第144話 荷袋の空き
焼き菓子の店は、昼食を取った食堂から通りを二つ曲がったところにあった。
店先には小さな人だかりができている。焼きたての生地の匂いに混じって、甘酸っぱい果物の香りがした。窓の内側に並ぶ菓子は、三角に折った薄い生地の端から、赤い煮詰め物が少し覗いている。
「あれです」
エルザが窓を指した。
「新しい商品なんですか」
「はい。昨日から気になっていたんです」
「昨日から?」
「お店の前に、予告が貼ってありましたから」
「依頼板だけじゃなくて、菓子屋の掲示も見逃さないんですね」
俺が笑いながら言うと、エルザは少しだけ不満げな顔をみせた。
「お仕事の札ばかり見ているわけではありませんよ」
「それは失礼しました」
「ノワール様、何個にしますか?」
ヴェラが財布を出しながら尋ねてきた。目は菓子から離れていない。
「今、お昼を食べたところですよね」
「はい。でも、これは別ですから」
言い切られてしまった。
店のおかみさんに三つ頼むと、薄い紙を重ねた小袋へ入れてくれた。受け取った袋の底が温かい。店先で一つずつ分けると、エルザはまず角をそっと齧った。
「あ、熱い」
「気をつけてくださいね」
俺が言うと、ヴェラも自分の菓子を覗き込んだ。
「中身が思ったより多いですね」
「そうなんですよ。だから、こぼさないように……」
エルザが言い終わる前に、赤い煮詰め物が生地の端から少し落ちた。慌てて紙を寄せる。
俺は見なかったことにした。わざわざ指摘するほどの被害ではない。
「ノワールさん」
「はい」
「今、笑いました?」
「笑ってませんよ? こぼしたところなんて見てませんから」
「しっかり見てるじゃないですか」
ヴェラが口元を押さえた。
「ヴェラさんの方が笑ってますよ」
ヴェラが俯きながら苦しそうに答える。
「……熱くて」
絶対嘘だ。
◆
菓子を食べ終え、包み紙で指先を拭ってから通りへ戻ると、旅支度の道具を並べた店が目に入った。
軒下には丸めた厚手の布や縄の束が吊り下がり、扉の脇には木枠の荷袋がいくつも置かれている。窓には、折り畳んだ敷物と、小さな鍋が重ねてあった。
「……あれ、結構な大きさですね」
俺が言うと、ヴェラが立ち止まった。
「どれですか?」
「奥にある布です。丸めても、あの太さになるんですね」
指したのは、両端を紐で縛った濃い茶色の布だった。横に置いた荷袋より、少し長い。
「寝る時に使う布でしょうか」
「そうかもしれません。あの大きさを背負うなら、剣の鞘も邪魔になりそうです」
エルザが菓子の紙をきちんと折り、近くのごみ入れへ捨てた。
「せっかくですから、見てみませんか?」
「買うんですか?」
「まだです。長い行程になったら、何を持つのか考えておきたくて」
ヴェラが頷く。
「実際の大きさを知っておくのは賛成です」
俺としても異論はない。ただ、三人とも食後の散歩のつもりで出てきたはずなのに、なぜか次の探索の荷物を見に行くことになった。
こういう寄り道は嫌いじゃない。
扉を開けると、乾いた布と革の匂いがした。
壁には大きさの違う荷袋が並び、奥の棚には水筒や小鍋、灯りの道具が詰められている。中央の台には、丸めた布が何本も積んであった。天井から吊るされた紐の端が、誰かの肩へ触れそうな高さで揺れている。
「いらっしゃい。旅支度かい?」
帳面を開いていた店主が顔を上げた。少し白髪の混じった男性で、袖を肘まで捲っている。
「まだ決まっていないんですが、ダンジョンの奥へ行くことになったら、泊まりになるかもしれなくて。荷物がどれくらい必要なのか、見ておきたいんです」
「人数は?」
「三人です」
「行き先は?」
「それも、まだなんです」
店主が俺たちの顔を順に見た。
「そいつは買い物を始めるには早いな」
「そうですよね」
でも見たくなってしまう。
「まあ、見るだけなら構わないよ。どんな道を通るかで、持ち物も変わるからね」
店主は台の端を片づけ、重ねていた布のうち一本を広げてくれた。
手触りは、普通の毛布より硬い。外側には油を含ませたような匂いがあり、片面が少し滑る。
「雨を避ける布だ。地面へそのまま敷いてもいいが、寝るなら下に何か一枚欲しい。寒けりゃ上にも掛けるものが要る」
「これ一枚で、何人くらい入れるんですか?」
エルザが端を持ち上げた。
「寝るだけなら、二人が限度だ。二人分の荷物まで一緒に雨から守る余裕はないな」
「三人なら、これ一枚では足りませんね」
「そうだな。三人用もあるが、あれは重い。荷物をどこに置くかも考えないといけない」
