第九章 初めての一歩
その瞬間を、俺は見ていない。
目の前に二つの身体があり、カメラも向けていた。
白い手と黒い靴が少しずつ近づき、その間に見えていた舗装が隠れるところまでは覚えている。
目を逸らすつもりなどなかった。そのために六キロ近い夜道を逃げ、膝を擦りむき、ここまで戻ってきたのだ。
何が起きるのか、確かめたかった。
だが、あとから思い返しても、二つの身体が一つになるところだけは、どうしても思い出せなかった。
*
遅れていたカメラの映像が、動かなくなった。
女の指が舗装につき、肘が曲がっている。
そのすぐ先に、黒い靴を履いた二本の足が立っていた。
初めは、どちらも動くのをやめたのだと思った。
ザッ、と靴底を擦る音がする。
続いて手のひらが地面を打ったが、画面の中では、指も靴も同じ場所にあった。
「……おい。今だけは働けよ」
録画表示は赤いままで、電池も残っている。
ボタンを押しても反応がなく、俺は画面から目を上げた。
一人の女が立っていた。
*
黒い靴が二つ、地面に並んでいる。
その上に脚があり、腰があり、灰色の服に包まれた身体が続いていた。
髪に覆われた顔まで視線を上げ、もう一度、足元へ戻す。
立っている。
さっきまで両腕で身体を引きずっていた女が、二本の足で地面を踏んでいた。
カメラへ目を落とすと、そこにはまだ、別々の身体が映っている。
触れる寸前の手と靴。その上から顔を上げれば、女は一人で立っている。
光も、大きな音もなかった。
画面に気を取られた数秒の間に起きたのか。
それより前から、俺は何かを見落としていたのか。
カメラと女を交互に見ても、間を埋めるものは何も見つからなかった。
無意識に後ずさると、靴底で砂利が鳴った。
女の顔がこちらを向く。踏切で見た白い頬と、色のない唇。
髪の隙間にある暗い瞳も変わらない。
ただ、その位置が違っていた。
地面から俺を見上げていた顔が、今はほとんど同じ高さにある。
近づかれたわけでもないのに、俺はもう一歩下がりそうになった。
女の右肩が下がった。
腰が揺れ、膝が曲がる。倒れると思って足を出しかけたところで、右の靴が身体の下へずれ、ザッと鳴った。
昨夜、駐車場で聞いた音だった。
俺はその場にとどまった。女の膝はまだ落ち着かず、爪先が路面を探るように動いている。
何度か身体を揺らしたあと、俯いて自分の靴を見下ろした。
そのまま、動かなくなった。
名前も、事故のことも、なぜ人を追っていたのかも聞きたかった。
けれど、足元を見つめる女へ声をかけるのはためらわれた。
カメラのボタンから指を離し、次に何をするのかを待った。
*
女がゆっくりと顔を上げた。
目が合ったように感じたが、その表情からは何も読み取れない。
襲ってこないからといって、そばへ寄れるほど安心したわけでもなかった。
「……歩けるか」
答える代わりのように、右の靴が浮いた。
ほんの数センチ上がったところで止まり、身体が前へ傾く。
膝が震え、俺も肩に力を入れたが、靴はゆっくりと路面へ下りた。
コツ。
一歩だった。
女は足元を見たまま体重を移した。
左の踵が上がり、また戻る。肩が傾くたびに膝が曲がり、何度かやり直してから、ようやく左足が前へ出た。
コツ、と二度目の音がする。
そこで息が漏れた。俺まで、身体を動かさずに見ていたらしい。
「……急がなくていい」
口にしてから、おかしなことを言ったと思った。
ついさっきまで、追いつかれれば死ぬと考えていた相手だ。
その足運びを、今は心配している。
女はもう一度、靴を持ち上げた。
今度は宙で止まらず、前へ運ばれる。
三歩目の音が響き、俺は何も言わずにその足元を見ていた。
*
女は少し進んでは止まった。
足を出してから肩が動き、腰をひねると上半身が傾く。
下半身だけで歩いていた時とも違う。
上に重さが加わった分を、一歩ごとに受け止め直しているように見えた。
コツ。
間を置いて、もう一度。
夜道では、音が近づくたびに逃げた。
今は次の靴音がするまで、待っていられた。
女がこちらへ向かってきた。
カメラを握る手に力が入る。二本の足で立っていても、目の前にいるのは同じ女だ。
何度も靴へ伸びてきた指を思い出し、俺は足を引いた。
