終章 事務所の前で
あれから二週間が過ぎた。
膝の傷は塞がり、肩の痣も薄くなった。
破れたズボンは捨てた。階段を上っても脚は震えず、机から立ち上がるたびに、どこかが痛むこともなくなっていた。
ただ、夜の足音だけは気になる。
廊下で一度鳴ると手が止まり、二度、三度と普通の間隔で続けば、少し安心する。
厄介なのは、途中で止まる足音だった。
誰かが部屋へ入ったのだろうと思いながら、その先を待ってしまう。
手のひらで地面を打つ、あの乾いた音が続かないかと。
*
最初に聞いたのは、取材から三日ほど経った夜だった。
午前一時過ぎ、廊下を誰かが歩いてきた。
ゆっくり近づき、事務所の前で止まる。
ノックも声もなく、数秒すると、また遠ざかっていった。
翌日は午前二時前だった。
やはり扉の前で立ち止まり、しばらくして歩き去った。
この建物には、ほかにも事務所が入っている。
夜中に働いているのは俺だけではないだろう。
ただ、隣の部屋は少し前から空いていて、この階の奥にあるのは非常口と、階段へ続く通路だけだ。
わざわざ俺の扉の前で立ち止まる用事が、思いつかなかった。
営業なら、時間も訪問先も考え直した方がいい。
毎晩ではなく、時刻も決まっていなかった。
それでも聞こえてくるたびに、俺は仕事の手を止め、通り過ぎるのを待つようになった。
一度だけ、足音が遠ざかった直後に扉を開けたことがある。
廊下には誰もいなかった。
非常口の緑色の明かりが壁を照らし、その先の角は暗く沈んでいた。
階段へ下りたのかもしれない。そう思いながらも、確かめに行く気にはなれなかった。
それからは、すぐに開けなくなった。
怖かったのもある。だが、誰かが立っていたとして、何と言えばいいのかも分からなかった。
*
その夜は、企業紹介の動画を編集していた。
先月の報酬は無事に振り込まれ、NINEもどうにか存続している。
働く人間は俺一人で、その俺への給料は不定期だが、せめて画面の中くらいは景気よくしたい。
明るいオフィスで、社員たちが笑っている。
一人が立ち上がり、資料を持って会議室へ歩いていく。
腰の上に身体があり、その下で脚が動く。
そんな当たり前の映像を、俺は少し長く眺めていた。
「……怪異の皆さんも、これくらい支払いがよければな」
コツ。
マウスを持つ手が止まった。
廊下の奥から、もう一度聞こえる。
間を置いて次の一歩が続き、時々止まりながら、こちらへ近づいてきた。
俺はパソコンの音量を下げた。
足音が扉の前で止まる。
鍵はかかっている。ドアノブも動かない。
無意識に両足を机の下へ引き寄せ、そこで何をしているのかに気づいた。
あの女なら、もう足はあるはずだ。
そう考えたところで、自分の足を元の位置へ戻す気にはなれなかった。
数十秒待っても、何も聞こえない。
椅子から立ち、扉へ向かう。床板が軋むたびに足が鈍り、ドアノブへ手をかけたところで、ようやく声が出た。
「……何か、忘れたか」
返事はなかった。
俺は少しだけ、扉を開けた。
*
女が歩いていた。
事務所から数メートル離れた廊下を、こちらへ背を向けて進んでいる。
長い髪が肩にかかり、服の背が非常口の明かりを受けていた。
俺は足を見た。
二本ある。
黒い靴が交互に床を踏み、そのたびに、コツ、コツと鳴った。
駐車場で見送った背中に似ていた。
女が緑色の明かりの下で立ち止まると、俺も扉を持ったまま動けなくなった。
振り返れば、顔が見える。
あの女なのか、似た誰かなのか、確かめられるはずだった。
だが、呼び止める言葉を探しているうちに、女は右足へ体重を移した。
身体がわずかに揺れ、それから左足が前へ出る。
ほんの少し、不器用だった。
俺はその動きを知っていた。地面へ下ろす場所を確かめるように、持ち上げた靴を止めていた、あの最初の一歩を。
「……もう走らせないでくれよ」
声は、思っていたより小さかった。
女は振り返らず、階段へ続く角を曲がった。
姿が消えてからも、一段ずつ下りていく音が聞こえていた。
俺は扉を開けたまま、その音を聞いた。
ゆっくり下の階へ遠ざかり、やがて建物の入口で、重い扉が開く。
少し遅れて、閉まる音がした。
*
鍵をかけ、机へ戻った。
画面の中では、社員たちがまだ笑っている。
明るい会議室も、机に広げた資料も、さっきのままだった。
俺だけが、何をしに扉まで行ったのか分からなくなっていた。
何か忘れたのかと聞いたが、それを尋ねたいのはこちらの方だ。
礼を言いに来たのか。それとも、まだ返していないものがあるのか。
机の下で両足を動かす。
二本ともある。
それを確かめてから、マウスへ手を戻した。
画面の隅には、あの夜の記録を収めたフォルダが残っている。
『テケテケの、その後』
もう、あの音では歩いていない。
名前くらい聞けばよかった。そう思ったところで、廊下が小さく鳴った。
コツ。
手が止まる。
耳を澄ませても、続きはなかった。
建物が軋んだだけかもしれない。閉じた扉をしばらく見てから、俺は椅子へ座り直した。
「……次は予約してくれ。こっちにも心の準備がある」
それだけ言って、編集画面へ戻る。
取材相手が訪ねてくることくらい、あるだろう。
俺はあの女に、名前も、事務所の場所も教えていなかったが。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
廊下の足音が遠ざかってから、今度は八伽の電話が鳴ります。
八伽の次の記録は、[『メリーさんの電話|異常観測記録ファイル NINE 02』へ続きます。




