10 七宝の縁
半月の約束の日。
寺子たちは、鏡之介の帰りを待っていました。
しかし、その日も鏡之介は姿を見せません。
寺子たちが帰った後、本堂に一人残った水絵は、不安を胸に抱えながら静かに座り込んでいました。
そのとき――床が、ぎしりと鳴ります。
水絵は深く息を吸い込むと、袂でそっと目元を拭った。
「ずいぶんと遅いお戻りですね」
振り返らずに言う。
「これでも、大急ぎで帰ってきたんだぜ。河豚みてぇに膨れるな」
「誰が河豚ですか!」
思わず振り返ると、笑顔の鏡之介――。だが、ひどく面やつれしているし、体中から旅の疲れがにじみ出ている。
鏡之介は、水絵が驚いているのに気付いていながら、気付かないふりで水絵の前に、立て膝で座る。
「寺子たちはどうしてる?」
「みんないい子でしたよ」
すると、鏡之介は片眉をあげた。以前、水絵が一人で寺子屋を切り回した時、同じように答えたのを思い出したのだろう。あの時は、見栄を張った嘘だったが、今度は違う。
「本当にいい子でした。わたしが大変なのをわかってるんでしょう。我が儘も言わないし、いたずらもしませんでした。礼次は小さい子にそろばんを教えてくれたし。新吉なんか、毎朝、『鏡之介先生が戻ってくるまであと何日!』なんて、叫んでましたよ」
「…そうか」
鏡之介は目を伏せ、ぽつりと言った。
「苦労をかけて、悪かったな」
「めまぐるしかったですけど、苦労だとは思いませんでした。祐光先生も時々来てくれたし、なにより、礼次が頼りになって」
鏡之介は目を上げた。
「算木の稽古はしなかったのか?」
水絵はゆっくり首を横に振った。
「『数学乗除往来』は読んでいるみたいでしたけど、算木箱には手も触れませんでした。『算木は、鏡之介先生が帰ったら、教えてもらう』って」
「……まいったな」
鏡之介は小さくつぶやいた。
「そういえば……」
水絵は懐からお守り袋を出し、さらにその中から、赤い算木を出した。
「これ、落ちてましたよ」
差し出された算木を受け取りながら、鏡之介は、
「いつ落としたんだ?」
と首をかしげ、懐から算木袋を取り出した。
水絵は手を伸ばし、その算木袋をひょいっと取り上げる。
「やっぱり……。ほら、これ、ここに穴が開いてますよ。ここから落ちたんでしょう」
穴に指を入れてみせる。
「わざわざ広げるな」
取り返そうとする鏡之介の手に、今度は袂から取り出した袋を乗せる。
「それ、使ってください」
声が震えていないことに、ほっとしながら。
まじまじとその袋を見た鏡之介は、
「七宝か……」
と苦笑する。
算木袋に使った布は、紫鳶の地に、淡銀の七宝柄。
「ありがたく使わせてもらう」
鏡之介は、算木を七宝柄の袋に入れ替えると、古い袋を袂にしまった。
しばしの沈黙が流れ――。
その沈黙を破るように、鏡之介が立ち上がった。
「七宝の描き方、知ってるか?」
棚から反古紙を一枚取り、さらに木箱を持ってくる。その木箱は、少し前に鏡之介が寺子屋に持ち込んだ物だが、中に何が入っているのかは知らなかった。
水絵の前に戻ってきた鏡之介は、反古紙を床に置き、木箱を開ける。中に入っているのは、どうやら、図を描く道具らしい。
定規を手に取ると、細い筆で格子状の線を引いていく。
算木を扱った時と同じ、節の目立たない長い指――。だが、あの時と違って、指にはあちこち傷跡があったし、爪の間には泥がこびりついていた。
それでも、迷いのない指使いは変わらない。驚くほど整った格子に水絵が驚いていると、顔も上げずに鏡之介が訊いてきた。
「そういえば、あの本は読んだか?」
「『火浣布説』と『火浣布略説』ですね。読みました」
「どうだった?」
ちょっと考えてから、水絵は答えた。
「読んでいて、思い出しました。三、四年前、ちょっと騒がれていたなって。立派な布だって言う人もいたけれど、『まぼろしの布』とか『まやかしの布』とか言われることの方が多かったみたいです」
「で、水絵はどっちだと思う? 『まぼろしの布』か、『まやかしの布』か」
相変わらず、顔も上げずに訊く。紙の上には、綺麗な格子模様ができあがっていた。
「『まぼろしの布』だと思います」
鏡之介は、つっと顔を上げた。
「『まやかし』ではなく?」
水絵は頷いた。
「この本に書いてある、火浣布の材料とか作り方とかは、難しくてわたしにはわかりませんでした。でも、ひとつ気付いたことがあるんです」
鏡之介は、ぶんまわしを手に取り、円を描き始めた。水絵はかまわず続ける。
「先に書かれた『火浣布説』にはある言葉が、『火浣布略説』では、なくなっているんです」
「俺は気付かなかったな。なんて言葉だ?」
水絵は、息を吸い込んだ。
「――『肌着』です」
円を描く鏡之介の手が、一瞬止まる。
「火浣布っていうのは、火の中に入れても燃えない布のこと。大きな布を作ることもできるけれど、時間がかかるから、とりあえず香敷だけ作ったって、最初の本には書かれています。香敷って、このくらいの大きさですよね?」
水絵は指で小さな丸を作る。
「ああ、そのくらいだな」
「わたし、これを読んだ時、こんな物ができたらいいなって思ったんです。大きな布で肌着が作れるなら、火消しは助かるんじゃないかって。でも、火消しがそんな肌着を身につけてるなんて話は聞きません」
鏡之介は、黙って円を描いている。
「最初の本が出たのが、宝暦十四年三月」
本の奥付を開いて確かめる。
「五年くらい前ですね。次の本は明和二年八月。だいたい一年半くらい後……その間に『肌着』の文字が消えた」
「つまり……?」
「……できなかったんだと思います。一年半、精出したけど、大きく作ることはできなかった。だから『まぼろしの布』。源内先生には騙すつもりなんかなかった。最初は本気で、大きく作れると思っていた。でも……」
「できなかった?」
「そう思います」
すると、鏡之介は小さく「さすがだな」つぶやくと、顔を上げて言った。
「俺が見せてもらったのは、せいぜい四寸ってとこだったな」
そして、鏡之介は反古紙を水絵の方に向けて見せた。そこには、綺麗な七宝模様が描かれていた。
「……鏡之介さんにとって、七宝は、こういう道具を使って描く物なんですね」
鏡之介は一瞬虚を突かれたような顔をしたが、かすかに微笑んで尋ねた。
「水絵にとっては?」
鏡之介が描いた七宝模様を見つめながら、水絵は答えた。
「七宝は七つの宝。丸を意味する『円』は、人の『縁』につながる。人のご縁や繋がりは、七つの宝と同じくらい尊い」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
鏡之介が持ち帰った話、そして水絵が気付いた火浣布の真実。
すべてが解けた後、残ったのは七宝の模様でした。
円は「縁」につながる――水絵の言葉は、この寺子屋で生まれた人のつながりそのものかもしれません。
物語は、もう少しだけ続きます。




