第153話 見えない二体
石の転がる音が消えても、フィロスは曲がり角から目を離さなかった。
「〈クリフクロー〉だ。二体いる」
「……もう種類まで分かるんですか?」
「お前とは違うんだよ、石ころ……一体は右下。もう一体は左上だ。上の奴が少し動いている」
曲がり角の向こうには、まだ何も見えない。
水気のある奥へ、いつものように感覚を伸ばしてみる。押して戻るような弱い反復が伝わってきた。
何かがいる。だが、二体かどうかは分からなかった。
「ノワールも何か感じるのか?」
ラウルに尋ねられ、頷く。
「はい。奥に生き物はいると思います。でも、俺には二体とは言い切れません」
「そうか」
ラウルはそれ以上聞かず、フィロスへ顔を向けた。
「どんな出方をしそうだ?」
「右下はこっちへ寄ってる。左上は横に動いてるな。岩棚でもあるんだろう。あいつらは爪を掛けられりゃ壁も登る」
「分かった。ここで受ける」
ラウルは曲がり角の手前にある、少し幅の広い足場を指した。
「ヴェラ、右を頼む。俺は左を見る。ノワールは盾の内側だ。マルタ、俺の左後ろについてくれ。後方は任せる」
ラウルの仲間の一人が返事をし、もう一人は後方を警戒した。
ヴェラが右、ラウルが左に立つ。マルタはラウルの一歩後ろで盾を構え、エルザとフィロス、ミレイは少し距離を取った。
「ノワール様、私の少し後ろ、内側をお願いします」
「はい。前へ出すぎないようにします」
「そこまで言ってませんけど」
「師匠の教えです」
ヴェラが小さく笑い、丸盾を前へ向けた。
俺も剣を抜いた。背嚢の端が肘に触れる。町で試した時と同じだ。
◆
最初に姿を現したのは、右下にいた一体だった。
曲がり角の先、床が少し落ち込んだところから灰色の毛並みがのぞいた。短い牙と、石に引っ掛ける太い爪。見覚えがある。
前に俺の左腕を傷つけた、あの魔物と同じ種類だ。
「右の一体が来る」
フィロスが言う。
〈クリフクロー〉は低い姿勢で駆け出した。ヴェラが丸盾を前へ向ける。
ところが魔物は、盾にぶつかる手前で右へ折れた。
魔物は斜めに張り出した右壁へ爪を掛け、身体を持ち上げた。石を引っ掻く音が、目の高さより上へ移る。
「上から来ます!」
ヴェラが盾を持ち上げる。魔物はその上を越えようと、後ろ脚でも岩を蹴った。
左腕が上がりかけて、止めた。前はあの爪で裂かれた。
盾の内側から剣を短く突き出し、岩へ掛かっている前脚の爪を狙った。刃が硬いものに当たり、爪が石から滑る。
魔物の身体が傾いた。
剣を引こうとして、背嚢が肘につかえた。
もう一度振る余裕はない。
ヴェラが丸盾を押し上げた。支えを失った魔物は盾の縁に横腹をぶつけ、そのまま石床へずり落ちる。
ヴェラの短槍が、起き上がろうとした魔物の首元へ入った。
穂先を抜くと、魔物は前脚を引き寄せるように動かし、それきり止まった。
「一体、倒しました!」
俺が声を出すと、フィロスがすぐに応じた。
「もう一体は左! そっちから後ろへ抜けようとしてるぞ!」
左の壁に細い岩棚が見えた。灰色の魔物がそこへ爪を掛け、横へ進んでいる。
あのまま来られたら、ラウルの横を抜けて後ろのエルザたちへ届いてしまう。
「マルタ、そこを塞いでくれ」
「任せて!」
マルタがラウルの外側へ半歩移り、丸盾を岩の張り出しへ寄せた。
盾の縁が〈クリフクロー〉の行く手を塞ぐ。爪が岩を削り、石の粉が落ちた。
魔物が上へ回ろうと頭を持ち上げた。
その瞬間、ラウルの槍が短く伸びた。穂先が岩棚と盾の間へ入り、魔物の胸元を捉える。
灰色の身体が大きく震え、爪が一つずつ岩から外れた。ラウルは槍を引いて距離を保つ。魔物は狭い床へ崩れ落ち、そのまま動かなくなった。
俺は剣を構えたまま、曲がり角を見た。
まだ、何か来るだろうか。
「二体。これで終わりだ」
フィロスの声に、すぐ隣でヴェラが息を吐いた。俺もようやく剣先を下げる。
◆
「本当に二体でしたね」
剣を鞘へ戻しながらそう言うと、フィロスが眉を上げた。
「何だ。疑っていたのか?」
「いえ。俺には何かいるとしか分からなかったので」
「当然だろう」
ずいぶん嬉しそうに言う。
姿を見る前に、種類も数も位置も当てていた。俺が感じているものとは、どうも違うらしい。
「石ころ、お前はよくそれで今まで無事だったな」
「ありがとうございます」
「……褒めてないぞ」
「そうなんですか?」
横でミレイが口元を押さえた。
魔物の死骸を通路の片側へ寄せると、ラウルが曲がり角の先を確かめた。左の岩棚は続いていたが、人が通れる幅ではない。右下には爪で削られた跡が残っている。
「先を見よう。ただし、ここへ戻る道は覚えておいてくれ」
「はい」
エルザが手帳へ短く書き込み、俺たちと一緒に歩き出す。
曲がり角の先も下りが続いていた。天井の低いところでは背嚢を前へ傾ける。足元には水の流れた跡が残っていた。
進むうち、音の響き方が変わってきた。ヴェラが小石を踏んだ音が、近くの壁ではなく、もっと遠くから返ってくる。
「……広くなってる?」
思わず声が出た。
「まだ先は見えませんね」
エルザが灯りを高く送る。
その光が、通路の終わりでふっと広がった。
◆
思わず足が止まった。
石の床が左右に大きく広がり、天井も高い。灯りは奥の壁まで届かなかった。
中央には太い岩柱のようなものが立ち、その向こうは見えない。右手に低い段差、左には大きな岩が重なっている。
振り返ると、下ってきた通路の入口が少し高い位置に見えた。その上の岩棚は壁沿いに奥まで続いている。
「おお……」
声が漏れた。
「すごいですね」
ヴェラが俺の隣へ来た。丸盾を持ったまま、ゆっくり天井を見上げている。
「まだ地図には載っていない場所、ですよね」
「ええ。少なくとも、私たちが持っている地図には」
エルザが答える。
俺たちはまだ入口から数歩しか進んでいない。ラウルとフィロスが前にいて、マルタとミレイ、ラウルの仲間二人は出口近くで待っていた。
ラウルが、広間の奥を確かめようとした時だった。
「待て」
フィロスの声に、ラウルの手がすぐ上がった。
フィロスは右、左と目を走らせ、最後に入口の上を見上げた。
「寄ってきてる」
右の段差の奥で、石が擦れる音がした。
「右に三、左にも三。奥の二体は……入口の上へ回ってる」
灯りの外で、別の音が重なった。
「囲まれてるぞ」
ラウルは問い返さなかった。
「ヴェラ、右。マルタ、入口を守れ。左は俺が見る。ノワールはヴェラの内側から離れるな。ミレイ、後ろをまとめてくれ。フィロス、動きを知らせ続けてくれ」
マルタが出口へ向き直り、ヴェラは丸盾を右へ向けた。俺はその内側へ下がる。エルザの灯りが少し高くなり、ミレイたちの立つ場所が見えた。
左の岩陰で、影がひとつ動いた。続いて、別の場所からも。
今度は、二体だけじゃなかった。




