第136話 十人の足音
朝食のパンを食べ終わったところで、荷袋の口をもう一度引いた。
するりと革紐が動き、きちんと閉まる。
「今日は大丈夫そうですね」
向かいのエルザが笑った。
「昨日、ヴェラさんに直していただきましたから」
「ヴェラさんに感謝しましょう」
昨日から言われっぱなしだ。不器用なのは仕方ないじゃないか。
「……開け閉めの練習は、俺がしました」
無理やり反論をしてみたが、内容が非常に情けなかった。
「それはえらいですね」
軽く流された。
ヴェラは杯を置くと、足元へ伸ばしていた右脚を軽く曲げた。脚具の革帯を指で確かめ、椅子から立ち上がる。
「私も準備できています。昨日のうちに、締めるところは見直しておきました」
「今日は歩く人数が多いですからね」
俺が言うと、ヴェラは頷いた。
「はい。ほかの盾役の方が、どんな動きをされるのか楽しみです」
楽しみなことがあるのは俺も同じだった。昨日のラウルの話を思い出すと、知らない道を見に行く時とはまた違った気分になる。今まで一緒に歩いたことのない人たちが、どんなふうに動くのか。
エルザが手帳を鞄へ入れた。直してもらった表紙の角は、今朝もきれいに揃っている。
「ノワールさん。ちゃんと水は入れました?」
「入れましたよ」
「食べるものは?」
「入れてますよ。……子ども扱いしてません?」
「どうでしょう?」
リンがエルザの髪際で、ちりん、と鳴いた。
◆
〈灰石の口〉の入口には、すでに大勢が集まっていた。
昨日のラウルに加え、見覚えのない冒険者が四人。少し離れたところには、フィロスとミレイが並んでいる。俺たち三人を合わせると、十人になる。
以前フィロスと一緒にいた、大柄な男性と、もう一人の若い男の姿はなかった。
「おはよう。時間どおりだな」
ラウルが手を上げる。
「おはようございます」
ミレイもこちらに気づき、軽く頭を下げた。
「おはようございます。皆さん、お揃いですね」
「そういえば、いつものお二人はいないんですね」
「ガレンとトビアスですね。二人は別の依頼に出ています。今日はフィロス様と私だけなんです」
「そうだったんですね」
「何だ、石ころ。俺とミレイだけでは不満か?」
フィロスがこちらを見た。
「いえ。フィロスさんがいれば大丈夫でしょう」
「当然だ」
ミレイが少し笑った。
「では、先に入口の登録を済ませよう」
ラウルが声を掛け、俺たちはガイルのところへ向かった。
ガイルの前には木札が並んでいた。俺たちはいつものように一枚ずつ受け取るが、今日は後ろにまだ人がいる。
「今日はまた、大所帯だな」
「第一層の分岐を見てくる。昼を過ぎたら戻るつもりだ」
ラウルが人数と行き先を伝える。ガイルは帳面へ印をつけてから、俺の顔を見た。
「お前らも一緒か」
「ええ。今日は俺たちの方が、少しだけ道に詳しいんです」
「そうかい。じゃあ、ちゃんと教えてやれよ」
「責任重大ですから頑張ります」
ガイルは次の木札に手を伸ばした。
入口の脇へ移ると、ラウルが俺たちを招いた。横には丸盾を持つ女性が立っている。盾はヴェラのものより少し大きく、縁の金具には細かな傷がついていた。
「狭いところまでは、俺と〈コンパス〉が前に出る。後ろは少し間を空けて続いてくれ。通路が広がったら、そこで一度揃える」
ラウルはフィロスへ顔を向けた。
「フィロス、後方の警戒は任せた。前はこっちで見る」
「ふん。言われるまでもない」
「私は後ろで盾を出せるようにしておくわ」
隣の女性が丸盾を軽く持ち上げた。
ヴェラの視線が自然とその丸盾へ向かった。向こうも気づいたらしく、腕を一度通し直してみせる。
「その盾、軽そうでいいね」
「はい。右へ動く時に使いやすいようにしています」
「なるほど。あとで少し見せてよ」
「ええ、ぜひ」
ヴェラの声が明るい。俺が口を挟む前に、盾の話が始まりそうだった。
「二人とも、続きは帰ってからにしてくれ」
ラウルが笑う。
「そうですね。行きましょう」
フィロスはその後ろで腕を組んでいた。
「第一層の探索に十人とは、大げさなものだ」
ラウルが表情を引き締める。
