第137話 盾を置く場所
広い空間の方で、鎧の動く音がした。
「エルザ、先に下がってくれ。ノワールはヴェラの後ろを見てやってくれ」
ラウルがそう言いながら後ずさる。最後尾にいた彼が先に岩の張り出しを抜け、その向こうで足を止めた。
「ヴェラ、急がなくていい。前を向いたままで下がれ」
「はい!」
ヴェラの盾へ、マッドクローの爪が当たった。
がり、と金具を引っ掻く音。低い方の一体が鼻先を押しつけ、盾の縁からこちらを覗こうとしている。ヴェラは押し返さず、盾を身体の正面へ置いたまま足を引いた。
その背中を確かめながら、俺も一歩下がる。ここで剣を振り上げれば、壁にもヴェラにも当たりかねない。抜いた剣先を低く向け、近づいてくる前脚だけを見た。
「上の一体は?」
エルザの松明が、壁の出っ張りを照らす。
「まだ上にいます。こちらを見ています!」
「分かった。エルザ、灯りを切らさないでくれ」
「はい!」
エルザがラウルのところまで下がり、俺もヴェラを見ながら後へ続いた。
右の窪みを避け、左の固い床を後ずさる。来た時は気にならなかった幅が、今はやけに狭い。ヴェラの盾に爪が当たるたび、足を速めそうになる。
「ノワールさん、張り出しまであと少しです!」
広い方からエルザの声が届いた。
「分かりました! ヴェラさん、次は壁が近くなります」
「はい。覚えています」
ヴェラは前を向いたまま答えた。
上の方で、岩を引っ掻く音がした。
視線を上げると、灰色の影が壁沿いに動いている。もう一体が高い位置の石に爪を掛け、こちらの頭上へ回ろうとしていた。
「上、動いてます!」
「見えている。ノワールはそのまま下がれ!」
張り出しで鞘が岩を擦った。剣の柄を身体へ寄せ、横向きになって抜ける。
広い空間へ出た途端、灯りが横から届いた。
エルザが壁際へ松明を向けている。ラウルは通路の出口から少し離れた場所に立ち、槍を構えた。その奥には、入口で話した丸盾の女性がいた。
「こっちは受けられるよ!」
女性が声を上げる。
「はい! ヴェラさん、あと少しです!」
俺は出口へ身体を向け直した。
ヴェラの盾が、岩の張り出しの向こうから見えてくる。低いマッドクローはまだその正面にいた。
上の一体が、張り出しの上の岩棚から跳んだ。ヴェラの頭上を越え、四本の脚を広場へ向けて伸ばす。
「上から!」
「マルタ、そっちだ!」
ラウルの声に、マルタが迷わず一歩出た。
飛び込んできたマッドクローが、盾の上の方へ爪を立てる。マルタは受けた腕を少し下げ、身体を斜めへ向けた。獣の前脚が盾の縁を滑り、床へ落ちる。
そこへラウルの槍が伸びた。
刃が肩口を捉える。マッドクローは短く鳴き、横へ跳ぼうとしたが、マルタの盾が行く手に入った。ラウルは槍を引き、もう一度、低く突く。
マッドクローの身体が石の上に倒れ、脚を二度ばたつかせた。
「一体、止めた。近づくな!」
ラウルは声を張ると、すぐに通路へ向き直った。
ラウルたちが上の一体を止める間に、ヴェラも張り出しを抜け、広場側の出口まで下がってきた。盾は通路の奥へ向けたままだ。
「ヴェラ、そこで受けられるか?」
「はい。ここなら盾を開けます」
「よし。そこを守ってくれ。ノワール、ヴェラの横へ。エルザは二人の手元を照らしてくれ」
「分かりました」
俺はヴェラの左斜め後ろへ入り、剣を握り直した。
今まで三人で戦う時は、互いに声を掛け、少し動いては場所を直していた。今日は立つ場所が先に決まっている。俺はヴェラの盾の外だけ見ればいい。
低いマッドクローが、岩の間から姿を現した。
前脚を開き、床を引っ掻く。こちらを見てから、首を低くする。
ヴェラが丸盾を構えた。俺も剣先を下げる。
「正面はヴェラ。ノワール、左へ抜けたら頼む」
ラウルの声が背中から届いた。
マッドクローが床を蹴った。
低い姿勢のまま一気に距離を詰めてくる。盾へぶつかると思ったが、直前で頭を左へ向けた。ヴェラと岩壁の間を抜けようとしている。
「左へ抜けます!」
エルザが松明を下げ、魔物の足元を照らした。
「ヴェラ、そこからは任せる!」
ラウルの声が届いた。
ヴェラは前へ追わなかった。
半歩だけ後ろへ下がり、盾を左へ向ける。岩壁との間にあった隙間が塞がった。
灰色の頭が盾の縁にぶつかり、前脚が床を滑る。勢いを止められたマッドクローが横向きになり、肩の後ろが見えた。
「ノワール様、今です!」
俺はヴェラの左脇から剣先を出した。大きく振らず、見えた肩の後ろへ短く突く。
刃が前脚の付け根へ入り、マッドクローが横へよろけた。まだ動ける。後ろ脚が踏ん張ろうとしている。
