分からなかった。
白い腕が、もう一度動く。
下半身が、それに向かって踏み出した。
止めるべきか迷っている間に、二つの身体の間から、光の当たった舗装が見えなくなった。




