第151話 背負ったまま
朝の稽古を終えて〈鈍色亭〉へ戻ると、入口の脇に背嚢が三つ並んでいた。
どれも昨日より膨らんでいる。エルザはそのうち一つの口を閉じ、ヴェラは布包みを背嚢の横へ括り付けていた。
「お待たせしました。ずいぶん増えましたね」
「まだ道具が揃っていないので、今ある物で重さを合わせてみたんです」
エルザが一つを指した。
「これ、俺のですか?」
「はい。水と布を足してあります」
「だいぶ大きくなりましたね」
「昨日、ヴェラさんと試してみたんですよ」
「俺も混ぜてほしかったです」
「セイさんのところへ行ってたじゃないですか」
「……それはそうでした」
背嚢を持ち上げると、思ったより重かった。肩紐へ腕を通し、身体を起こす。荷物が遅れて背中へ寄ってきて、思わず足を踏ん張った。
「……おお」
「どうですか?」
「立てます」
「そこからですか?」
エルザが笑った。
ヴェラも自分の背嚢を背負う。丸盾を手にしたまま、肩を少し回していた。
「本当に泊まることになったら、これで歩くんですね」
「今のまま持っていくわけじゃありませんけどね」
「それでも、少し楽しみです」
ヴェラの声につられて、俺も頷いた。泊まれる場所があるかさえ分からないのに、三人で荷物を背負っていると、もう出発するような気分になる。
そこへ、奥から女将が出てきた。
「今日は大荷物だね。もう潜るのかい?」
「いえ。試しに町を歩いてみるだけです」
「そうかい。だったら、戸口に引っ掛けないでおくれよ」
「そこは大丈夫ですよ」
振り返った拍子に、背嚢の端が戸柱へこつんと当たった。
女将が黙ってこちらを見る。
「……気をつけます」
「帰ってきたら、泥は外で落としておくれ」
女将が食堂へ戻ると、エルザがとうとう笑い出した。
「まだ宿から出てもいませんよ」
「前途多難ですね」
ヴェラまで笑っていた。先が思いやられる。
◆
職人区へ向かう道は、荷車や買い物客で賑わっていた。
道の端へ寄るだけでも、背嚢が遅れて揺れる。いつもなら何でもない角を曲がる時にも、肩の重さを確かめるようになった。
「これを背負って、あの先まで行くんですよね」
エルザが言った。
「前に引き返したところより、もっと奥ですね」
「今度は、どこまで見られるんでしょう」
ヴェラが前を向いたまま口を開く。
「私、あの先が気になっています」
「何があると思います?」
「分かりません。だから、見たいんです」
思わず笑ってしまった。分からないから見たい。昔、ゲームで知らない道を見つけた時も、そんな気持ちだった。
「ノワールさんは?」
エルザに聞かれる。
「隠し部屋とか、宝箱とか」
「見つけても勝手に開けないでくださいね」
「約束はできません」
「そこは約束してください」
ヴェラが笑う。
「エルザ様は、何が見たいですか?」
「私は、まだ地図にない道でしょうか」
「それ、今から行こうとしてる道じゃないですか」
「はい。だから私も楽しみなんです」
あっさり返された。エルザが手帳にも触れず、道の先を見ている。何だか俺まで嬉しくなった。
荷車をやり過ごしてから細い道へ入ると、ヴェラが足を止めた。
「少し、盾を動かしてもいいでしょうか」
人の通らない脇へ寄る。ヴェラは背嚢を背負ったまま丸盾を構え、左腕を引いた。
こつん。
「あ」
盾の縁が、背嚢の横へ付けた布包みに当たった。
「歩く時は大丈夫だったのに」
「盾を引くと、ここが当たるみたいです」
ヴェラは無理に動かさず、盾を下ろした。
「あとで付ける位置を変えてみます」
ヴェラは背嚢を一度持ち直して、また歩き始めた。さっきまで普通に揺れていた布包みが、今は気になって仕方ない。
◆
稽古場の板垣をくぐると、ドランが庇の下で木剣を拭いていた。
朝も散々振ったばかりだ。また来た俺を見て、眉を寄せる。
「何だ。忘れ物か」
「いえ。少し場所を借りたくて」
