7 算の志
寺子屋の一日が終わり、子どもたちは帰っていきました。
本堂に残ったのは、鏡之介、水絵、そして奇人・平賀源内。
源内が寺子屋を訪ねてきた理由が、ようやく語られます。
それは――
二年前の「中津川」のことでした。
「あーはっはっは!」
首をすくめた水絵の耳に入ったのは、源内の大きな笑い声だった。
「いやあ、まいった。さすが、あの判じ物を解いただけのことはある。ただ者じゃないな、水絵ちゃんは」
水絵は、怒鳴られなかったことにほっとしたが、そうなってくると、やはり「水絵ちゃん」は気になる。
その時、鏡之介が真顔で言った。
「その通り、水絵はもう子どもではない。この寺子屋の手習いの師匠だ。『水絵ちゃん』呼ばわりはやめていただきたい」
「ん?」
源内が片眉をあげた。
「鏡はああ言ってるが、水絵ちゃんはどうなんだ? ちゃん付けは嫌か?」
「嫌です。わたしは寺子ではないんですから」
今度は、源内の顔をはっきり見て言えた。
すると、源内はちらっと鏡之介の顔を見て、
「承知。では水絵先生と呼ぼう」
と言う。水絵は慌てた。親くらいの歳の人から「先生」などと呼ばれたくはない。
「先生はやめてください。鏡之介さんと、同じに」
「わかった、水絵」
にやにや笑いながら言われて、からかわれたことに気付く。だが、悔しい顔を見せるのは、相手の思うつぼのような気がしたので、すまし顔で、
「それでお願いします」
と答えた。
やがて、片付けが終わると、鏡之介と源内は本堂の中央で向かい合った。
この後、自分はどうするか、水絵は迷った。何事もなければ、寺子たちの習字に朱入れをするはずなのだが……。
ここにいては、ふたりの話が聞こえてしまう。他人には聞かれたくない話かもしれないと考えた水絵は、朱入れを諦めることにした。
「それでは、わたしは失礼します」
と、立ち去ろうとすると、鏡之介が呼び止めた。
「朱入れが残っているんじゃねえか?」
「ええ。でも、お邪魔でしょうから、明日の朝、早く来てやります」
すると、鏡之介はふんっと鼻を鳴らした。
「邪魔をしてるのは、源内さんの方だ。ここは寺子屋で、水絵は師匠なんだから、遠慮することはない。そこで朱入れをしてから帰れ」
口調は素っ気なかったが、水絵を見る鏡之介の表情は、どこか必死なものが見えた。
……もしかしたら、わたしに残ってほしい?
水絵に残ってほしいというよりは、源内とふたりきりになりたくないのかもしれないが……。
それなら……と、水絵は文机の前に座り直した。
「それじゃあ、お言葉に甘えて、朱入れさせてもらいます」
鏡之介は頷くと、源内に向き直った。
「それで、俺に頼みとは?」
源内は、本堂の隅にいる水絵のことをまるで気にしていないような大きな声で言った。
「中津川のことだ。もう一度、力を貸してもらいたい」
「その件は、二年も前に片がついているはずですが」
平坦な声で鏡之介が答える。驚いた様子はないから、あらかじめ予測はついていたのだろう。
「あのときは、俺が悪かった。謝る。この通りだ」
その言葉に、水絵は思わずふたりの方を見てしまった。源内は両手を付き、頭を下げている。床に額がつくほどに深く――。
鏡之介は、腕を組んでそれを見下ろしているが、その目つきは怖いくらい醒めている。
「俺は再三、『利が立たない』と言った。それを、あなたは『おまえの算には志がない』と切り捨てた。なにを今さら……」
「鏡の言うとおりだった。穫れる金はごくわずか。人足の手間賃や道具代の掛りばかりが嵩んで、割に合わない」
「ならば、畳んでしまうのが一番だ。俺の出る幕はない」
「そうじゃないんだ」
がさごそと、紙の音がして、水絵はまた、振り返ってしまう。
源内が、なにか大きな紙を広げているところだった。水絵の方からはよく見えないが、なにかの地図のようだった。
鏡之介は腕組みをほどいて、地図を見る。
「この坑の図面、俺が引いたものじゃありませんね」
「どう思う?」
「……どうと言われても、実際の山を見なければ、なんとも言えないが……」
鏡之介は、かすかにため息を吐いた。
「山を見なくても、駄目なことは分かるだろう?」
「わかりますが……どんなに立派な図面を引いても、利が立たないことに変わりはない」
「金……ならな」
鏡之介が眉をひそめる。
「金は駄目だ。それはわかった。だから、鉄を掘る」
鏡之介は答えない。源内は再び、床に手を突き頭を下げた。
「頼む。おまえの力が必要だ。中津川に来て、俺の力になってくれ」
「無理ですよ、今さら。誰か他の人に頼んでください」
「おまえほどの算学者がどこにいる!」
ひときわ大きな声で、源内が叫んだ。
鏡之介はしばらく沈黙し、それから、気まずそうに視線を逸らし、やや早口で言った。
「……いるでしょう。いくらでも、算学者くらい」
「算学者を名乗るやつは、いくらだっている。だが、おまえほどの力のあるやつはそうそういない。そりゃあ、本朝中を探せば、二人や三人はいるだろうよ。けど、どこにそんな伝手がある?」
鏡之介は、また黙ってしまった。
そんな中、水絵は困っていた。朱入れが終わってしまったのだ。「朱入れが終わったので失礼します」と、帰ってしまっていいものかどうか……。
それに、この話の続きも気になる。
よくはわからないが、中津川という場所で、源内はなにかをしようとしている。それには、鏡之介の力が必要だと。もし引き受けることになったら、鏡之介はここから去ってしまうだろう。それは、寺子屋にとっては一大事だ。
けれども……。源内の言葉が耳から離れない。
「おまえほどの算学者がどこにいる!」
源内の話が本当なら、鏡之介は本朝でも指折りの算学者ということになる。そんな人を、巣鴨の寺子屋の師匠として、足止めしていいものだろうか?
頭を抱えたくなった時、入相の鐘が鳴った。見上げた空は、雀色を通り越している。水絵は、不意にあることを思い出した。
「あっ!」
思わず声を上げると、鏡之介がこちらを見た。
「どうした?」
「おっかさんを手伝わなきゃ……」
今朝、鳴門屋ともめたことをすっかり忘れていた。無茶な仕立て仕事を母に押しつけていたのだ。早く帰って手伝わなければ、到底間に合いそうにない。
「そういえば、今朝、そんなことを言っていたな。……朱入れが終わってるなら、早く帰ってやれ」
「はい。そうします」
ばたばたと片付けをして、水絵は本堂を飛び出す。
「お先に失礼します」
「慌てて転ぶんじゃねえぞ」
「転んだりしませんよ。じゃあ、また明日」
「おう。また明日な」
慌てて家に戻る水絵には、その後の源内の言葉は聞こえなかった。
「鏡、おまえ、自分で気付いているか?」
「なにを?」
「……いや、気付いてないならいい」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
源内の頼み。
それは中津川という場所に再び関わってほしいというものでした。
鏡之介は頑なに断りますが、源内はあきらめていないようです。
そして最後に残された、源内の意味深な言葉。
「鏡、おまえ、自分で気付いているか?」
その意味とは――。




