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テケテケの足|異常観測記録ファイル NINE 01  作者: 苔葉


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第七章 呼んだ者の責任

女の指先は、右足から三十センチも離れていなかった。

砂のこびりついた細い指。その付け根から手の甲にかけて青黒い筋が浮き、関節には、硬いものに擦れたような傷がある。

逃げている間は白い手としか見えていなかったものを、俺は今、すぐそばで見つめていた。


路面のひびも、横倒しになったライトも、妙にはっきり見える。

破れたズボンの膝には血が滲み、少し曲げるだけで布が傷を引っ張った。

女の指が動き、俺は咄嗟に足を引いた。


手が空を掴む。続けて左手が地面を打ち、女の身体が前へ滑ってきた。

テケッ。

両手で舗装を押し、尻を引きずって下がると、背中にガードレールが当たった。

鈍い金属音がして、肩を押しつけても、それ以上は動けない。

女の顔は、もう膝のすぐ向こうにあった。


頬は痩せ、唇には色がなかったが、髪の間から覗くのは、人間の女の顔だった。

その顔が地面すれすれにある。視線を少し動かせば、身体が腹の先で途切れ、その後ろに道路が続いているのまで見えてしまう。

唇がわずかに開いた。


何か言うのかと思ったが、声は聞こえず、代わりに右手が持ち上がった。

反射的に顔を庇うと、指はその下を通り、また俺の足へ伸びてくる。


「……待ってくれ」


手が止まった。

さっきも、そう見えた。聞こえているのかもしれない。

俺は息を吸い、次に指が動く前に言葉を押し出した。


「ここにはない」


髪の奥で、顔がわずかに傾く。


「足だ。探してるのが足なら、ここにはない。でも……見つけた」


声を出すと、喉が痛んだ。それでも黙るのが怖くて、言葉を継いだ。


「町外れの、閉鎖された施設だ。足だけで歩いてるやつがいた。お前のものかどうかは、分からない」


返すと言って呼んでおきながら、今になって分からないと説明している。

だが、ここで話を合わせれば、施設に着いてから、もう一度同じことを言わなければならない。

女の右腕が動き、俺の肩が跳ねた。


手は膝の手前で止まっていた。開いた指が何かを掴もうとしているのか、差し出されているのか、見ていても分からなかった。


「……連れていく」


それなら言えた。


「見た場所まで連れていくから、少し待ってくれ」


指が路面につき、テケ、と鳴った。

俺は息を詰めたが、次の一打は来なかった。

女は両腕で身体を支え、目の前にとどまっている。


ゆっくりと手を伸ばし、転がったライトを拾う。

光が女の腕を横切っても、指は動かなかった。

そばにあった小石も拾い、ポケットへ入れた。

施設で足を呼ぶ時に使える。向こうで探すより、今、手元にあった方がいい。


ガードレールを掴んで腰を上げると、右膝に痛みが走った。

途中で一度止まり、腕に力を込め直す。

その間も女から目を離せず、立ち上がった時には、掴んでいた手まで震えていた。


*


一歩離れ、もう一歩下がっても、女は来なかった。

倉庫の壁と空き地の間を、施設へ続く道が延びている。

俺は身体を半分だけそちらへ向け、女を見ながら言った。


「……こっちだ」


歩き出すと、手のひらが地面を打った。

テケ。

身構えて足を止める。女も止まり、さっきと同じくらいの距離でこちらを向いていた。

もう一歩進めば一度鳴り、二歩続ければ、二度鳴る。


「……聞こえてるのか」


返事はなかった。ただ、俺が立ち止まっても、足へ手を伸ばしてくることはなくなっていた。

そのことを頼りに、前を向く。

背中を向けるのは怖かった。数歩進んでは振り返り、女の腕と、間にある道路を確かめる。

音だけを聞いて歩けるようになるまでには、しばらくかかった。


十分ほど進むうちに、呼吸は少し落ち着いてきた。

右膝を庇うので歩幅は揃わないが、走らなければ、どうにか足を出せる。

女は十メートルほど後ろを、同じ調子でついてきていた。


振り返るたびに、肘が曲がり、身体が引き寄せられるのが見える。

あの低い頭にも、地面を擦る髪にも慣れはしなかったが、手のひらが舗装を打つたびに逃げ出すことは、もうしなくなっていた。


「……少し休ませてくれ」


足を止め、女が動かないのを確かめてから、道路脇へしゃがむ。


「案内人にも、休憩くらいあるだろ」


ボトルを取り出し、蓋を回す。さっきより指は動いたが、水を口へ運ぶ間も、暗がりに浮かぶ腕を見張り続けていた。

女は動かなかった。

俺の方は、一口飲むだけでも息を継がなければならない。

向こうには、呼吸を整える様子さえなかった。