「今度は何だ」
「荷物を背負って、剣を動かしてみたいんです」
ドランが背嚢を見た。
「やってみろ」
エルザとヴェラには庇の近くで待ってもらい、俺は土の上へ出た。
剣を抜こうとすると、背嚢の端が肘に触れた。身体を少し傾けて、ようやく鞘から抜く。
「抜けました」
「見りゃ分かる」
「もう少し喜んでもらえるかと」
「何を喜べってんだ」
ここに来ると出来ないことばかりだから、出来ると嬉しい。
「一度振ってみろ。足も動かせ」
軽く踏み込み、剣を出す。
振るところまではよかった。剣を戻そうとした途端、背中の重さがついてきて、足が一つ余計に動く。何とか止まると、今度は剣が遅れていた。
次は歩幅を小さくした。すると剣まで遠慮がちになって、途中で止まった。
「お前は荷物がない時から忙しいのに……」
「分かってます。増えましたね」
「増やす前の分を何とかしろ」
庇の方からエルザの笑い声が聞こえた。
もう一度構えようとしたところで、ドランが手を上げる。
「そこまでだ。重いまま振る前に、いつもの剣をちゃんと戻せるようになれ」
「……はい」
「背負って歩くのはやっとけ。足を取られたら洒落にならん」
「それなら、今日もやってます」
「まだ町の中だろ」
「町の中でも結構大変なんですよ」
ドランは鼻で笑った。
剣を収め、背嚢を下ろす。急に肩が軽くなって、思わず伸びをした。
そういえば、昨日セイに聞いた話もあった。
「師匠、格闘術って——」
「まず剣を振れ」
「まだ聞いてないんですけど」
「今聞いたろうが」
エルザが声を立てて笑い、ヴェラも口元を押さえていた。
やっぱり、そうなるか。
◆
昼を少し過ぎた頃、俺たちは職人区の通りを戻っていた。
焼いた肉の匂いが漂ってくる。朝の稽古に重い荷物での歩行まで加わった今、素通りするのは難しい。
「何か食べて帰りませんか」
「賛成です」
エルザの返事が早かった。
店先の焼き台を覗いたヴェラが、俺たちへ振り返る。
「ダンジョンでは、温かいものは食べられるんでしょうか?」
「鍋があれば、俺の水魔法で――」
「ノワールさん」
エルザがこちらを見る。
「まだ買いませんよね?」
「……はい」
さっきまで背負っていた重さを思い出す。鍋を一つ増やす余裕があるか、今は怪しい。
串焼きを三本買い、店の脇で少し休んだ。一口かじると、熱い肉の脂と香辛料の匂いが口の中へ広がる。
「もし泊まれたら、夜はどんな感じなんでしょうね」
「もともと暗いので、あまり変わらないのでは?」
ヴェラが答える。
「それはそうですね」
「朝になっても、明るくならないということですね」
エルザが言った。
そうか。地上なら、朝になれば勝手に明るくなる。ダンジョンの奥では、それも期待できない。
「起きた時、まだ昨日の続きみたいに感じそうです」
「ノワールさんは寝坊しないでくださいよ」
「さすがにダンジョンで熟睡できないと思いますよ」
「ノワールさんなら熟睡できそうです」
エルザの髪際から、リンがふわりと顔を出した。
「リンも一緒ですよ」
エルザが声をかける。
ちりん。
「何て?」
「今のは、ただ鳴いただけみたいです」
リンはエルザの肩へ移り、串焼きを眺めていた。食べたいのかと思ったが、特に近寄る様子もない。相変わらずよく分からない。
◆
帰り道、背嚢を背負い直す時に思わず声が出た。
「荷物、もう少し軽くなるといいですね」
ヴェラが言う。
「そうですね。でも、これくらいは歩けないと」
「私も、盾に当たらないように考えます」
「私は食べ物の方が気になってきました」
エルザが言った。
まだ日取りも人数も決まっていない。それなのに、三人とも行けた時の話ばかりしている。
〈鈍色亭〉の看板が見えてきた。
「……帰ったら、まず背嚢を下ろして楽になりたいです」
「……私もです」
ヴェラは真面目に答えたが、エルザは少し笑っていた。




