第十章 記録の終わり
カメラは、嘘をつかない。
昔、誰かがそう言っていた。ずいぶん乱暴な話だと思う。
何を映し、どこで止め、どの場面を残すかは人間が決める。
同じ出来事でも、切り方ひとつで意味は変わる。
俺だって企業紹介の映像では、散らかった机を画角から外す。
嘘は撮っていない。都合の悪いものが、少し横にあるだけだ。
だから、映像に残っているものだけで、すべてを説明できるとは思っていなかった。
それでも、映らなかったものについて話す側になってみると、何をどう伝えればいいのか、分からなくなった。
*
踏切近くの駐車場まで戻って車を回収し、事務所へ帰り着いたのは、午前五時を過ぎていた。
運転中は何度もバックミラーを見た。
信号で止まると道路の端が気になり、街灯の根元に白い手がないか、低い影が動いていないかと、目を走らせてしまう。
何もいなかった。
事務所の前でエンジンを切っても、しばらく運転席に座っていた。
閉じた窓の向こうから、幹線道路を走る車の音が聞こえる。
聞いているうちに、ようやく帰ってきた気がして、ドアを開けた。
階段では太腿が震え、扉の鍵穴には二度差し損ねた。
「……家に入る方まで難しくなるなよ」
照明をつけると、机も流し台も、畳んでいない毛布も、出発した時のままだった。
カップの底には、飲み残したコーヒーまで残っている。
普段なら片づけなかった自分に呆れるところだが、その時は、何も変わっていないことがありがたかった。
椅子へ腰を下ろすと、膝の痛みが急にはっきりした。
ズボンをめくると傷の周囲が腫れている。
肩には痣があり、手のひらの細かな傷には砂が残っていた。
救急箱を出し、洗って手当てをする。
走っている間は、それぞれの傷がどこにあるかさえ、まともに確かめていなかった。
机へ戻り、カメラを調べる。
本体とレンズの縁には擦り傷がついていたが、ガラスは割れていない。
電源を入れると画面も正常に点き、机の上が映った。
それを確かめてから記録媒体を抜き、パソコンへ接続した。
*
最初のファイルには、夜の踏切が映っていた。
レールを叩く音がして、自分の声が続く。
『足を返す』
間を置いて、もう一度。三度目を言い終えてからも、何も起きない時間が、記憶より長く続いた。
テケ。
肩が跳ね、マウスから手が離れた。
スピーカーの音だ。目の前の画面から聞こえている。
分かっていても、すぐには手を戻せなかった。
映像が振れ、ライトが道路を照らす。
白い手と長い髪が現れ、その後ろに、腰から下のない身体が浮かんだ。
俺は再生を止めた。
撮れている。
速度を落とし、女の動きを見直す。
腕が前へ出た次の瞬間には、身体が大きくこちらへ寄っていた。
手をついた位置と進んだ距離が、どうしても結びつかない。
コマを送っても、途中はよく見えなかった。
カメラが揺れ、光も外れている。撮り方が悪かったのか、女の動きそのものがおかしいのか、映像だけでは判断がつかない。
それでも、あの姿は残っていた。
疲れ切っていたはずなのに、画面を見ているうちに、少しずつ興奮が湧いてきた。
これを見せたら、どうなるだろう。
合成だと言われるだろう。作れる映像だという指摘も来る。
それでも、確かめようとする人間はいるはずだ。
NINEの名前など知らなかった人間にも、見てもらえるかもしれない。
俺は女の姿をもう一度確かめ、次のファイルを開いた。
*
逃走中の映像は、ほとんど使いものにならなかった。
暗闇と道路が激しく入れ替わり、街灯や塀が画面を横切っていく。
耳障りなほど大きい呼吸の後ろで、細かな打撃音が続いていた。
音量を下げても、近づいてくるところは分かった。
画面が急に傾き、端へ白いものが入る。
俺の声が割れたところで再生を止め、扉を見た。
鍵はかかっている。
少し待ってから映像を先へ送ると、物置の陰で画面が落ち着いた。
ほとんど何も見えない。その隅に白い指が現れ、髪が続き、片方の目が角を越えてきた。
椅子を引く音が、部屋に大きく響いた。
俺は画面を閉じた。
もう終わったことだ。それなのに、背中を壁へ寄せたくなる。
