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テケテケの足|異常観測記録ファイル NINE 01  作者: 苔葉


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終章 事務所の前で

あれから二週間が過ぎた。

膝の傷は塞がり、肩の痣も薄くなった。

破れたズボンは捨てた。階段を上っても脚は震えず、机から立ち上がるたびに、どこかが痛むこともなくなっていた。


ただ、夜の足音だけは気になる。

廊下で一度鳴ると手が止まり、二度、三度と普通の間隔で続けば、少し安心する。

厄介なのは、途中で止まる足音だった。

誰かが部屋へ入ったのだろうと思いながら、その先を待ってしまう。


手のひらで地面を打つ、あの乾いた音が続かないかと。


*


最初に聞いたのは、取材から三日ほど経った夜だった。

午前一時過ぎ、廊下を誰かが歩いてきた。

ゆっくり近づき、事務所の前で止まる。

ノックも声もなく、数秒すると、また遠ざかっていった。


翌日は午前二時前だった。

やはり扉の前で立ち止まり、しばらくして歩き去った。


この建物には、ほかにも事務所が入っている。

夜中に働いているのは俺だけではないだろう。

ただ、隣の部屋は少し前から空いていて、この階の奥にあるのは非常口と、階段へ続く通路だけだ。

わざわざ俺の扉の前で立ち止まる用事が、思いつかなかった。


営業なら、時間も訪問先も考え直した方がいい。

毎晩ではなく、時刻も決まっていなかった。

それでも聞こえてくるたびに、俺は仕事の手を止め、通り過ぎるのを待つようになった。


一度だけ、足音が遠ざかった直後に扉を開けたことがある。

廊下には誰もいなかった。

非常口の緑色の明かりが壁を照らし、その先の角は暗く沈んでいた。

階段へ下りたのかもしれない。そう思いながらも、確かめに行く気にはなれなかった。


それからは、すぐに開けなくなった。

怖かったのもある。だが、誰かが立っていたとして、何と言えばいいのかも分からなかった。


*


その夜は、企業紹介の動画を編集していた。

先月の報酬は無事に振り込まれ、NINEもどうにか存続している。

働く人間は俺一人で、その俺への給料は不定期だが、せめて画面の中くらいは景気よくしたい。


明るいオフィスで、社員たちが笑っている。

一人が立ち上がり、資料を持って会議室へ歩いていく。

腰の上に身体があり、その下で脚が動く。


そんな当たり前の映像を、俺は少し長く眺めていた。


「……怪異の皆さんも、これくらい支払いがよければな」


コツ。

マウスを持つ手が止まった。

廊下の奥から、もう一度聞こえる。

間を置いて次の一歩が続き、時々止まりながら、こちらへ近づいてきた。


俺はパソコンの音量を下げた。

足音が扉の前で止まる。

鍵はかかっている。ドアノブも動かない。

無意識に両足を机の下へ引き寄せ、そこで何をしているのかに気づいた。


あの女なら、もう足はあるはずだ。

そう考えたところで、自分の足を元の位置へ戻す気にはなれなかった。

数十秒待っても、何も聞こえない。


椅子から立ち、扉へ向かう。床板が軋むたびに足が鈍り、ドアノブへ手をかけたところで、ようやく声が出た。


「……何か、忘れたか」


返事はなかった。

俺は少しだけ、扉を開けた。


*


女が歩いていた。

事務所から数メートル離れた廊下を、こちらへ背を向けて進んでいる。

長い髪が肩にかかり、服の背が非常口の明かりを受けていた。


俺は足を見た。

二本ある。

黒い靴が交互に床を踏み、そのたびに、コツ、コツと鳴った。


駐車場で見送った背中に似ていた。

女が緑色の明かりの下で立ち止まると、俺も扉を持ったまま動けなくなった。

振り返れば、顔が見える。


あの女なのか、似た誰かなのか、確かめられるはずだった。

だが、呼び止める言葉を探しているうちに、女は右足へ体重を移した。

身体がわずかに揺れ、それから左足が前へ出る。


ほんの少し、不器用だった。

俺はその動きを知っていた。地面へ下ろす場所を確かめるように、持ち上げた靴を止めていた、あの最初の一歩を。


「……もう走らせないでくれよ」


声は、思っていたより小さかった。

女は振り返らず、階段へ続く角を曲がった。

姿が消えてからも、一段ずつ下りていく音が聞こえていた。


俺は扉を開けたまま、その音を聞いた。

ゆっくり下の階へ遠ざかり、やがて建物の入口で、重い扉が開く。

少し遅れて、閉まる音がした。


*


鍵をかけ、机へ戻った。

画面の中では、社員たちがまだ笑っている。

明るい会議室も、机に広げた資料も、さっきのままだった。


俺だけが、何をしに扉まで行ったのか分からなくなっていた。

何か忘れたのかと聞いたが、それを尋ねたいのはこちらの方だ。

礼を言いに来たのか。それとも、まだ返していないものがあるのか。


机の下で両足を動かす。

二本ともある。

それを確かめてから、マウスへ手を戻した。

画面の隅には、あの夜の記録を収めたフォルダが残っている。


『テケテケの、その後』


もう、あの音では歩いていない。

名前くらい聞けばよかった。そう思ったところで、廊下が小さく鳴った。

コツ。


手が止まる。

耳を澄ませても、続きはなかった。

建物が軋んだだけかもしれない。閉じた扉をしばらく見てから、俺は椅子へ座り直した。


「……次は予約してくれ。こっちにも心の準備がある」


それだけ言って、編集画面へ戻る。

取材相手が訪ねてくることくらい、あるだろう。

俺はあの女に、名前も、事務所の場所も教えていなかったが。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


廊下の足音が遠ざかってから、今度は八伽の電話が鳴ります。


八伽の次の記録は、[『メリーさんの電話|異常観測記録ファイル NINE 02』へ続きます。

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