第146話 剣が来る前に
ドランが土に引いた線を目がけ、俺は木剣を振り下ろした。
「足が遅え」
剣を振り終えてから、踏み出した足が土を踏んだ。しかも、線の少し手前だ。
「もう一度やります」
「おう」
木剣を戻し、今度は足から動いてみた。踏み込むのに合わせて腰を回し、肩を――。
「今度は手が遅え」
「……忙しいですね」
「お前が別々に動かしてるからだろ」
ごもっともだ。
いつもの石へ銅貨を三枚置いてから、もう何度振っただろう。今朝はドランに言われ、一人で木剣を振り続けている。身体強化をかけていても、足と剣が勝手に揃ってくれるわけではない。
剣を戻しながら足を動かす。この前、一度だけできた動きだ。まったくできなくなったわけではないが、前の足を引きつける頃には剣先が下がっていた。
「そこで止まるな」
「はい」
今度は剣先を下げまいとして、後ろ足が遅れる。
「……師匠。一つずつじゃ駄目ですか」
「一つずつ覚えるのはいい。振る時まで別々じゃ困る」
「難しいことを簡単に言いますね」
「簡単になるまでやるんだよ」
それを言われると、返す言葉がない。
◆
稽古場の外から、荷車の車輪が石を踏む音が聞こえてきた。昨日はあの音を一日中聞いていた気がする。
ドランが庇の方へ顎をしゃくった。
「水を飲め。今日はいつもより声が出てねえぞ」
「昨日、荷車の案内をしてたんですよ。通るたびに声を掛けてたので」
「剣を振るより喋ってたのか」
「昨日は、そっちがお仕事でしたから」
「なら喉も使いすぎるなよ」
水筒を取って一口飲むと、冷たい水が喉を通った。
「師匠も飲みます?」
「俺のはある。お前の飲みかけはいらん」
「そこまで嫌がらなくても」
「飲んだらこっちへ来い」
栓を締めて庇に戻すと、木剣を手にしたドランが土の上へ出ていた。
「今度は俺へ打ち込め。追って振るなよ」
「はい」
正面に立ち、肩へ打ち込む。ドランが横へ退く。
剣を引き始めながら後ろ足を斜めに動かす。前の足を引きつける前に、ドランの木剣が肩へ入ってきた。
「遅い」
「分かってます」
「だったら次だ」
もう一度打ち込む。
今度はドランの足が動いたところで追いかけそうになった。踏み出しかけた足を止め、剣を戻す。木剣の先が少し下がったが、肩を叩かれる前に正面へ向き直れた。
「……お」
「今の足は、さっきよりましだ」
「褒めました?」
「一人で振ってる時よりはな」
「比較する相手が俺なんですよね」
「ほかの誰と比べるんだよ」
ごもっともだ。
打ち込んでは戻す。ドランが横へ退けば追わず、前に出てくれば剣を戻して受ける。まだ間に合わない時も多い。それでも一人で振っていた時より、足を止める回数は減った気がした。
その代わり、次にドランがどちらへ動くかが気になる。剣先を追っていると、足が前へ出るのに気づくのが遅れる。
「剣を下げるな」
「はい」
「今度は前へ出すぎだ」
「はい」
返事をするたびに、どこを直すんだったか考え直す。
ドランが木剣を下ろし、顎に手をあてた。
何か考えている。珍しい。嫌なことじゃないだろうか。
「……よし。次は違うことをやる」
「何ですか?」
「足の置き方も振り方も、今は気にすんな」
「え?」
「俺の動きを見ろ。どう動くか見て、お前なりに剣を出せ」
「さっきまで、足を見ろって言ってませんでした?」
「今は、って言っただろ」
「また急に難しいですね」
「難しく考えんな。俺を見てりゃいい」
言われた通りにしても、足が勝手に上手く動くとは思えないんだけどな。
それでも、ドランが木剣を構えたので、俺も正面へ向き直った。
◆
ドランの足が動いた。
右肩の高さへ木剣が来る。俺も剣を立て、なんとか受けた。
次は左から来た。今度は戻す手が遅れて、肩を小突かれる。
「痛っ」
「続けるぞ」
「はい」
ドランの肩を見る。腰が動き、踏み込む足が土を押す。
何をどう直すか考えようとしたが、次の一撃が来る。足元を確かめる暇もない。
剣を戻す。
ドランが右足を出した。
