第155話 水の行き先
広間の方で、小石の転がる音がした。
顔を上げると、入口側にいたフィロスが片手を振った。
「石が落ちただけだ、石ころ。今のところ、近くに魔物の気配はない」
「ありがとうございます。さっきの奴らが戻ったのかと」
「まだ戻っていない、というだけだぞ」
フィロスは再び広間へ目を向けた。ラウルもそちらを確かめてから、俺たちへ向き直る。
「もう一度、岩柱の裏を見ておきたい。水音がした辺りだけだ。どうだ?」
「私は行きたいです」
エルザが答えた。ヴェラも丸盾を持ち直す。
「私も見てみたいです」
「俺もです。何かあるかもしれませんし」
「分かった。マルタ、入口は頼む」
「任せて。そっちも気をつけて」
マルタとミレイ、ラウルの仲間二人は入口付近に残り、俺たち五人で広間へ戻ることになった。
「フィロス様、奥が気になっても皆さんと一緒にお願いしますね」
「……分かっている」
ミレイに念を押されるフィロスに、少し親近感がわいた。
俺はその横を通り、ヴェラの後ろへついた。
◆
倒した〈クリフクロー〉を避け、岩柱へ向かう。肩紐を直しても背嚢の重さは変わらない。背嚢が肘に当たらないよう気をつけながら歩いた。
柱に近づくと、石床がところどころ黒くなっていた。ヴェラが足元を指す。
「ここ、濡れています」
エルザが灯りを下げる。床の細い溝が、光を受けて小さく光った。
岩柱の右を回ったところで、音がした。
ぽつん。
天井近くの割れ目から、水滴が落ちている。真下の石には浅い窪みがあり、溜まった水が縁からあふれていた。その水が床の溝を伝い、壁の方へ流れていく。
「本当に水だったんですね」
「飲むなよ、石ころ」
「飲みませんよ」
流れを追うと、水は岩壁の下にある小さな穴へ吸い込まれていた。しゃがんで覗いても、指が数本入るほどの幅しかない。
「水の行き先はここですか」
「ああ。人が通れる場所じゃないな」
ラウルが壁を見上げた。水音の正体は分かったけれど、期待したような道はないらしい。
エルザが手帳を取り出した時だった。
ちりん。
髪際から離れたリンが、水の穴とは反対側へ飛んでいく。
そこには、壁から張り出した大きな岩があった。リンはその前を行ったり来たりしている。少し上がっては離れ、下から回り込んでは、また同じ場所へ戻った。
「リン?」
エルザが呼んでも、もう一度、岩の前を横切る。
ちりりん。
「……エルザさん。前にも、こんなことがありましたよね」
「第一分岐の右壁ですね」
あの時は、リンが岩陰に入って姿を消した。そのあとで、壁の隙間が見つかった。
「何か気になるんでしょうか」
「分かりません。リン、あまり離れないでくださいね」
エルザが手を差し出すと、リンは指先の近くへ戻ってきた。
「何を見ていたんだ、その精霊は」
フィロスも岩へ目を向けた。
「前にも似たことがあったんです。あとから隙間が見つかりました」
「今回もあるってことか?」
「それは分かりませんけど」
ラウルは岩を見回した。
「動かさずに確かめられるところだけ見よう」
「はい。俺が見てみます」
剣を収め、リンが飛んでいた場所へ近づく。
正面から見る限り、ただの大きな岩だった。水の穴もないし、目立つ窪みもない。首を傾げながら少し右へ動くと、岩の端に黒い線が見えた。
影だろうか。
屈んでみると、線の幅が変わった。もう半歩横へ寄る。黒い部分が、岩の奥へ細く伸びている。
「エルザさん。灯りをこちらに向けてもらえますか?」
「はい」
横から光を当ててもらうと、手前の岩の縁が明るくなった。その向こうに、別の石の面が見える。二つの岩の間には奥行きがあり、低いところまで光が入った。
床だろうか。
顔を近づけて覗くと、下には平らな面が続いていた。人ひとりなら、身体を横にして通れるかもしれない。
「……あれ?」
もう一度、確かめる。やっぱり奥へ続いている。
「ラウルさん、ここ。向こうへ入れそうです」
「どこだ?」
「この岩の右端です。少し横から覗いてください」
ラウルが隣に屈み、俺の示した方へ顔を向けた。
「……本当だ。奥に床がある」
フィロスも位置を変えて覗く。
「よく気づいたな、石ころ」
「俺じゃなくて、リンですよ。たぶん」
「その『たぶん』は何だ」
「本人に聞けてませんから、偶然かもしれませんし」
エルザの指先で、リンが白く揺れている。何を見つけたのか、本当に何かを見つけたのかも分からない。
でも、俺たちが壁だと思っていた場所に、道があった。
「ノワールさん、楽しそうですね」
「……はい。ちょっと」
エルザも隣へ来て、岩の奥を覗いた。
◆
入口は斜めになっていて、正面からは入れそうにない。ラウルとフィロスが手前の床を確かめている間に、俺も肩を寄せてみた。
背嚢の端が岩に当たる。
「……下ろすのを忘れてました」
「挟まる前に気づけてよかったです」
エルザが真面目な顔で言った。
「助けてもらうところでした」
「たぶん、全員総出で」
それは避けたい。
背嚢を下ろすと、ヴェラが受け取ってくれた。
