第六章 ついてくる音
恐怖には、そのうち慣れるものだと思っていた。
暗い道でも、何度か歩けば塀の位置や街灯の間隔が分かってくる。
物音がしても、あの家の門だろう、風で揺れる看板だろうと見当がつく。
何があるかを知るだけで、少しは怖くなくなるものだ。
だが、あの音は、聞くほどに怖くなった。
テケ、テケ。
遠ざかれば耳を澄まし、近づけば脚を動かす。
聞こえなくなれば、もうすぐ横にいるのではないかと、ライトで暗がりを探した。
何度も逃げ、何度も見失った。
それでもまた、聞こえてくる。
テケ、テケ。
どこで止まり、いつ走り出すか。息を整える間をどれだけもらえるか。
その夜は、何もかも、あの音に決められていた。
*
踏切から二キロほど来たところで、呼吸が続かなくなった。
吸うたびに胸の奥が引きつり、右の脇腹が痛む。
角を曲がって低い塀に手をつくと、膝が細かく震え始めた。
もう少しだけ走ろうと思っても、脚が出ない。
止まれば追いつかれる。そのことは分かっているのに、身体の方は、話を聞いてくれなかった。
「……もう少し、交渉の余地ってものがないのか」
自分で呼んでおいて、今になって条件の相談を始めている。
俺が相手なら、まずそこを指摘するだろう。
掠れた声の向こうで、地面を打つ音がした。
先ほどより間隔は長い。それでも、一つ鳴るたびに、近づいてくるのが分かる。
地図を開き、午後に歩いた経路を辿る。
この先は住宅が減り、建物の間隔も広くなる。
道は分かりやすくなるが、身を隠せる場所は少ない。
施設までは、まだ四キロほどあった。
地図をしまおうとして、右の靴紐が緩んでいることに気づいた。
結び直そうとしゃがんだものの、汗ばんだ指が震え、紐をうまく引けない。
テケ、テケ。
輪を作り、もう片方を回す。焦って引いたせいで輪が潰れ、俺は歯を食いしばって、最初からやり直した。
その間も、音は続いている。
結べた。
両端を強く引き、立ち上がったところで、音が止まった。
ライトを後ろへ向ける。街灯の下から白線が延び、曲がり角の先で闇に消えている。
塀、民家の門、電柱と順に照らし、そこで手が止まった。
電柱の根元に、白い指が一本出ていた。
指が曲がり、手のひらが路面へ滑り出す。
開いた五本の指の後ろに、黒い髪が覗いた。
十メートルも離れていない。
俺が下を向いていた間、そこにいたのか。
走り出すと、女も動いた。
背後の音が一斉に速くなる。俺は結び直したばかりの靴で、地面を蹴った。
*
次の交差点を左へ曲がり、狭い道に入った。
予定していた経路からは外れるが、先で元の道へ戻れるはずだった。
ところが、いくつか角を曲がるうちに、どこを進んでいるのか分からなくなった。
似たような塀と、閉じられた窓ばかりが続いている。
昼間なら目印になるものもあったのだろうが、ライトの光は目の前の壁に跳ね返り、その先まで届かない。
背後の音は離れなかった。
それなのに、追いつかれもしなかった。
踏切で見た速さなら、とっくに捕まっているはずだ。
さっきも、俺が靴紐を結んでいる間に近くまで来ていた。
だが、走り出せば、また少し離れたところから音がついてくる。
逃げられると思わせているのか。
考えかけたところで息が詰まり、俺は家の脇にある物置へ向かった。
道路との間にできた狭い陰へ身体を押し込み、ライトを消す。
息を殺そうとしても、喉から音が漏れる。
口を押さえ、肩で呼吸をしながら、物置の反対側を見た。
向こうへ抜ける隙間はある。立ち上がって数歩進めば、道路へ出られる。
薄い鉄板の向こうで、手のひらが地面を打った。
続いて、何かを引きずる音がする。
近づいてくる。
今動けば、聞こえるだろうか。それとも、もう分かっているのか。
物置の角から、白い手が出た。
指が一本ずつ舗装に置かれ、その上へ黒い髪が垂れる。
髪の間に額が見え、片方の目が、ゆっくりと角を越えてきた。
俺を見た。
立ち上がった拍子に、頭が庇へぶつかった。
鈍い音が響き、目の奥に痛みが走る。
それでも止まらず、反対側へ抜けて道路に飛び出した。
テケッ。
すぐ後ろだ。
右へ曲がり、次を左へ折れる。街灯の明かりが視界を横切ったが、道順を考える余裕はもうなかった。
*
大きな道路へ出た時、見覚えのある交差点が現れた。
午後に歩いた場所だ。
道路の向こうに古い倉庫が並び、その先から施設へ続く道へ入れる。
見失ったと思っていた経路へ戻れたことに、少しだけ息がつけた。
胸元のカメラに目を落とすと、録画表示は点いたままだった。
映像は揺れる道路ばかりだろう。だが、音は残っているはずだ。
俺の呼吸と靴音、それに、あの――。
聞こえない。
顔を上げ、来た道を振り返る。二つ並んだ街灯の下に、女の姿はなかった。
ガードレールへ手をついて身体を支えると、太腿が強く張った。
靴の中では足の指が擦れ、体重を移すたびに熱を持つ。
地図を出し、交差点と照らし合わせた。
踏切から、およそ三キロ。
「……半分かよ」
距離は半分。体力の方は、さっき使い切っている。
笑おうとして咳き込み、背中を丸める。