腰が回り、木剣が俺の左肩へ向かう。
そう見えたところで、ドランの右肩の下の動きが変わった。
剣先はまだ高い。
なのに、俺の右脇へ来る気がした。
そこには、まだ何もない。
気づくと、木剣を下へ回していた。
かん、と乾いた音がした。
俺の右脇へ下りてきたドランの木剣を、先に回していた俺の木剣が受け止めていた。
「……あれ?」
俺の声を聞いて、ドランが木剣を引いた。
今のは、受けられた。
けれど、剣先が下がってから動いたわけじゃない。右脇へ来ると思った時、まだドランの剣は肩の高さにあった。
ドランは少しだけ俺の手元を見た。
「もう一度だ」
「はい。今の、もう一回やってみます」
何が良かったんだろう。肩を見て、腰が動いたところで、右へ……。
「おい」
ドランの声と一緒に木剣が来た。
慌てて受けようとしたが、さっきの位置へ剣を出してしまった。ドランの木剣はその上を通り、俺の肩に軽く当たる。
「痛っ」
「何してる」
「さっきと同じようにしようと……」
「さっきのを?」
「はい。先にここへ剣を出したら、受けられたので」
ドランは俺の木剣を見た。
「そうか。もう一度構えろ」
「はい」
今度こそ、肩と腰を見る。
ドランの剣が上から来た。今度はそのまま肩へ落ちてくる。剣を上げて受けたが、足を引きつけるのが遅れた。
次の一撃では、剣を戻す手が間に合わない。
右の手首を軽く叩かれた。
「痛いですね、今日」
「さっきからお前が余計なところへ剣を置くからだ」
「さっきは、それで受けられたんですよ」
「毎回そこへ来るわけじゃねえ」
「……そうですよね」
分かっている。なのに、あの一回をもう一度やりたくて、剣を先に置く場所ばかり考えてしまう。
ドランがまた構え、俺も剣を戻した。
そのあとも何度か受けに回ったが、さっきのように剣が来る前から行き先が分かることはなかった。
足が前へ出すぎ、剣先が下がり、いつもの調子で肩を叩かれる。
俺が息を吐くと、ドランは木剣を下ろした。
「今日はここまでだ」
「もう少し、あれを試せませんか」
「今の足じゃ無理だ。もう崩れてる」
「……はい」
木剣を戻そうとして、もう一度ドランを見る。
「師匠、さっきのは何だったんでしょう」
「……一度受けたくらいで浮かれんな」
「いや、浮かれてるわけじゃないんですけど」
「受けたあとの剣が戻ってねえ。そっちを直せ」
「……はい」
いつもどおりの指摘だった。
ドランは木剣を庇へ運ぶと、何事もなかったように次の木剣の柄を確かめ始めた。もう一度聞こうとしたが、何を聞けばいいのか自分でも分からない。
俺も身体強化を解き、木剣を元の場所へ戻した。石の上の銅貨が残っているのを確かめ、水筒を鞄へしまう。
「じゃあ、また来ます」
「おう。足の稽古も忘れるなよ」
「今日は気にするなって言われたのに」
「今だけ、って言っただろ」
「……はい」
反論しようとすると、ちゃんと言われていたのを思い出す。俺はそのまま板垣をくぐった。
◆
職人区を抜けたところで、腹が鳴った。
朝食は食べたはずなのに、まだ昼前だ。身体強化の稽古をすると、どうも腹の方が正直になる。あの鍋を買ったところで、毎日外で煮込みを作るわけでもないしな。
通りの角に荷車が一台止まり、御者が店の人と荷の数を確かめていた。昨日はどの車がどちらへ曲がれるかばかり見ていたのに、今日は荷台に積まれた籠の中身が気になってしまう。青い葉物が、その縁から覗いていた。
美味しそうだな、と考えてから気づく。まだ調理もされていない。
そんなことを考えながら〈鈍色亭〉へ戻ると、土間の卓にエルザとヴェラがいた。二人の前には、手入れ用の布と小さな刷毛が置かれている。
「お帰りなさい、ノワールさん」
「ただいまです。何をしてるんです?」
「昨日の仕事で汚れた装備を、少し拭いていたんです」
エルザが短剣の鞘を持ち上げる。ヴェラの丸盾は卓の横に立てかけられ、縁についた乾いた土を刷毛で落としたところらしい。
