第142話 夕方の稽古場
夕方の職人区は、午前中とは少し音が違った。
昼間は絶えず聞こえていた金槌の音がまばらになり、代わりに戸を閉める音や、人が行き交う声が増えている。荷車を引いた男とすれ違ってから、いつもの板垣をくぐった。
ドランの稽古場へこの時間に来るのは初めてだ。
先日、ヴェラとマルタが盾を見せ合った時に、夕方はほかの教え子が来ると聞いた。見学してもいいと言われたので、数日置いて顔を出してみたのだが、入る前から木剣の当たる音が聞こえていた。
「来たのか」
庇の下にいたドランがこちらを見た。
「こんにちは。お邪魔します」
「今日は振らないのか」
「ええ。約束どおり、見ているだけで」
「なら、そこに荷物を置け。通り道は空けとけよ」
「はい」
言われた場所は、稽古場の端にある低い腰掛けの脇だった。俺が鞄を下ろす間にも、土の上では三人が木剣を持って動いている。
一人は背の高い青年。もう一人は短く髪を結んだ女性で、残る男性は二人より年上に見えた。三人とも鎧は着ておらず、動きやすそうな普段着だ。
「見ない顔だね」
女性がこちらを見て言った。
「午前中に教わっている者です。今日は見学に来ました」
「ああ、午前の人か」
「ご存じでした?」
「先生が朝から木剣を直してることがあるから。使う人がいるんだろうなって」
「先生はやめろ」
庇から声が飛んだ。
「じゃあ師範?」
「それもやめろ。さっさと続きだ」
女性は慣れた様子で笑い、木剣を構え直した。
どうやら俺がいない間も、ここはいつもどおりらしい。
◆
「そこまでだ。一回戻れ」
ドランの声で三人が足を止めた。二人は木剣を下ろし、背の高い青年だけが前に出る。
青年の正面に立ったドランは、木剣を軽く斜めに構えた。
「こっちの肩へ当てに来い」
「はい」
青年が踏み込み、木剣を振った。
剣先が届くより早く、ドランが身体を少し退く。青年の剣は空を切ったが、そのままさらに一歩前へ出て、どうにか当てようと腕を伸ばした。
「終わり」
「まだ届きます」
「どこへだ」
ドランはすでに横へ移っている。青年は足を止め、剣を戻すのに少し手間取った。
あれは覚えがある。
当てたいところが前にあると、つい足まで追いかけてしまう。俺も何度、同じようなことをしただろうか。
「次」
今度は女性が立った。青年より歩幅が小さく、剣も短い。踏み込んで一度振ったところまではよかったが、ドランが剣を横へ引くと、すぐに自分の剣まで引いてしまった。
「まだ当たるぞ」
「今、外しましたよね」
「外したのは俺の方だ。お前の剣は届いてた」
「ああ……そういうことか」
「次は慌てて引くな」
「はい」
もう一度構え直した女性の動きは、さっきより少し遅くなった。今度は剣を引かずに止めようとして、足まで止まってしまう。
「遅い」
「今、引くなって言ったじゃないですか」
「引くなとは言った。固まれとは言ってねえ」
「難しいなあ」
女性が木剣を下ろして笑うと、隣で待っていた年上の男性もつられて小さく笑った。さっきのやり取りは、普段ドランが俺に言っていることと、たいして変わらない。
違うのは、俺より皆の方が遠慮なく言い返しているところだろうか。たぶん。
年上の男性が次に出ると、ドランは同じ場所に立ったまま構えを変えた。
「お前は一度でいい。届くところまで来い」
「分かった」
男性は急がず踏み込み、木剣を前へ出す。ドランが半歩退いても、剣を無理に追わせない。その代わり、届くところまで間合いを詰めるのに時間がかかった。
「もうちょい前だ」
ドランが自分の足元を木剣で示す。
「そこから振っても足りん」
「さっきのやつみたいに出過ぎたくねえんだよ」
