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テケテケの足|異常観測記録ファイル NINE 01  作者: 苔葉


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第五章 足を返す

夜の踏切に立つと、向こう側がひどく遠く見えることがある。

昼間なら数歩で渡れる場所だ。道路を二本のレールが横切り、その先にも同じ町が続いている。

それなのに、街灯の届くところから暗がりへ目を移すと、そこだけ、自分の知っている道ではないような気がしてくる。


もちろん、気分の問題だ。

夜中になったからといって線路の行き先が変わるわけでも、遮断機の向こうに別の世界ができるわけでもない。

あの夜、車の中にいる間は、俺もそう考えていた。


*


午前零時十二分。

駐車場に停めた車から、街灯に照らされた遮断機を眺めていた。

住宅の窓はほとんど暗く、線路の向こうの倉庫にも明かりはない。

昼間に歩いた道なのに、今はどこで曲がっているのかも見えなかった。


助手席の地図を取り、折り目を伸ばす。

施設まで六・二キロ。午後の下見でつけた印を指で辿ってみたが、車内灯の下で見ても、あの塀や囲いの向こうが浮かぶだけだった。

身を隠したあと、反対側から白い手が入ってきたらどうするのか。

昼間には考えなかったことが、今になって気にかかる。


「……帰るなら、今だな」


鍵は差さったままだ。エンジンをかけ、駐車料金を払えば帰れる。

目を閉じると、昨夜の二本の足が浮かんだ。

少し進んでは止まり、向きを変えて、また歩く。

何度も映像を見たのに、あれが何をしていたのか、まだ何も分かっていない。


俺は地図を畳み、バッグへ戻した。


「……依頼主もいないのに、残業か」


ドアを開けると、冷たい空気が膝の辺りへ流れ込んできた。


*


録音機を確かめ、カメラの録画を始める。

ライトで足元を照らし、靴紐に緩みがないことを見てから、二、三歩走ってみた。

バッグは揺れない。カメラも邪魔にならない。


もう確認するものがなかった。

それまで手を動かしていれば済んでいたのに、あとは行くだけだと分かった途端、胃の辺りが重くなる。

踏切へ向かう道で聞こえたのは、遠くの車と、かすかな電線の唸りだけだった。

警報機は鳴っていない。レールの表面に街灯の光が細く伸び、その先は闇の中へ消えている。


最後に列車が通ったのは、二十分ほど前だ。

調べた時刻表では次の通過まで間があったが、それだけを当てにはせず、左右を見通して耳を澄ませる。

何も近づいてこない。


小さな石を拾い、カメラを胸元のストラップに預けた。

握った石の角が、湿った手のひらに食い込む。

現れたら、足の場所を伝える。


話が通じなければ距離を取る。

追いつかれたら。

そこから先は、考えるたびに同じところで止まった。


しゃがんで、レールを叩く。

キン、と澄んだ音がした。思っていたよりも遠くまで響き、暗い線路の先に何かがいれば、そちらにも届きそうだった。

もう一度叩き、響きが消えるのを待つ。


「足を返す」


声が大きすぎた気がした。近所の窓が開き、何をしていると怒鳴られるのではないか。

今心配することでもないのに、そんな考えが頭をよぎる。


「足を返す」


遠くで車が一台、走り去っていく。


「足を返す」


それきり、何も起きなかった。

しばらく待ってから立ち上がり、踏切の外へ戻る。

線路の両側を照らしても、枕木と砂利、低い雑草が見えるだけだ。


「……まあ、そうだよな」


カメラを持ち直し、画面を確かめた。

録画は続いているが、映っているのは夜の踏切でしかない。

肩から少し力が抜けた。


周囲を撮って帰ろう。何も起きなかったことも、今夜の記録にはなる。

ライトを動かしかけた時、背後で音がした。

テケ。


振り返ると、車を停めてきた方へ道路が延びている。

古い塀に沿って曲がった先は、街灯が届かない。

テケ。