「ダンジョンが変化して新しく出来た道だ、階層に関係なく未踏地帯には最大の警戒をすべきだ」
「分かっている」
ミレイは後ろの仲間と何か話していた。俺が石段へ向かうと、目が合った。
「よろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
フィロスは後ろの一団へ歩いていき、ミレイもその後に続いた。
◆
地下へ下りると、足音が増えた。
自分たち三人だけの時は、靴が砂を擦る音も、剣の鞘が揺れる音も聞き慣れている。今日は少し後ろから別の足音が重なり、誰かの金具が鳴るたび、つい振り向きたくなった。
「何というか、にぎやかですね」
エルザが小声で言う。
「はい。いつもと同じくらい静かには歩けませんね」
ヴェラが答えると、前のラウルが振り返った。
「何か気になるか?」
「いえ。人が多いと、音の聞こえ方が変わるなと思って」
「そうだな。止まる時は後ろにも声を掛ける。前だけ止めても、人は止まらないからな」
言い終える前に、ラウルは後方へ向けて片手を上げた。少し離れたところから、同じ合図が返ってくる。
第三道標を過ぎ、最初の分岐が見えてきた。
いつもなら壁の白墨印を確かめて左へ入るだけだ。今日はラウルが足を止め、全員が揃うのを待つ。右壁の張り出しの方へ視線が向きかけたが、そこには前に見た時と変わらない岩の影があるだけだった。
「左でいいんだな?」
「はい。二本目の分岐までは、こちらです」
俺が答えると、エルザが手帳の線を指した。
「この先、少し坂になります。壁が湿っているところもありますから」
「分かった。先頭はそのまま。後ろへも伝えてくれ」
ラウルが短く声を掛けると、少し遅れて後ろから返事があった。
坂を下り、二本目の分岐へ向かう。壁の湿りが強くなる辺りでラウルが一度立ち止まり、奥の灯りを確かめた。後ろの組も、少し間を残したまま止まる。十人もいるのに、通路で肩がぶつかるようなことはなかった。
「正面は前に入った方か?」
「ええ。水の溝があって、その先は右へ曲がっています。今日は左側ですよね」
「そうだ。左の先を見たい」
フィロスの方から、何か短い返事が飛んできた。言葉までは聞き取れない。
◆
左へ曲がると、靴底の下で砂が鳴り始めた。
「この先、平たい石があります」
ヴェラが先へ目を向けたまま告げる。
「動くかどうかは分かっていません。私たちは左の固い床を通っていました」
「見えてきた。あれだな」
エルザが松明を寄せると、砂の間から石の縁が斜めに覗いていた。
「一人ずつ通ろう。後ろはそのまま待ってくれ」
ラウルが後ろへ声を掛け、返事が届くのを確かめた。
俺たちは慣れた場所なので、いつもの足の置き方で石を避ける。ラウルも続き、平たい石の向こうで立ち止まった。
「次、どうぞ」
俺が後ろへ声を掛けると、一人目が固い床へ足を置いた。向こう側へ渡りきるのを待ち、次の人が同じ場所を通ってくる。
最後の方にいたフィロスが、こちらを見た。
「石ころ。お前が先に転んで見せれば、もっと分かりやすかっただろうに」
「良い案ですね。次はフィロスさんにお願いしても?」
「......」
睨まれた。軽口勝負なら負けない。ラウルから変な声が漏れた。
その先の広い空間へ出ると、ラウルは全員を集めた。何人もの松明が壁を照らし、前に来た時には暗かった岩の上の方まで見える。
「ずいぶん明るいですね」
「見えていなかった傷まで見えますね」
エルザはそう言って、壁の剥がれた部分へ目を向けた。明るくなった分、重なった影も増えている。少し横へ動くと、さっき見えた凹凸の輪郭があっさり消えた。
「灯りが多ければ全部見えるわけでもないですね」
ラウルがこちらへ顔を向ける。
「何か見つけたか?」
「いえ。灯りの影が重なって、奥の壁が見にくくなるところがあるなと」
「なるほど。後ろの灯りは一つ下げよう。前はそのままでいい」
言われた仲間が松明を下げると、さっきより足元の影が薄くなった。エルザが灯りを少し動かして確かめてから、手帳へ目を落とす。
「これなら見えます」
