8 鏡之介の手紙
翌朝――。
水絵は、いつもより早く寺子屋へ向かいました。
けれど本堂で待っていたのは、鏡之介ではありませんでした。
「水絵、大丈夫なの?」
翌朝、長屋を出ようとしている水絵に、母の志津が言った。
「え? なんで?」
「遅くまで夜なべ仕事を手伝わせちゃったから。ほとんど寝てないんじゃないの?」
心配そうな母の声に、笑って振り向く。
「ちゃんと寝たわよ。大丈夫。いってきます」
「いってらっしゃい」
水絵は長屋を出ると、急ぎ足で眞性寺に向かった。「ちゃんと寝た」は嘘だ。昨夜はほとんど寝ていない。母の仕事を手伝ったせいではない。それが終わってからも、鏡之介と源内の話し合いがどうなったのか気がかりで、なかなか眠りにつけなかった。
いつもより少し早い時間に家を出たのは、昨日のなりゆきを少しでも早く知りたかったからだ。自分が早く行っても、鏡之介が来ているとは限らないが、早く行くべきだと、水絵の勘が知らせていた。
水絵の勘は当たっていた――いや、外れていたというべきなのかもしれないが。
水絵が本堂に着いた時、そこにいたのは鏡之介ではなく、祐光師だった。
「おはようございます」
挨拶した水絵に、祐光師は少し複雑な表情で挨拶を返し、そして、
「早く来てもらえて、助かりました」
と言った。
「なにかあったんですか?」
嫌な予感を抑えつつ水絵が問うと、祐光師は水絵に座るように促してから、それを告げた。
「鏡之介さんが、しばらくお休みするそうです」
水絵が鏡之介の不在を伝えると、予想通り、寺子たちは大騒ぎになった。
「いつ、お戻りになるの?」
礼次が不安そうに尋ねる。
「半月ほどお休みにするそうだから……」
水絵は、礼次の妹、るいに尋ねる。
「今日は十一日。十一に十五を加えると、いくつ?」
「……二十六!」
「よくできました。二十六日くらいにはお戻りになるわ」
その時、新吉がいきなり大声で泣き出した。
「うそだぁ! 鏡之介先生、もう帰ってこない。昨日のおじさんと、どっか遠いところに行っちゃったんだぁ!」
新吉の言葉に、寺子屋はまた大騒ぎになる。
「騒がないの! 静かに!」
水絵は、声をからして叫ばなければならなかった。
静かになったのを見計らって、新吉に問う。
「どうして、帰ってこないなんて言ったの?」
「おいら、聞いちゃったんだ。鏡之介先生が、昨日のおじさんと話しているのを」
新吉は半泣きになりながら、昨日、自分が見聞きしたことを話した。あっちこっちに行ったり、つまったりする新吉の話を要約すると――。
新吉の父は、青物の振り売りをしている。昨日、新吉が帰った時、青物を卸している煮売屋から知らせが入った。その日は何故か客の入りがよく、青物が足りなくなったから、残りの品があれば届けてほしいとのことだった。
「おいら、父ちゃんと一緒に煮売屋に青物届けたんだ」
そこで、鏡之介と源内が、夕飯を食べながら話し込んでいたという。ふたりは話に夢中で、新吉には気付かなかった。ふたりとも深刻そうな顔をしていたから、新吉は声をかけることもできなかった。
「父ちゃん、煮売屋の親父と話し込んじゃって……」
待たされた新吉は、ふたりの話をほとんど聞いてしまったそうだ。
「どんなことを話してたの?」
ちょっと震える声で、礼次が訊いた。
「難しいこと言ってたから、よくわかんないけど……なんか、どっかの山に行くって言ってた。先生が行かないと、すごく困ることになるって、おじさんが言って……」
「鏡之介さんは、行くって言ったの?」
自分の声も震えていることに、水絵は気付いた。
「『仕方ないですね』って言ってた。その後、おじさん、すごく嬉しそうだったから、きっと、鏡之介先生、山に行っちゃうんだなぁって……」
新吉は再び大泣きし、それはほかの寺子たちにも伝播しそうだった。
「鏡之介さんは、帰ってきます!」
水絵の大声に、寺子たちがシーンとなる。
「祐光先生に『半月で帰る』と言ったんだから。鏡之介さんは、嘘なんか吐きません!」
まるで本堂に冷たい風が吹いたように、寺子たちの表情が凍り付く。
これでは、手習いにならないな、どうしよう……と困り果てた時、祐光から渡された物を思い出した。
「礼次。これ、鏡之介さんからの手紙。あと、これも……」
手紙と一冊の教本を差し出すと、礼次は驚いた顔でそれを受け取った。
「なんで、礼次だけ……」
半泣きでぶつぶつ言う新吉は無視する。
礼次は、素早く手紙に目を通すと、それを水絵に差し出した。
「水絵先生も、読んで」
「いいの?」
礼次が頷いたので、水絵も素早く目を通す。
そこには、まず、算木の稽古を休まなければいけないことへの詫びが書かれていた。そして、一人で稽古するなら、同封した教本を使うようにとの指示。
礼次の手の中には「数学乗除往来」があった。
鏡之介の手紙は続く。
『だが、もし、礼次にその気があるのなら、歳下の寺子たちにそろばんを教えてやってほしい。礼次には、すでにその力がある。できるなら、水絵先生に手を貸してやってくれ』
手紙はそう締めくくられていた。
「おれ、そろばん教える」
礼次は、水絵を見上げて、きっぱりと言った。
「……ありがとう。でも、無理しないで。算木の稽古がしたいんだったら……」
「算木は、鏡之介先生が帰ってきたら、教えてもらう」
それは、礼次には珍しい大声だった。そして、本堂に響き渡ったその言葉に、寺子の氷は溶けていった。
その日の夕暮れ――。
寺子たちが帰った後、水絵はそのまま本堂に座り込んでしまった。寺子たちがいる間はと、無理矢理保っていた気概も、最後の寺子が山門から出て行った途端、崩れてしまった。
鏡之介は帰ってくる……そう思っていたが、新吉の話を聞いた時には、水絵も揺れた。だが、礼次への手紙を読んだ時、「きっと帰ってくる」と思い直した。
なにか必要があって、鏡之介は源内と中津川に向かったのだろう。
「そう言えば……」
今朝、祐光師から、
「鏡之介さんが、これを水絵に渡してくれと言ってました」
と、渡された物を取り出した。
風呂敷に包まれたそれは、二冊の本。書名は……。
「火浣布説」
「火浣布略説」
どちらも、平賀源内による、本草の書だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
鏡之介の留守。
寺子たちの不安。
そして礼次に託された役目。
寺子屋は、鏡之介がいなくても前に進み始めました。
そして水絵に残されたのは、
平賀源内の書――『火浣布説』と『火浣布略説』。
その意味とは、いったい何なのでしょうか。