今度は近い。

光を向けても、初めは何も見つからなかった。

白線と路面のひび、塀際の落ち葉。

その上を探していた光を、わずかに下げる。


道路の端に、白い手があった。

五本の指を開いて地面につき、その隣には、もう片方の手もある。

二本の腕の間から垂れた髪が、路面に広がっていた。


髪の奥で、目がこちらを向く。


*


女は両肘を曲げ、腹を路面へ伏せていた。

灰色の服に包まれた肩と胸。その先に腹があり、身体はそこで途切れている。

後ろを照らす光の中には道路しかなく、脚を曲げて隠しているのではないことが、一目で分かった。


顔は地面から三十センチほどの高さにある。

長い髪の隙間から白い頬と暗い瞳が覗き、その低い位置から、俺を見上げていた。

足を見つけた。


そう言えばいい。

そのためにここへ来たのに、喉が塞がり、開いた口から息しか出てこない。

目の前のものを見ているだけで、用意してきた言葉がうまくつながらなかった。


女の右手が前へ出る。

テケ。

肘が曲がり、身体が引き寄せられた。


一度手をついただけで、間にあった距離が半分になる。

俺は後ずさった。靴底で砂利が鳴るのと、次の手が地面を打つのは、ほとんど同時だった。

テケ。


白い顔がライトの明かりへ入ってくる。

唇が開き、歯が見えた。声は聞こえない。

何か言おうとしているのか。


確かめる間もなく、両腕が続けて動いた。

テケテケテケテケ。

俺は走り出した。


最初の数歩で足がもつれ、ライトの光が路面を跳ねる。

胸元で暴れるカメラを引き寄せ、踏切を背に、施設へ続く道へ入った。

案内するつもりだった。


だが、もう足の場所を伝えることなど考えていない。

背後の音から離れたくて、脚を前へ出す。

それだけで精いっぱいだった。


全力で走っているのに、音が離れない。

振り返ると、すぐ後ろに女がいた。

揺れた光が白い顔を捉える。暗い目と、開いたままの口。

腕は激しく動いているのに、頭はほとんど上下せず、地面すれすれの同じ高さでついてくる。


「待て、待て!」


声が飛び出した。


「足を返すとは言った!」


息を吸おうとして、喉が鳴る。


「俺のをやるとは言ってない!」


テケッ。

鋭い音が跳ね、視界の端へ白い腕が伸びた。

身を傾けた途端、右の裾が引かれる。

足首に布が張りつき、脚の動きが一瞬止まった。


俺は声にならない声を上げ、脚を振り抜いた。

前へ投げ出した靴底が地面を捉える。

次の一歩も出た。まだ走れる。そのことだけを確かめながら、最初の角へ飛び込む。


*


靴が滑り、肩から塀にぶつかった。

壁面に手をついて身体を起こし、止まらずに走る。

肩の痛みが遅れて広がってきたところで、あの音が聞こえなくなっていることに気づいた。


振り返った角には、何もいない。

振り切ったのか。

足を緩めかけると、右手の塀の向こうで音がした。


テケ、テケ。

二メートル近い塀に遮られ、向こう側の細い路地は見えない。

だが、音は俺と同じ方向へ進んでいた。


テケテケテケ。

少しずつ、前へ移っていく。

どこから入った。さっきの角にはいなかったはずだ。


考えている間にも、音は遠ざからず、むしろ塀越しに近くなる。

先には切れ目があり、向こうの路地とこの道が合流する。

午後に歩いて確かめた場所だった。


このまま行けば、そこで出くわす。

速度を上げようと腕を振ったが、胸が痛く、息が吸えない。

塀の向こうの音は、もう俺より前で鳴っている。


切れ目まで、あと十メートル。

五メートル。

角から白い手が出た。


指が路面を掴み、女の身体が押し出されてくる。

遅れて髪が揺れ、その下で顔がこちらを向いた。

俺は左へ身を投げた。


道路の端へ転がり、カメラが舗装を叩く。

硬い衝撃が腕を抜け、ライトの光が空へ跳ね上がった。

テケッ。


すぐ脇で鳴る。

手をついて立ち上がった時、背中に何かが触れた。

指だったのか、服が何かを擦ったのか、確かめる余裕はない。