店主が隣に積んだ一回り大きい布を指した。確かに、丸めた状態で既にかなり太い。
ヴェラが布の縫い目を指で確かめる。
「支えるのは、どうするんですか?」
「支柱を立てるか、周りに使えるものがあれば紐で張る。岩場なら留めるところがない場合もあるから、そこで眠ると決めてかかるなよ」
「はい」
ヴェラは頷いてから、大きい布を持ち上げてみた。重さを確かめ、また台へ下ろす。
「私の荷袋だけでは、入りそうにありません」
「俺のにも、これを入れたら水と食料がかなり押し出されそうです」
「行き先が決まっていないので、そこまで考えても仕方ありませんけどね」
エルザの言うとおりだ。ただ、紙の上で「泊まりになるかもしれない」と聞いた時より、目の前の布の方がずっと場所を取る。
「ちょっと背負ってみるかい?」
店主は台の下から見本の荷袋を出し、さっきの大きい布を上の留め紐へ通した。
「重りは入ってないけど、大きさくらいなら分かるよ。紐もまだ仮留めだ。店の中で振り回さないでくれよ」
「お願いできますか」
ヴェラが先に答えた。
ヴェラは自分の鞄と丸盾を俺へ預け、店主が布を留めた見本の荷袋を背負った。肩紐を直すと、丸めた布の端が背中の横へ張り出す。
「どうです?」
「重さより、背中が広くなる感じがします」
ヴェラは店主の許可を確かめてから、台と棚の間に立った。前へ歩く分には問題なさそうだ。ただ、振り返ろうとすると、背中の布が棚の手前へ近づく。
「ここで向きを変えるのは難しそうですね」
「狭いところなら、一度荷を下ろすこともあるよ」
店主が答える。
「でも、下ろしたものを置く場所がないと困ります」
「その通り。だから道が決まってから揃えるんだ」
なるほど。荷物の量だけでもない訳だ。
ヴェラは無理に回ろうとせず、いったん前へ抜けた。棚から離れたところまで戻ると、俺に手を伸ばす。
「盾をお願いします」
預かっていた丸盾を渡すと、ヴェラは左腕に通して前へ構えた。それから身体を少し横へ向ける。盾は動かせているが、背中に留めた布が先ほどより大きく横へ張り出した。
「盾を構えるだけなら大丈夫です。でも、身体ごと向きを変える時は、後ろも気になりますね」
「そうですね。荷物を増やした状態では、前回と同じ通り方はできないかもしれません」
俺が言うと、ヴェラは頷いた。盾を外し、店主に手を借りて荷袋も下ろす。俺は預かっていた鞄を返した。
「でも、選べる形はあると分かりました。あの大きい布を、私が持たなければいけないわけではないんですから」
「確かに。三人で使う道具なら、持ち方も相談できますね」
あの布を誰かが背負えば、その人の荷袋から別の物を移す必要があるかもしれない。灯りや食料もあるし、俺は剣を、ヴェラは盾を使う。誰か一人が全部引き受ければいい話でもなさそうだ。
◆
「こっちは、薄く畳めますね」
エルザが別の棚で、小さな敷物を持っていた。
畳むと本ほどの厚みになる。薄い茶色の布で、端には縫い込んだ紐が一本付いていた。
「それは敷き布だね。濡れた床へ直接寝るのが嫌なら、下に挟む。厚いものの代わりにはならないけど」
エルザはそれを広げ、端を合わせて畳み直した。棚に並んでいた時よりも、布の端がすっきり収まっている。
「おや。手慣れてるね」
「布を畳むのは、好きなんです」
「じゃあ、こっちもやってみるかい?」
店主が笑いながら細長い布を渡した。
エルザは受け取ると、まず広げて折り目を確かめた。それから左右を順に折り、端の紐を指に掛けて留める。最後に結び目を少しずらすと、布の端がきれいに収まった。
「……すごいですね」
俺が言うと、エルザは軽く首を傾げた。
「そうでしょうか。こうした方が広がらないので」
「いや、俺がやったら、きっと元より太くなりますよ」
「では、ノワールさんには別のお仕事をお願いしましょう」
「あっさり諦められるのも癪ですね」
「ノワール様に合う仕事をしましょう」
ヴェラが笑いながら言った。
どうも、二人の間で勝手に役割が決まりかけている気がする。
店主が棚を指す。
「そっちには灯りがあるよ。地下へ行くなら、布だけじゃ済まないだろ」
俺たちは台の布を返してから、灯りの棚へ移った。
蓋のある携帯灯と、予備の芯を巻いた小さな箱が並んでいる。横には油を入れる革張りの容器もあった。普段持ち込む松明よりずっと小さいが、片手で扱うにはこちらの方が便利そうだ。
「これなら、ずっと持っていられますか?」
「持てるけど、油は減る。灯りを点けっぱなしにするなら予備も要るし、倒したら中身が漏れるものもある。寝る時に火を残すかどうかは場所次第だな」
