第134話 運ぶものが違っても
エルザの手帳の角が、まだ少し曲がっていた。
昨日ギルドから帰る時にも気づいたが、今日改めて見ると、表紙の端が中の紙を押している。エルザは閉じた手帳を卓へ置き、指で角を戻そうとしていた。
「それ、直りそうですか?」
「紙だけなら戻せるんですけど、表紙の方が少し硬くて」
「ずいぶん使ってますもんね」
「まだ使えますよ」
別に買い替えろとは言っていない。
「新しい紙も足したいので、今日は紙屋へ寄ってもいいですか?」
「もちろん。俺も革紐を見たいですし」
「何に使うんですか?」
「荷袋の口を縛ってるやつです。端が毛羽立ってきたので」
ヴェラは自分の荷袋を持ち上げ、ちらりと中を覗いた。
「私も少し、買い足したいものがあります」
「何です?」
「糸を」
「糸?」
「はい」
それ以上は言わず、ヴェラは荷袋を肩へ掛けた。
先日買った薄紫色の布が頭をよぎる。何か作るつもりだろうか。聞こうとしたところで、エルザが手帳を鞄へ入れた。
「では、行きましょうか」
◆
商業区へ入ると、通りの両側で店が荷を出し始めていた。
軒から吊った革帯が風に揺れ、紙屋の前では店員が木箱を重ねている。馬車が通るたびに脇へ寄らなければならないが、朝のうちは荷車の方が歩いている人より多いくらいだ。
「先に紙屋へ行きます?」
「はい。ちょうどあそこです」
エルザが示した店の前に、小ぶりの荷車が停まっていた。車輪の横へ木箱が三つ降ろされ、残り二つはまだ荷台に積んである。
荷車の反対側から、聞き覚えのある声がした。
「だから、こっちは先に降ろすんだって」
「先に降ろしたら、後ろが取れなくなるだろ」
男が二人、荷台を挟んで話している。ひとりは腕まくりをして箱を抱え、もうひとりは木札の束を指で繰っていた。
「あれ?」
先に俺が足を止めた。
箱を抱えた男が顔を上げる。
「……あっ。あんたたち!」
「ロイさん?」
「そうだよ。久しぶりだな!」
ロイが箱を置き、こちらへ手を振った。その後ろで木札を持っていた男も振り向く。
ネッドだった。
前に会った時は岩に右足を挟まれ、助け出した後もロイとヴェラに支えられていた。今は杖をついて、自分で立っている。
「ネッドさんも。お久しぶりです」
「ああ。あの時は世話になったな」
ネッドは片手に短い杖を持っていた。右足には足首を包むような革の支えがあり、左右の靴も少し違って見える。こちらへ身体を向ける時、右足を置き直すのに少し時間がかかった。
「お元気そうで良かったです」
「元気は元気だ。足の方は、まだ診てもらってる」
「今は歩けるんですね」
「近いところならな。長く歩くと、まだ具合がよくない」
自分の右足へ目を落としてから、ネッドは木札の束を持ち直した。
「でも、ずっと寝てるわけにもいかないからさ」
「ちょっと、二人とも」
紙屋の店員が扉から顔を出した。
「再会はいいけど、荷が通りを塞いでるよ」
「あ、すみません。すぐ動かします」
ロイが箱へ向き直る。ネッドも木札を見て、荷台の奥を指した。
「ロイ、そっちじゃない。先にこっちの細い箱だ」
「だから、それを取るには手前が邪魔なんだよ」
「手前のは、ここに降ろす荷じゃない」
「……え?」
ロイの手が止まった。
◆
ネッドが木札の一枚をロイへ示した。
「紙屋は三箱で、革屋は二箱だろ。今、下ろしてある三箱のうち、あの大きいのは革屋の分だ。紙屋の細長い箱は、まだ荷台にある」
「じゃあ、こっちの大きい方をまた積めって?」
「そうなるな」
「先に言ってくれよ!」
「さっきから言ってるだろ」
二人の声に、エルザが少し口元を押さえた。
どうやら俺たちは、ちょうど仕事の途中へ来たらしい。紙屋の店員が箱に付いた札をひとつずつ確かめ、困ったように笑う。
「革屋の分は通りの向こうだから、乗せたままでいいんだ。こっちは紙の束二箱と、表紙材の細長い箱ひとつ」
「それなら、分かりました」
ネッドが応じ、ロイは荷台の端に置かれた革屋向けの大きな箱へ両手を掛けた。
「こいつを横へ寄せれば取れるな」
「この辺、空けますね」
俺が道の端へ寄ると、ヴェラも店の前から一歩退いた。リンはエルザの髪際に留まっていた。エルザは通り側へ積まれた箱に目を向けている。
ロイは荷台の大きな箱を片側へずらし、細長い箱を引き出した。持ち手が片側にしかなく、少し抱えにくそうだ。
「端だけ支えましょうか?」
「頼めるか?」
「はい」
ロイが持っている側とは反対の端を支える。二人で店先へ下ろすと、箱の底が石畳に軽く当たった。
「ああ、助かった。これで取れる」
「次は紙の束ですね」
「そう。そいつは俺だけで平気だ」
ロイが腕を伸ばしたところで、ネッドが箱の札を指す。
「待て。それも革屋だ。紙の束はもう下ろしてある」
「……札が下になってるんだよ!」
「降ろす前に見ろって」
ロイは一度息を吐き、店先の二箱を見直した。
「お前、今日はずいぶん口が動くな」
「足の分までな」
「そんな器用な身体かよ」
ネッドは笑って、杖を持ち直した。
