第148話 まだ買わない
エルザの手帳から写した紙を、朝食の後でもう一度広げた。
昨日は布と縄を確認したところで終わっている。今朝は俺の鞄の中身も卓へ並べてみたが、余分に入ると思っていた場所には、替えの布と水筒が収まっていた。
「思っていたより、空いてませんね」
「ノワールさん、先に鍋を入れるつもりで見てませんでした?」
「……そんなつもりはありませんよ」
何とかして鍋を入れられないだろうか。
エルザが紙の隅に書いた鍋の文字へ目を落とす。消されてはいないが、その横には小さな丸も付いていなかった。
「まだ買ってませんからね」
「……分かってます」
ヴェラは自分の背嚢を肩に掛け、丸盾を持ったまま身体を左右へ向けてみせた。革紐の位置を少し直すと、背嚢の角が盾の縁から離れる。
「このくらいなら大丈夫そうです。でも、食料が増えたら、もう一度確かめたいです」
「行程も決まっていませんしね。今日は、どんな荷物が必要になりそうか聞ければ十分じゃないでしょうか」
エルザの言葉に、俺たちは頷いた。
正式な依頼が出たわけではない。まして夜営まで決まったわけでもない。今ある物を調べたからといって、次に何を買えばいいかまでは分からなかった。
「一応、紙は持っていきましょう」
エルザが鞄に紙をしまう。ヴェラは背嚢を下ろし、盾の革紐を元の長さに戻した。
「それと、これは使う予定がなくても覚えておきたいです。荷物を背負うと、盾を回せる範囲が変わりますから」
「俺も一度、背負って剣を振ってみた方がいいかもしれませんね」
「ドランさんのところで?」
「はい。ただ、剣を戻すのもできてないのに、荷物まで増やしたら何を言われるか」
「『めんどくせぇ』ですかね?」
エルザに笑われた。
◆
ギルドの依頼板は、昼前でも人が絶えなかった。
俺たちが札の前で足を止めると、奥から聞き覚えのある声がした。
「あ、ヴェラだ」
振り返ると、マルタが手を上げていた。その隣にはラウルもいる。二人とも旅装ではなく、普段の装備を身につけた姿だった。
「マルタさん。こんにちは」
「この前はありがとう。あの盾の持ち替え、家でも少し試してみたよ」
「どうでしたか?」
「腕は楽だった。ただ、私の盾だと紐がちょっと邪魔になる。そこを直したくてね」
マルタが自分の丸盾を軽く持ち上げる。ヴェラもすぐに盾の縁へ目を向けた。
「紐の長さなら、握り直す前に少し余裕を作る方がいいかもしれません」
「やっぱり? 今度もう一度、見てくれる?」
「はい。私も、マルタさんの受け方を試してみたいです」
二人の話が始まると、俺に分かるのはせいぜい、どちらの盾も手入れがよさそうだということくらいだった。
「荷物の相談か?」
ラウルは、エルザが鞄から取り出した紙へ目を向けた。
「はい。次の調査で何を持つことになるか、まだ分かりませんので。今あるものだけ先に確かめているところです」
「それでいい。まだ正式な行程を組める段階じゃないからな。地図の方も、見た場所と未確認の場所を分けている最中だ」
「なら、買い物はもう少し先ですね」
「先に買って持てなくなったら困るだろう」
「まさにそれを調べてました」
エルザが笑って紙を畳む。
俺たちは依頼板の前を空け、壁沿いの卓へ移った。マルタもヴェラと並んで歩き、盾の革紐を指で引いて確かめている。
「それで、次の探索の件だが」
ラウルが卓の端へ片手を置いた。
「まだ詳しい行程は出せない。すまんな」
「いえ。決まってないうちに答える方が困りますから」
「そう言ってもらえると助かる。奥まで進むなら、見た道をもう一度通るだけじゃ済まない。地図が固まってからでないと、何人必要かも決めにくいんだ」
「前回、通れた場所でも荷物が増えたら別ですしね」
エルザの言葉に、ラウルが頷いた。
「そうだ。調査の目的も、前回より先へ入ることなのか、通った場所の確認なのかで変わる。そこを決めずに人だけ集めても、足並みが揃わん」
