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テケテケの足|異常観測記録ファイル NINE 01  作者: 苔葉


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9/12

第八章 本当に迎えに来た

施設の下見から戻って、まだ半日ほどしか経っていない。

それなのに、膝へ手をついて見上げた建物は、昼間よりずっと大きく見えた。

板で塞がれた窓の下を雨染みが幾筋も走り、外壁の上の方は、ライトを向けなければ闇と区別がつかない。

道路の街灯が照らしているのは入口の一角だけで、消えかけた白線は、駐車場の奥へ続く途中で見えなくなっていた。


あの奥に、もう半分がいる。

少なくとも、昨夜はいた。


肩を動かすと、転んだ時に打った場所が疼いた。

右膝も痛み、靴の中では指が擦れている。

それでも二本とも動き、ここまで俺を運んできてくれた。

今夜は、それだけでも十分ありがたかった。


「……着いたぞ」


背後で一度、手のひらが地面を打った。

振り返ると、十メートルほど離れたところに女がいた。

両腕で身体を支え、髪を垂らしてこちらを向いている。

ライトの端が顔をかすめると、髪の奥で目が光を返し、俺は思わず視線を逸らした。


六キロ近く一緒に来ても、慣れはしない。

急に迫られれば逃げるだろう。脚がまだ、その相談に乗ってくれればの話だが。


「ここで見たんだ」


駐車場を示してから、女へ目を戻す。


「お前の足かどうかは、まだ分からない」


女は動かなかった。聞こえているのか確かめる方法もないまま、俺は入口へ向き直った。


「……行こう」


*


入口を越えたところで、背後の音が止まった。

振り返ると、女は敷地の手前にとどまっていた。

道路についた腕と肩だけが街灯に照らされ、腹の先は暗がりに沈んでいる。


「どうした?」


数歩戻ってみる。右手がわずかに動いたものの、女は前へ出てこなかった。

建物沿いへライトを向けると、昨夜、足が現れた辺りに壁の影が溜まっていた。

女もそこを見ているのかと思ったが、顔はこちらへ向いているようだった。


「……ここまで来て、俺だけ先に行かせる気か」


言ってから、返事を待ってしまった。

ここまでついてきたからといって、俺と同じものを見て、同じことを考えているとは限らない。

入れないのか、入りたくないのか、それとも俺の動きを待っているだけなのか。


「先に確かめてくる」


奥へ歩き出すと、背後でテケ、と鳴った。

女が入口を越えていた。もう一度腕を動かし、数メートル後ろまで来て止まる。


「……そうかい」


俺はライトを前へ戻した。


*


駐車場の中央でカメラを持ち上げると、画面が消えていた。

いつ止まったのか分からない。途中で確かめた時には録画していたが、そのあとも転び、身体の下へ挟んでいる。

電源を入れ直すと画面は点いたので、電池の残量を確かめ、念のため予備へ交換した。


録画ボタンを押す。

赤い表示が現れ、俺はそれを少し長く見ていた。

こういう時でも、機材を触れば次にすることが分かる。

画角を決め、明るさを確かめ、音を残す。

何をしていいか分からないまま立っているよりは、手が動いた。


レンズを建物沿いへ向け、ライトで白線を辿る。

壁際の雑草も、ひび割れた舗装も、昨夜と変わっていない。

その同じ場所に、今は上半身だけの女を連れてきている。


テケ。

肩が跳ねた。

女が少し近づいていた。ライトを向けかけ、手を止める。

相手はもう動いておらず、俺は光を壁際へ戻した。


「……いるか」


声が広い駐車場に響いた。

口も耳もない足へ、何を尋ねているのだろう。

それでも昨夜は、呼びかけたあとに現れた。


ポケットから石を取り出してしゃがむと、破れた生地が膝の傷を擦った。

息を詰め、痛みが落ち着くまで待つ。


「……終わったら休ませる。もう少し働いてくれ」


膝へ言い聞かせ、ライトを地面に置いた。

光を奥へ向け、胸元へ預けたカメラの角度を確かめてから、石を振り下ろす。

カツン。


響きが壁から返ってきた。もう一度叩くと、背後でも地面を打つ音がした。

振り返った先に、白い腕が見える。

さっきより近い。


石を握ったまま待ったが、女はそれ以上来なかった。


「頼むから、今は待っててくれ」


奥へ向き直り、息を整える。


「迎えに来た」


自分の声が消えるまで待ってから、もう一度言った。


「迎えに来た」


背後で音はしなかった。


「迎えに来た」


石を下ろし、建物の影を見つめる。

何も動かなかった。


*


遠くの道路を車が通った。

ヘッドライトがフェンスを横切り、細長い影を駐車場へ落としていく。

その明かりが去ると、さっきより奥が暗く見えた。


ライトを拾い、建物の入口から壁際へ光を動かす。

雑草、雨樋、舗装の割れ目。右へ照らし直しても、黒い靴は見つからない。

いなかったら、どうする。


もう少し待つか。呼びかけを繰り返すか。

昨夜いたからといって、今夜も同じ場所にいるとは限らない。

振り返ると、女がこちらを向いていた。