道路を横切り、反対側の細い道へ飛び込む。

背後で、再び地面を叩く音が始まった。


*


自動販売機の明かりが見えた頃には、喉が焼けるように痛んでいた。

脇に小さな倉庫がある。午後、建物の陰へ入れることを確かめておいた場所だ。

俺は角を曲がってしゃがみ込み、ライトを消した。


ずれたバッグを押さえ、壁へ背中を寄せる。

胸が勝手に上下していた。呼吸を抑えようとするほど喉が鳴り、口を手で塞いでも、息が指の間から漏れていく。

テケ、テケ。


道路を近づいてくる音は、さっきより遅かった。

一打ずつ間を置きながら、自動販売機の前まで来て止まる。

俺は膝を引き寄せた。


ズボン越しに地面の冷たさが染み、カメラのストラップが首に食い込む。

少し緩めれば楽になるのに、留め具へ手を伸ばすことさえできなかった。

壁の向こうで、何かが擦れる。


ざり、ざり。

硬いものが舗装を掻くような音だった。

テケ。


すぐそこだ。

口を押さえたまま、足元へ目を落とす。

自動販売機の明かりが、建物の角から斜めに差し込んでいた。


その中へ、低い影が入ってくる。

丸い頭の輪郭から、髪らしい細いものが伸びている。

姿は見えなくても、角の向こうで顔を動かしているのが分かった。


影が伸び、止まった。

あと少し回り込まれれば、ここが見える。

壁へ背中を押しつけ、顎を引く。息を止めているのに、胸の奥から空気がせり上がってきた。

鼻からわずかに吐いた瞬間、足元の影が動かなくなる。


聞こえたのか。

道路を車が通った。

ヘッドライトが周囲を白く照らし、影の輪郭が見えなくなる。

エンジン音に重なって、地面を打つ音が激しく続いた。


テケテケテケテケ。

俺は立ち上がり、倉庫の裏へ走った。

背後で何かが地面を叩いたが、振り返らずに裏手を抜ける。

道路へ出て、角を曲がり、街灯の下を通り過ぎる頃には、脚がうまく上がらなくなっていた。


一度つまずき、何とか踏みとどまる。

それでも、止まる方が怖かった。


*


音が遠のいてからも、しばらく走り続けた。

道路脇へしゃがみ込むと、喉の奥に血の味がした。

膝に置いた手まで揺れ、息を吸うたび、胸の内側が痛む。


カメラの録画表示は点いたままだった。

小さな画面には、斜めになった道路と暗闇が映っている。

女が撮れているかどうか、今はどうでもよかった。

再生してあの顔を見る気には、とてもなれない。


バッグから地図を出す。

汗で湿った指が滑り、折り目をうまく開けなかった。

持ち直して街灯にかざし、近くの建物と道の曲がり方を照らし合わせる。


踏切から、まだ一キロほど。

何かを間違えたのだと思った。

もう一度、現在地を探す。曲がった角と、横切った道路。

遠回りした分を考えても、施設へ続く線は、ほとんど進んでいない。


あれだけ走った。

転がって、隠れて、息もできずに走ってきた。

その全部が、地図の上では指先で隠れる長さに収まっている。


施設へ行けば、何かが変わるかもしれない。

そう考えて来たはずなのに、今は明るい部屋へ帰りたかった。

鍵をかけ、靴を脱ぎ、誰かと電話でもしていたい。

何の話でもよかった。朝になって窓の外が明るくなるまで、人間の声を聞いていたかった。


膝に手をつき、何とか腰を上げる。

テケ。

背後で鳴った。


地図を持ったまま、身体が固まる。

すぐそばではない。だが、振り向いて距離を確かめる気にはなれなかった。

テケ、テケ。


近づいてくる。

地図をバッグへ押し込み、俺はまた走り出した。

足を返すと言った。


その言葉を聞いて現れたのなら、女は何かを受け取るつもりで来たのかもしれない。

今さら、場所を知っているだけだと説明して、止まってくれるだろうか。

背後の音が速くなる。


振り返らず、重くなった脚を持ち上げた。

次の街灯までの暗がりへ、揺れる光を投げ出す。

まだ、五キロ以上あった。

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