序章 線路の向こう
踏切の向こうに、女が倒れていた。
男は足を止めた。
夜の十一時を過ぎている。
駅からここまで、誰ともすれ違っていない。
通りに面した店はシャッターを下ろし、家々の窓もほとんど暗い。
自分の靴音が途絶えると、辺りはひっそりと静まり返った。
遮断機は上がっている。
線路の左右に、電車の明かりは見えない。
女がいるのは、踏切を渡った先の街灯の下だった。
道路に両手をつき、長い髪を地面に垂らしている。
転んだのだろうか。
男は鞄を持ち直し、しばらく待った。
けれど、女は起き上がろうとしない。
酔っているのかもしれない。
それとも、具合が悪いのか。
「大丈夫ですか」
呼びかけに、女の肩が動く。
右手を前へ伸ばし、身体を引きずった。
その後ろにあるはずの脚が、ない。
男は目を凝らした。
街灯の明かりは女の背中を照らし、その先の道路にまで届いている。
隠れているのではない。
腹から下が、どこにもなかった。
テケ。
女の手が地面を叩く。
男が一歩退くと、女は顔を上げた。
髪の隙間から、目がのぞく。
その目は男の顔を素通りし、靴に向けられていた。
テケ。
白い手がレールを越える。
男は走り出した。
背後で、地面を叩く音が続く。
初めは間があった。それが、走り出した途端、急に詰まった。
テケテケテケテケ。
住宅の角を曲がる。
すぐ後ろで、手のひらが地面を打つ。
振り返ることはできなかった。
前へ出した足を、何かが下から掴もうとしている気がする。
踵を高く上げ、もつれそうになりながら走り続けた。
もう一つ角を曲がったところで、音が消えた。
男は数歩進んで止まり、荒い息を押し殺す。
来た道に目を凝らしても、路地には誰もいない。
角の向こうからも、物音一つ聞こえなかった。
男は塀に背をつけ、そのままずるずるとしゃがみ込んだ。
スマートフォンを取り出すが、指が滑る。
何度も違う場所を押し、ようやく妻につながった。
「もしもし」
「迎えに来てくれ」
「どうしたの?」
「女が……足のない女が」
言いかけて、男は黙った。
電話を持つ手の下に、長い髪が見える。
すぐ横だった。
塀と男の脇腹の間に、女の頭がある。
曲がり角を見ている間、ずっとそこにいたのか。
それとも、今来たのか。
女は顔を伏せている。
灰色の肩が、男の上着に触れていた。
「どこにいるの?」
耳元で妻の声がする。
男は口を開いたが、声にならない。
女の首が動く。
垂れた髪の先が、膝にかかった。
男は息を止めた。
ゆっくりと持ち上がる顔。
こんなに近くにいるのに、その目は男を見ようとしない。
靴を見ている。
男は足を引いた。
女の顔が、引いた分だけ近づく。
「もしもし? 聞こえる?」
男は立ち上がろうとした。
その足首に、白い指がかかる。
悲鳴を上げ、脚を振って逃れた拍子に、電話が落ちた。
男は路面に尻をつき、両足を胸元へ抱え込む。
女が両手をつく。
テケ。
膝のすぐ前まで来た。
男は顔を背けた。
その先の塀に、女の影が映っている。
頭と、肩と、腕。
その下には何もない。
足元では、妻が何か叫んでいた。
女の唇が動く。
声は聞こえない。
男は首を振った。
何を言われているのか、分からない。
分からないまま、何度も首を振り続ける。
白い手が膝に触れた。
抱えた腕の下へ、指が一本ずつ入ってくる。
男は両腕に力を込め、脚を抱き締めた。
それでも、指は止まらなかった。
*
夜明け前、男は民家の門の前で発見された。
目立った怪我はない。
ただ、両脚を抱え込んで離さず、救急隊員が触れようとするたびに泣き出した。
妻は電話越しに、夫の悲鳴を聞いている。
そのあとも通話は切れず、地面を叩くような音が続いたという。
音は、電話のすぐそばで鳴っていた。
誰かが拾ってくれたのだと思い、妻は呼びかけた。
「夫はそこにいますか」
叩く音が止んだ。
少し間を置いて、夫の声が聞こえた。
「足だけは」
妻が名前を呼ぶと、同じ言葉が返ってくる。
「足だけは」
それきり、何を聞いても返事はなかった。
その朝、病院で顔を合わせても、男は妻に昨夜のことを話そうとしない。
看護師が靴を脱がせようとした時だけ、声を上げた。
「まだ見てる」
看護師の手が止まる。
男は靴を履いたまま、両足を身体の下へ隠した。
妻も、看護師も、床を見た。
そこには誰もいない。
男だけが、ベッドの下から目を離さなかった。