あの時も、見つかるまでの間に動けばよかったのだろう。
映像を見返している今なら、そう思える。
だが、目が覗くまで、俺はそこを動けなかった。
しばらく冷却ファンの音を聞いていた。
扉の向こうから何も聞こえてこないことを確かめ、最後のファイルを開く。
*
施設の駐車場だった。
靴底の擦れる音がして、光の端へ黒い靴が入ってくる。
下半身だけのものが数歩進み、手前を女の上半身が横切った。
その時のことは覚えている。
息を詰めて身を引いたこと。湿った土のような匂い。
女が俺を見ずに通り過ぎたこと。
二つが近づき、手がつき、靴が進む。
そこで映像が止まった。
再生位置を戻しても、同じところで動かなくなる。
触れる寸前の姿を映したまま時間だけが進み、やがてファイルが終わった。
立っている女はいない。
最初の一歩も、俺の横を通り過ぎた背中も、残っていなかった。
「……そこだけかよ」
椅子にもたれ、画面を見る。
転んでも逃げても、カメラは手放さなかった。
あれだけ路面にぶつけたのだから、止まっていても不思議はない。
それでも、あと少しだけ動いていてくれれば、と思わずにはいられなかった。
何度見ても、画面の手と靴は動かない。
俺は机に額をつけ、そのまましばらく目を閉じていた。
*
翌日、素材を複製して確認し直した。
別のソフトで再生し、フレームも調べたが、結果は変わらなかった。
二つが触れる直前から同じ画が続き、その先の動きは見つからない。
独立して回していた録音機には、続きがあった。
テケ。
ザッ。
二つの音のあとに、短い沈黙がある。
かすかな擦れ音がして、それから一度、靴底が地面を踏んだ。
コツ。
長い間が空いて、もう一度鳴る。
目を閉じると、不安定に揺れる肩と、宙で止まった靴が浮かんだ。
女は足元を見ながら、ゆっくり体重を移していた。
録音を戻し、もう一度聞く。
ただの足音だった。
あの場にいなかった人間が聞けば、誰かが立ち止まりながら歩いているだけだろう。
俺の説明を添えなければ、下半身だけの足にも、地面を這っていた女にも、結びつきそうにない。
それでも、消さずに残っていた。
俺は最後まで聞いてから、ヘッドフォンを外した。
*
夕方、編集を始めた。
証言と調査の映像、最初に撮った下半身、踏切での遭遇と逃走、最後の駐車場。
時系列に並べるだけでも、一本の作品になる素材は揃っていた。
正直に言えば、公開したかった。
金はない。仕事も安定しない。映像作家と名乗りながら、どの作品を見せれば自分のやりたいことが伝わるのか、迷うこともある。
今回の記録なら、何かが変わるかもしれない。
女が暗がりから現れる場面へ戻る。
ライトの端に白い手が入り、低い頭が近づいてくる。
何度再生しても、目を逸らしたくなる映像だった。
その後ろに、倉庫の看板が映っていた。
俺は止めた。
踏切の形も、道路の曲がり方も、施設の外観も残っている。
近くに住んでいる人間なら、場所を絞れるかもしれない。
音声には、呼び出す手順まで入っていた。
これを見て、試す人間はいないか。
いないとは思えなかった。
俺が試したのだ。
何も起きなければ、笑って帰るだろう。
だが、本当に現れたら、呼んだ時の気軽さでは済まない。
物置の角に置かれた手を思い出した。
息を抑えきれず、目が覗いてくるのを見ているしかなかった時間を。
「……そりゃ、駄目だろ」
画面の女を止めたまま、手を離す。
場所を隠せばいいのか。手順だけ消せば済むのか。
撮れたものを見せたいという気持ちは残っていたが、もう、そのまま並べるわけにはいかなかった。
*
最後の足音を再生した。
歩いては止まり、また進む。映像がないぶん、一歩と一歩の間に、いろいろな言葉を入れられそうだった。
女は自分の足を取り戻した。
長い苦しみから解放された。
そう語って音楽をつければ、恐ろしい遭遇から救済へ向かう話になる。
素材の順番を少し整えるだけで、俺が考えていた結末に近づけることはできた。
だが、あの女が救われたところを、俺は見たのだろうか。
名前も聞いていない。どこへ行くのかも、足が戻って何が変わったのかも、尋ねなかった。