エルザが携帯灯を持ち上げ、取っ手の位置を確かめた。
「松明を持つのと、どちらが楽でしょう」
「歩きながら使うなら、手元は楽かもしれませんね。でも、広く照らしたい時はどうでしょう」
「そこは実際に点けて比べたいですね」
当然の疑問だった。俺たちは地下でエルザの灯りに何度も助けられている。見た目が小さいからといって、持ち替えていいとは限らない。
「火を点けるのは、外の台を使ってくれ」
店主が言う。
「今日は、見るだけにしておきます」
エルザは携帯灯をそっと戻した。
俺が次に目を向けたのは、その隣の小鍋だった。
手のひら二つ分くらいの大きさで、柄が畳める。底は少し黒ずんでいたが、縁はきれいに磨かれている。
俺は棚から小鍋を手に取り、畳まれていた柄を起こしてみた。思ったより持ちやすい。
「これなら、温かいものが作れそうですね」
「ノワールさん」
エルザに呼ばれた。
「はい?」
「まだ泊まるとも決まっていませんよ」
「分かってます。でも、いつか泊まる時に温かい食事は大事でしょう」
「それは、私もそう思います」
ヴェラが横から頷いた。
「ほら」
「ヴェラさん、先に大きさを確かめてください」
エルザの返しが早い。ヴェラは少し考え、俺が持っている鍋をじっと見た。
「……三人分だと、小さいですね」
「そちらですか」
「ええ。できれば、三人で食べたいので」
もっともだった。小鍋を棚へ戻すついでに店主に確認する。
「煮込み三人分だと、この鍋では足りないでしょうか」
「一度に全員分を作るなら、もう一つ大きいのがいいね」
店主が指差した鍋は思いのほか大きく見えた。
「……まずは他の荷物が優先ですね」
◆
店を出た時、俺たちの荷物はほとんど増えていなかった。
エルザが買った短い飾り紐一本を除けば、何も買っていない。濃い青と淡い黄色を編んだ紐で、手帳の留め具へ使うには少し長そうだった。
「それ、何に使うんです?」
「まだ決めていません」
「てっきり、手帳に付けるのかと思いました」
「使い道は、あとで考えます。気に入ったので買ったんです」
エルザは悪戯っぽく笑い、紐を指に一度巻いてみせた。リンがその端へ近づいた。
ちりん。
「リンも欲しいんでしょうか」
「渡したら、どこかへ持っていってしまいそうですね」
エルザが紐を少し高く上げると、リンは空中で小さく回った。残念ながら、持ち主の手から離れる様子はない。
ヴェラは、さっき見た大きな荷袋の方を振り返っていた。
「荷物って、持てるだけ持てばいいものでもないんですね」
「俺もそう思いました。地下では、通り道が狭いですからね」
「はい。私は、盾を動かせることを優先したいです」
もっともな意見だ。
「では、誰が何を持つかも、三人で考えないといけませんね」
エルザが言うと、ヴェラはすぐに頷いた。
「私は盾と脚具に必要なものを持ちます。でも、ほかにも運べるものはあると思います」
「俺も、剣の鞘に当たらない場所なら使えそうです」
「私の荷袋もありますからね。灯りや食料を含めて、分け方を考えましょう」
「じゃあ、次の行程が分かったら、三人分の荷物を一度並べてみますか」
「はい。実際に見て決めましょう」
ヴェラが答えた。
前を歩いていたエルザが少しだけ速度を落とし、俺たちと横へ並んだ。
「ノワールさんは、鍋ですか?」
「荷袋の空きが余ったら考えます」
「余りますかね」
「……どうでしょう」
午後の通りを、買い物帰りらしい人たちが行き交っている。軒先からはまだパンを焼く匂いが流れていた。
エルザは新しく買った紐を鞄へしまおうとしたが、リンが端を追ってきたので手を止めた。今度は小さな輪を作ってみせる。リンはその輪をくぐると、ヴェラの肩へ降りた。
「気に入ったみたいですね」
「紐より、遊んでほしいのかもしれません」
エルザがもう一度輪を作る。リンがすぐに飛び立ち、俺の目の前を抜けて戻ってきた。
「ほら、ノワールさんも」
「俺もですか?」
「輪を持っていただければ」
エルザが紐を輪にして差し出した。両側を受け取り、リンが通れるくらいに広げてみる。ところがリンはその脇を素通りして、エルザの方へ戻った。
「……見事に避けられましたね」
ヴェラが笑う。
「俺が持つと、そうなるんですね」
エルザが声を立てて笑い、リンもその周りをくるりと回った。
〈鈍色亭〉へ戻る道にも、荷車や買い物客が行き交っていた。俺は紐をエルザへ返し、少し先を歩くヴェラの横へ追いついた。