エルザが畳んだ紙を受け取り、卓へ広げた。
「だったら、こちらで今できるのは、持ってる物を調べるくらいですね」
「それと、何を背負えば動けなくなるか、だな」
ラウルが紙を覗く。
「意外と、そっちの方が大事かもしれません。鍋一つでも、場所を取りますし」
「鍋?」
「ノワールさんが気になっているんです」
エルザがすぐに答えた。
「俺だけじゃありませんよ。温かい食事は大事でしょう」
「大事だな。だが、鍋を持ったせいで食料が入らなくなったら困る」
「そうなんですよね……」
ジレンマだ。
マルタが吹き出した。
「何がおかしいんだ?」
「いや、今のはずいぶん真面目な顔で言うことじゃないと思って」
「真面目な話だろう」
ラウルは首を傾げていた。どうやら冗談で言ったわけではなかったらしい。
「荷物の配分については、私も相談したいことがあります」
ヴェラが紙へ指を置いた。
「背嚢を背負って、盾も持ってみました。今の荷物なら動けますけど、寝るための布を付けると、盾を後ろへ引きにくくなりそうです」
「それは全体の安全にも関わるね。荷物をほかの人に分けることも考えないと」
マルタが言った。
「ええ。でも、だからといって全部ほかの方へお願いするのも違いますから」
「そこは中身を分ければいいさ。取り出す頻度だって違う」
「頻度、ですか」
「休む時にしか出さない物と、歩いてる最中に使う物を同じところへ押し込むと面倒だからね」
ヴェラはすぐに頷いた。
「それなら、私も紙を分けて書いてみます」
エルザが手帳を開き、ヴェラの方へ少し寄せた。
「ここに欄を作りましょうか。歩いている間に使うものと、休む時のもの」
「お願いします」
ラウルは二人のやり取りを見てから俺へ向き直った。
「ノワールも、一度は荷を背負って剣を使ってみた方がいいかもしれんな」
「ちょうど同じことを話してたところです」
「剣の師匠のところか?」
「はい。たぶん、余計な物を増やす前に足を揃えろって言われると思います」
「良い師匠だな」
ラウルが笑った。
実際、師匠ならそれより短く言うだろう。『足を見ろ』の一言で終わるかもしれない。
◆
しばらくすると、ギルドの戸が開いて、フィロスとミレイが入ってきた。
「ん? こんなところで何を集めている?」
フィロスが卓へ近づく。ミレイはその後ろで小さく会釈した。
「ごきげんよう、ノワールさん。エルザさん、ヴェラさんも」
「こんにちは」
フィロスは卓の紙を覗き込み、眉を寄せた。
「縄、布、水筒……。ずいぶん地味な買い物だな」
「買う物を決めてるんじゃありません。今ある物を確かめてるんです」
「似たようなものだろう」
「全然違いますよ。買うなら、俺はまず鍋を」
「鍋?」
フィロスが顔を上げた。
「お前は探索に何をしに行くつもりだ、石ころ」
「探検ですよ。そのうえで、ちゃんと飯を食いたいんです」
「ふん。鍋などなくとも食事はできる」
「そうですね。でも、温かい煮込みは美味しいじゃないですか」
「……それは同意してやる」
思ったより素直な返事だった。
横でミレイが視線を逸らす。笑いを堪えているようにも見える。
「フィロス様も、温かいお食事はお好きですからね」
「誰でも好むだろう! それと荷の配分は別の話だ」
「ええ。もちろんです」
エルザが手帳から顔を上げた。
「ちなみに、フィロスさんたちは長い行程で何を持っていくんですか?」
「それは向かう場所と日数による。必要な物を必要なだけだ」
「それを知りたかったんですけど」
フィロスは何か言いかけ、エルザの顔を見ると口を閉じた。
「……なら、何について知りたいか言ってくれ。その方が答えやすい」
「では、寒い場所で休む時の布は、どんなものを使います?」
今度はフィロスも答えた。折り畳んだ布の厚さ、体の下へ敷くものと上へ掛けるものを分けること。話し始めると、思ったより細かい。
