第三章 迎えに来た
人間は、見えないものを怖がる。
暗い部屋や、誰もいない廊下。夜中に聞こえる物音も、何がいるのか分からないから、余計なことまで考えてしまう。
それでも、見えないうちは逃げ道がある。
風だろう。動物だろう。疲れているせいかもしれない。
そう言い聞かせて明かりを消し、布団をかぶってしまえば、朝には大抵のものが怖くなくなる。
だが、はっきり見えてしまったらどうするのか。
そこにあるはずのないものを、自分の目で確かめてしまったら。
その夜まで、俺は「目を疑う」というのは、もう少し簡単なことだと思っていた。
*
閉鎖施設へ戻ったのは、午後十一時を回った頃だった。
道路脇の空いたスペースに車を停め、エンジンを切る。
暖房の音が途絶えると、遠くを走る車の音が、窓越しにかすかに聞こえてきた。
助手席にはカメラバッグと三脚、予備のライトがある。
忘れ物がないことは、事務所を出る前にも確かめてきた。
機材の準備なら、何をすればいいか分かる。
問題は、相手が現れたあとの方だった。
三脚を向ければ退散してくれるなら、取材も楽なのだが。
カメラを取り出して録画を始め、腕時計へ目を落とす。
「十一時十三分。閉鎖施設前。昼間の聞き込みをもとに、夜間撮影を行う」
そこで一度、言葉を切った。車の中にいると、施設はフロントガラスの向こうの景色でしかない。
もう少しここにいたい気がした。
「撮影者の精神状態は、おおむね正常。来た場所を除けば」
録画を止め、ドアを開ける。
風はなかった。草地もフェンスも動かず、その奥に、窓を塞がれた建物が立っている。
昼間に見た雨染みは黒く沈み、建物の角はどこまで続いているのか分からない。
駐車場へライトを向けると、薄れた白線と、ひび割れた舗装が浮かび上がった。
光を奥へ滑らせ、壁際に誰もいないことを確かめてから三脚を立てる。
カメラは建物沿いの一角へ向けた。
録画を再開し、録音機を作動させ、ライトの角度を調整する。
その間にも何度か後ろを振り返ったが、安全確認ということにしておいた。
*
昼間に話を聞いた男性によれば、石で駐車場の地面を叩き、「迎えに来た」と三回唱えると、足だけのものが現れるらしい。
いかにも怪談らしい手順だ。本当にそれだけで呼べるなら、夜の心霊スポットは順番待ちになるだろう。
小さな石を拾い、カメラの画角に入る場所でしゃがむ。
膝を曲げると、思っていたより地面が近かった。
足だけのものが出てきたら、このくらいの高さで向き合うことになるのだろうか。
何を話せばいい。
そもそも、口のない相手に取材を申し込めるのか。
「……出欠だけでも取れれば上出来か」
石を振り下ろすと、カツン、と硬い音がした。
もう一度叩き、その響きが建物から返ってくるのを聞く。
「迎えに来た。迎えに来た。迎えに来た」
声が消えてからも、しばらくしゃがんだまま待った。
遠くで車が走り、どこかの家で犬が鳴く。
耳を澄ましていると、それまで気に留めなかった音まで聞こえてくるが、駐車場の中では何も動かなかった。
立ち上がって膝の砂を払う。
「……留守か」
奥を照らしてみても、塞がれた窓と錆びた雨樋、壁際の雑草が見えるだけだ。
周囲をひと通り撮って三脚のそばへ戻る頃には、十一時半が近づいていた。
もう一度試すか、それとも引き上げるか。
腕時計から顔を上げながら、俺はさっき口にした言葉を考えていた。
なぜ、「迎えに来た」なのだろう。
いるかどうかを尋ねるのでも、姿を見せろと命じるのでもない。
誰かが待っていることを、最初から知っているような呼びかけだ。
その時、駐車場の奥で、靴底を擦る音がした。
*
ザッ。
ライトを向けたが、光の中には何もいない。
壁際を照らし、建物の入口へ戻しかけると、今度は二度続けて聞こえた。
ザッ、ザッ。
歩いている。
数歩進んで止まり、間を置いて、また動く。
昼間に聞いた証言が頭に浮かんだ。
俺は録音機の赤い表示を確かめ、ライトを建物の入口から右の外壁へ移した。
音が近づいてくる。
光を下げると、その端へ黒い靴が入ってきた。
脚が続き、遅れてもう片方の靴が現れる。
人間だと思った。
ライトを上げる。膝、太腿、腰。
その先で光は背後の壁に届いた。
俺は手を止めた。
もう一度下へ向けると、脚がある。
上げると、壁が見える。照らす角度が悪いのかと思い、わずかに横へ動かしてみても、腰の上には何もなかった。
下半身だけの身体が、何の支えもなく立っている。
「……冗談だろ」
自分の声が、妙に遠く聞こえた。
黒い靴が動く。右足を出し、左足を引き寄せる。
歩幅は揃わず、片足を前へ出したまま、次が続かないこともある。
腰が大きく傾き、俺は思わず身構えた。
倒れる。
そう思ったところで傾きが止まり、身体が元の位置へ戻っていく。
支える腕も、掴まるものもない。何が姿勢を立て直したのか分からないまま、次の靴音がした。
俺は三脚のカメラへ手を伸ばした。
録画は続いている。レンズも、そちらを向いているはずだ。
画面を覗こうと視線を下げた瞬間、音が途切れた。
顔を上げると、腰がゆっくりと回っていた。
片方の靴が向きを変え、もう片方が続く。
二つの爪先が、こちらへ揃った。
俺も動けなくなる。
顔も、目もない。
それでも、向き合っていると分かった。
