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テケテケの足|異常観測記録ファイル NINE 01  作者: 苔葉


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第六章 ついてくる音

恐怖には、そのうち慣れるものだと思っていた。

暗い道でも、何度か歩けば塀の位置や街灯の間隔が分かってくる。

物音がしても、あの家の門だろう、風で揺れる看板だろうと見当がつく。

何があるかを知るだけで、少しは怖くなくなるものだ。


だが、あの音は、聞くほどに怖くなった。

テケ、テケ。

遠ざかれば耳を澄まし、近づけば脚を動かす。

聞こえなくなれば、もうすぐ横にいるのではないかと、ライトで暗がりを探した。


何度も逃げ、何度も見失った。

それでもまた、聞こえてくる。

テケ、テケ。


どこで止まり、いつ走り出すか。息を整える間をどれだけもらえるか。

その夜は、何もかも、あの音に決められていた。


*


踏切から二キロほど来たところで、呼吸が続かなくなった。

吸うたびに胸の奥が引きつり、右の脇腹が痛む。

角を曲がって低い塀に手をつくと、膝が細かく震え始めた。

もう少しだけ走ろうと思っても、脚が出ない。


止まれば追いつかれる。そのことは分かっているのに、身体の方は、話を聞いてくれなかった。


「……もう少し、交渉の余地ってものがないのか」


自分で呼んでおいて、今になって条件の相談を始めている。

俺が相手なら、まずそこを指摘するだろう。

掠れた声の向こうで、地面を打つ音がした。


先ほどより間隔は長い。それでも、一つ鳴るたびに、近づいてくるのが分かる。

地図を開き、午後に歩いた経路を辿る。

この先は住宅が減り、建物の間隔も広くなる。

道は分かりやすくなるが、身を隠せる場所は少ない。


施設までは、まだ四キロほどあった。

地図をしまおうとして、右の靴紐が緩んでいることに気づいた。

結び直そうとしゃがんだものの、汗ばんだ指が震え、紐をうまく引けない。


テケ、テケ。

輪を作り、もう片方を回す。焦って引いたせいで輪が潰れ、俺は歯を食いしばって、最初からやり直した。

その間も、音は続いている。


結べた。

両端を強く引き、立ち上がったところで、音が止まった。

ライトを後ろへ向ける。街灯の下から白線が延び、曲がり角の先で闇に消えている。

塀、民家の門、電柱と順に照らし、そこで手が止まった。


電柱の根元に、白い指が一本出ていた。

指が曲がり、手のひらが路面へ滑り出す。

開いた五本の指の後ろに、黒い髪が覗いた。


十メートルも離れていない。

俺が下を向いていた間、そこにいたのか。

走り出すと、女も動いた。


背後の音が一斉に速くなる。俺は結び直したばかりの靴で、地面を蹴った。


*


次の交差点を左へ曲がり、狭い道に入った。

予定していた経路からは外れるが、先で元の道へ戻れるはずだった。

ところが、いくつか角を曲がるうちに、どこを進んでいるのか分からなくなった。


似たような塀と、閉じられた窓ばかりが続いている。

昼間なら目印になるものもあったのだろうが、ライトの光は目の前の壁に跳ね返り、その先まで届かない。

背後の音は離れなかった。


それなのに、追いつかれもしなかった。

踏切で見た速さなら、とっくに捕まっているはずだ。

さっきも、俺が靴紐を結んでいる間に近くまで来ていた。

だが、走り出せば、また少し離れたところから音がついてくる。


逃げられると思わせているのか。

考えかけたところで息が詰まり、俺は家の脇にある物置へ向かった。

道路との間にできた狭い陰へ身体を押し込み、ライトを消す。


息を殺そうとしても、喉から音が漏れる。

口を押さえ、肩で呼吸をしながら、物置の反対側を見た。

向こうへ抜ける隙間はある。立ち上がって数歩進めば、道路へ出られる。


薄い鉄板の向こうで、手のひらが地面を打った。

続いて、何かを引きずる音がする。

近づいてくる。


今動けば、聞こえるだろうか。それとも、もう分かっているのか。

物置の角から、白い手が出た。

指が一本ずつ舗装に置かれ、その上へ黒い髪が垂れる。

髪の間に額が見え、片方の目が、ゆっくりと角を越えてきた。


俺を見た。

立ち上がった拍子に、頭が庇へぶつかった。

鈍い音が響き、目の奥に痛みが走る。

それでも止まらず、反対側へ抜けて道路に飛び出した。


テケッ。

すぐ後ろだ。

右へ曲がり、次を左へ折れる。街灯の明かりが視界を横切ったが、道順を考える余裕はもうなかった。


*


大きな道路へ出た時、見覚えのある交差点が現れた。

午後に歩いた場所だ。

道路の向こうに古い倉庫が並び、その先から施設へ続く道へ入れる。

見失ったと思っていた経路へ戻れたことに、少しだけ息がつけた。


胸元のカメラに目を落とすと、録画表示は点いたままだった。

映像は揺れる道路ばかりだろう。だが、音は残っているはずだ。

俺の呼吸と靴音、それに、あの――。


聞こえない。

顔を上げ、来た道を振り返る。二つ並んだ街灯の下に、女の姿はなかった。

ガードレールへ手をついて身体を支えると、太腿が強く張った。

靴の中では足の指が擦れ、体重を移すたびに熱を持つ。


地図を出し、交差点と照らし合わせた。

踏切から、およそ三キロ。


「……半分かよ」