「ノワール様、背嚢をお預かりしますね。こちらは私が見ておきます」
「ありがとうございます。中は気になりませんか?」
「気になります。でも、皆さんが戻るところを守ります。あとで教えてください」
「もちろんです。ありがとうございます」
ヴェラは微笑みながら頷くと、岩の外側へ向き直り、丸盾を構え直した。
エルザが灯りを隙間へ差し入れる。奥の床が少し見えたところで、ラウルが言った。
「まず俺とフィロスで見てくる。二人はここで待っていてくれ」
「分かりました」
ラウルとフィロスが順に身体を横へ向け、岩の間へ入っていった。靴が砂を踏む音が遠ざかる。
「近くに魔物の気配はない。奥までは分からんがな」
フィロスの声に続いて、ラウルがこちらを呼んだ。
「小さな部屋がある。ノワール、エルザ。ゆっくり来てくれ」
俺も肩を斜めにして隙間へ入る。背嚢がなければ、何とか通れた。最後に片足を引き寄せたところで、少しだけ視界が開ける。
低い天井の下に、数人が立てるほどの空間があった。奥には一段高い岩棚が続き、入口の脇には小石が積もっている。エルザの灯りが入ると、壁の端まで見えるようになった。
「……本当に、部屋だ」
「誰かが使っていた場所なんでしょうか」
エルザが灯りを奥へ向ける。
岩棚の上に、細長いものが横たわっていた。
最初は石の棒かと思った。けれど、周りの岩とは色が違う。褐色の焼き物らしい筒が砂をかぶっていて、片側の端が少し欠けていた。
「……何でしょう、あれ」
近づこうとすると、ラウルが手を上げる。
「ノワール、足元だ」
「はい」
靴先の前に細い割れ目があった。踏み込まずに回り込み、岩棚へ寄る。
筒は人の腕ほどの長さだった。表面には浅い刻みがあり、片端には乾いて黒ずんだ布のようなものが残っている。欠けたところから、薄いものを何重にも巻いた端が覗いていた。
「……これ、書き物じゃないでしょうか」
エルザが灯りを寄せた。覗いている端には、墨色の細い線が並んでいる。
「文字、ですかね」
「そう見えます。でも、読めません」
俺にも見覚えのある字ではなかった。
「古い巻物か」
ラウルが筒へ手を伸ばしかけ、引っ込めた。
「ここで広げるのはよそう。崩れるかもしれない」
「そうですね。気にはなりますけど」
何が書いてあるんだろう。
さっきまで、ここに部屋があることさえ知らなかった。それなのに、今はその中に置かれたものを見ている。
「魔物の巣じゃなかったな」
フィロスが岩棚を見回した。
「残念ですか?」
「別に。何もいないなら、それに越したことはない」
もっと何か言われると思っていたので、少し拍子抜けした。
「包める布はあるか?」
「背嚢にあります。ヴェラさんに取ってもらいますね」
来た道を戻り、岩の外へ声を掛けるとすぐに返事があった。ヴェラが布を一枚、隙間から差し入れてくれる。
ラウルが筒の下に布を広げ、俺も反対側から手を添えた。砂は払わず、欠けた端には触れない。布ごと持ち上げると、思っていたより軽い。
「中身は動かさず、このまま運ぼう」
「はい」
包みを受け取り、エルザが岩棚の様子を手帳に描くのを待った。
リンはいつの間にか、いつものようにエルザの髪際へ戻っていた。
◆
岩の間から出ると、ヴェラが俺の抱えた包みを見た。
「それが、中にあったものですか?」
「はい。古い巻物が入っているみたいです。焼き物の筒に収まってました」
「そんなものが……。中はどうでした?」
「小さな部屋でした。奥に岩棚があって、そこに置いてあったんです」
「あとで、エルザ様の記録も見せてくださいね」
「もちろんです」
エルザが答えた。俺は背嚢を背負い直し、包みを抱えて広間の入口へ戻る。
「何かあった?」
マルタが俺たちを見つけて声を掛けた。
「ありましたよ」
包みを持ち上げると、マルタが目を丸くする。
「え、本当に?」
「古い巻物らしい。岩の裏に小部屋があった。中身はまだ広げていない」
ラウルが説明する。ミレイも包みへ目を向けたが、触ろうとはしなかった。
「見つけたのはリンかもしれません」
俺が言うと、フィロスが鼻を鳴らした。
「石ころが調べる前に、あの精霊が岩の前を飛び回ってたんだ」
エルザの髪際でリンが小さく揺れる。本人に聞ければ早いんだけどな。
ラウルが暗い広間の方を見た。
「ここは一度引こう。逃げた三体もいるし、見つけたものもある。これ以上は別の機会だ」
「今日は地上まで戻りますか?」
「まずは幅の広い通路まで戻る。残りの時間を見て、今夜どうするか決めよう」
「分かりました」
マルタが入口側へ向き直り、ミレイとラウルの仲間たちも帰り道へ目を向けた。俺は布包みを抱え直す。
「石ころ」
「はい?」
「お前が見たがっていた隠し部屋、あったじゃないか。良かったな」
フィロスが鼻で笑う。
「……覚えてたんですか」
何だか悔しい。でも、今回は言い返す気になれなかった。
エルザが隣で笑っている。リンはその髪際で揺れ、俺たちは広間の入口へ向かった。
包みは思ったより軽い。それでも、岩柱を振り返るたびに、布の端を確かめずにはいられなかった。