*
数メートル先に、下半身だけが立っていた。
何か話しかけなければと思うのに、最初の言葉が出てこない。
喉が乾き、唾を飲み込む音ばかりが耳につく。
相手が一歩、こちらへ踏み出した。
俺は後ずさった。靴底で砂利が鳴り、その音にまで肩が跳ねる。
転ばないよう足元を確かめたいが、目を離すのが怖かった。
相手は止まっていた。
それ以上近づかず、二つの爪先をこちらへ向けている。
「……悪い。今日は、場所を確かめに来ただけなんだ」
言ってから、ひどい返事だと思った。
迎えに来たと呼んでおきながら、出てきた相手に、今日は違うと告げている。
何も考えていなかったことを、今になって説明されても困るだろう。
足は動かない。
こちらの言葉が聞こえているのか。
声のする方を向いただけなのか。耳がどこにもないことに気づくと、何に話しかけているのかさえ分からなくなった。
ライトを握る手に力が入る。光が揺れ、そのたびに背後の壁へ落ちた影が動いた。
どれくらいそうしていたのか、やがて右の靴が向きを変えた。
左が続き、腰が建物の方へ回る。靴底の擦れる音が再び聞こえ始め、足は、来た方へ戻っていった。
数歩進んでは止まり、傾いた身体を立て直して、また進む。
俺はライトで追ったが、声をかけることはできなかった。
黒い靴が建物の影へ入り、膝が見えなくなる。
最後に腰の輪郭が光の届かないところへ消えた。
照らす位置を変えてみても、壁と雑草しか見つからない。
靴音も、もう聞こえなかった。
*
遠くを車が通り、フェンスの影が駐車場を横切った。
その動きに振り向いてから、ようやく息を吐く。
ライトを持つ手が冷えていた。握り直そうと指を緩めると、落としそうになった。
カメラの録画を止め、今の映像を再生する。
暗がりから、二本の足が現れた。
小さな画面の中でも、歩き方は同じだった。
右を出し、左を引き寄せ、途中で止まる。
腰の上には、駐車場の奥の壁が見えている。
映っている。
そう思った時には、少し安心していた。
俺の目だけがおかしくなったわけではない。
少なくとも、見たと思ったものを、カメラも記録している。
だが、画面の中の爪先がこちらへ向き直ると、背筋が冷えた。
映像にすれば落ち着いて見られると思ったのに、さっきの感覚がそのまま戻ってくる。
顔のない相手に、見られていた。
俺の声か、機材の音に反応したのかもしれない。
たまたま向きを変えただけかもしれない。
それを確かめるために、もう一度呼ぼうという気にはなれなかった。
再生を止め、機材を片づける。
襲われなかった。追ってもこなかった。
だが、それだけで、次も大丈夫だと思えるほどの余裕はない。
三脚の脚がなかなか縮まず、何度も留め具を確かめた。
背後で音がしないか耳を澄ませながら、カメラを鞄へ押し込み、車へ戻る。
ドアを閉めたところで、ようやく大きく息を吐いた。
自分の両足に目がいく。
二本ともある。
「……よかったな、お互い」
誰に言ったのか、自分でもよく分からない。
エンジンをかけると、暖房の音が車内へ広がった。
吹き出し口に片手をかざし、その音を聞いているうちに、少しずつ肩の力が抜けていった。
*
すぐには車を出せず、助手席のメモ帳を開いた。
忘れないうちに書いておきたい。今見たものと、これから俺が考えることが、混ざってしまう前に。
『下半身のみの存在を確認。歩行可能。こちらへ一歩接近したが、それ以上は近づかず。追跡、攻撃なし』
そこまで書いて、ペンを止める。
テケテケの足だとは、まだ言えない。
事故で失われた身体なのか、別の何かが人間の形をしているのかも分からない。
そもそも、腰から上が見えないだけで、俺には見えないものがそこに続いている可能性だってある。
それでも、上半身だけの女が本当にいるのなら。
その女が、噂どおり足を探しているのなら。
今見たものと引き合わせた時、何が起きるだろう。
余白に、『上半身を連れてくる』と書いた。
文字を眺めているうちに、乾いた笑いが漏れる。
「……言うのは簡単だな」
書くのも簡単だった。
相手は、走る人間に追いつくという怪異だ。
呼び出せる保証もなければ、話が通じる保証もない。
何とかここまで連れてきたとして、この足が別の誰かのものだったら、どうする。
同じ身体の一部なら元に戻るのか、という肝心なことさえ、何も分かっていなかった。
俺はメモ帳を閉じた。
今夜は、下半身だけのものが歩くところを見た。
映像にも残っている。まずは持ち帰って、落ち着いて見直す。
それだけでも、十分すぎる夜だった。
車を出すと、バックミラーの中で施設が小さくなっていく。
駐車場の奥は見えない。それでも、あの足がまだ歩いているような気がした。
数歩進んでは止まり、傾いた身体を戻して、また進む。
女性が言っていたとおり、歩き方を忘れた人のようにも見えた。
「……迎えに来た、か」
呼ぶために借りただけの言葉だった。
だが、呼んだあとで、足は暗がりから出てきた。
こちらへ向き直り、一歩近づき、それから戻っていった。
何に応じたのかは分からない。
俺の言葉を聞いていたのなら、あの一歩を、どう受け取ればよかったのだろう。
ミラーから目を戻すと、ヘッドライトの先に、帰り道が続いていた。




