第147話 見ていたもの
二日後の朝、稽古場の土はまだ少し湿っていた。
木剣を取る前に靴底を踏みしめると、地面に浅い跡が残る。雨は夜のうちに上がったらしい。ドランは庇から出てくるなり、その足跡を見た。
「今日は踏み込みすぎるなよ」
「考えることが増えてしまいますね」
「考えるな」
「でも、考えちゃうんですよ」
この二日、足のことはずっと考えていた。考えているだけで上手くなるなら、とっくに達人だ。
いつもの石に銅貨を三枚置く。ドランが木剣を二本持ってきたので、一方を受け取った。
「最初は一人で振れ。三度でいい」
「三度だけですか?」
「足りなきゃ増やす」
「足ります」
土へ引かれた線を前に、一度目は足を先に出した。剣を振り切る頃には、今度は腰が前へ流れている。
二度目は足を止めることを意識したせいで、木剣の振りが小さくなった。三度目は何とか線まで踏み込めたが、戻す途中で後ろ足が止まった。
「どうです?」
「前よりましだ。まだ下手だがな」
「今日は前半だけ受け取っておきます」
「都合がいいな」
ドランは俺の足元を見ながら、もう一本の木剣を持ち上げた。
「今度はこっちへ来い」
正面に立つと、ドランは自分の肩を木剣の先で示した。
「そこへ打ってみろ。俺が退いても追うな」
「はい」
肩へ向けて振る。横へ退いたドランを追わず、剣を引いて足を揃えようとしたところへ、反対側から木剣が入った。
受けるのは間に合わない。俺の肩に軽い衝撃が来る。
「遅え」
「知ってます」
「じゃあ、もう一度」
次は打ち込みを少し抑え、剣を戻す方へ意識を残した。肩は叩かれなかったが、今度は後ろ足の位置がおかしい。
「前に出るなって言われたの、忘れてませんよ」
「忘れてなくてそれか」
「考えた結果なんですけどね」
「それは分かる」
褒めているようには聞こえなかった。
◆
水を飲んで戻ると、ドランは木剣を肩の横に立てて待っていた。
「ここからは打ち込まなくていい。俺の剣を受けろ」
「またですか?」
「嫌なら素振りへ戻るか」
「受けます」
あの一度きりの感触が、頭から離れなかった。剣先がまだ高いところにあるのに、右脇へ来る気がして、そこへ木剣が出ていた。
できれば、もう一度。
ドランが構え直す。俺は肩と腰を見た。
最初の一撃は上からだった。受ける位置を早く決めようとして、剣を横へ出しすぎる。
木剣が俺の腕に軽く当たった。
「……痛い」
「今のはどこを見てた」
「師匠の肩と腰です」
「本当か?」
「はい。そこから、こっちへ来ると思って」
俺が木剣を右へ動かすと、ドランは首を横に振った。
「出す場所を先に決めてどうする」
「いや、前はそれで受けられたので」
「前の俺と今の俺が、同じところへ振るとは限らねえだろ」
「……そうでした」
「お前、今、俺が振る前に自分の剣を見たぞ」
言われてみれば、さっきの位置へ剣を出せているか、手元を確かめた気がする。
「俺を見ろ。剣を置く場所は、あとでいい」
「あとで、ですか」
「俺の動きに合わせて、お前の剣を出せ。出し方まで先に決めんな」
前に言われたことと、よく似ている。違うのは、何を失敗したか自分でも少し分かるところだ。
構え直したドランへ目を向ける。
木剣の先が、わずかに上下した。そこばかり見そうになるのをこらえ、肩から足元まで視界に入れる。
ドランが右へ一歩。
俺も足を引く。木剣が胸の前へ来たので受けると、ドランはそこで剣を引いた。
「まだ遅いな」
「今のは普通に見えました」
「普通に受けりゃいい」
もう一度。
ドランが左足を踏み出す。木剣が俺の右肩へ向かってくるので、剣を立てた。
かん、と音が鳴る。今度は間に合った。
「……今のは?」
「普通だ」
「ですよね」
何でも特別に感じ始めている。これでは、受けられた時の違いまで分からなくなりそうだ。
ドランは一度木剣を下ろし、俺の足元を見た。
「次は、剣を受けたあともそこに突っ立ってるなよ。戻すところまでだ」
「はい」
俺も構え直す。今度はどこへ来るだろう。