「なら、足りるところまで出ろ。出過ぎるなってのと、前へ出るなってのは違う」
男性は一度足を戻し、今度はさっきより半歩だけ近くから始めた。
同じように肩を狙わせても、三人とも直されるところが違う。俺が教わっている時には、ドランが言うことの半分くらいは足のことのような気がしていたが、今は剣を戻すタイミングを注意される人もいれば、もっと近づけと言われる人もいる。
ドランは三人を同じ形に揃えようとしているわけではないらしい。
◆
短い休憩になり、三人は板垣の近くへ移った。水筒の蓋を開く音が重なる。
「本当に見てるだけなんですね」
背の高い青年が言った。
「そのつもりで来ましたから。普段、ほかの人が稽古しているところを見る機会がなくて」
「俺は、見られるとちょっとやりにくいです」
「すみません」
「いや、構わないです。上手く出来ていないのは恥ずかしいですけど」
青年が首の後ろを掻く。
「さっき、最後の一歩が大きかったですね」
俺が言うと、青年は少し驚いた顔をした。
「分かりました?」
「自分も、よくああなるので」
「じゃあ、どう直してるんですか?」
「……今も直しているところです」
青年は少し笑った。
「そこまで同じですか」
横にいた女性も笑う。
「午前中に来てるから、もう上手い人なのかと思った」
「残念ながら」
「こいつは長く来てるだけだ」
いつの間にか近くまで来ていたドランが口を挟んだ。
「先生、ひどくありません?」
「先生じゃねえつってんだろ」
女性がまた笑った。
年上の男性は水筒をしまいながら、俺へ声を掛けた。
「あんた、冒険者か?」
「はい。ダンジョンへも行っています」
「それで朝から来られるのか。俺らは仕事が終わってからだ」
「皆さん、普段は別のお仕事を?」
「俺は店の手伝い。こっちは荷運びをしてる」
男性が女性を顎で示すと、彼女が頷いた。
「帰りが遅くなることもあるから、少しは自分で身を守れるようにね。剣なんて、普段は持たないんだけど」
「俺は、いざという時に走れる方が大事だと思いますけど」
「それ、ドランさんにも言われた」
女性は肩をすくめた。
「剣を抜く前に逃げろ、って」
「言ったな」
ドランは否定せず、水筒の栓を締めた。
稽古に来る理由まで、それぞれ違うらしい。ダンジョンで剣を振る俺と、町で仕事をする彼らが、同じ土の上で同じ木剣を持っている。妙な感じもするが、どちらも怪我をしないに越したことはない。
「よし、休みは終わりだ」
ドランが立ち上がり、青年へ顎を向ける。
「さっきの続きをやるぞ」
「はい!」
◆
二度目は、正面から当てに行くのではなく、ドランの木剣を避けて横へ出る動きだった。
最初に動いた女性は、ドランの剣が振られる前から横へ行きかけた。
「待て」
「はい?」
「俺がまだ動いてねえだろ」
「動きそうだったから」
「じゃあ、動いてから行け」
「分かりました」
ドランが少しだけ剣を動かすと、女性は横へ出た。その直後、ドランの剣先が別の方向へ向いた。
「あっ」
女性は足を止めて向きを変えようとしたが、踏み出した足に引かれて身体が傾いた。
「戻れ」
ドランは剣を当てずに下ろした。
次の青年は、最初から構えを低くして待った。ドランが剣先を右へ動かすと左へ足を出したが、一歩が大きすぎて次に剣を振る姿勢へ戻れなくなった。
「さっきと同じだな」
「……はい」
その声には、俺も頷きたくなった。
年上の男性はドランの剣先が動いてから足を出した。身体の向きを変える動きは、ほかの二人より落ち着いて見えた。だが、相手へ届く前に動きが止まった。
「届かねえぞ」
「知ってる」
「知ってるなら、もう一歩だ」
「それが難しいんだよ」