「昨日は案内するだけのつもりだったのに、案外汚れたんですね」
「道路の脇に立っていましたから。泥も跳ねましたし」
ヴェラが刷毛を布の上へ戻した。エルザは新しく買った濃い青と淡い黄色の飾り紐を手に持っていたが、鞘へ結ぶつもりではないらしい。手帳の上へ一度置くと、リンが近づいて小さく鳴いた。
「また狙われてますね」
「昨日から、見つけると寄ってくるんです」
「そのうち、リンの紐になりそうです」
「私が買ったんですけどね」
エルザが紐を軽く引き上げると、リンがひらりと追った。ヴェラは布を畳み終え、俺の顔を見る。
「稽古はいかがでしたか?」
「今日は、ちょっと変なことがありまして」
「変なこと?」
「いつもなら間に合わないところで、一度だけ剣を受けられたんです」
「それは、良かったですね」
「良かったんですけど……剣が来る前から、そこへ来る気がしたんですよ」
エルザが飾り紐を手帳の上へ置いた。
「ドランさんの剣が、ですか?」
「はい。最初は左肩へ来ると思ったのに、途中で向きが変わって。剣先が下がるより先に、右脇へ来るのが分かったというか」
「……偶然ではなく?」
「それが分からないんです。もう一度やったら、普通に叩かれました」
ヴェラが小さく首を傾げる。
「初めてのことなんですか?」
そう聞かれ、稽古を始めたばかりの頃のことを思い出す。あの時も、ドランの木剣が来る前に、そこへ剣を置けたことがあった。
「……前にもありました。一度だけ」
「それなら、またできるかもしれませんね」
「そうだといいんですけど」
エルザが少し考えてから言った。
「でも、毎回できるとは思わない方がよさそうですね」
「はい。ドランにも、足が崩れてるって止められました」
「それなら今日は、もう休みましょう」
ヴェラの言葉に、俺は素直に頷く。
「そうします。ところで、お昼はどうする予定です?」
「それを相談していたところです」
エルザが笑った。
「昨日は声を使いましたから、今日は温かい汁物にしませんか?」
「俺は大賛成です」
ヴェラは刷毛を棚へ片づけて盾を壁際のいつもの場所へ戻し、エルザも手帳と飾り紐をしまってからリンへ手を差し出した。
俺は鞄を部屋へ置き、二人と一緒に表へ出た。昼の通りには、朝よりも多くの人が歩いていた。
向かう店は、エルザが知っているらしい。職人区を抜けた先の小さな食堂で、入口の戸を開ける前から野菜を煮る匂いがした。
「ここ、前から気になっていたんです」
「よく知ってますね。菓子屋の次は食堂ですか」
「ノワールさんが温かいものを食べたいと言ったからですよ」
「言いましたけど。エルザさんも食べてみたかったんじゃないです?」
「……少しだけ」
食べ物に関してはわかりやすい。
奥の卓へ三人で座ると、店の女性が今日の煮込みを教えてくれた。豆と野菜を煮て、塩漬け肉で味をつけたものらしい。パンも付くというので、俺は迷わずそれを頼む。エルザとヴェラも同じ煮込みを選んだ。
「ノワール様、飲み物もお願いしますか?」
「水で大丈夫です。さっき飲んだのに、また喉が渇いてしまって」
「昨日もよく声を出していらっしゃいましたから」
「昨日の分がまだ残ってるんでしょうかね」
ヴェラは店の女性に水を三つ頼み、エルザは卓に置かれた小皿の香草を覗いていた。リンがその上を小さく回ったので、俺はつい手を伸ばす。
「ノワールさん、まだ料理が来ていませんよ」
「違いますよ。リンが落としそうだったので」
「本当ですか?」
エルザに笑われた。俺の手が皿へ向かっていたのは事実なので、言い返しにくい。
煮込みが運ばれてくると、ヴェラが先に匙を取り、エルザもパンを一口ちぎった。俺は湯気を少し逃がしてから、肉の入ったところをすくう。
「熱っ」
「ノワールさん、湯気が出てたじゃないですか」
「見えてたんですけどね」
ヴェラは自分の器を少し遠ざけ、ゆっくり匙を動かしていた。
俺も水を一口飲み、煮込みをかき混ぜてから、今度は豆の多いところをすくった。




