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明日も、ダンジョンへ。  作者: 為書結依
第五章 知らない道の向こう

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第150話 選ばなかった方

 ギルドを出て少し歩いたところで、午後からの仕事をまだ探していなかったと思い出した。


 エルザとヴェラは明日の荷物の中身を考えたいそうなので、先に〈鈍色亭〉へ戻ってもらい、俺だけギルドへ引き返した。


 残っていた札を何枚か見たが、今から出発して夕方までに終えられそうなものはなかった。今日のところは諦めるしかない。


 そのまま帰ろうとしたところで、受付の奥にある階段が目に入った。


 そういえば、セイにしばらく顔を見せていない。


 最初に会った頃は、分からないことがあるたびにこの階段を下りていた。最近はエルザやヴェラと相談できることが増えたし、稽古のことは師匠に聞く。セイに報告したいことも増えたのに、会いに来る回数は減っていた。


 次の探索では、初めて泊まることになるかもしれない。話しておくには、ちょうどよさそうだ。


 階段を下りると、いつもの酒と煙草の匂いがした。昼を少し過ぎた酒場には、壁際の卓を中心に何組かの客がいる。奥では店主が器を洗っていた。


 セイの定位置には、灰銀の髪が見えた。卓の上には酒杯が一つと、見覚えのあるナイフが一本。


 相変わらずだ。


「セイさん」


 その時、入口に近い卓から椅子を蹴る音がした。


◆


「だから、俺の取り分が足りねえって言ってるんだ!」


 大柄な男が、向かいに座っていた男の胸元を掴んで立たせた。引っ張られた男の椅子が倒れ、卓の上で木杯が揺れる。


「だからギルドで確かめろって言ってるだろ! ここで俺に言われても困る!」


「とぼけんな!」


 周りの客が席を立ち、卓から離れ始めた。店主も洗っていた器を置く。


「お客さん、喧嘩なら外でやってくれ」


「引っ込んでろ!」


 大柄な男が怒鳴り返した。その腕に引かれた相手の踵が、倒れた椅子へぶつかる。


 まずいな。


 間に入るべきか考えた。だが、片方がもう片方を掴んでいる。俺が剣を抜いたところで、状況がよくなるとは思えない。


「……やれやれ」


 背後から声がした。


 セイが椅子を引いて立ち上がる。杯は卓へ残し、ナイフにも触れなかった。


「坊や、そこにいな」


「えっ」


「邪魔になるよ」


 それだけ言って、俺の横を通り過ぎた。


 大柄な男は、まだ相手の襟を掴んでいる。


「その手を放しな」


 セイが声をかけた。


「ああ?」


「店の中で暴れるんじゃないよ」


「何だ、婆さん。関係ねえだろ」


 セイの眉がわずかに動く。


「今のは聞かなかったことにしてやる。手を放せ」


「うるせえ!」


 男が空いている腕を振り上げた。


 拳がセイへ向かう。


 そう見えた次の瞬間、セイはもう男の正面にいなかった。大きな拳が空を切る。その腕に何かが絡んだように見え、男の上体が斜めに崩れた。


「うおっ?」


 男の足が石床を滑る。セイが横へ半歩移ると、男は倒れた椅子を避けるように足をもつれさせ、そのまま膝をついた。


 襟を掴まれていた男が離れ、慌てて後ずさる。


 それで終わるかと思った。


「てめえ!」


 大柄な男が立ち上がろうとした。セイの腕を振りほどき、近くの卓へ片手を伸ばす。そこには、さっき揺れていた木杯があった。


「やめろ!」


 思わず声が出た。


 男が杯を掴むより早く、セイの手がその手首へ添えられた。


 次に見えたのは、男が自分の腕を引こうとして、逆に身体を前へ折ったところだった。セイは無理に引っ張っているようには見えない。男の足が追いつかず、片膝が再び床へ落ちる。