そう考えかけて、やめた。
ドランの木剣が動く。
上から、少し斜め。
肩が回り、踏み込んだ足に重さが移る。
俺の右肩へ来る。
剣を立てかけたところで、ドランの腰が沈んだ。
肩の向きも、さっきまでと違う。
低い。
右肩ではない。俺の左の脇腹だ。
ドランの剣先は、まだ胸より高いところにある。
俺は木剣を下へ回した。
かん。
木がぶつかった音と一緒に、手首へ衝撃が伝わる。ドランの木剣は、左脇腹の少し手前にあった。
「……今の」
「剣を戻せ」
はっとして、木剣を胸の前へ引く。足も後ろへ運んだが、踵が土に引っかかった。
「そこが遅い」
「はい。でも、今のは……」
「見た。続けるぞ」
ドランはそれだけ言って、また構えた。
俺も剣を上げる。さっきは左脇腹へ来た。だが、今度もそうとは限らない。
肩と腰を見る。
ドランが一歩出た。真っ直ぐ来る剣を受ける。次に横へ動いたドランを追わず、剣を引く。
ドランの木剣が俺の肩の横を通り過ぎた。
「よし。足は今の方がいい」
褒められたのは、先に受けた方ではなく足だった。
「師匠、今の一つ前の……」
「後で聞く。次だ」
まだ続くのか。
息を整え、ドランへ目を戻した。
足が土を押す。
木剣が上がる。
そのまま下りてくると思った。けれど、踏み出した足の向きに合わせて腰が少し横へ流れ、木剣を持つ肘の位置が変わった。
右から来る。
剣先が横へ向き切るより先に、俺の木剣がそちらへ出ていた。
また、乾いた音が鳴る。
右腕の外で木剣同士が触れ、ドランの剣が止まった。
「……あ」
今度は、さっきの左脇腹とは違う。
ドランが木剣を引く。俺も慌てて構え直した。
「師匠」
「何だ」
「今、剣先の向きが変わる前に、そっちへ来るって分かりました」
「そうか」
「さっきもです。最初は肩へ来ると思ったのに、途中で変わって……」
「どこを見てた」
「剣じゃなくて、肩と腰です。今は足も。全部をちゃんと見られたわけじゃないですけど」
「そうか」
ドランが木剣を下ろし、俺の手元へ目を向ける。
「じゃあ、最後にもう一度だ」
「まだやるんですか?」
「嫌ならやめてもいいぞ」
「やります」
ここまで来ると、自分でも確かめたかった。
ところが、次の一撃を待つ間に、また先ほどの右腕の位置が気になってしまった。剣を出す場所を思い浮かべてからドランを見る。
木剣が俺の肩へ落ちてきた。
「痛っ」
「だから、場所を決めるなと言っただろうが」
「……はい」
◆
庇の下へ戻ると、ドランは俺に水を飲ませてから、稽古場の土を足で均した。
「師匠、あれは何だったんですか」
「こっちが聞きたい。お前は何を見た」
「剣が来る前に、師匠の身体が動くのが分かったんです。肩とか腰とか……そのあとの剣の行き先まで、分かった気がして」
「どのくらい前だ」
「ほんの少しです。見てから剣を動かすには遅いはずなのに、間に合いました」
「次はできなかったな」
「はい。やろうと思うと、変なところへ剣を置いてしまって」
ドランは頷いて、木剣を庇へ置いた。
「……前から思ってたことがある」
「何でしょう」
「お前は一人で振ってる時、足だの肩だの一つずつ考えすぎだ」
「それは毎日言われてますね」
「打ち込ませると、少しはましになる。相手を見るようになるからな」
そう言われて、稽古場の土へ目を落とした。一人で振る時は確かに、自分の足元ばかり気にしている。
「それで、この前は足のことを考えるなって?」
「そうだ。お前が余計なことを考えなくなったら、どう動くか見たかった」
「……師匠、そういうことは先に言ってくださいよ」
「言ったらまた足のことを考えるだろ、お前は」
反論しかけて、やめた。たぶん考える。
「でも、剣が来る前に分かったのは、また別の話ですよね」
「そりゃそうだ。剣の行き先を読んだのか、俺の動き出しを人よりよく拾ってるのか、ここで決めつけられるか」
「師匠にも分かりませんか」
「何でも分かると思うな。俺はお前に剣を教えてるんだ」
