第143話 返事の前に
ドランが横へ身を退いた。
肩を狙った俺の木剣は届かず、空を切った。
もう一歩追いかけそうになって、踏み出しかけた足を止めた。昨日の夕方、背の高い青年が同じように前へ出すぎていたのを思い出したからだ。
けれど、そこで止まったままでは次が遅い。今朝も何度か、剣を戻している間にドランの木剣で肩を小突かれている。
木剣を手元へ引き始めながら、後ろ足を斜めへ運んでみた。踏み込んだ足もついてきて、身体の向きが変わる。剣を戻し終わるより先に、足が次の位置へ収まった。
そのまま、もう一歩出られそうだ。
「……今のは?」
「ようやく振ったあとに足が動いたな」
「おお。今、褒めました?」
「足はな。剣が遅れてる」
「一つ直ると、次が出てきますね」
「両方できなきゃ使えねえだろ」
ドランが木剣を構え直す。俺も身体強化をかけたまま、もう一度正面へ立った。
同じように動こうとすると、今度は木剣を引く手が遅れた。さっきの一回が簡単に繰り返せるわけではないらしい。それでも、足と剣を別々に止めていた時とは、少し違う。
何度か打ち込んでから、ドランが木剣を下ろした。
「今日は終わりだ。さっき動かせた足を忘れるなよ」
「はい。今度は剣も間に合わせます」
「口で言うのは簡単だな」
「そこは昔から得意です」
俺は身体強化を解き、木剣を庇へ戻した。土の上には、今朝つけた足跡がいくつも重なっている。
いつもの石の上が空になっているのを確かめ、鞄を肩へ掛けた。そろそろエルザたちとギルドで合流する時間だ。
「じゃあ、また来ます」
「おう」
庇の下でドランが次の木剣の柄を調べ始める。俺も板垣をくぐり、職人区の通りへ出た。
◆
ギルドの前でエルザとヴェラに合流すると、二人は依頼板ではなく、建物の横にある小さな掲示を眺めていた。
紙に書かれているのは、街道の道標と傷んだ路肩の補修予定、それに工事中に通れなくなる荷車道の案内だった。ヴェラが端の文字を指で追っている。
「お待たせしました。何か良さそうな依頼が?」
「いえ、今度はこっちの道が通れなくなるそうです」
ヴェラが紙を示す。
「それじゃあ、前に仕事で通った道は?」
「そちらは大丈夫です。ただ、荷車なら少し遠回りになるみたいですね」
「遠回りする側は大変でしょうね」
「そうですね。私たちも、馬車の護衛を受ける時は確認した方がよさそうです」
エルザは鞄から手帳を取り出し、通行止めの日付を書き留めてからしまった。今日はまだ依頼を受けるとも決めていないのに、すでに仕事の話になっている。
「ところでノワールさん、稽古はどうでした?」
「今日は一度だけ、剣を戻しながら次の位置へ動けたんです」
「昨日の見学の成果ですね」
「そうだといいんですけど」
「でも、今朝はちゃんとできたんですよね?」
「一回だけですけどね、そこは喜んでおこうと思います」
ギルドの中へ入ると、いつものように依頼板の前には人が集まっていた。入口に近い長机では、受付係が札を数えている。俺たちはまず、今週受けられそうな仕事を探すつもりだった。
板の端が空くのを待って、三人で依頼札を見ていく。荷運びや店の手伝いが何枚かあり、エルザは気になる依頼の題名を手帳へ控えた。俺が次の札へ目を移したところで、ミラに呼び止められた。
「あ! ノワールさんたち、ちょうどよかったです」
「何でしょう」
「先日の合同調査のことで、地図の担当が一つ聞きたいことがあるそうなんです。少しお時間をいただけますか?」
エルザと顔を見合わせる。
「急いでいるわけではありませんから。俺たちで答えられることなら」
「ありがとうございます。まだ測量へ行くことが決まったわけではないんですが、報告書と図を照らしているところでして」
「なるほど。あの先のことですね」
「はい。見た場所と、まだ入っていない場所を間違えないようにしたいそうです」
ミラに案内され、受付の奥にある小さな卓へ向かった。
◆
卓の上には、以前見せてもらった第一層の地図と、別の紙に描かれた細い線が並んでいた。