ヴェラの短槍が、その首元へ伸びた。
穂先が入ると、獣は身体を一度大きく震わせた。それから脚の力が抜け、床に横たわった。
「そのまま、離れてくれ!」
ラウルの声に合わせて俺たちは下がった。ヴェラも槍を引き、盾を前へ残して距離を取る。
倒れた二体は動かない。けれど、誰もすぐには近づかなかった。
「フィロス、後ろはどうだ!」
「変わりない!」
広場の奥から声が返ってきた。
「エルザ、上を見てくれ。ノワールは奥の通路。ヴェラは足元を」
「はい!」
松明の光が壁を上がる。高いところに動く影はない。
曲がり角の向こうへ意識を向ける。さっきまでの反復は消えていた。通路の床と暗がりも目で確かめた。
「今のところ、奥の通路にほかの生き物の気配は感じません。ただ、もっと先のことまでは分かりません」
「それでいい。まず、怪我を見よう」
◆
剣についた汚れを拭っていると、ヴェラが丸盾の内側を確かめていた。革帯には破れがなく、腕にも大きな傷は見えない。
「右脚は大丈夫ですか?」
「はい。踏ん張りすぎることもありませんでした」
俺が頷くと、ヴェラは盾を少し傾けて縁を見せた。新しい爪痕が一本増えている。
「こちらも、あとで手入れをすれば問題ありません」
「それなら良かったです」
エルザは松明を持った手の甲を眺め、反対の手で袖口を払った。小さな煤がついていただけで、怪我はないらしい。
すぐそばでは、ラウルが槍を、マルタが自分の盾を確かめていた。受けた腕を回し、何度か指を開いたり閉じたりしている。
「マルタ、腕は?」
「少しだけ。もう引いてきたよ」
「痛みが残るなら言ってくれ」
「分かってる」
マルタは盾を下ろすと、ヴェラへ目を向けた。
「さっきの、いい受け方だったね。あそこで前へ追ったら、後ろが空くところだった」
「ありがとうございます。私も、あそこなら少し下がれると思ったので」
「うん。私の盾じゃ、あの位置からは届かなかった」
ヴェラは少し驚いたように瞬き、それから小さく笑った。
ラウルが近づき、俺たちを見渡した。
「それにしても、三人とも動きが揃っていたな」
「声を掛けてもらえたので、迷わずに済みました」
「そうか。なら良かった」
「マルタさんも、すごかったですよ。上から来たのを、ほとんど動かずに受けていましたね」
ヴェラが言うと、マルタは笑って盾を軽く持ち直した。
「ほとんど動かず、って。ちゃんと一歩出たんだけどね」
「すみません。速くて見えませんでした」
「それは褒め言葉として受け取っておくよ」
エルザが隣で笑った。
◆
後方にいた仲間たちも、少しずつこちらへ集まってきた。誰かが壁際で松明を立て直すと、重なっていた影がまた伸びる。
フィロスは倒れた二体を見て、片方の前脚を靴先で示した。
「上にいた方が先に跳んだのか」
「ええ。壁を使って、先に広場へ来ました」
「ふん。マッドクローなら、あの高さは使うだろうな」
いかにも当然と言いたげな顔だ。俺たちが前に二体と戦った時も、片方が頭上を越えてきた。今回は後ろに盾役がいたので助かった。
「そういえば、ノワールがフィロスみたいに先に気づいたぞ」
ラウルがフィロスへ声を掛けた。
「何?」
「角の向こうに魔物がいるとな。姿が見える前に教えてくれた」
「ほう」
フィロスがこちらを見た。
「お前にも気配が分かるのか、石ころ」
「ええ。生き物がいるのはだいたい分かります。ただ、何の魔物かとか何体いるかまでは、まだはっきりしなくて」
「種類も数も分からんのか」
「そうですね」
「ふん」
フィロスは少し顎を上げ、刀の柄へ片手を置いた。
「俺なら、そこまで見落とさん」
「それは助かりますね。今度は一緒に前を見てもらえますか?」
「当然だ。最初から俺が前にいれば、もっと早く分かっただろうな」
「フィロス様。後ろを任されていたのは、ご自分で引き受けたからですよ」
ミレイが横から言った。
「分かっている。だから後ろを見ていただろう」
「ええ。助かりました」
ミレイは穏やかに答えた。
フィロスはそれ以上絡んでこなかった。どうやら、満足したらしい。
「で、ラウル。先へ行くのか?」
「今すぐは決めない。怪我と退路を確かめてからだ」
ラウルはエルザの手帳へ目を向けた。
「曲がり角の先は、まだ誰も歩いていないんだったな?」
「はい。そこから先の床は、まだ記録できていません」
「なら、足元を見る人間を先に決めよう。奥へ踏み込むかは、それからだ」
エルザが手帳を開く。ヴェラは盾を腕へ通し直し、俺は曲がり角の暗がりへ視線を向けた。
広い空間では、仲間たちが装備を整え、あちこちで金具が小さく鳴っていた。