女が来ないうちに、少しでも息を整えたかった。
ここで見失えば、引き合わせることはできない。
その考えが浮かんだ時には、自分でも呆れた。
追ってきてほしくない。だが、いなくなられても困る。
もう一度、あの踏切へ戻ることなど、考えたくもなかった。
地図を閉じた時、前方で音がした。
テケ。
顔を上げる。
倉庫の影から白い腕が伸び、低い頭が道路へ出てきた。
二十メートルほど先で、女がこちらを向いていた。
後ろにいたはずだった。
住宅街を走り回っている間に、先へ出たのか。
俺が思っているより、道は短くつながっていたのか。
女の片手が前へ出る。
テケ。
もう片方が続き、身体が近づいてきた。
右は高いフェンス、左は倉庫の壁。
脇へ抜けられる場所は見当たらない。
「……勘弁してくれよ」
俺は来た道へ走り出した。
せっかく進んだ距離を戻ることになる。
それよりも今は、目の前のものから離れたかった。
ところが、進もうとした暗がりからも、音がした。
テケ。
足が止まりかける。
振り返っても、さっき女が出てきた辺りは倉庫の影に沈み、姿が分からない。
打撃音が壁に返り、どちらから聞こえるのか判別できなかった。
ライトを振る。フェンスが光り、次に壁が浮かぶ。
足元へ戻しかけた光の外で、音が続いた。
テケテケテケ。
近い。
俺は反射的に身を伏せた。
頭の横で空気が動き、髪のようなものが視界をかすめる。
横へ転がると、握ったライトが路面を照らした。
顔から数十センチのところに、白い手がついていた。
悲鳴を上げて身体を引く。女の腕が伸び、開いた指が靴へ向かってくる。
右足を引いた瞬間、爪先すれすれを指が通り過ぎた。
立ち上がろうとして、膝を強く地面についた。
痛みに息が詰まり、腕からも力が抜けかける。
それでも、もう一度舗装を押し、どうにか片脚を前へ出した。
どちらへ向かっているのかは分からない。
女のいない方へ。
それだけを頼りに走った。
*
次に立ち止まったのは、道路脇の暗がりだった。
しゃがみ込んでから、右膝の生地が破れていることに気づく。
裂け目の中で血が滲み、触れると、濡れた布が傷に張りついた。
指先まで震えていた。
ペットボトルを取り出したが、蓋がうまく回らない。
何度か手を滑らせ、ようやく緩んだところを掴み直す。
口へ運ぶと、歯に容器が当たった。
冷たい水が喉を下りていく。その間だけ、焼けるような痛みが和らいだ。
立たなければ。
そう思っても、腰が上がらない。太腿が張り、膝に力を入れようとすると、脚が小刻みに震える。
怖ければ走れるものだと思っていた。
だが、もう怖さだけでは動かなかった。
俺は顔を覆い、手の中で息を吐いた。
テケ。
顔を上げる。
暗い道路の先から、また聞こえてくる。
ボトルをしまい、膝へ手を当てて立ち上がろうとした。
途中で脚が折れ、舗装に手をつく。
掌に食い込む小石をそのまま押し、歯を食いしばって腰を上げた。
傷ついた右膝に体重をかけると、痛みが足先まで走る。
それでも、一歩は出た。
左を運び、また右を出す。走るどころか、歩くのがやっとだった。
背後で、手のひらが地面を打つ。
テケ、テケ。
ゆっくりした音だった。
俺の足が出るたびに、後ろでも鳴る。
苦しくなって歩調を落とすと、音の間隔も長くなる。
なぜ、追いつかない。
今なら簡単なはずだ。俺はもう、逃げるどころか、立っているだけでも脚が震えている。
足を止めた。
音も止まる。
振り返るまでに、少し時間がかかった。
十数メートル先に、女がいた。白い腕で身体を支え、長い髪を地面に垂らしている。
あれほど激しく動いていたのに、肩にも腕にも、疲れた様子は見えなかった。
「……何なんだよ、その体力は」
掠れた声が出た。
「世界で通用するぞ。種目は知らんけどな」
女は動かない。
俺が息を整えている間も、同じ姿勢でこちらを向いている。
待っているのかもしれない。何を待っているのかは分からなかったが、見つめ返しているうちに、距離が縮まっているような気がしてきた。
耐えきれず、一歩退く。
女の右手が持ち上がった。
指が開き、こちらへ伸びる。その動きに反応してもう一歩退いた足が、舗装の窪みに引っかかった。
膝が崩れる。
踏みとどまれず、肩から道路へ倒れた。
身体の下でカメラが軋み、手を離れたライトが路面を転がっていく。
横向きになった光の中で、女が動いた。
テケ。
片手をつき、身体を引き寄せる。
テケ。
もう片方が前へ出る。髪が路面を擦り、顔が近づいてきた。
俺は地面を押して後ろへ下がろうとしたが、靴底が滑るばかりだった。
脚へ力を込めても、身体を支えられない。
倒れた俺と、女の顔が、ほとんど同じ高さになる。
白い頬と、暗い瞳。その下で、手が俺の脚へ伸びてきた。
「……待ってくれ」
指先が止まった。
荒い息を吐きながら、その手から顔へ目を移す。
女は目の前にいる。
止まってくれたのか。それとも、次に手をつくまでの、ほんのわずかな間なのか。
指がまた動き始めても、俺には、もう身を引く力が残っていなかった。