何キロも腕だけで移動してきたのに、肩が上下することも、肘が震えることもない。


あの手の傷は、痛まないのだろうか。

そう思ってから、ボトルへ目を戻した。

今は自分の脚を、もう少し動くようにしなければならない。


蓋を閉め、膝に手を添えて立ち上がると、女の腕がわずかに動いた。

俺は腰を浮かせたまま止まり、数秒待った。

それ以上は近づいてこない。


一歩踏み出せば、また背後で音がした。


*


緩やかな下り坂では、平らな道より膝が痛んだ。

歩幅を小さくし、右足に体重をかける時間を短くする。

背後の音も遅くなり、坂を下りきるまで、女は追い越そうとしなかった。


歩けるようになると、施設に着いてからのことが頭に戻ってきた。

あの足が女のものではなかったら、どうする。

同じ身体の一部だったとしても、引き合わせるだけで元に戻るのか。

俺が見たのは、下半身だけのものが歩いているところだ。

そこへこの女を連れていく以上のことは、何も用意できていなかった。


道を照らしていた光を止め、振り返る。


「……なあ」


女も止まった。顔は髪に隠れてよく見えず、俺は低い頭の辺りへ話しかけた。


「見つけた足が、お前のものじゃないかもしれない」


口にしてから、少し間が空いた。さっきも言ったことだ。

だが、一緒に歩いているうちに、分かってもらえたつもりになりそうだった。


「その時どうすればいいかは、まだ分からない。悪い」


女は黙っている。謝ったところで困るだろうが、うまくいくとも言えなかった。


「でも、見た場所までは連れていく。それは本当だ」


頭が少し動いた。頷いたようにも見えたが、腕へ体重を移しただけかもしれない。

都合のいい返事にするのはやめ、俺は道へ向き直った。

一歩進み、背後で音が鳴るのを聞いてから、次の足を出す。


さっきまで、どうすればあの音から離れられるか、そればかり考えていた。

今は、聞こえてからでなければ落ち着かなかった。


*


見覚えのある道路標識が現れた。

午後に写真を撮った場所だ。この先を大きく右へ曲がれば、施設まで一キロほどになる。

ようやくここまで来たと思いながら後ろを見ると、女は暗がりの中をついてきていた。


その姿に、少し息が緩んだ。

離れたかどうかを確かめたのではなかった。

角を曲がる前に、ちゃんと来ているかを見たのだと気づき、俺は自分の足元へ目を落とした。


「……何やってんだろうな、俺」


取材の予定表には、「現地確認」としか書いていない。

帰ったら、どこから説明すればいいのだろう。

腕が急に動けば、今でも身体は強張る。

そばへ来られれば、また逃げようとするかもしれない。

それでも、姿が見えなくなると、足を緩めて音を待つようになっていた。


駐車場で「迎えに来た」と呼んでおきながら逃げた連中を、俺は勝手だと思った。

その気持ちは、嫌というほど分かった。

あんなものが本当に現れれば、口にした言葉など頭から消える。

俺も同じように逃げたし、走れなくならなければ、今も逃げ続けていたかもしれない。


だが、女は立ち上がるのを待ち、休んでいる間も近づいてこなかった。

何を考えているのかは分からない。

それでも今、俺が道を曲がれば、同じ方へ来る。

その相手を置いて帰る気にはなれなかった。


「もう少しだ。あと一キロくらい」


女は止まったまま、こちらを向いている。


「安心しろ。俺も安心してない」


言ってから、我ながら役に立たない案内だと思った。

前を向いて右へ曲がると、後ろで一度、地面を打つ音がした。


*


やがて、ライトの先に施設のフェンスが浮かんだ。

足を止めると、背後の音も止まる。

昨夜、二本の足が歩いていた駐車場は、その奥にある。


今夜もいるとは限らない。

女の足である保証もなければ、出会ったあとに何が起きるかも分からなかった。

ここまで歩いてきても、それだけは変わらない。

俺はポケットへ手を入れ、拾っておいた石を握った。


昨夜と同じように、「迎えに来た」と呼ぶことになる。

あの時は、何かが出てくるか確かめたかっただけだ。

今は背後に女がいて、俺が駐車場へ入るのを待っている。

出てきたものを見て帰るだけでは済まないことが、ようやく分かり始めていた。


振り返ると、女は白い指を地面につき、こちらを向いていた。

ここまで連れてきた。

あとは足を見つけて引き合わせれば、俺は帰れるだろうか。

そんな考えが浮かんだが、女の顔を見ているうちに、帰りのことを尋ねる気はなくなった。


石を握ったまま駐車場へ入ると、背後で手のひらが地面を打った。

俺は歩調を緩め、ライトを建物沿いへ向けた。

薄れた白線の先に、昨夜、足が消えていった暗がりがあった。

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