ドランは一度、俺の木剣を指さした。
「さっきの二度、いつもより早く受けたのは見た。だが、受けたあとの剣はまだ遅い。そこは変わってねえ」
「……はい」
「もっとも、今日の足は少しは動いてた。今の感じを当てにしすぎず、明日も普通に振れ」
「今の感じ、って言われても難しいんですよね」
「難しくしないで済むまで稽古しろ」
結局、そこへ戻るらしい。
俺は木剣を所定の場所へ戻し、いつもの銅貨が石の上からなくなっていることを確かめた。ドランが庇の木箱を開け、稽古用の布を出してくる。
「じゃあ、失礼します」
「おう。帰り道で変な試し方すんなよ」
「誰相手にやるんですか」
「知らねえが、お前ならやりかねないからな」
板垣を抜けて通りへ出る。右腕の外で木剣同士がぶつかった時の振動が、まだ指に残っていた。
あの一回だけじゃない。今日は違う場所へ、二度も剣を出せた。
偶然じゃない。剣がそこへ来るより先に、分かったんだ。
ただ、どうやれば次もできるのかと考えると、さっき叩かれた肩が少し痛んだ。
◆
〈鈍色亭〉へ戻ると、エルザは土間の長卓に紙を広げていた。隣でヴェラが、布袋を一つ持って中を覗いている。リンは袋の口にとまっていた。
「ただいまです」
「お帰りなさい。今日は早かったですね」
「稽古が終わってから、寄り道しなかったので」
エルザが紙の端を押さえた。書いてあるのは、先日見た旅装品の名前と、大まかな値段らしい。その脇には、手元にあるものを確かめるための小さな印も付いていた。
「買い物に行くんですか?」
「いえ。先に、今あるものを並べてみようと思ったんです」
「まだ行くって決まってないですよね」
「だからこそ、何が足りないか知っておきたくて。ヴェラさんも手伝ってくれるんですよ」
ヴェラが袋を卓へ置く。
「荷物が増えた時、私の盾とぶつからないかも確かめたいんです」
「それなら、俺も手伝います」
「稽古の後ですけど、大丈夫ですか?」
「重いものを担ぐなら、少し休んでからにします」
「はい。それがいいと思います」
ヴェラが頷いた。
紙には食料、灯り、雨を避ける布、それから鍋の文字もあった。
「鍋はまだ買いませんよ」
エルザが先に言う。
「わかってますよ」
俺は苦笑しながら鞄を下ろしかけて、手を止めた。
「……そうだ。あの話、続きがありました」
「剣が来る前に分かった、という話ですか?」
「はい。今日、もう一度できたんです。しかも、前と違うところへ二回」
エルザが紙から顔を上げ、ヴェラも袋の口を閉じた。
「今度は、何をしたらできたか分かったんですか?」
「師匠の動きを見るようにしたら、です。剣だけじゃなくて、身体の方を」
「それなら、この前話していた見間違いとは違うかもしれませんね」
「俺もそう思います。何度もできたわけじゃないですけど」
ヴェラは少し考えてから尋ねた。
「ノワール様は、その動きを見たあとで剣を出したんですか?」
「うーん。身体が動いたのは見たんです。でも、剣がそこへ来るのを見てからじゃ、間に合わなかったと思います」
「そうですか」
「師匠にも、何なのか分からないって言われました」
「ドランさんが分からないと仰るなら、簡単には決められませんね」
エルザは紙を折らずに、端を揃えた。
「でも、もう一度できたんですよね。そこは良かったと思います」
「はい。ちょっと嬉しいです」
ヴェラが小さく笑った。
「それなら今日は、何を持っていくかを考えるだけにしませんか。稽古でたくさん動いてきたんでしょう?」
「そうします」
リンがちりんと鳴き、布袋の口から飛び上がった。
ヴェラが袋を開いて見せる。中には畳んだ布と、短い縄が入っていた。エルザは紙に目を戻し、布の横へ小さな印を書き足す。
「これは持っていけそうです。問題は、どなたが持つかですね」
「俺が持ちますよ」
「それを全部ノワールさんが言うから、分けて考えているんです」
「……はい」
ヴェラが俺の方へ袋を寄せた。
卓の上には、まだ書き込める場所が十分残っていた。




