第七章 呼んだ者の責任
女の指先は、右足から三十センチも離れていなかった。
砂のこびりついた細い指。その付け根から手の甲にかけて青黒い筋が浮き、関節には、硬いものに擦れたような傷がある。
逃げている間は白い手としか見えていなかったものを、俺は今、すぐそばで見つめていた。
路面のひびも、横倒しになったライトも、妙にはっきり見える。
破れたズボンの膝には血が滲み、少し曲げるだけで布が傷を引っ張った。
女の指が動き、俺は咄嗟に足を引いた。
手が空を掴む。続けて左手が地面を打ち、女の身体が前へ滑ってきた。
テケッ。
両手で舗装を押し、尻を引きずって下がると、背中にガードレールが当たった。
鈍い金属音がして、肩を押しつけても、それ以上は動けない。
女の顔は、もう膝のすぐ向こうにあった。
頬は痩せ、唇には色がなかったが、髪の間から覗くのは、人間の女の顔だった。
その顔が地面すれすれにある。視線を少し動かせば、身体が腹の先で途切れ、その後ろに道路が続いているのまで見えてしまう。
唇がわずかに開いた。
何か言うのかと思ったが、声は聞こえず、代わりに右手が持ち上がった。
反射的に顔を庇うと、指はその下を通り、また俺の足へ伸びてくる。
「……待ってくれ」
手が止まった。
さっきも、そう見えた。聞こえているのかもしれない。
俺は息を吸い、次に指が動く前に言葉を押し出した。
「ここにはない」
髪の奥で、顔がわずかに傾く。
「足だ。探してるのが足なら、ここにはない。でも……見つけた」
声を出すと、喉が痛んだ。それでも黙るのが怖くて、言葉を継いだ。
「町外れの、閉鎖された施設だ。足だけで歩いてるやつがいた。お前のものかどうかは、分からない」
返すと言って呼んでおきながら、今になって分からないと説明している。
だが、ここで話を合わせれば、施設に着いてから、もう一度同じことを言わなければならない。
女の右腕が動き、俺の肩が跳ねた。
手は膝の手前で止まっていた。開いた指が何かを掴もうとしているのか、差し出されているのか、見ていても分からなかった。
「……連れていく」
それなら言えた。
「見た場所まで連れていくから、少し待ってくれ」
指が路面につき、テケ、と鳴った。
俺は息を詰めたが、次の一打は来なかった。
女は両腕で身体を支え、目の前にとどまっている。
ゆっくりと手を伸ばし、転がったライトを拾う。
光が女の腕を横切っても、指は動かなかった。
そばにあった小石も拾い、ポケットへ入れた。
施設で足を呼ぶ時に使える。向こうで探すより、今、手元にあった方がいい。
ガードレールを掴んで腰を上げると、右膝に痛みが走った。
途中で一度止まり、腕に力を込め直す。
その間も女から目を離せず、立ち上がった時には、掴んでいた手まで震えていた。
*
一歩離れ、もう一歩下がっても、女は来なかった。
倉庫の壁と空き地の間を、施設へ続く道が延びている。
俺は身体を半分だけそちらへ向け、女を見ながら言った。
「……こっちだ」
歩き出すと、手のひらが地面を打った。
テケ。
身構えて足を止める。女も止まり、さっきと同じくらいの距離でこちらを向いていた。
もう一歩進めば一度鳴り、二歩続ければ、二度鳴る。
「……聞こえてるのか」
返事はなかった。ただ、俺が立ち止まっても、足へ手を伸ばしてくることはなくなっていた。
そのことを頼りに、前を向く。
背中を向けるのは怖かった。数歩進んでは振り返り、女の腕と、間にある道路を確かめる。
音だけを聞いて歩けるようになるまでには、しばらくかかった。
十分ほど進むうちに、呼吸は少し落ち着いてきた。
右膝を庇うので歩幅は揃わないが、走らなければ、どうにか足を出せる。
女は十メートルほど後ろを、同じ調子でついてきていた。
振り返るたびに、肘が曲がり、身体が引き寄せられるのが見える。
あの低い頭にも、地面を擦る髪にも慣れはしなかったが、手のひらが舗装を打つたびに逃げ出すことは、もうしなくなっていた。
「……少し休ませてくれ」
足を止め、女が動かないのを確かめてから、道路脇へしゃがむ。
「案内人にも、休憩くらいあるだろ」
ボトルを取り出し、蓋を回す。さっきより指は動いたが、水を口へ運ぶ間も、暗がりに浮かぶ腕を見張り続けていた。
女は動かなかった。
俺の方は、一口飲むだけでも息を継がなければならない。
向こうには、呼吸を整える様子さえなかった。
何キロも腕だけで移動してきたのに、肩が上下することも、肘が震えることもない。
あの手の傷は、痛まないのだろうか。