地図係の男性が椅子を引いて立ち上がる。前に一緒に分岐を測り、その後も俺たちの手帳と図面を照らし合わせた人だ。
「またお呼びしてすみません。ラウルさんたちからも報告を受けているんですが、こちらの線について確かめたくて」
「私の手帳も出しましょうか?」
エルザが鞄に手を掛けると、男性は頷いた。
「助かります。ここなんです」
男性が指したのは、岩室の左側から上った通路だった。上から岩室を見下ろした位置には小さな丸があり、その先の右曲がりから、下り始めたところまで線が続いている。
その先には、薄い補助線が引かれていた。岩室正面の割れ目へ近づいているようにも見えるが、線の脇には小さく「仮」と書かれている。
「こちらは仮に引いた線なんですが、この下りが岩室正面の割れ目の奥へ繋がる可能性もあるのかと思いまして……」
「そこは、まだ分かりません」
エルザの返事が思ったより早かった。
男性が顔を上げる。
「下り始めるところは見ました。でも、先へ進んでいないので、その先がどちらへ曲がるかも分からないんです」
「なるほど。図の上では近く見えても、繋がっているとは限らないと」
「はい。繋がっているなら便利なんですけど」
エルザは手帳を開き、下り始めたところに付けた短い印を示した。その先の白い部分を指で押さえる。
「私が描けるのは、ここまでです」
男性が紙を引き寄せた。
「分かりました。仮の線には取り消しの印を入れて、確認できたところまでにしておきます」
俺も横から図を覗いた。紙の上ではほんの指先ほどの間しかないが、実際は暗い通路の先だ。どんな床が続くのか、俺たちは見てもいない。
「それと、ここはどちら側から確認されたんでしょう」
男性が丸印のそばを指した。
「最初は上からです。でも、足元の端が危ないと分かったのは、下に残っていた人たちが灯りを当ててくれたからです」
「上からは見えなかった?」
「普通の床に見えました」
ヴェラがエルザの隣へ寄り、地図の上に手をかざした。
「通った位置は、こちらです。端へ寄らなければ盾を持って歩けました。でも、私たちは荷物が軽かったので」
「荷物が増えると、同じ場所を通れるとは限らない?」
「はい。途中には、盾や荷袋を持ったままではすれ違いにくい場所もありました」
男性が書き留める。エルザの手帳は以前から細かい記録だと思っていたが、今日は小さく描かれた横線がずいぶん頼もしく見えた。
「助かりました。おかげで次にどこを見てくるべきか分かりました」
「測りに行く日が決まったんですか?」
ヴェラが尋ねる。
「いいえ、まだです。別の場所の仕事もありますから。まずは確認する箇所を分けています」
「では、今ある図が正式な地図になるわけではないんですね」
「そのとおりです。危険だと分かった場所は先に共有しますが、通れる道として載せるのは実際に調べてからです」
地図係は筆を取り、補助線へ短い斜線を重ねた。下り始めの印は残し、その先の余白へ「未踏」と書き添える。
「見せていただいて、ありがとうございました」
エルザが手帳を閉じる。
「こちらこそ。描いた人が目の前にいると、つい聞きすぎてしまいますね」
「私は、こういう話は好きですよ」
エルザが言い、少しだけ身を乗り出した。
「でも、あの下りが正面の割れ目に続いていたら、面白そうですね」
「思うだけなら、私もです」
男性が笑った。
こういうところは、気が合うらしい。
◆
卓を離れると、廊下の方から聞き覚えのある声がした。
「ノワールたちも来ていたのか」
ラウルだった。今日は鎧を着けず、肩に小さな荷袋を掛けている。俺たちの後ろにある地図の卓を見てから、こちらへ歩いてきた。
「こんにちは。そちらも報告の続きですか?」
「ああ。前の調査の件で、少し聞かれてな」
ラウルはそう言ってから、ヴェラへ目を向けた。
「マルタから、盾を見せ合ったと聞いたよ。楽しかったそうだ」
「はい。私も、いろいろ教えていただきました」
「次も会いたいと言っていたぞ」
「本当ですか?」
ヴェラの声が少し高くなる。
「もちろん。ただ、今週は別の仕事があるらしい。会ったら本人に聞いてくれ」