広い空間の奥へ、また道が続いている。ここから先は、三人だけで前回来た時に少し歩いた場所だ。
「ここからは、俺たちが先に行った方が良いですか?」
「そうだな。ヴェラ、前を頼めるか。俺は君たちの後ろにつく」
「はい」
ヴェラが丸盾を持ち直す。俺とエルザもすぐ後ろへ続いた。
岩壁が腰の高さで張り出す場所へ近づいたところで、ヴェラが歩調を落とす。
「ここです。盾を横に開くと、壁へ当たります」
「見れば分かるが、向こうからも同じ幅なのか?」
「はい。抜けるまで狭かったです」
「なら、後ろの盾は広い場所で待機。先に通す人数を減らそう」
「後ろは広場で待機! ここから前は四人で行く!」
ラウルが声を張ると、少し間を置いて返事が届いた。
「了解。広場で待つ!」
ヴェラが盾を身体へ寄せ、一歩ずつ進む。そのあとを俺が通り、エルザは松明を少し下げて岩の下側を照らした。
振り返ると、後ろの六人が広い空間で待っている。松明がいくつか揺れていた。さっきまで重なっていた足音は遠ざかり、近くにはヴェラと俺たち、それにラウルのものだけが聞こえた。
張り出しを越え、床の右寄りの窪みに差しかかる。
「右が下がっています。左側を使います」
ヴェラの声に従って歩き、俺も同じ場所へ足を置いた。エルザは窪みの縁へ松明を向けながら続く。その光で足元を確かめ、ラウルも窪みを避けて通ってきた。
「思ったより、横へ広がれないな」
「はい。ですから、前は三人で来ても盾の向きを変えるのに苦労しました」
「分かった。ここで無理に並ばない方がいい」
ラウルは身体を少し後ろへ向け、声を張った。
「前は曲がり角まで確認する。後ろはそのまま待機!」
すぐには返事がなかったが、少し遅れて声が届いた。
「待機している!」
声を張っても、岩が間に入るとずいぶん遠く聞こえる。
俺たちは緩やかな曲がり角の手前まで来た。前回、引き返した場所だ。
「ここから先は、まだ入ってません」
俺が言うと、ラウルが頷いた。
「そうか。後ろは待機のままだ。まずは角の手前から様子を見よう」
ヴェラが立ち位置を変えようとした、その時だった。
曲がり角の向こうに、何かいる。
仲間たちとは別の反復が伝わってくる。大まかな位置はつかめるが、壁の向こうでどう動いているのかまでは分からない。
「待ってください」
ヴェラの肩越しに声を掛けた。
「曲がり角の先に、生き物がいます」
「見えたのか?」
「いえ、姿は見えません。でも、いるのは分かります。これまで同じ感覚があった時は、必ず生き物がいました。魔物を先に見つけたことも何度かあります」
ラウルは俺の後ろにいるエルザへ目を向けた。エルザが頷く。
「ヴェラも、同じことを確認しているか?」
「はい。何度も助けられています」
「そうか。フィロスと似た感覚かもしれんな」
ノアも同じようなことを言っていた。
「数はどうだ?」
もう一度、曲がり角の向こうへ意識を向ける。ひとつに重なっているようにも、近くに別のものがいるようにも感じた。
「そこまでは分かりません。一体とは限らないです」
「分かった。複数いるつもりで動こう。前へは出るな」
ラウルはすぐに後ろへ向き直った。
「前方に未確認の生き物。広い場所まで戻す。後ろの組、場所を空けてくれ!」
「了解! 広場を空ける!」
少し遅れて返事が届く。後ろの灯りが、左右へ動き始めた。
「ヴェラ、後ろへ戻れるか」
「はい。ただ、ここで振り返ると盾が壁へ当たります。下がりながら戻ります」
「それでいい。ノワールも、前を見たまま下がってくれ」
「分かりました」
足を一つ引く。
岩の向こうから、かり、と乾いた音がした。
続けて、もう一度。
ヴェラが盾を身体の前へ戻そうとする。俺も剣の柄へ手を掛けた。
曲がり角の下に、灰色の前脚が現れた。
「マッドクローです!」
エルザの声が響く。
低い位置から、一体の頭が覗く。続けて、その頭より上の岩の出っ張りに、別の灰色の前脚が掛かった。もう一つの顔が、松明の光の中へ出てくる。
ラウルが槍を下ろした。
「二体いる! 前は下がれ。後ろの盾、広場で受ける準備を!」
「分かった! こっちは空けてある!」




