第一章 その先を知らない
怪談には、妙な共通点がある。
どんなに恐ろしい化け物が出てきても、話が終われば、聞いていた人間は日常に戻れる。
幽霊に追われた男は逃げ切り、呪われた家に入った若者は命からがら脱出する。
最後に誰かが死ぬ話でさえ、語り終えた人間は茶を飲み、翌朝には仕事へ出かけていく。
夜中に便所へ行きづらくなるくらいのことはあるだろうが、それも何日かすれば忘れる。
もちろん、例外はある。それでも、大抵の怪談は、人間の身に何が起きたかを語ったところで終わる。
逃げ切った。助かった。殺された。
そこで、おしまいだ。
では、逃げられた化け物はどうなるのだろう。
次の誰かが通りかかるまで、また暗闇で待つのか。
そもそも、何をしたくて追いかけていたのか。
追いついて望みを果たせば、それでもう、人前には現れなくなるのだろうか。
そんなことを考えていると、大抵は、もっと心配することがあるだろうと言われる。
化け物の将来より、自分の将来。
もっともな話だ。その日も俺は、そちらを後回しにしていた。
*
机の時計が午後二時を回ったところで、何も食べていないことに気づいた。
朝食を抜いたというより、朝食を食べる時刻に起きていなかった。
編集が終わったのは午前四時過ぎ。
少し横になるつもりが、目を覚ます頃には昼前になっていて、それから机に向かったまま、また二時間ほど過ぎている。
こういう生活を叱る上司はいない。
同僚も部下もいないから、誰かに迷惑をかける心配も、今のところはない。
人件費を削り続けた結果みたいな職場だが、最初から俺しかいなかった。
壱家八伽。職業は映像作家。
少なくとも、名刺にはそう書いてある。
一人でやっている事務所の名前はNINE。
ナインと読む。壱に八で九。足し算くらいなら、俺にもできる。
正式には、Numinous Incident Notation & Evidence。
「霊的・神秘的事案の記録と証拠」という、ずいぶん大仰な名前だ。
中古のカメラ二台で背負うには少々荷が重いが、名刺を渡すと、たいてい二度見される。
二度目まで読んでもらえるのはありがたい。
九は一桁の最後で、十には一つ足りない。
何かを分かったつもりになっても、最後の一つが手元にない俺には、ちょうどいい名前だった。
部屋の片側にはカメラや録音機材、三脚が押し込まれ、反対側には流し台と冷蔵庫がある。
壁際には簡易ベッドも置いてあって、編集が長引けばそこで寝る。
泊まる回数が増えるにつれ、事務所に住んでいるのか、住んでいる場所で仕事をしているのか、自分でも区別がつかなくなってきた。
椅子を離れ、ケトルのスイッチを押す。
ついでに冷蔵庫を開けてみたが、水と調味料しかない。
「……景気のいい眺めだ」
家賃は払った。電気代も、たぶん大丈夫だ。
先月納品した企業向け映像の報酬が入れば、食料も買えるだろう。
ひとまず、棚にはカップ麺が残っている。
企業紹介、店の宣伝、イベント撮影。
そうした仕事で食いつなぎながら、合間に自分の撮りたいものを撮っている。
幽霊、未確認生物、奇妙な伝承。世間で怪異と呼ばれるものだ。
信じているのかと聞かれると、返事に困る。
幽霊を見たことはないし、撮った映像にも、これがそうだと言い切れるものはなかった。
ただ、見たという人間を笑う気にもなれない。
何を見たのか。どこから見たのか。
その時、周りには何があったのか。
話を聞き、現地を歩いてみれば説明のつくこともある。
逆に、行く前より分からなくなって帰ることもある。
人は、分からないものに名前をつける。
暗がりの声を幽霊と呼び、森の大きな影を怪物と呼ぶ。
名前があれば誰かに話せるし、聞いた人間も、別の誰かに伝えやすい。
そうして広まるうちに、声には顔がつき、影には人を襲う理由まで与えられていく。
俺が知りたいのは、その話の始まりに何があったのかだった。
NINEは、真実のひとつ手前。
そこまでしか行けなかったとしても、何を確かめ、何が分からなかったのかは残しておきたい。
分からないところまで、話の収まりに合わせて埋めてしまわないように。
ケトルが鳴り、俺は流し台へ戻ってカップ麺に湯を注いだ。
蓋を押さえながら机へ運ぶと、パソコンの画面では、長い髪の女が地面に両腕をついている。
腹から下は、描かれていない。
今回調べているのは、テケテケだ。
*
両腕で地面を這い、恐ろしい速さで人を追う。
移動する時の、テケ、テケという音が名前の由来とされている。
捕まれば足を奪われる。あるいは腰から身体を切られ、自分も同じ姿にされるという。
線路の事故で死んだ女とも、足を失った少女ともいわれているが、場所も年代も定まらない。