「はい」
ヴェラは素直に頷いた。ラウルがわざわざ伝えに来たというより、顔を合わせたから話したのだろう。俺たちもまだ依頼板を見る途中だったので、軽く会釈して別れようとした。
「それと、もう一つ」
ラウルが足を止める。
「もし次の合同調査が決まったら、また声を掛けてもいいか?」
「前の調査の続きですか?」
「続きと言っても、前の仕事はもう終わっている。もしやるなら、別に人数も目的も決め直さないといけない」
前回は、ラウルの五人とフィロスたち二人、それに俺たち三人だった。あの人数が毎回集まれるとは限らない。フィロスにしても、同じ道をもう一度歩く気があるかどうか分からない。
「もう依頼が出ているんですか?」
「いや。ギルドと話をする前に、以前同行した人たちの都合も知っておきたくてな。あの岩室より奥へ入るなら、前のように日帰りで戻れるとは限らない」
「泊まりになることもある、ということですか」
「そういう行程も考えられる。だが、まだ行き先も決めていない段階だ。今ここで返事をくれとは言わないよ」
ラウルはそこで少し笑った。
「前は、先を見たくなっても途中で帰った。次はなおさら、帰る道のことを先に決めておきたい」
エルザが手帳を鞄へしまう。今度は地図ではなく、ラウル自身を見ていた。
「私は、もう一度行ってみたいです」
「エルザさん?」
「はい。あの先がどうなっているのか、気になりますから。でも、前回は帰りの時間を考えて引き返しました。次も、引き返す条件は先に決めておきたいです」
「もちろんだ」
「それなら、行程が分かってから三人で相談したいです」
ラウルが頷く。
「分かった。ノワールは?」
「俺も興味はあります。ただ、何をしに行くか分からないうちには、引き受けられませんね」
「もっともだ」
「それに、もし本当に泊まりなら、荷物が増えるんですよね」
横からヴェラが口を開いた。
「前回の上り道は、盾を持ったままでも通れました。でも、背中の荷物が大きいと、身体を向け直せない場所がありそうです」
「そうだな。あの場所をそのまま使えるとは限らない」
「それに、私は右脚に合う脚具を使っています。普通に歩く分には問題ありませんが、長い行程なら途中で休む場所も知りたいです」
ヴェラがこちらへ目を向けたので、小さく頷いた。
「助かるよ。そういうことを先に聞きたかったんだ」
ラウルが言った。
「なら、まだ返事は保留ということでいいか?」
「はい。三人で決めてから、お返事します」
ヴェラの言葉に、エルザが頷く。俺もそれで異論はなかった。
「分かった。何か決まったら、ミラさんを通して伝えるよ」
「ありがとうございます。こちらも、予定を見ておきます」
◆
ギルドを出たところで、エルザが手帳を開いた。
「さて、今日は依頼を探しに来たんでしたね」
「すっかり忘れてました」
「私は覚えていましたよ」
ヴェラが言う。
「それなら、もう一度戻ります?」
「今から決めても、午後の仕事になりそうです。今日は札を見たところまででいいんじゃないでしょうか」
エルザは手帳を閉じず、朝から書き留めた依頼の題名を指で追った。
「明日でも受けられそうなものはあります。もちろん、残っていれば、ですが」
「じゃあ、明日の朝に見直しましょう」
「はい」
昼時の通りには、焼いた肉と煮込みの匂いが漂っていた。いつもの食堂へ向かうにはまだ少し早いが、朝から木剣を振った腹には十分魅力的だ。
「何を食べます?」
俺が尋ねると、エルザは通りの向こうにある店を指した。
「あそこのお店、今日から新しい焼き菓子が出るそうです」
「ご飯の話をしていたんですけど」
「お昼を食べた後でも寄れますよ」
「もう決まってるんですね」
「まだです。ノワールさんたちが嫌なら、ほかにします」
ヴェラが俺より先に頷いた。
「私は見てみたいです」
「じゃあ、決まりですね」
「早いなあ」
エルザが笑い、髪際のリンが小さく鳴いた。
食堂の戸を開けると、煮込みの匂いがいっそう濃くなった。先に中へ入ったヴェラが奥の空いた卓を見つけ、こちらへ手を振った。