色のない唇が少し開いている。何か言おうとしているようにも見えたが、表情からは何も読み取れず、俺はかえって身体を硬くした。

ここまで案内した。

その先には何もいなかったと、どう伝えればいいのだろう。


「……出てくれ」


壁際へ目を戻す。


「今回は、本当に迎えに来たんだ」


ザッ。

靴底を引きずる音がした。

ライトを向けると、光の端を黒い靴が横切った。

もう片方が続き、その上に膝と太腿が現れる。

腰の上には何もなく、光はそのまま背後の壁へ届いていた。


下半身だけが、こちらへ歩いてくる。


*


右足を出し、左を引き寄せる。

途中で止まり、腰を大きく傾けてから、また姿勢を戻す。

その不器用な歩き方も、黒い靴も、昨夜見たものと同じだった。


俺はカメラを持ち上げた。

画面の奥に歩いてくる足が映り、手前には、地面についた女の腕が入っている。

画角を少し広げると、二つの身体が同じ画面に収まった。


腹から下のない女と、腰から上のない足。

別々に見ていた時には、どちらも、そういう姿のものとして目の前にいた。

ところが並ぶと、一方の身体が途切れた先に、もう一方が続くように見えてしまう。


俺は画面から目を上げた。

女の顔は、足の方へ向いていた。

ザッ、と靴が進む。


テケ、と女が手をつく。

俺の動きを追っていた頭が、今は下半身の方へ動いている。

ライトをずらして二つの間を照らすと、足の歩き方が変わっていることに気づいた。


腰の傾きが小さくなっていた。

右の靴が路面を捉えると、左が続く。

さっきまでのように片足を出したまま止まらず、こちらへ向かって歩いてくる。


何かを思い出したようだった。

そう考えかけて、口を閉じる。何を見て動きが変わったのかは分からない。

ただ、俺へ近づいた昨夜とは違い、今は足を止めずに進んでいた。


*


女が俺の横を通り過ぎた。

一メートルも離れていなかった。

思わず身を引くと、ライトが揺れ、腕の影が舗装を走る。

白い手のひらが地面を捉え、肩が前へ出た。

髪が路面を擦る音とともに、湿った土のような匂いがした。


女は俺を見なかった。

近くにいるのに、その目がこちらへ向かないことが、かえって不思議だった。

俺は身体を回してカメラを構え直し、女と足を追った。


ザッ。

テケ。

二つの間が少しずつ狭くなる。


もし、違っていたら。

ここで初めて出会った、無関係なもの同士だったら、何が起きるのだろう。

止めるべきなのかと考えたが、女へ触れることも、歩いてくる足の前へ立つこともできそうになかった。


ここまで連れてきたのは俺だ。

だが、二つが近づいていくのを見ているほかに、できることが見つからなかった。

足が止まった。


女も動かなくなり、靴底の擦れる音と、地面を打つ音が一度に消えた。

間には、まだわずかに舗装が見えている。

女の右手が持ち上がった。足に触れるのかと思い、俺はカメラを握り直したが、手は地面についた。


テケ。

身体が少し前へ進む。

下半身も一歩近づき、靴底がザッと鳴った。

女はすぐ前の足を見上げている。髪に隠れて顔はよく見えなかったが、踏切で俺へ迫ってきた時よりも、ずっとゆっくりした動きだった。


本当に、自分の足なのだろうか。

俺は女の顔を見た。

何が起きて身体が分かれたのかも、どれほど長く離れていたのかも知らない。

名前さえ聞いていなかった。資料を読み、噂を集め、ここまで追われてきても、俺が知っている呼び名は、テケテケのままだった。


*


下半身がまた一歩進み、女も手をついた。

二つの音が重なった瞬間、カメラの画面が暗くなった。

すぐに戻る。


録画表示は赤いままで、電池も残っている。

俺は眉を寄せ、構え直した。

女の手が動いた。


少し遅れて、画面の中の手が動く。

顔を上げると、下半身はもう足を引き寄せていた。

だが、画面の靴は、まだ一歩前の位置にある。


転んだ時に壊したのか。

持ち直しても遅れは消えず、目を落とすたびに、今見たばかりの動きが小さな画面の中で繰り返された。

これを見ていては、手が伸びても気づくのが遅れる。


俺はレンズを向けたまま、画面から目を離した。

女の唇が開く。

声は聞こえなかった。白い手がゆっくり浮き、黒い靴が前へ出ようとしている。


何か言いかけたが、言葉にならなかった。

待て、と言うのか。

何を待たせる。出てこいと呼び、ここまで連れてきたのは俺なのに。


女の手が、靴のすぐ横についた。

テケ。

靴がわずかに向きを変え、ザッと擦れる。

同じ場所から聞こえた二つの音に、俺は息を詰めた。


足を奪われるか、その前に逃げ切るか。

読んできた怪談には、そこまでしか書かれていなかった。

その先を知りたいと思った時、俺はまだ、明るい部屋で椅子に座っていた。


今、女が何をしようとしているのか、目の前で見ていても分からない。

伸ばされた手が、どこへつくのかさえ分からなかった。

白い腕が、もう一度動く。


下半身が、それに向かって踏み出した。

止めるべきか迷っている間に、二つの身体の間から、光の当たった舗装が見えなくなった。

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