第二章 もう半分
人間の下半身だけが歩いている。
そんな話を調べながら、俺は仕事の選び方を少し反省していた。
風景や建物を撮っていれば、少なくとも撮影対象の上半分を探す必要はない。
頼まれたものを、頼まれたとおりに撮る。
それで生活が成り立つなら、何の問題もないはずだ。
ところが、誰にも頼まれていないことほど気になる。
まずは、テケテケの由来とされる事故を調べることにした。
上半身と下半身が別々に目撃されているとして、同じ事故へ辿り着くことはないだろうか。
図書館で古い新聞をめくり、伝承に出てくる地名や年代と照らし合わせてみる。
鉄道事故の記録はいくつも見つかったが、怪談とのつながりは見えてこない。
ある資料では昭和初期の出来事だったものが、別の資料では最近の話になっている。
場所も、亡くなった女性の名前も違っていた。
噂に名を挙げられた中には、実際に事故で亡くなった人もいる。
だが、事故があったことと、その人が怪異になったことは別だ。
名前と亡くなり方が似ているからといって、こちらの探している話に当てはめるわけにはいかない。
本人が訂正に来られないからといって、好きに書いていいことにはならないだろう。
三日目、俺は事故関係の資料を脇へ寄せた。
過去から辿れないなら、今、何が目撃されているのかを確かめる。
探すのは上半身ではなく、もう半分の方だ。
*
最初の手がかりは、あの掲示板の書き込みだった。
夜の駐車場に、下半身だけの人影が立っていた。
投稿者は逃げたが、追ってはこなかったという。
似た話を探して連絡を取るうちに、直接会って話を聞ける目撃者が一人見つかった。
夜間配送をしている運転手だ。
街道沿いの喫茶店に現れた男は、五十代ほどに見えた。
日に焼けた太い指でコーヒーカップを持ち、話し始める前に、少し困ったように笑う。
「幽霊なんか、信じちゃいなかったんですよ。今も、できれば信じたくないですけどね」
見たのは、配達を終えて車へ戻ろうとした午前一時過ぎ。
道路の向こうを、ふらつく人影が歩いていたという。
酔っ払いだろうと思ったのは、それが街灯の下へ出てくるまでのことだった。
「見間違いだった可能性は?」
「ありますよ。夜中でしたし、疲れてましたから」
男はあっさり頷いた。その返事をメモに書いていると、カップを置く音がした。
「でも、腰の上が空いてたんです。向こうの景色が見えてた。普通の人間だったって言われても、じゃあ、あれは何だったんだって」
車へ駆け戻ってドアを閉めたものの、鍵を回す手が震え、すぐにはエンジンをかけられなかったらしい。
「こちらへ来ましたか」
「いいえ。道路の途中で止まって、向きを変えました」
「どちらへ?」
「来た方です。何歩か戻って、また止まった」
俺はそこまで書き留め、顔を上げた。
「何かを探しているように見えましたか」
男はカップへ手を伸ばしかけ、そのまま少し考え込んだ。
「……そう言われると、そうも見えますね。ただ、そこまでは。こっちも、それどころじゃなかったんで」
「そうですよね」
頷きながら、俺は問いの横に小さく線を引いた。
進んで、止まり、戻った。男が見たのは、その動きまでだ。
「探していた」という意味をつけたのは俺で、今の質問では、その意味ごと相手に渡してしまう。
聞きたい答えがあると、質問にも出る。
気をつけているつもりでも、こういうところで顔を出すものらしい。
*
二人目は、夜勤明けの帰り道で見たという女性だった。
数年前に閉鎖された商業施設の駐車場で、靴を引きずるような音を聞いたらしい。
夜はほとんど人の来ない場所なので、不審に思って足を止めたという。
女性は俺のカメラを見ると、首を横に振った。
「顔は映さないでください。職場にも話してないんです」
「分かりました。録音は大丈夫ですか」
頷くのを待ってカメラを鞄へ戻し、録音機を置く。
何を見たのか話してもらえれば、それでいい。
怯えた顔を撮るために来たわけではなかった。
「歩く音が、途中で何度も止まるんです。誰かいるのかなと思って、ライトを向けたら……」
言葉が途切れ、女性の視線が湯飲みへ落ちる。
「足だけがいたんです。腰のところで終わってて、その上には何もなくて」
俺は続きを待った。
「三歩くらい進んで止まって、向きを変えて。また歩くんです。どっちへ行きたいのか、分からないみたいでした」
「近づいてきましたか」
「いいえ。私の方へは来ませんでした」
聞こえたのは靴底の擦れるような音だけで、声などはなかったという。
俺がメモを見直し、次に何を聞くか考えていると、女性がふと顔を上げた。
「あれ、上がないのに倒れなかったんですよね」
ペンを止め、彼女を見る。
「腰が傾くんです。今にも倒れそうになって、それでも戻るんです。不安定なのに、立っていられる」
女性は湯飲みを置き、そこに添えていた指を離した。
「まるで、歩き方を忘れた人みたいでした」
*
事務所へ戻って録音を聞き直し、目撃地点を地図に移していく。
集めた話は、細部まで一致するわけではなかった。
服装や靴の形はまちまちで、裸足だったという話さえある。
同じものを見たとは限らないし、先に噂を聞いて、それに似せて書かれたものが混じっている可能性もある。
それでも、動きには似たところがあった。
夜、人の少ない場所を歩く。数歩で止まり、向きを変える。
そして、確認できた範囲では、誰も襲われていない。
場所の曖昧な古い情報を外すと、最近の目撃談は町外れの一角に集まった。
女性の話に出てきた閉鎖施設を中心に、北側の細い道路、南側の広い駐車場、その周辺へと印が並ぶ。