深く頷いてしまう。ドランが青年の立っていた場所へ戻り、剣先を一度下げた。
「おい、見学」
「はい?」
「今の三人、どう見えた」
急に話を振られた。
「ええと……最初の方は動き出すのが早くて、二人目は足が大きくて、最後の方は慎重でした」
「そうだな。で、お前は?」
「俺ですか」
「お前ならどう動く」
さっきの三人の足元を思い出す。先に動けば剣が追ってくる。大きく動けば戻れない。待ちすぎると届かない。
「たぶん、二人目と同じことをすると思います」
「たぶんじゃなくて、普段からやってるな」
「……そうですね」
「見てるだけだと、よく分かるだろ」
「はい。自分がやっている時よりは」
「だったら、明日は自分の足も見てみろ」
「前が見えなくなりますけど」
ドランは首を振ると、大きなため息をついた。
少し離れたところで女性が笑った。
◆
稽古が終わる頃には、板垣の向こうに長い影が伸びていた。
教え子たちは木剣を庇へ戻し、帰り支度をしながらそれぞれ銅貨をドランへ渡していた。青年は最後まで足を気にしていたが、女性に呼ばれると慌てて荷物を持ち上げた。
「じゃあ、また」
「お疲れさまでした」
俺が答えると、三人はそれぞれ別の方向へ歩き始める。帰り道まで一緒というわけではないようだ。
ドランは小銭を革袋にしまい、使った木剣のうち一本を手に取った。柄の革を押さえ、具合を確かめている。
「今日はどうだった」
「思っていたより、いろいろ違いました。同じことを教わっているのに」
「そりゃ人が違うからな」
「俺も、ああいうふうに見えてるんでしょうね」
「もっとひでえ日もある」
「早く直してくれませんか」
「甘えんな。悪いところは教えてるだろ」
「……はい」
「そこから先は、お前がやるんだよ」
「それが難しいんですよね」
「その言葉は聞き飽きてる」
木剣を戻すと、ドランは庇の灯りへ手を伸ばした。もう片づけに入るらしい。俺も邪魔にならないうちに鞄を肩へ掛ける。
「お邪魔しました。また午前中に来ます」
「おう」
板垣を出る前に振り返ると、青年が何度も大きく踏み込んでいた辺りの土が、深く踏み荒らされていた。
俺が午前中に付けている跡も、あまり変わらないのかもしれない。
◆
〈鈍色亭〉へ戻ると、ちょうど食堂に明かりが灯されたところだった。奥の席ではエルザとヴェラが食事を待っていて、リンが二人の間を行ったり来たりしている。
「お帰りなさい。どうでした?」
エルザが声を掛けてきた。
「三人ほど来ていました。皆さん、仕事を終えてから稽古するそうです」
「そうなんですね。ノワールさんは、見学だけで帰ってきたんですか?」
「ええ。今日は本当に見てただけです」
「それなのに、ずいぶん疲れた顔をしていますね」
「……師匠に、途中で質問されまして」
ヴェラが椅子を引いてくれた。
「質問ですか?」
「どう動くかって。見ている時なら答えられるんですけど、自分の番になると難しいんですよね」
「分かります」
ヴェラの返事が早かった。
隣のエルザが少し笑う。俺は椅子へ腰掛け、出された水に手を伸ばした。
今日は剣を一度も振っていない。それでも、明日の稽古を考えると、あまり休めそうな気がしなかった。
「ノワールさん」
「はい?」
「お食事が来ますよ」
顔を上げると、女将が湯気の上がる皿を三つ運んできていた。慌てて水の杯を端へ寄せる。
「ありがとうございます。今日はよく食べられそうです」
「見ていただけなのに?」
エルザが笑う。言い返そうとしたところで、女将が俺の前に皿を置いた。
「熱いうちに食べな」
「はい。そうします」
湯気を避けながら匙を取る。稽古場で何を見たかは、食べながら話そう。