だが、女は触れなかった。
不安定な足取りのまま、すぐ横を通り過ぎていく。
灰色の服が腰から背中へ続き、その上に肩と、髪に覆われた後頭部があった。
後ろから見れば、普通の女に見える。
遠くで見かけた人間は、きっとそう思うだろう。
ほんの少し前まで、その顔が路面のすぐ上にあったことなど、歩く姿からは分からない。
俺はカメラを下ろした。
女は駐車場の奥へ向かっていた。昨夜、初めて足を見た、建物の影が濃くなる方だ。
そちらに何があるのか聞こうとして、やめた。
足を返すために連れてきたつもりだったが、行き先を教えてもらう約束までしたわけではない。
それでも、背中からは目を離せなかった。
*
二歩続いた足音が止まり、しばらくして、また鳴った。
その背中を見ながら、俺は何と呼びかければいいのか考えていた。
ずっと、テケテケと呼んでいた。下半身がなく、両腕で人を追い、地面を打つ音からつけられた名前だ。
今は足があり、あの音もしない。
「あの……」
女の足が止まった。
背中を向けたまま立っている。俺は名前を聞こうとしていたのに、その姿を見ると、次の言葉を出せなくなった。
答えてくれるかどうかも分からない。
だが、一つ聞けば、ほかのことも続けて聞いてしまいそうだった。
何があったのか。なぜ二つに分かれたのか。
これからどこへ行くのか。
女は動かずにいる。
俺は小さく息を吐いた。
「……気をつけてな」
六キロ近く追いかけてきた相手にかける言葉としては、間が抜けていた。
それでも、言い直す気にはならなかった。
少し待ってから、女が歩き始める。
二つの靴音の間が、さっきより短くなっていた。
*
姿が建物の影へ隠れても、足音は聞こえていた。
ライトを向けかけ、手を下ろす。光を当てれば、まだ見えるかもしれない。
追えば、どこへ行くのかも確かめられるだろう。
だが、足は出なかった。
本当に元へ戻ったのか。それとも、別々のものが一つになったのか。
何が起きたのか分からないまま、女は俺の横を通り過ぎ、歩いていった。
今から声をかけて、こちらへ戻ってもらう気にはなれなかった。
やがて足音も途絶えた。
俺はしばらく、その方向を見つめていた。
建物沿いに誰かが立っている気配はなく、駐車場には俺のライトの光だけが残っている。
女が救われたのかどうかは、分からない。
ただ、二本の足で歩くところは見た。
「……歩けたな」
声にすると、肩から少し力が抜けた。
*
カメラの画面は、まだ止まっていた。
女の手と黒い靴が、触れる寸前のまま映っている。
録画表示も消えず、ボタンを押しても反応しない。
電源操作も受けつけなかったので、少し迷ったあと、バッテリーを外した。
入れ直すとメーカーのロゴが出て、続いて、何もいない駐車場が映った。
最後のファイルを開く。
二つの身体が近づき、黒い靴が一歩進む。
女が手をついたところで、映像は止まっていた。
立っていた姿も、最初の一歩も、俺の横を通り過ぎた背中も、そこにはない。
再生を止め、画面の向こうの駐車場を見た。
薄れた白線が、さっきまで女の立っていた場所を横切っている。
決定的なところを撮り逃した。
映像作家としては、そういうことになる。
二つの存在が近づいた記録はあっても、その後を示す映像がない。
あの場で見ていたのは俺一人だ。
もう一度なら、撮れるだろうか。
そう考え、カメラを見つめた。だが、あの女を呼ぶ言葉を、また口にする気にはなれなかった。
機材をバッグへ収め、出口へ向かう。
コツ、コツと、自分の靴音が響いた。
歩くたびに右膝が痛み、肩紐が打ち身へ食い込む。
それでも、足を出せば身体が前へ進む。
途中で立ち止まり、二本の脚を見下ろした。
「……ありがたいもんだな」
小さく呟き、また歩き始める。
女が向かった方とは、別の道だった。
足を手に入れたら、彼女はどうなるのか。
それを知りたくて取材を始め、最後まで見届けるつもりでいた。
分かったのは、歩き始めたことだけだ。
その先は、今も知らない。
道路へ出る前に、一度だけ駐車場を振り返った。
誰かを追うためではなく、どこかへ行くための足取りだったらいい。
そう思いながら、フェンスの外へ出た。