エルザが書き留め、ヴェラも頷く。
「なるほど。では水は、途中で補給できる場所を確かめてからですね」
「そうだな。ただ、見つけた水を何でも飲めるとは限らんぞ」
「さすがにそんな真似はしませんよ」
ヴェラが否定する。
「石ころなら飲みそうだろ」
フィロスの中では俺はどんな奴なんだ。
「でも、水場が見つからなかった時は、俺の水魔法がありますから。いざという時は何とかなると思いますよ」
「……水魔法?」
フィロスが俺の顔を見た。
「お前、剣士じゃなかったのか、石ころ」
「剣の稽古はしてますけど、水魔法も使えますよ」
「意外な魔法を覚えたな」
「それと最近、身体強化魔法も覚えました」
「それは剣士として当たり前だろう」
やっぱりそうなのか。
フィロスは口を閉じ、今度は紙に書かれた「水筒」の文字を見た。
「……水を作れるのか」
「はい。そっちはできます」
「当てにするなら、どのくらい出せるか確かめておく必要はあるな」
ラウルがその文字を指した。
「それと、最初から持っていく水は減らさない方がいい」
「もちろんです。俺も倒れたくないです」
ラウルが笑う。
「なら、困った時の予備として考えておこう」
そう言われると、少し嬉しくなった。剣の稽古ではなかなかいいところを見せられないが、水を用意する役なら俺にもできる。
「野営で煮込みを作る時にも使えますね」
エルザが紙の端に書いた鍋を指す。
「そうですよ。水も出せますし、鍋があれば煮立てられます。材料さえあれば、温かい煮込みだって」
「また鍋か、石ころ」
「今度はちゃんと使い道があるでしょう?」
「鍋も食材も薪も、持っていけるならな」
フィロスにそう言われると、反論できない。俺が口を閉じると、ミレイがその隣から紙を覗いた。
「食事の準備も、人数で変わります。まだお買い物を急がなくてよいと思いますよ」
「分かりました。今日のところは、持っているものの確認だけにします」
エルザが手帳を閉じた。
「でも、話を聞けてよかったです。ありがとうございます」
フィロスは軽く顎を上げた。
「別に、大した話はしていない」
「そういう話を聞きたかったんです。ありがとうございます」
エルザがもう一度言うと、フィロスは返す言葉を探すように目を動かした。
「……ふん」
何となく、こちらの方が気まずくなってしまった。
◆
ギルドを出たのは昼を少し過ぎた頃だった。
持っていた紙には、持ち物の名前よりも、これから確認することの方が増えている。
「結局、今日は買い物できませんでしたね」
「ノワールさん、買い物が目的だったんですか?」
「いや、違いますけど。何か一つくらい決まるかと思いまして」
「決まりましたよ」
ヴェラが紙を開いてみせた。
「今の背嚢なら、私は盾を持って歩けます。でも、荷物が増えるともう一度確かめる必要があります」
「それは確かに」
「私も、手帳に分けて書けました。先に使う物と、休む時だけ出す物です」
エルザが続けた。
「俺は……鍋をまだ買わない、ですかね」
「決まってしまいましたね」
「嬉しそうに言わないでくださいよ」
ヴェラが小さく笑う。
通りの先に、昼の献立を外へ出した食堂が見えた。焼いた魚と野菜の煮込みの匂いが、開いた戸の隙間から流れてくる。
「今日は魚にしようかな」
「私は煮込みにします」
「ヴェラさんは?」
「私も魚がいいです。あちらの大きいのは、二人分でしょうか」
ヴェラが指したのは、皿から尾がはみ出しそうな魚だった。
「……あれは、一人で食べたら午後は動けなくなりそうですね」
「分けていただけるなら、お願いしてみましょうか」
エルザは煮込みの札を指で確かめながら、こちらを振り返った。
「ノワールさんが鍋の話ばかりするから、煮込みが食べたくなってしまいましたよ」
「野営で煮込みは俺の目標になりました」
「まだ言ってますね」
俺は笑いながら、二人に続いて入口の戸を開けた。