地図を少し引いて眺めると、施設の周りを囲んでいるようにも見えた。
同じ噂が、その辺りだけで広まっているのかもしれない。
近所の誰かが話せば、聞いた人間も、夜にそこを通る時には足元が気になるだろう。
俺も今、地図上の印を見て、何かの通り道を見つけたような気になっている。
「……散歩にしちゃ、ずいぶん狭いな」
確かなのは、見に行く場所ができたことだけだ。
地図を保存し、翌日の予定に「現地確認」と書き込んだ。
*
翌日の午後、車で町外れへ向かった。
住宅の間に空き地が増え、やがて道の片側が草地に変わる。
その先、道路から少し奥まったところに、錆びたフェンスに囲まれた建物が見えてきた。
建物へ通じる門には鎖がかかっている。
南側に広がる駐車場には一台の車もなく、薄れた白線の間から雑草が伸びていた。
道路脇に車を停め、カメラを持って外へ出る。
昼間に見ると、不気味というより、ただ長く使われていない場所だった。
風に押された草が揺れ、緩んだ金網が小さく鳴る。
建物の窓は内側から塞がれ、外壁には、看板を外した跡らしい色の違いが残っている。
道路側から建物と駐車場を撮ってみたが、歩く足など、どこにも見当たらない。
「……昼の部は、やってないか」
カメラを下ろして奥を見渡した。
街灯はあるものの、道路際だけだ。
夜になれば建物沿いは暗くなり、今見えている草や壁の染みも、ほとんど見えなくなるだろう。
そこで靴音を聞けば、誰がいるのか確かめようと、ライトを向けたくなる。
あの女性も、そうしたのかもしれない。
何となく、自分の足元を見た。
二本ともある。
見たところで何が変わるわけでもないのに、少し安心した。
取材先で自分の足を数えるようでは、先が思いやられる。
*
近くの住宅を訪ねると、七十代ほどの男性が話を聞かせてくれた。
施設は何年も使われておらず、今では時々、管理をするらしい人間が来る程度だという。
「夜になると、歩く音がするんだよ。誰もいないはずなのにな」
「確かめに行ったことは?」
「行かんよ。夜中にあそこまで出ていくほど、若くない」
俺もそのくらいの年になれば、まともな断り方を覚えるのだろうか。
できれば、今からでも覚えたい。
男性は笑い、施設の方へ顎を向けた。
「ただ、見たって人はいる。腰から下だけで歩いてるってな。昔からある話だが、近頃また聞くようになった」
「ご自身では、姿は見ていない?」
「ああ。音だけだ」
姿の話と音の話を分けて書き留めていると、男性が思い出したように続けた。
「そういえば、呼ぶ方法があるって聞いたな。若い連中が試したらしい」
「どうやって?」
「夜、駐車場で石を拾って、地面を叩くんだと」
指先で、足元を叩く仕草をする。
「それで、『迎えに来た』って三回言う。すると、足だけの女が出るらしい」
「女なんですか」
「噂じゃな。顔もないのに、どうして分かるのかは知らん」
「試した人たちは?」
「逃げたってよ。怖かったんだろう」
俺はペンを止めた。
迎えに来たと言っておきながら、本当に出てきたら逃げる。
「……ずいぶん勝手な迎えだな」
「何か言ったかい?」
「いえ、こっちの話です」
男性に礼を言い、家を辞した。
*
帰る前に、もう一度施設の前へ車を寄せた。
西日を受けたフェンスの影が、駐車場へ長く伸びている。
建物沿いにはもう日が当たらず、昼間は見えていた壁の下の方が、暗く沈み始めていた。
撮った映像を確認しても、建物と草地しか映っていない。
風に金網が鳴る音も入っているが、靴音と間違えるようなものではなかった。
カメラの画面を閉じると、女性の言葉が頭に浮かんだ。
歩き方を忘れた人みたいだった。
数歩進んでは止まり、向きを変える。
人を追うでもなく、施設の周りを歩いている。
何かを探しているのか、それとも、どこかへ行こうとして行けずにいるのか。
迎えを待っている、と考えたのは、さっきの話を聞いたからだろう。
呼びかけの言葉を知っただけで、見てもいない相手の事情まで、それらしく思えてくる。
俺はカメラを鞄へ収め、駐車場から目を離した。
今夜、もう一度来てみる。
呼び出し方は悪戯かもしれない。何も出ない可能性の方が高いだろう。
それでも、地図と証言を眺めているだけでは、これ以上は進めなかった。
「……迎えに来た、か」
口にしてみると、妙な言葉だった。
誰なのかも知らない。どこへ連れていくのかも決めていない。
それなのに、以前から約束していたような顔をして呼びかける。
もし俺が待っている側なら、あまり信用したくない迎えだ。
首を振り、車へ戻った。
まだ、ただの噂でしかない。
*
車を出した時、バックミラーの端で何かが動いた。
駐車場の奥。建物の影の中に、細長いものが二本、並んで見えた。
ブレーキへ足を移しかける。その間に車の向きが変わり、ミラーにはフェンスと道路だけが映った。
草だったのかもしれない。影の重なりを、さっきまで考えていたものに見立てただけかもしれない。
カメラは鞄の中だ。あとから見返せる映像もない。
俺はミラーをもう一度見て、それから前へ目を戻した。
アクセルに戻した右足と、床に置いた左足が、急に気になった。
「……悪いな。帰りも使うんだ」
冗談のつもりだったが、笑えなかった。
足だけのものが本当に現れたら、俺はどうするのだろう。
迎えに来たと言っておきながら逃げた連中を、さっきは勝手だと思った。
だが、自分なら逃げないと、言えるわけでもない。
信号が赤に変わり、俺はブレーキを踏んだ。
車が止まってからも、しばらく足裏に力が入っていた。




