第150話 選ばなかった方
ギルドを出て少し歩いたところで、午後からの仕事をまだ探していなかったと思い出した。
エルザとヴェラは明日の荷物の中身を考えたいそうなので、先に〈鈍色亭〉へ戻ってもらい、俺だけギルドへ引き返した。
残っていた札を何枚か見たが、今から出発して夕方までに終えられそうなものはなかった。今日のところは諦めるしかない。
そのまま帰ろうとしたところで、受付の奥にある階段が目に入った。
そういえば、セイにしばらく顔を見せていない。
最初に会った頃は、分からないことがあるたびにこの階段を下りていた。最近はエルザやヴェラと相談できることが増えたし、稽古のことは師匠に聞く。セイに報告したいことも増えたのに、会いに来る回数は減っていた。
次の探索では、初めて泊まることになるかもしれない。話しておくには、ちょうどよさそうだ。
階段を下りると、いつもの酒と煙草の匂いがした。昼を少し過ぎた酒場には、壁際の卓を中心に何組かの客がいる。奥では店主が器を洗っていた。
セイの定位置には、灰銀の髪が見えた。卓の上には酒杯が一つと、見覚えのあるナイフが一本。
相変わらずだ。
「セイさん」
その時、入口に近い卓から椅子を蹴る音がした。
◆
「だから、俺の取り分が足りねえって言ってるんだ!」
大柄な男が、向かいに座っていた男の胸元を掴んで立たせた。引っ張られた男の椅子が倒れ、卓の上で木杯が揺れる。
「だからギルドで確かめろって言ってるだろ! ここで俺に言われても困る!」
「とぼけんな!」
周りの客が席を立ち、卓から離れ始めた。店主も洗っていた器を置く。
「お客さん、喧嘩なら外でやってくれ」
「引っ込んでろ!」
大柄な男が怒鳴り返した。その腕に引かれた相手の踵が、倒れた椅子へぶつかる。
まずいな。
間に入るべきか考えた。だが、片方がもう片方を掴んでいる。俺が剣を抜いたところで、状況がよくなるとは思えない。
「……やれやれ」
背後から声がした。
セイが椅子を引いて立ち上がる。杯は卓へ残し、ナイフにも触れなかった。
「坊や、そこにいな」
「えっ」
「邪魔になるよ」
それだけ言って、俺の横を通り過ぎた。
大柄な男は、まだ相手の襟を掴んでいる。
「その手を放しな」
セイが声をかけた。
「ああ?」
「店の中で暴れるんじゃないよ」
「何だ、婆さん。関係ねえだろ」
セイの眉がわずかに動く。
「今のは聞かなかったことにしてやる。手を放せ」
「うるせえ!」
男が空いている腕を振り上げた。
拳がセイへ向かう。
そう見えた次の瞬間、セイはもう男の正面にいなかった。大きな拳が空を切る。その腕に何かが絡んだように見え、男の上体が斜めに崩れた。
「うおっ?」
男の足が石床を滑る。セイが横へ半歩移ると、男は倒れた椅子を避けるように足をもつれさせ、そのまま膝をついた。
襟を掴まれていた男が離れ、慌てて後ずさる。
それで終わるかと思った。
「てめえ!」
大柄な男が立ち上がろうとした。セイの腕を振りほどき、近くの卓へ片手を伸ばす。そこには、さっき揺れていた木杯があった。
「やめろ!」
思わず声が出た。
男が杯を掴むより早く、セイの手がその手首へ添えられた。
次に見えたのは、男が自分の腕を引こうとして、逆に身体を前へ折ったところだった。セイは無理に引っ張っているようには見えない。男の足が追いつかず、片膝が再び床へ落ちる。
セイは空いた手で男の背中を押さえた。
「それ以上やるなら、血を見るよ」
静かな声なのに、寒気がした。こんなセイの声は初めて聞いた。
男の表情が一瞬固まる。
「ぐっ……離せ、くそっ……!」
「暴れなきゃ離すさ」
男がもう一度もがいた。セイの身体が少し揺れたが、押さえている腕の位置は変わらない。
「まだやるかい」
「……やらねえよ!」
「なら、口より先に手を止めな」
数呼吸ほど待ってから、セイは手を放した。
男はすぐには立ち上がらなかった。膝に手をつき、顔を赤くしたまま息を整えている。セイは少し離れ、もう一度暴れ出しても届かないくらいの距離を取った。
「そっちのあんたも」
襟を掴まれていた男が肩を跳ねさせた。
「金の話なら上でやりな。受付を通せばいい。ここで言い合っても増えやしないよ」
「……はい」
店主が倒れた椅子を起こしながら、セイへ小さく頷いた。
「助かったよ」
「杯は無事だったね」
「お陰様で。そこまで気を遣ってくれるのかい」
「割れてたら、奴が払う弁償の話が増えるだろ」
セイが男を一瞥する。
男がゆっくり立ち上がる。店主に短く謝り、もう一人の男と距離を取って階段へ向かった。二人とも、ここで話を続けるつもりはないらしい。
セイはその背を見届けてから、元の卓へ戻ってきた。
「突っ立ってないで座りな、坊や」
いつものセイだった。
「……はい」
俺は椅子を引いた。
セイが何かしたことは分かる。だが、男の腕を取ってから膝をつかせるまで、どう動かしたのかはほとんど見えなかった。
剣もナイフも抜いていない。魔法を使った様子もなかった。
さっきまでの騒ぎが嘘のように、酒場ではまた杯を置く音が聞こえ始めていた。
◆
「セイさん、あんなこともできたんですね」
「何だい。その言い方は」