そう思ってから、ボトルへ目を戻した。
今は自分の脚を、もう少し動くようにしなければならない。
蓋を閉め、膝に手を添えて立ち上がると、女の腕がわずかに動いた。
俺は腰を浮かせたまま止まり、数秒待った。
それ以上は近づいてこない。
一歩踏み出せば、また背後で音がした。
*
緩やかな下り坂では、平らな道より膝が痛んだ。
歩幅を小さくし、右足に体重をかける時間を短くする。
背後の音も遅くなり、坂を下りきるまで、女は追い越そうとしなかった。
歩けるようになると、施設に着いてからのことが頭に戻ってきた。
あの足が女のものではなかったら、どうする。
同じ身体の一部だったとしても、引き合わせるだけで元に戻るのか。
俺が見たのは、下半身だけのものが歩いているところだ。
そこへこの女を連れていく以上のことは、何も用意できていなかった。
道を照らしていた光を止め、振り返る。
「……なあ」
女も止まった。顔は髪に隠れてよく見えず、俺は低い頭の辺りへ話しかけた。
「見つけた足が、お前のものじゃないかもしれない」
口にしてから、少し間が空いた。さっきも言ったことだ。
だが、一緒に歩いているうちに、分かってもらえたつもりになりそうだった。
「その時どうすればいいかは、まだ分からない。悪い」
女は黙っている。謝ったところで困るだろうが、うまくいくとも言えなかった。
「でも、見た場所までは連れていく。それは本当だ」
頭が少し動いた。頷いたようにも見えたが、腕へ体重を移しただけかもしれない。
都合のいい返事にするのはやめ、俺は道へ向き直った。
一歩進み、背後で音が鳴るのを聞いてから、次の足を出す。
さっきまで、どうすればあの音から離れられるか、そればかり考えていた。
今は、聞こえてからでなければ落ち着かなかった。
*
見覚えのある道路標識が現れた。
午後に写真を撮った場所だ。この先を大きく右へ曲がれば、施設まで一キロほどになる。
ようやくここまで来たと思いながら後ろを見ると、女は暗がりの中をついてきていた。
その姿に、少し息が緩んだ。
離れたかどうかを確かめたのではなかった。
角を曲がる前に、ちゃんと来ているかを見たのだと気づき、俺は自分の足元へ目を落とした。
「……何やってんだろうな、俺」
取材の予定表には、「現地確認」としか書いていない。
帰ったら、どこから説明すればいいのだろう。
腕が急に動けば、今でも身体は強張る。
そばへ来られれば、また逃げようとするかもしれない。
それでも、姿が見えなくなると、足を緩めて音を待つようになっていた。
駐車場で「迎えに来た」と呼んでおきながら逃げた連中を、俺は勝手だと思った。
その気持ちは、嫌というほど分かった。
あんなものが本当に現れれば、口にした言葉など頭から消える。
俺も同じように逃げたし、走れなくならなければ、今も逃げ続けていたかもしれない。
だが、女は立ち上がるのを待ち、休んでいる間も近づいてこなかった。
何を考えているのかは分からない。
それでも今、俺が道を曲がれば、同じ方へ来る。
その相手を置いて帰る気にはなれなかった。
「もう少しだ。あと一キロくらい」
女は止まったまま、こちらを向いている。
「安心しろ。俺も安心してない」
言ってから、我ながら役に立たない案内だと思った。
前を向いて右へ曲がると、後ろで一度、地面を打つ音がした。
*
やがて、ライトの先に施設のフェンスが浮かんだ。
足を止めると、背後の音も止まる。
昨夜、二本の足が歩いていた駐車場は、その奥にある。
今夜もいるとは限らない。
女の足である保証もなければ、出会ったあとに何が起きるかも分からなかった。
ここまで歩いてきても、それだけは変わらない。
俺はポケットへ手を入れ、拾っておいた石を握った。
昨夜と同じように、「迎えに来た」と呼ぶことになる。
あの時は、何かが出てくるか確かめたかっただけだ。
今は背後に女がいて、俺が駐車場へ入るのを待っている。
出てきたものを見て帰るだけでは済まないことが、ようやく分かり始めていた。
振り返ると、女は白い指を地面につき、こちらを向いていた。
ここまで連れてきた。
あとは足を見つけて引き合わせれば、俺は帰れるだろうか。
そんな考えが浮かんだが、女の顔を見ているうちに、帰りのことを尋ねる気はなくなった。
石を握ったまま駐車場へ入ると、背後で手のひらが地面を打った。
俺は歩調を緩め、ライトを建物沿いへ向けた。
薄れた白線の先に、昨夜、足が消えていった暗がりがあった。




