第135話 同じ道を行く
荷袋の口を引くと、革紐が途中で止まった。
「……あれ?」
もう一度引いてみる。昨日まで使っていた紐なら、この辺りで口が閉じていたはずだ。新しいものは滑りがよく、勢いをつけると結び目だけが袋の縁へ食い込んでしまう。
昨日買ったばかりなのに、もう使い方を間違えたらしい。
「ノワールさん、朝から何をしているんですか?」
食堂へ下りる前、廊下で会ったエルザが足を止めた。後ろから来たヴェラも、俺の手元を覗いている。
「荷袋の紐を替えたんですけど、なんだかうまく閉まらなくて」
「見せていただけますか」
ヴェラが荷袋を受け取り、口元を広げた。片側の穴から通った革紐が、もう片方の結び目に引っ掛かっている。端を少し戻してから順に通し直すと、あっさり口が閉じた。
「ああ、なるほど」
「引く方を逆にしていたみたいです」
「昨日はあんなに慎重に長さを選んだのに……」
エルザが笑いをこらえている。
「……長さと通し方は別の問題ですからね」
負け惜しみを言ってみる。
「学べてよかったですね」
返しの刃が鋭い。
ヴェラから返された荷袋を何度か開け閉めしてみる。今度は引っ掛からない。古い革紐よりも指に馴染み、口もきちんと締まった。
「ありがとうございます、ヴェラさん」
「こういうことはノワール様に教えられそうです」
「俺はみんなに教わりながら生きていますね」
しみじみとそう呟くと、二人は顔を見合わせて少し笑った。
「それで、今日はどうしましょうか」
エルザが尋ねる。
「ギルドへ行って、依頼を見たいですね。昨日は買い物だけでしたし」
「私は構いません」
「では、朝ご飯の後で」
話が決まったところで、階下から焼いたパンの匂いが漂ってきた。荷袋を肩へ掛け直し、俺たちは食堂へ向かった。
◆
ギルドの朝は、すでに賑わっていた。
依頼板の前には数人が並び、受付では旅支度をした冒険者が木札を差し出している。俺たちが空いた場所へ向かおうとすると、奥の卓から手を上げる男がいた。
「ノワール、少しいいか」
ラウルだった。
先日〈灰石の口〉の入口で会った時と同じ、飾り気のない鎧姿だ。長い槍は壁際に預け、卓には何枚かの紙を広げている。
「おはようございます。ラウルさん」
「おはよう。三人とも揃っているな。ちょうどよかった」
エルザとヴェラも挨拶をする。卓の反対側には、見慣れた銀色の髪があった。
「……石ころまで呼ぶ必要があるのか」
フィロスが片肘をついたままこちらを見る。
「また会いましたね」
「こちらの台詞だ」
「フィロスさんも、おはようございます」
エルザに挨拶されると、フィロスは軽く顎を引いた。
その隣には、書類を束ねていた女性が座っている。ミレイさんだ。俺たちに気づくと、筆を置いて顔を上げた。
「お久しぶりです。〈コンパス〉の皆さん」
「おはようございます、ミレイさん」
「皆さん、お変わりないようですね」
「おかげさまで。ミレイさんもお忙しそうですね」
「ええ。今日は少し、準備することが多くて」
ミレイさんは卓に並んだ書類へ目を向けた。
「ラウルさんから、お話は聞かれましたか?」
「いえ、まだです」
ラウルは空いている椅子を三つ引いてくれた。
「少し道の話を聞きたい。時間はあるか?」
今日の依頼は決まっていない。
「はい。今のところ大丈夫です」
「なら、座ってくれ」
◆
ラウルの広げた紙には、〈灰石の口〉第一層の道が描かれていた。
第三道標を越えた辺りから、線の様子が少し違う。第一分岐から左へ進んだ先には、俺たちが見つけた二本目の分岐も書き足されている。ただし、そこから先は短い線で止まっていた。
「この前、地図の担当にも聞いた。最近、あの辺りを何度か歩いているそうだな」
「ええ。正面にも左にも入ってみました」
