9 赤い算木
鏡之介が寺子屋を離れてから、日々は慌ただしく過ぎていきました。
寺子屋を守ることに追われながらも、水絵の心は、いつも同じところに戻ります。
鏡之介は、本当に帰ってくるのだろうか――。
その夜、水絵は遅くまで「火浣布説」と「火浣布略説」を読んでいた。
母の志津が、時折ちらちらとこちらを見て、なにか言いたげなのは気付いていたが、やめることはできなかった。
すると、志津が不意に声を上げた。
「そういえば、鳴門屋さんに仕立物を届けたんだけど……」
水絵は、書物から目を上げて志津を見た。
「例の無茶な仕事ね。なんか言ってた?」
礼の一つも言わないのなら、今度文句を言ってやろうと思いながら訊く。
「さすがに悪かったと思ったんでしょう。今回のお礼に、反物を一つくださるそうよ。店に来て、好きなのを選んでくれって」
「よかったじゃない」
水絵が書物に目を戻そうとすると、
「明日にでも行って、選んできなさいよ」
と、志津が言う。
「え? わたし? おっかさんが選びなさいよ。一番大変だったのは、おっかさんなんだから」
「わたしはいらないわ。それに、新しい着物なんか着たら、長屋の人に変に勘ぐられるかもしれないし」
「それなら、わたしだって同じじゃない」
長屋に住むような者に、新しい反物で作った着物は手が届かない。たいていは、古着屋で調達する。
「水絵なら若いから、たまには新しい物を着ててもおかしくないわよ。なにか言う人がいたら、わたしが『鳴門屋さんからのお礼よ』と言っておくから」
「……でも」
正直、新しい着物は嬉しい。けれど、水絵の頭に浮かんだのは、新しい着物を身につけた自分ではなく、鏡之介の「かまわぬ」の袷。
「……ねぇ、おっかさん。その反物、お世話になった方へのお礼にしてもいい?」
志津は、ちょっと驚いたが、少しの間の後、納得したというふうに頷いた。
「あなたがそうしたいんなら、かまわないわよ」
「ありがとう」
微笑んで、書物に目を戻した水絵に、志津は何気ないふうに言った。
「あの方、いつも藍とか鉄紺とかをお召しだけれど、蘇芳がかった物もお似合いかもしれないわね」
翌朝も、水絵はいつもより早く家を出た。
礼次が手伝ってくれるとは言え、概ねは一人師匠。早く行って、色々準備しなければならない。
朝の本堂は、さすがに冷える。水絵は手をこすりながら、今日使う教本を棚から取り出した――その時、足下に赤い物が落ちているのに気付いた。
拾い上げてみると、それは算木だった。礼次が使う大きい物ではなく、鏡之介が懐に入れていた、小さい算木。源内の判じ物を解く時に、使っていた物だ。
算盤の上で、迷いなく算木を動かす鏡之介の指を思い出す。
「でも、おかしい」
水絵はつぶやいた。あのとき、鏡之介が算木を使っていたのは、縁側だった。
「どうしてこんな所に?」
よく思い出してみると、算木をしまっていた袋は、かなり古いものだった。ところどころほつれているのが見えた。多分、穴が開いていて、そこからひとつ落ちてしまったのだろう。
水絵は、今さらにして気付いた。あのとき、鏡之介はごく自然に懐から算木を出した。判じ物が貼られていたのを、前もって知っていたわけではない。つまり、判じ物のためにわざわざ持ってきたのではなくて、常に懐に入っていたということだ。
「おまえほどの算学者がどこにいる!」
源内の声が耳によみがえった。途端に、不安が胸に押し寄せる。……本当に、帰ってきてくれるのだろうか?
「……駄目よ。こんなことを考えちゃ。寺子たちを不安にさせちゃう」
水絵はひとつ大きく息を吐き、ちょっと考えてから、赤い算木を自分のお守り袋の中にしまった。
寺子屋の手習いが終わってから、水絵は鳴門屋を訪れた。
鳴門屋の主人は、水絵の顔を見ると、
「この前は、無理を言って悪かった。どれでも、好きなのを一反、持って行っていいぞ」
と言ってくれた。
水絵は散々、悩みに悩んで、ひとつの反物を手に取った。
「これにします」
差し出すと、主人は意外そうな顔をした。
「本当に、これでいいのかい?」
水絵は頷きながら言った。
「袷にするので、裏も見せてください。そっちは、ちゃんと買いますから」
「いいよいいよ。そっちもおまけだ」
主人は気前よく言う。そして、水絵の選んだ裏地を見て、
「変わった組み合わせだが、案外粋かもしれねえな」
と言った。
鏡之介が留守にした半月は、めまぐるしく過ぎていった。
礼次は励んでくれたし、時折、祐光師も顔を出してくれたが、大抵のことは水絵の肩に掛かってくる。いろいろな手違いもあった。だが、水絵の大変さがわかっているのか、寺子たちが不満を漏らすことはほとんどなかったのには、助けられた。
だから、二十五日の帰りに、寺子たちが、
「明日は鏡之介先生に会えるんだね!」
という言葉に、つい頷いてしまった。必ずしも、その日に帰るとは限らないと思っていたが、言えなかったのだ。
そして、二十六日――。
水絵は風呂敷に包んだ物を手に、朝早く眞性寺に向かった。そして、胸が早鐘を打っているのを感じながら、手習いの支度を済ませた。
やがて、寺子たちもやってきたが――。
……鏡之介は、姿を見せなかった。
「なんでだよう! 今日、帰ってくるんじゃねえのかよう」
泣きそうな声で、新吉が叫ぶ。ほかの寺子たちも不安そうで、小さい子はその雰囲気に呑まれて、今にも泣きそうだ。
「そんなに騒がないの。鏡之介さんは、きっちり半月って言ったわけじゃないし、遠いところに行っているんだから、二日や三日、遅れることもあるわよ」
子どもたちを宥めるというより、自分自身を宥める気持ちで、水絵はそう言った。
結局、その日は、水絵も寺子たちも沈んだ気分で過ごさなければならなかった。
こんな日が何日も続いたら、耐える自信は、ない。寺子たちが帰った後、水絵は座り込んでしまった。懐に手を入れ、お守り袋を握りしめる。堅い算木の形が、布を通じて感じられる。
今にも涙がこぼれそうになったその時――。
ぎしり、と本堂の床が鳴る。
小柄な祐光師のものではない。
水絵が振り向けずにいると、聞き慣れた低い声が、水絵の耳に届いた。
「こんな所に座り込んで、どうした?」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
半月の約束の日。
水絵も寺子たちも、鏡之介の帰りを待っていました。
けれど、その日、鏡之介は姿を見せません。
不安が募る中、本堂に響いた床の音。
そして――聞き慣れた声。
次回、物語はいよいよ大きく動きます。