学校に現れる話があれば、夜道で追われる話もあって、資料を読み比べるほど、女の素性は分からなくなる。
自分の足を探しているという説明の隣に、他人にも同じ苦しみを味わわせようとしている、という説明が並ぶ。
理由などなく、出会った人間を襲うだけの話もあった。
伝わるうちに話が変わるのは珍しくない。
気になったのは、その違いよりも、どの話にも書かれていないことの方だ。
足を手に入れたあと、女はどうなるのか。
奪った足を自分の身体につけるのか。
それで歩けるようになるのか。歩けるようになれば、もう誰も追いかけずに済むのだろうか。
検索欄に「テケテケ 足 その後」と打ち込み、出てきたページを順に開いてみる。
逃げる方法は見つかる。助かるための言葉も、いくつか出てくる。
ところが、女が足を取り戻した話となると、ほとんど見当たらない。
捕まった人間がどうなったかまでは書かれていても、その足を女がどうしたのかは、分からないままだ。
逃げる側にしてみれば、相手の望みなど知ったことではないだろう。
俺だって、本物が現れればカメラを放り出すかもしれない。
だが、今は椅子に座って画面を見ている。
考える余裕くらいはある。
メモ帳を引き寄せ、一行書いた。
『足を手に入れたら、彼女はどうなるのか』
*
知り合いの映像制作者に電話で話してみると、呆れた声が返ってきた。
「そんなこと考えるから、お前の動画は長くなるんだよ」
「短くする努力はしてる」
「普通は見つけたら逃げるだろ。足をどうするかなんて、気にしてる場合か」
「俺も逃げるよ。気になるのは、その後だ」
向こうでため息が聞こえる。こちらは真面目に相談しているのだが、真面目に聞いた結果のため息かもしれない。
「怪物にまで取材するつもりか?」
「話を聞けるならな」
「食われるぞ」
「せめて取材が終わってからにしてほしいな」
そこで電話を切られた。
ほかにも何人かに聞いてみたが、足を奪えば満足するのだろう、次の人間を襲うのだろう、作り話なのだから考えても仕方がない、と答えは分かれた。
どれも想像の域を出ず、足を手に入れた女がどうなったか、知っている者はいない。
誰も、その先を知らなかった。
話が終われば、化け物だけが暗闇に残る。
もし本当にいるのなら、誰にも語られない間も、同じことを続けているのだろうか。
携帯電話を置き、メモ帳へ目を落とす。
他人の足を奪うことと、自分の足を探すことは違う。
噂の中では一緒にされているが、探しているのが自分の足なら、誰のものでもいいというわけにはいかないはずだ。
画面の女を、もう一度見た。
長い髪と、地面を支える両腕。その姿ばかりを見ていたが、失われた方にも、何か残っているのではないか。
「……もう半分か」
上半身だけが動いているのなら、切り離された下半身はどこへ行ったのか。
事故現場に残ったのか。それとも、別の場所で歩いているのか。
根拠は何もない。上半身が動くからといって、下半身まで動くと考えるのは、ずいぶん都合のいい理屈だろう。
それでも、同じ話を読み返しているよりは、確かめることが一つ増える。
俺は新しい検索画面を開き、今度はテケテケという名前を使わずに探し始めた。
*
「下半身だけの人影」「夜道を歩く足」。
言葉を変えながら検索を続けるうちに、古い掲示板の書き込みに行き当たった。
数年前の、短い文章だ。
夜中の駐車場で足音を聞き、振り返ると、人間の下半身だけが立っていたという。
腰から上には何もなく、投稿者は驚いて逃げ出している。
場所は曖昧で、写真もない。作り話だと言われれば、それまでの内容だった。
ただ、追いかけてはこなかったらしい。
俺は文章を読み直した。下半身が立っていたことよりも、そちらの方が気にかかる。
上半身は人を追う。下半身は、逃げても追ってこない。
もちろん、同じ身体だと考える理由はない。
俺が関係のない話をつなぎ合わせようとしているだけかもしれないし、書いた人間が、そこまで考えなかっただけかもしれない。
それでも、その違いは確かめてみたかった。
メモ帳に『足は、誰かを襲ったのか』と書き加え、ペンを置いたところで、カップ麺を思い出した。
蓋を開けると、麺が容器いっぱいに膨らんでいる。
箸を入れて持ち上げてみても、重たそうな塊がついてくるばかりで、なかなかほぐれない。
「……会う前から、飯まで邪魔するのか」
まだ見ぬ相手に文句を言い、書き込みを保存する。
足を見つけたあとにどうするかは、考えていなかった。
まずは似た目撃談を探し、場所が分かれば行ってみる。
その時の俺には、それだけで十分にやることがあった。
まして、その持ち主を呼ぶことになるなど、思ってもいない。
ただ、怪談の続きを知りたかった。
人間の話が終わったあとも、暗闇に残っているはずの、その先を。