「それで、左側の奥は?」
「広い場所から先へ少し進みました。道が狭くなって、右の床に窪みがあって、それから曲がり角です。先はまだ見ていません」
俺が説明すると、エルザが手帳を開いた。
「こちらが歩いた範囲です」
ラウルは手帳へ身を乗り出す。ミレイさんも横から目を通したが、フィロスは覗き込まなかった。
「ここの窪みは、どれくらい深い?」
「足を取られるほどではありません。ただ、横から踏み込むと危ないと思います。左側に足を置ける幅が残っていました」
ヴェラが答える。
「盾を開けるだけの余裕はあったか?」
「その手前の張り出しでは狭かったです。私の丸盾を身体へ寄せて通りました」
「そうか」
ラウルは聞きながら、手帳の絵と地図の線を交互に見た。ヴェラが自分から足を置いた位置を示すと、小さく頷く。
「なら、人数が多い時は一度に入れない方がよさそうだな」
「大人数で進む予定なんですか?」
「何組か一緒に行く。二本目の分岐の先を確認したいんだ。君たちの報告を見ると、以前の図面にない道がまだ続いている。普段使っている道とは別に、どこへつながっているのか確かめておきたい」
フィロスが鼻を鳴らす。
「本当に、わざわざ第一層の見物に行くのか」
「今後の攻略に使える道かどうかも、見てみないことには分からないだろう」
「……ふん」
ラウルは平然と続けた。
「ただ、地図だけでは足場までは分からない。そこで、実際に歩いた君たちにも声を掛けようと思った」
「俺たちに、ですか?」
「実際に歩いている人間がいるなら、その目を借りたい。道案内だけを頼むつもりじゃない。三人の組として、一緒に探索してほしい」
意外な申し出だった。
俺はエルザとヴェラを見た。二人とも、驚いたようにラウルへ目を向けている。
「でも、皆さんはずっと深いところまで行ってるんですよね。俺たちはまだ第一層ですよ」
「その違いは分かっている。だが、明日は第一層だけだから問題ないだろう? もし下層への道が見つかっても進まないし、日帰りで戻る。さらに先へ行くかどうかは、明日の結果を見て、改めて相談する」
「なら、俺たちも知っているところでは手伝えそうですね」
「そう思って声を掛けた」
フィロスが腕を組み直した。
「ラウル、その三人を連れていって、進みが遅くなっても知らんぞ」
「遅くなるなら、その時に組み方を変える。お前の組にも同じ話をしただろう」
「俺たちを同列にするな」
「同じ道を歩く間は、互いの位置を知っておく必要がある」
ラウルの言い方は穏やかだった。フィロスが何か返そうとしたところで、ミレイさんが書類を一枚取り上げた。
「フィロス様、明日の持ち物はこちらです。今のうちに確認をお願いします」
「今か?」
「はい。今なら聞いていただけそうですから」
「……分かった」
ミレイさんは小さく笑い、紙を差し出した。ラウルが笑う。俺もつられて口元が緩んだ。フィロスには睨まれたが、何も言わないでおいた。
「明日、なのですね」
ヴェラがラウルへ尋ねた。
「予定ではな。朝、入口で集まる。最初は一緒に進んで、狭いところでは道の幅に合わせて順番を変えるつもりだ」
「私たちの位置は、どこになりますか?」
「その道を実際に歩いてきたのは君たちだろう。最初は俺のそばで教えてほしい。」
ヴェラは少し考えてから頷いた。
「それなら、私たちからも足場のことをお伝えできます」
「助かる」
エルザが地図から顔を上げた。
「合同で動く間、全体の進行はラウルさんが決めるんですか?」
「そうだ。進む順番や配置は俺が決める。ただ、君たちに見えていて、俺には見えないこともあるだろう。そういう時は、その場で教えてほしい」
ダグラス隊長と一緒に歩いた時のことを思い出した。あの時も、進行と配置を決めるのは隊長だった。