距離は半分。体力の方は、さっき使い切っている。

笑おうとして咳き込み、背中を丸める。

女が来ないうちに、少しでも息を整えたかった。


ここで見失えば、引き合わせることはできない。

その考えが浮かんだ時には、自分でも呆れた。

追ってきてほしくない。だが、いなくなられても困る。

もう一度、あの踏切へ戻ることなど、考えたくもなかった。


地図を閉じた時、前方で音がした。

テケ。

顔を上げる。


倉庫の影から白い腕が伸び、低い頭が道路へ出てきた。

二十メートルほど先で、女がこちらを向いていた。

後ろにいたはずだった。


住宅街を走り回っている間に、先へ出たのか。

俺が思っているより、道は短くつながっていたのか。

女の片手が前へ出る。


テケ。

もう片方が続き、身体が近づいてきた。

右は高いフェンス、左は倉庫の壁。

脇へ抜けられる場所は見当たらない。


「……勘弁してくれよ」


俺は来た道へ走り出した。

せっかく進んだ距離を戻ることになる。

それよりも今は、目の前のものから離れたかった。


ところが、進もうとした暗がりからも、音がした。

テケ。

足が止まりかける。


振り返っても、さっき女が出てきた辺りは倉庫の影に沈み、姿が分からない。

打撃音が壁に返り、どちらから聞こえるのか判別できなかった。

ライトを振る。フェンスが光り、次に壁が浮かぶ。

足元へ戻しかけた光の外で、音が続いた。


テケテケテケ。

近い。

俺は反射的に身を伏せた。


頭の横で空気が動き、髪のようなものが視界をかすめる。

横へ転がると、握ったライトが路面を照らした。

顔から数十センチのところに、白い手がついていた。


悲鳴を上げて身体を引く。女の腕が伸び、開いた指が靴へ向かってくる。

右足を引いた瞬間、爪先すれすれを指が通り過ぎた。

立ち上がろうとして、膝を強く地面についた。

痛みに息が詰まり、腕からも力が抜けかける。

それでも、もう一度舗装を押し、どうにか片脚を前へ出した。


どちらへ向かっているのかは分からない。

女のいない方へ。

それだけを頼りに走った。


*


次に立ち止まったのは、道路脇の暗がりだった。

しゃがみ込んでから、右膝の生地が破れていることに気づく。

裂け目の中で血が滲み、触れると、濡れた布が傷に張りついた。


指先まで震えていた。

ペットボトルを取り出したが、蓋がうまく回らない。

何度か手を滑らせ、ようやく緩んだところを掴み直す。

口へ運ぶと、歯に容器が当たった。


冷たい水が喉を下りていく。その間だけ、焼けるような痛みが和らいだ。

立たなければ。

そう思っても、腰が上がらない。太腿が張り、膝に力を入れようとすると、脚が小刻みに震える。


怖ければ走れるものだと思っていた。

だが、もう怖さだけでは動かなかった。

俺は顔を覆い、手の中で息を吐いた。


テケ。

顔を上げる。

暗い道路の先から、また聞こえてくる。


ボトルをしまい、膝へ手を当てて立ち上がろうとした。

途中で脚が折れ、舗装に手をつく。

掌に食い込む小石をそのまま押し、歯を食いしばって腰を上げた。


傷ついた右膝に体重をかけると、痛みが足先まで走る。

それでも、一歩は出た。

左を運び、また右を出す。走るどころか、歩くのがやっとだった。


背後で、手のひらが地面を打つ。

テケ、テケ。

ゆっくりした音だった。


俺の足が出るたびに、後ろでも鳴る。

苦しくなって歩調を落とすと、音の間隔も長くなる。

なぜ、追いつかない。


今なら簡単なはずだ。俺はもう、逃げるどころか、立っているだけでも脚が震えている。

足を止めた。

音も止まる。


振り返るまでに、少し時間がかかった。

十数メートル先に、女がいた。白い腕で身体を支え、長い髪を地面に垂らしている。

あれほど激しく動いていたのに、肩にも腕にも、疲れた様子は見えなかった。


「……何なんだよ、その体力は」


掠れた声が出た。


「世界で通用するぞ。種目は知らんけどな」


女は動かない。

俺が息を整えている間も、同じ姿勢でこちらを向いている。

待っているのかもしれない。何を待っているのかは分からなかったが、見つめ返しているうちに、距離が縮まっているような気がしてきた。


耐えきれず、一歩退く。

女の右手が持ち上がった。

指が開き、こちらへ伸びる。その動きに反応してもう一歩退いた足が、舗装の窪みに引っかかった。


膝が崩れる。

踏みとどまれず、肩から道路へ倒れた。

身体の下でカメラが軋み、手を離れたライトが路面を転がっていく。


横向きになった光の中で、女が動いた。

テケ。

片手をつき、身体を引き寄せる。


テケ。

もう片方が前へ出る。髪が路面を擦り、顔が近づいてきた。

俺は地面を押して後ろへ下がろうとしたが、靴底が滑るばかりだった。

脚へ力を込めても、身体を支えられない。


倒れた俺と、女の顔が、ほとんど同じ高さになる。

白い頬と、暗い瞳。その下で、手が俺の脚へ伸びてきた。


「……待ってくれ」


指先が止まった。

荒い息を吐きながら、その手から顔へ目を移す。

女は目の前にいる。


止まってくれたのか。それとも、次に手をつくまでの、ほんのわずかな間なのか。

指がまた動き始めても、俺には、もう身を引く力が残っていなかった。

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