「初めて見たので」
「見せる機会がなかっただけさ」
セイは杯を持ち上げ、残っていた酒を一口飲んだ。
「お怪我はありませんか」
「あれで怪我をしてたら、長いこと生きてられないよ」
「相手の方は?」
「膝くらいは痛いだろうね。自分でついたんだから、歩けるさ」
確かに、階段は自分の足で上っていった。大きな出血も、見た範囲ではなかった。
「慣れていらっしゃるんですね」
「ああいう連中を止めて、今も飯を食ってるからね」
「冒険者としてですか?」
「冒険者は昔の話だよ。今は酒場の用心棒さ」
思わず、店の入口を振り返った。
「ここで、ですか?」
「そうさ。前は別の店でもやってたけどね。今はここで騒ぎを止めて、金をもらってる」
「それで、いつ来てもここにいるんですね」
「たまたまあんたが来る時は、あたしの仕事中なんだろ」
「てっきり、飲みに来てるだけかと」
「帰りな、坊や」
いつもの言葉だ。安心する。
「すみません」
謝りながら笑ってしまった。セイは俺を睨んだが、席を立てとは言わなかった。
「それにしても、あの動きは何ですか。武器を使わずに、あそこまでできるとは思いませんでした」
「格闘術だよ。殴るだけじゃない。崩すのも、倒すのも、押さえるのも含めてね」
「格闘術……」
初期スキルにも、そんな選択肢があった気がする。剣術しか見ていなかったので、よく覚えていない。
「セイさんは、最初から格闘術を選んだんですか?」
「いいや。あたしが選んだのは剣術だよ」
「えっ」
思わず聞き返した。
「剣術ですか?」
「そうさ。あの頃は剣を持てば冒険者らしいと思ってたからね」
「分かります」
「分かるのかい」
「俺もそれで選びました」
セイはしばらく俺を見ていたが、やがて鼻で笑った。
「似たような馬鹿がいるもんだ」
「結構いると思いますけど」
半数以上はそうじゃないだろうか。
「でも、それならどうして格闘術に?」
「剣が性に合わなかったんだよ。振っても、持ち替えても、どうにも気持ちよく動けない。選んだ手前、意地になって続けたけど、途中で投げ出した」
「剣を、ですか?」
「剣一本で食っていくのは、諦めた。剣は今でも使えるし、使わなきゃならない時もあったよ。でも、得意だと思ったことはないね」
セイは自分の手を開いて見せた。細い傷が何本か、指の付け根を横切っている。
「酒場の喧嘩を止めるのに、いちいち刃物を抜くわけにもいかないだろ。素手で済ませるやり方を、何度も失敗しながら覚えたんだ。今じゃそっちの方が仕事はしやすいね」
「でも、最初に格闘術は選んでいないんですよね」
「選んでないよ。最初に選ばなかったからって、手足を動かしちゃいけないわけじゃないだろ」
「それは……そうですけど」
俺は自分の右手へ目を落とした。
剣術を選んだから剣を習う。それが当たり前だと思っていた。もちろん、今も剣を振れるようになりたい。けれど、選ばなかった技を、後から身につけた人が目の前にいる。
「普通に鍛えて、あんなに動けるようになるんですね」
「普通に、って言葉は便利だねぇ。何年やったと思ってるんだい」
「……失礼しました」
「剣を選んだおかげで助かったことだってある。でも、あたしには素手の方が使いやすかった。それだけさ」
セイが杯を置く。
「それで、今日は何を聞きに来たんだい。昔話のためじゃないだろ」
「ああ、そうでした」
すっかり忘れていた。
「今度、少し長いダンジョン調査へ行くかもしれません」
「誰と」
「エルザさんとヴェラさん、それに前にお話しした攻略組の方たちです。まだ参加者は決まってませんけど」
「泊まるのかい」
「安全に泊まれる場所があれば一泊、なければ日帰りです」
「そうかい」
「……ずいぶん簡単ですね」
「坊やはいつもあたしの話を聞きたがるね」
セイが口元に笑みを作る。
「帰る条件があるなら守りな。坊やが一人でどうにかする話じゃないだろ」
「はい。三人で話して決めました」
セイは杯を手に取る前に、俺の腰の剣をちらりと見た。
「ドランの方は?」
「相変わらずです。最近は『まず普通に振れ』と」
「ふっ」
「笑うところですか?」
「そりゃ言われるだろうね」
「セイさんまで」
「剣を使いたいのは、あんただろ」
「……はい」
「だったら振りなよ。嫌になったら、その時に考えればいい」
「嫌にはなりませんよ」
「残念だね。あたしが厳しく教えてやろうと思ったのに」
セイが右手で拳を握って見せた。謹んで辞退させていただく。
セイはそこで話を切り、店主へ杯を掲げた。
「もう一杯」
「昼からよく飲みますね」
「今も仕事中だからね」
「飲むのも仕事なんですか?」
「そこは別料金さ」
店主が笑いながら杯を受け取りに来た。
俺はその間に席を立った。
「また報告に来ます」
「好きにしな。次は怪我の話じゃないといいけどね」
「気をつけます」
階段へ向かう途中、腰の剣の柄が手に触れた。
セイの動きを思い出し、何も持っていない手を握ってみた。格闘術も面白そうだ。でも、剣を振りたくて剣術を選んだのも本当だ。
もし明日、師匠に拳の振り方まで聞いてみたら、何と言われるだろう。
……まず普通に振れ、だろうな。