「〈コンパス〉が途中で撤退する必要が出た時は、どうなりますか?」
今度はヴェラが尋ねた。
「無理に引き留めるつもりはない。帰る必要があれば言ってくれ。戻る組には、こちらからも人を出す」
「分かりました」
ヴェラが頷く。エルザは手帳を閉じ、もう一つ尋ねた。
「参加条件と報酬も、確認してよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
ラウルは卓の紙から一枚を取り、こちらへ向けた。明日の調査同行と、現地で見たものを報告する仕事。三人分の報酬額も書かれている。
「正式な依頼はギルドを通す。この条件でどうだろう」
エルザは依頼書を受け取り、行き先と仕事内容を読み、最後に金額を確かめた。
「はい。こちらで問題ありません」
「……待て」
フィロスが顔を上げた。
「何でしょう、フィロスさん」
エリザが平然と答える。
「俺の時は、そこから上乗せを要求しただろう」
「そうでしたね」
「今回は、それでいいのか?」
「はい。今回の条件なら十分です」
「俺の時だって、悪い条件ではなかったはずだ」
「ええ。お仕事の条件は、悪くなかったと思います」
「……それはどういう意味だ」
「今回は、こちらの希望とも合っていますから」
エルザは依頼書をラウルへ返した。
「いや、今のは答えになっていないだろう」
フィロスが言うと、ミレイさんが書類から顔を上げた。
「フィロス様。あの時は私も、上乗せが妥当だと申し上げましたよ」
「覚えている!」
ラウルが声を殺して笑った。俺もあの時のやり取りを思い出したが、今回は口を挟まないでおこう。
「ギルドへの登録は、参加する三人が決めてからでいいか?」
ラウルが尋ねる。
「はい。少し相談させてください」
エルザは俺とヴェラを見た。
「どうします?」
「俺は行ってみたいです。他人の動きも見て学べそうですし」
「ノワール様らしい理由です」
「もちろん、道の先も気になりますよ」
ヴェラが小さく笑った。
「私も、参加したいです」
「では、私も」
エルザが頷いて、ラウルへ向き直った。
「〈コンパス〉の三人でお願いします」
「分かった。ありがとう。受付へ持っていこう」
ラウルはそう答え、机上の紙へ三人の名前を書き足した。
◆
受付で合同調査の依頼を受け、翌朝の集合を確認してから、俺たちはギルドを出た。
今日は依頼板を見に来たつもりだったのに、予定はすっかり変わった。通りでは昼前の荷車が行き交い、店先の桶へ水を張る音がする。
「ラウルさん、話す時もずっと周りを見てましたね」
俺が言うと、エルザが頷いた。
「地図を見ながら、私たちの顔も確かめていました。聞いたことをすぐ位置に当てはめていましたね」
「明日は、大勢で一緒に動くんですね」
ヴェラはまだ少し考え込んでいるようだった。
「普段と違いますね。俺たちは三人ですから」
「はい。でも、盾を持っている人が私だけではないかもしれません」
「ほかの盾役の動きは、俺も見てみたいですね」
「私もです」
ヴェラがはっきり答えた。
エルザが鞄から手帳を少し引き出し、表紙の角に指を当てた。昨日直してもらったところは、今も平らなままだ。
「では、帰ったら荷物を見直しましょうか」
「そうですね。俺は革紐を替えたばかりなので、もう準備万端ですよ」
「朝は、閉まりませんでしたよね」
「もう直りましたから」
「ヴェラさんのおかげで」
「……そうですね」
エルザが笑い、リンがその髪際から少しだけ浮いた。
通りの先では、職人が店の庇を直している。上から降ろした木板を二人がかりで受け取り、立てかけていた新しい板と取り替えていた。俺は肩の荷袋を少し引き上げ、二人と並んで宿の方へ歩いた。