二つの身体が本当に同じ人物のものだったのかさえ、確かめられていない。
見たのは、女が立ち、歩き始めるところまでだ。
俺は音声を止めた。
撮れなかった部分を埋めるために、もう一度呼ぶ気はなかった。
記憶をもとに、それらしい場面を足せば、何を実際に撮ったのかも分かりづらくなる。
二つが近づいたところまでの映像と、そのあとに残った足音。
今あるものを、そこから先まで分かる形で残すことにした。
*
踏切の場所が分かる映像を外し、呼び出す手順が聞き取れる箇所を削った。
施設の外観も切り詰め、証言者の顔や住まいにつながるものが残っていないか、前後のカットまで確かめる。
女の姿も、撮れた場面をすべて使うことはしなかった。
白い手が現れるところを繰り返したり、別の打撃音を重ねたりすれば、もっと怖い映像にはできるだろう。
だが、録音された俺の呼吸と、その後ろで近づいてくる音だけで、あの時のことは十分に思い出せた。
最後には、足音を置いた。
画面は黒いままにして、短い文章を添える。
『この記録には、撮影されなかった部分がある』
足音が遠ざかったところで、作品を終えた。
素材の量に比べれば、ずいぶん短くなった。
短くしろと言っていた知り合いは、喜ぶかもしれない。
理由を話せば、また電話を切られそうだが。
完成したものを通して見ても、これで十分だという確信は持てなかった。
場所や手順を隠したからといって、誰も真似をしないとは言い切れない。
それでも、手がかりをそっくり残した映像を出すよりは、自分のしたことに説明がつく。
公開用のファイルを保存し、元の記録は別に保管した。
消すつもりはなかった。今は気づいていない何かが映っているかもしれないし、あとから確かめたいことも出てくるだろう。
そのために残すことと、今、誰にでも見せることは、同じではなかった。
*
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
編集を終えてみると、俺が何をしようとしたのかが、かえって気になった。
足を返せば鎮まると考えたのも、二つを同じ身体の一部だと見立てたのも俺だ。
女に頼まれたわけではない。噂を読み、自分なりに筋を立てて、分からないもの同士を引き合わせた。
ただ、最後に歩いていった方向だけは、俺が決めたものではなかった。
女は自分で進んだ。振り返らず、行き先も告げずに。
保存したファイルを閉じる。
証拠としては不完全だ。二つが近づいたところまでは映っているが、その後を説明するには、俺の記憶に頼らなければならない。
足音はあっても、誰が歩いているかまでは示せなかった。
その不足を、編集で見えなくすることはしたくなかった。
「……九らしい終わり方だな」
真実のひとつ手前。
名づけた時には気に入っていた言葉が、その夜は少し苦かった。
*
もう一度だけ、足音を聞いた。
コツ。
間が空いて、また一歩。
俺には、誰かを追いかける音には聞こえなかった。
あの場で見た姿を思い出すからなのか、そうあってほしいだけなのかは分からない。
再生を止めて立ち上がると、窓の向こうで、誰かが街灯の下を歩いていた。
遠くて顔は見えず、年齢も性別も分からない。
ただ、次の明かりへ向かって、二本の足を動かしている。
しばらく見ているうちに、その人は建物の陰へ入り、見えなくなった。
あの女が今どこにいるのか、追うつもりはなかった。
施設へ戻り、同じ手順を試して、もう現れなくなったか確かめることもしない。
続きを知りたくて始めた取材だったが、歩いていった先まで呼び止めて、俺の記録に収める必要があるのかは、今は分からなかった。
机へ戻ると、編集画面に仮のタイトルが残っていた。
『テケテケの、その後』
その後の、ほんの一部しか知らない。
しばらく眺めたが、別の言葉も浮かばず、名前は変えずに保存した。
パソコンの電源を切ると、冷却ファンの音が止まった。
照明を落とし、簡易ベッドへ横になる。
毛布を引き上げた拍子に膝が痛み、少し位置を変えてから目を閉じた。
その夜は、あの音を聞かずに眠った。