それからロイが紙屋へ届ける三箱を順に店内へ運び、ネッドが札と数を読み、店員が受け取りを確かめた。俺たちは脇で待っていた。最後の箱を運び終えると、ロイは店先に残っていた革屋向けの大箱を荷台へ積み直した。これで荷台には、革屋の二箱だけが残った。
ロイが額の汗を袖で拭う。
「よし。今度こそ合ってるな」
「合ってる。紙屋に三箱、革屋は荷台に二箱」
「最初からこうしておけばよかったな」
「最初から札を見ておけばな」
「……それはそうだ」
店員は笑いながら受領の札へ印を押し、二人へ返した。
「次は革屋で間違いないよ。そっちは二箱ね」
「ありがとうございます」
ネッドが木札をまとめ、鞄の内側へしまう。ロイは荷台に残った二箱を確かめ、ようやく肩を回した。
◆
「それで、二人とも今はこういう仕事を?」
店の前が空いたところで尋ねると、ロイが頷いた。
「当分、潜るのは休みだな。知り合いが荷の仕事を紹介してくれたんだ。近場の店を何軒か回る仕事なら、二人でもできる」
「二人で、ですか?」
「重い物は俺が持つ。こいつは札を読む。最初は二人とも一緒に担ごうとして、余計に時間がかかったけどな」
「お前が全部一人で運ぼうとするからだろ」
ネッドが言い返す。
「俺が担がなくて誰が担ぐんだよ」
「担げる分だけにしろって話」
「はいはい」
ロイの返事は適当だったが、ネッドの足元へちらりと目を向けていた。
「ネッドさん、治療の方はどうですか?」
ヴェラが尋ねた。ネッドは杖の先を石畳へ置いたまま答える。
「この前、また診てもらった。今は無理に長く歩かないで、動ける範囲を増やしてる。次にいつダンジョンへ行けるかは、まだ分からない」
「そうでしたか」
「そもそも、また行くかどうかも決めてないんだけどな」
「え?」
ロイが横を向いた。
「俺は行くつもりだと思ってたぞ」
「俺の足だぞ。もう少し考えさせろよ」
「……まあ、そりゃそうか」
ロイは短く返し、荷車の縁を指で叩いた。
「じゃあ、しばらくはこっちだな」
「そういうこと」
ネッドはさらりと言った。
俺は右足首へ目を向けかけ、やめた。診てもらっているのなら、ここで俺があれこれ聞く必要はない。向こうも荷の仕事の途中だ。
「でも、二人でまた動けているなら良かったです」
「ああ……本当にありがとうな」
ネッドが、少しだけ声を落とした。
ロイは荷車を少し引いてから振り返った。
「またどこかで会うかもな。こっちは町の中をあちこち走ってるから」
「ええ。荷車を見かけたら、声を掛けますよ」
「今度は箱を降ろす前に会いましょうね」
エルザが言う。
「何でだよ!」
ロイの声が通りへ響き、紙屋の店員まで笑っていた。
ネッドが杖を突いて荷車の横へ移る。ロイも先ほどの箱を確認し、革屋へ向けて車を引き始めた。ネッドは無理に歩調を合わせず、少し遅れてその後を追った。
◆
「さて、今度こそ紙ですね」
ロイたちを見送ってから店に入ると、エルザは追加用の紙を広げ、厚みを確かめた。
「ええ。こっちは薄い方が良さそうです」
「手帳に入るんですか?」
「少し切れば入ります。表紙も、角を直せるそうです」
店員が端の曲がった手帳を受け取り、内側へ薄い板を入れて押さえる。乾いた布で縁を包み、上から平らな木板を重ねた。
「ちょっと置いとけば、少し戻るよ。折れたところは残るけどね」
「ありがとうございます」
「ずいぶん書いてるね」
「はい。まだ途中なので」
店員は中身まで見ず、表紙だけを確かめてくれた。しばらくして木板を外すと、曲がりはだいぶ目立たなくなっていた。エルザは何度か開いて閉じてみてから、満足そうに紙の代金を払った。
紙屋を出て、隣の小間物屋へ入った。俺は革紐を買い、古いものと並べて長さを確かめる。ヴェラは細い糸を数巻き選び、店の人に針も見せてもらっていた。
「何か縫うんですか?」
「はい。少し」
「何を?」
「できたら、お見せします」
答えはそれだけだった。
「完成するまで秘密ですか」
「そんな大層なものではありません」
ヴェラは少しだけ照れたように、糸を荷袋へしまった。
リンがその上でふわりと浮き、一本だけ袋の口から覗いた糸の端へ近づく。
「リン、それは引っ張らないでくださいね」
ちりん。
「今のは分かってくれたんですか?」
エルザが首を傾げる。リンは返事の代わりに髪際へ戻っていった。
買い物を終えて外へ出る頃には、朝より通りが混み合っていた。向かいの革屋の前に、さっきの荷車が停まっている。
「あ、いましたよ」
俺が言うと、エルザも顔を上げた。
ロイが空になった荷台を覗き込み、ネッドが横で木札を数えていた。こちらには気づいていないらしい。
「今度はちゃんと降ろせたみたいですね」
「そうですね」
ヴェラが答える。その間にも、二人は店の人と何か話しながら次の札を受け取っていた。
「俺たちも戻りましょうか」
「はい。今日は荷袋の紐を替えないといけませんから」
「……買っただけで終わりじゃないんですね」
「ノワールさんのですよ?」
「分かってます」
少し面倒くさいだけだ。
ヴェラが小さく笑う。エルザは直したばかりの手帳を鞄の内側へ収め、俺たちは人の流れに混じって歩き出した。