 セイは空いた手で男の背中を押さえた。


「それ以上やるなら、血を見るよ」


 静かな声なのに、寒気がした。こんなセイの声は初めて聞いた。


 男の表情が一瞬固まる。


「ぐっ……離せ、くそっ……!」


「暴れなきゃ離すさ」


 男がもう一度もがいた。セイの身体が少し揺れたが、押さえている腕の位置は変わらない。


「まだやるかい」


「……やらねえよ!」


「なら、口より先に手を止めな」


 数呼吸ほど待ってから、セイは手を放した。


 男はすぐには立ち上がらなかった。膝に手をつき、顔を赤くしたまま息を整えている。セイは少し離れ、もう一度暴れ出しても届かないくらいの距離を取った。


「そっちのあんたも」


 襟を掴まれていた男が肩を跳ねさせた。


「金の話なら上でやりな。受付を通せばいい。ここで言い合っても増えやしないよ」


「……はい」


 店主が倒れた椅子を起こしながら、セイへ小さく頷いた。


「助かったよ」


「杯は無事だったね」


「お陰様で。そこまで気を遣ってくれるのかい」


「割れてたら、奴が払う弁償の話が増えるだろ」


 セイが男を一瞥する。


 男がゆっくり立ち上がる。店主に短く謝り、もう一人の男と距離を取って階段へ向かった。二人とも、ここで話を続けるつもりはないらしい。


 セイはその背を見届けてから、元の卓へ戻ってきた。


「突っ立ってないで座りな、坊や」


 いつものセイだった。


「……はい」


 俺は椅子を引いた。


 セイが何かしたことは分かる。だが、男の腕を取ってから膝をつかせるまで、どう動かしたのかはほとんど見えなかった。


 剣もナイフも抜いていない。魔法を使った様子もなかった。


 さっきまでの騒ぎが嘘のように、酒場ではまた杯を置く音が聞こえ始めていた。


◆


「セイさん、あんなこともできたんですね」


「何だい。その言い方は」


「初めて見たので」


「見せる機会がなかっただけさ」


 セイは杯を持ち上げ、残っていた酒を一口飲んだ。


「お怪我はありませんか」


「あれで怪我をしてたら、長いこと生きてられないよ」


「相手の方は?」


「膝くらいは痛いだろうね。自分でついたんだから、歩けるさ」


 確かに、階段は自分の足で上っていった。大きな出血も、見た範囲ではなかった。


「慣れていらっしゃるんですね」


「ああいう連中を止めて、今も飯を食ってるからね」


「冒険者としてですか?」


「冒険者は昔の話だよ。今は酒場の用心棒さ」


 思わず、店の入口を振り返った。


「ここで、ですか?」


「そうさ。前は別の店でもやってたけどね。今はここで騒ぎを止めて、金をもらってる」


「それで、いつ来てもここにいるんですね」


「たまたまあんたが来る時は、あたしの仕事中なんだろ」


「てっきり、飲みに来てるだけかと」


「帰りな、坊や」


 いつもの言葉だ。安心する。


「すみません」


 謝りながら笑ってしまった。セイは俺を睨んだが、席を立てとは言わなかった。


「それにしても、あの動きは何ですか。武器を使わずに、あそこまでできるとは思いませんでした」


「格闘術だよ。殴るだけじゃない。崩すのも、倒すのも、押さえるのも含めてね」


「格闘術……」


 初期スキルにも、そんな選択肢があった気がする。剣術しか見ていなかったので、よく覚えていない。


「セイさんは、最初から格闘術を選んだんですか?」


「いいや。あたしが選んだのは剣術だよ」


「えっ」


 思わず聞き返した。


「剣術ですか?」


「そうさ。あの頃は剣を持てば冒険者らしいと思ってたからね」


「分かります」


「分かるのかい」


「俺もそれで選びました」


 セイはしばらく俺を見ていたが、やがて鼻で笑った。


「似たような馬鹿がいるもんだ」


「結構いると思いますけど」


 半数以上はそうじゃないだろうか。


「でも、それならどうして格闘術に?」


「剣が性に合わなかったんだよ。振っても、持ち替えても、どうにも気持ちよく動けない。選んだ手前、意地になって続けたけど、途中で投げ出した」


「剣を、ですか?」


「剣一本で食っていくのは、諦めた。剣は今でも使えるし、使わなきゃならない時もあったよ。でも、得意だと思ったことはないね」


 セイは自分の手を開いて見せた。細い傷が何本か、指の付け根を横切っている。


「酒場の喧嘩を止めるのに、いちいち刃物を抜くわけにもいかないだろ。素手で済ませるやり方を、何度も失敗しながら覚えたんだ。今じゃそっちの方が仕事はしやすいね」


「でも、最初に格闘術は選んでいないんですよね」


「選んでないよ。最初に選ばなかったからって、手足を動かしちゃいけないわけじゃないだろ」


「それは……そうですけど」


 俺は自分の右手へ目を落とした。


 剣術を選んだから剣を習う。それが当たり前だと思っていた。もちろん、今も剣を振れるようになりたい。けれど、選ばなかった技を、後から身につけた人が目の前にいる。


「普通に鍛えて、あんなに動けるようになるんですね」


「普通に、って言葉は便利だねぇ。何年やったと思ってるんだい」


「……失礼しました」


「剣を選んだおかげで助かったことだってある。でも、あたしには素手の方が使いやすかった。それだけさ」


 セイが杯を置く。


「それで、今日は何を聞きに来たんだい。昔話のためじゃないだろ」


「ああ、そうでした」


 すっかり忘れていた。


「今度、少し長いダンジョン調査へ行くかもしれません」


「誰と」


「エルザさんとヴェラさん、それに前にお話しした攻略組の方たちです。まだ参加者は決まってませんけど」


「泊まるのかい」


「安全に泊まれる場所があれば一泊、なければ日帰りです」


「そうかい」


「……ずいぶん簡単ですね」


「坊やはいつもあたしの話を聞きたがるね」


 セイが口元に笑みを作る。


「帰る条件があるなら守りな。坊やが一人でどうにかする話じゃないだろ」


「はい。三人で話して決めました」


 セイは杯を手に取る前に、俺の腰の剣をちらりと見た。


「ドランの方は?」


「相変わらずです。最近は『まず普通に振れ』と」


「ふっ」


「笑うところですか?」


「そりゃ言われるだろうね」


「セイさんまで」


「剣を使いたいのは、あんただろ」


「……はい」


「だったら振りなよ。嫌になったら、その時に考えればいい」


「嫌にはなりませんよ」


「残念だね。あたしが厳しく教えてやろうと思ったのに」


 セイが右手で拳を握って見せた。謹んで辞退させていただく。


 セイはそこで話を切り、店主へ杯を掲げた。


「もう一杯」


「昼からよく飲みますね」


「今も仕事中だからね」


「飲むのも仕事なんですか?」


「そこは別料金さ」


 店主が笑いながら杯を受け取りに来た。


 俺はその間に席を立った。


「また報告に来ます」


「好きにしな。次は怪我の話じゃないといいけどね」


「気をつけます」


 階段へ向かう途中、腰の剣の柄が手に触れた。


 セイの動きを思い出し、何も持っていない手を握ってみた。格闘術も面白そうだ。でも、剣を振りたくて剣術を選んだのも本当だ。


 もし明日、師匠に拳の振り方まで聞いてみたら、何と言われるだろう。


 ……まず普通に振れ、だろうな。


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