表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/11

9 赤い算木

鏡之介が寺子屋を離れてから、日々は慌ただしく過ぎていきました。

寺子屋を守ることに追われながらも、水絵の心は、いつも同じところに戻ります。


鏡之介は、本当に帰ってくるのだろうか――。



 その夜、水絵は遅くまで「火浣布説」と「火浣布略説」を読んでいた。

 母の志津が、時折ちらちらとこちらを見て、なにか言いたげなのは気付いていたが、やめることはできなかった。

 すると、志津が不意に声を上げた。


「そういえば、鳴門屋さんに仕立物を届けたんだけど……」


 水絵は、書物から目を上げて志津を見た。


「例の無茶な仕事ね。なんか言ってた?」


 礼の一つも言わないのなら、今度文句を言ってやろうと思いながら訊く。


「さすがに悪かったと思ったんでしょう。今回のお礼に、反物を一つくださるそうよ。店に来て、好きなのを選んでくれって」


「よかったじゃない」


 水絵が書物に目を戻そうとすると、


「明日にでも行って、選んできなさいよ」


 と、志津が言う。


「え? わたし? おっかさんが選びなさいよ。一番大変だったのは、おっかさんなんだから」


「わたしはいらないわ。それに、新しい着物なんか着たら、長屋の人に変に勘ぐられるかもしれないし」


「それなら、わたしだって同じじゃない」


 長屋に住むような者に、新しい反物で作った着物は手が届かない。たいていは、古着屋で調達する。


「水絵なら若いから、たまには新しい物を着ててもおかしくないわよ。なにか言う人がいたら、わたしが『鳴門屋さんからのお礼よ』と言っておくから」


「……でも」


 正直、新しい着物は嬉しい。けれど、水絵の頭に浮かんだのは、新しい着物を身につけた自分ではなく、鏡之介の「かまわぬ」の袷。


「……ねぇ、おっかさん。その反物、お世話になった方へのお礼にしてもいい?」


 志津は、ちょっと驚いたが、少しの間の後、納得したというふうに頷いた。


「あなたがそうしたいんなら、かまわないわよ」


「ありがとう」


 微笑んで、書物に目を戻した水絵に、志津は何気ないふうに言った。


「あの方、いつも藍とか鉄紺とかをお召しだけれど、蘇芳がかった物もお似合いかもしれないわね」


 翌朝も、水絵はいつもより早く家を出た。

 礼次が手伝ってくれるとは言え、概ねは一人師匠。早く行って、色々準備しなければならない。

 朝の本堂は、さすがに冷える。水絵は手をこすりながら、今日使う教本を棚から取り出した――その時、足下に赤い物が落ちているのに気付いた。

 拾い上げてみると、それは算木だった。礼次が使う大きい物ではなく、鏡之介が懐に入れていた、小さい算木。源内の判じ物を解く時に、使っていた物だ。

 算盤の上で、迷いなく算木を動かす鏡之介の指を思い出す。


「でも、おかしい」


 水絵はつぶやいた。あのとき、鏡之介が算木を使っていたのは、縁側だった。


「どうしてこんな所に?」


 よく思い出してみると、算木をしまっていた袋は、かなり古いものだった。ところどころほつれているのが見えた。多分、穴が開いていて、そこからひとつ落ちてしまったのだろう。

 水絵は、今さらにして気付いた。あのとき、鏡之介はごく自然に懐から算木を出した。判じ物が貼られていたのを、前もって知っていたわけではない。つまり、判じ物のためにわざわざ持ってきたのではなくて、常に懐に入っていたということだ。

 

「おまえほどの算学者がどこにいる!」


 源内の声が耳によみがえった。途端に、不安が胸に押し寄せる。……本当に、帰ってきてくれるのだろうか?


「……駄目よ。こんなことを考えちゃ。寺子たちを不安にさせちゃう」


 水絵はひとつ大きく息を吐き、ちょっと考えてから、赤い算木を自分のお守り袋の中にしまった。


 寺子屋の手習いが終わってから、水絵は鳴門屋を訪れた。

 鳴門屋の主人は、水絵の顔を見ると、


「この前は、無理を言って悪かった。どれでも、好きなのを一反、持って行っていいぞ」


 と言ってくれた。

 水絵は散々、悩みに悩んで、ひとつの反物を手に取った。


「これにします」


 差し出すと、主人は意外そうな顔をした。


「本当に、これでいいのかい?」


 水絵は頷きながら言った。


「袷にするので、裏も見せてください。そっちは、ちゃんと買いますから」


「いいよいいよ。そっちもおまけだ」


 主人は気前よく言う。そして、水絵の選んだ裏地を見て、


「変わった組み合わせだが、案外粋かもしれねえな」


 と言った。


 鏡之介が留守にした半月は、めまぐるしく過ぎていった。

 礼次は励んでくれたし、時折、祐光師も顔を出してくれたが、大抵のことは水絵の肩に掛かってくる。いろいろな手違いもあった。だが、水絵の大変さがわかっているのか、寺子たちが不満を漏らすことはほとんどなかったのには、助けられた。

 だから、二十五日の帰りに、寺子たちが、


「明日は鏡之介先生に会えるんだね!」


 という言葉に、つい頷いてしまった。必ずしも、その日に帰るとは限らないと思っていたが、言えなかったのだ。


 そして、二十六日――。

 水絵は風呂敷に包んだ物を手に、朝早く眞性寺に向かった。そして、胸が早鐘を打っているのを感じながら、手習いの支度を済ませた。

 やがて、寺子たちもやってきたが――。

 ……鏡之介は、姿を見せなかった。


「なんでだよう! 今日、帰ってくるんじゃねえのかよう」


 泣きそうな声で、新吉が叫ぶ。ほかの寺子たちも不安そうで、小さい子はその雰囲気に呑まれて、今にも泣きそうだ。


「そんなに騒がないの。鏡之介さんは、きっちり半月って言ったわけじゃないし、遠いところに行っているんだから、二日や三日、遅れることもあるわよ」


 子どもたちを宥めるというより、自分自身を宥める気持ちで、水絵はそう言った。

 結局、その日は、水絵も寺子たちも沈んだ気分で過ごさなければならなかった。

 こんな日が何日も続いたら、耐える自信は、ない。寺子たちが帰った後、水絵は座り込んでしまった。懐に手を入れ、お守り袋を握りしめる。堅い算木の形が、布を通じて感じられる。

 今にも涙がこぼれそうになったその時――。


 ぎしり、と本堂の床が鳴る。

 小柄な祐光師のものではない。


 水絵が振り向けずにいると、聞き慣れた低い声が、水絵の耳に届いた。


「こんな所に座り込んで、どうした?」


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

半月の約束の日。

水絵も寺子たちも、鏡之介の帰りを待っていました。

けれど、その日、鏡之介は姿を見せません。

不安が募る中、本堂に響いた床の音。

そして――聞き慣れた声。


次回、物語はいよいよ大きく動きます。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