第133話 先へ行く人たち
朝食の卓には、昨日買った焼き菓子が一つだけ残っていた。
「まだ残ってたんですか?」
俺が皿を見ると、エルザが平然と答えた。
「昨日、四つ買って一つずつ食べましたから」
「じゃあ、これが余った一つですか」
「そうです」
てっきりエルザが二つ食べるんだと思ってた。
ヴェラは自分の杯を置き、皿と俺たちを交互に見た。
「お二人でどうぞ」
「いえ、三人で分けましょうよ」
俺が小さな菓子を三つに割ると、一つだけ妙に大きくなった。エルザの前へそれを置こうとしたところで、指先を押し返される。
「ノワールさんが割ったんですから、ノワールさんがどうぞ」
「では、お言葉に甘えて」
「……遠慮がないのは計算外でした」
エルザがそう言うと、ヴェラが小さく笑った。
俺も笑いながら、菓子を口へ放り込んだ。昨日より少し固くなっていたが、甘さはそのままだった。
菓子がなくなると、エルザは鞄から手帳を取り出した。
「今日は、どうしましょうか」
「俺はダンジョンへ行きたいですね」
「どちらへ?」
「前に左へ入った方です。広い場所の先、まだ見てないでしょう」
第三道標を越え、最初の分岐を左へ。その先で正面と左に分かれる、二本目の分岐。正面側はこの前確認した。左へ入った時には、狭い道を抜けて広い場所まで行き、そこで引き返している。
ヴェラが頷いた。
「前に、奥から音がした場所ですね」
「そうです。でも、音を探しに行くわけじゃありません。まだ歩いてない道を見てみたいんですよ」
「私は賛成です」
エルザが手帳に描いた地図へ目を落とす。
「それなら、広い場所を抜けた先がどうなっているか、そこから見ましょうか」
「ええ。行けそうなら、少しだけ先へ」
「分かりました」
ヴェラが立ち上がり、荷袋の中を確かめた。
リンがエルザの手帳を覗き込むように浮かんだ。
「リンも気になります?」
ちりん。
「よく分かりませんが、元気なお返事ですね」
エルザが笑うと、リンは髪際へ戻った。
◆
〈灰石の口〉の入口は、いつもより賑やかだった。
受付の手前に何人もの冒険者が集まり、荷袋を開いたり、装備の留め具を確かめたりしている。壁際には細長い槍が立てかけられ、大きな布包みが二つ置かれていた。
「今日は人が多いですね」
エルザが言った。
「奥へ行く方たちでしょうか」
ヴェラが、荷物を抱えて行き来する人たちを見ている。
その中で、一人の男が短く声を掛けていた。
「縄はそっちの組へ。予備の灯りは二つに分けてくれ。入口の前は空けておこう」
落ち着いた低い声だった。四十歳くらいに見える男で、飾り気のない鎧を身につけ、肩に使い込まれた槍を立てている。周囲の者たちは返事をしながら動いていたが、男が一つ言うたびに作業を止めるわけではない。それぞれ、自分の荷物をまとめ続けている。
俺たちが受付へ回ろうとしたところで、聞き覚えのある声が飛んだ。
「……また石ころか」
呼ばれ方だけで、誰なのか分かった。
振り返ると、銀の長髪を揺らしてフィロスが歩いてきた。黒い衣服の上には銀の胸当て。腰には刀と脇差が下がっている。
「おはようございます、フィロスさん」
「ふん。今日も第一層か」
「ええ。こっちはまだ知らない道がたくさんありますので」
「相変わらず悠長なことだ」
「急いで全部見るのも、もったいないですよ」
フィロスは何か言いかけ、鼻を鳴らした。
「……言い返すようになったな、貴様」
「以前から、多少は」
隣でエルザが口元を押さえている。
「フィロス」
先ほどの男がこちらへ来た。フィロスが振り返る。
「何だ、ラウル」
「知り合いか」
「……何度か顔を合わせている」
「紹介としては、ずいぶん簡単ですね」
「余計なことを言うな」
フィロスは俺を一度睨んだ。
ラウルが俺へ向き直った。
「ラウルだ。今朝は入口が騒がしくて悪いな」
「ノワールです。こちらがエルザさんとヴェラさん。三人で〈コンパス〉というパーティーを組んでいます」
「よろしくお願いします」
エルザが会釈し、ヴェラもそれに続いた。
「こちらこそ」
ラウルは二人へも同じように頷いた。
その後ろで、荷袋を背負った青年が立ち止まっている。肩から下げた細長い包みが、足元に置かれた道具箱へ引っ掛かっていた。
「すみません、これが……」
「一度下ろそう」
ラウルはそう言って箱を押さえ、青年が荷物を持ち上げ直すのを待った。
「右へ回れば抜ける。そう、それでいい」
包みが外れる。青年はほっとした顔で頭を下げ、仲間の方へ急いでいった。
「お前が持つ荷物だったな。通れる幅も見ておけよ」
「はい!」
叱りつけるでもなく、ラウルは槍を肩へ戻した。
「皆さんは、今日はどちらへ?」
「第三道標の先です。二本目の分岐から左へ入って、前に戻った場所より少し奥を見ようかと」
「そうか。俺たちはもっと先へ行く。途中までは同じ道だろうが、そこで別れることになるな」
「ええ」
「気をつけてな」
ラウルは俺たちへ軽く頷き、入口に並ぶ仲間へ目を向けた。
「そろそろ出るぞ。荷物をまとめてくれ」
短い返事がいくつか上がる。フィロスはその横で、俺へ顎を上げた。
「足元くらいは、よく見て歩くんだな」
「ありがとうございます。フィロスさんも気をつけて」
「余計な心配だ」
その時、別の冒険者がフィロスへ声を掛けた。
「フィロス、こっちも準備できたぞ」
「分かっている!」
フィロスは不服そうに振り返り、自分の仲間の方へ歩いていった。ラウルも軽く手を上げ、槍を担いで別の一団へ戻っていく。
「……にぎやかな方ですね」
ヴェラが呟く。
「いつもあんな感じですからね」
「ラウルさんは、随分落ち着いた方でした」
エルザが言う。
「二人でいると、余計にそう見えますね」
エルザの髪際からリンがふわりと浮き、槍を担いで離れていくラウルの方へ向いた。
ちりん。
エルザがリンを見上げる。
「……『へんなの』、だそうです」
「ラウルさんが?」
「そうみたいですね」
「ずいぶん意外な評価ですね」
エルザが小さく笑った。
ガイルに登録を済ませ、三枚の木札を受け取る。先の一団が下りていくのを待ってから、俺たちも石段へ足を向けた。
◆
第三道標を過ぎた辺りで、先に入った人たちの足音は聞こえなくなった。
俺たちは最初の分岐を左へ進み、坂を下りた。湿った壁の区間を抜け、二本目の分岐へ向かう。今日は正面ではなく左側だ。
短い曲がり角を抜けると、乾いた砂が靴の下で鳴り始めた。
「この石、まだありますね」
少し先の床から、平たい石が斜めに突き出している。前に来た時も、踏まずに脇の固い床を通った場所だ。
「動いてはいなさそうです」
ヴェラが丸盾を身体へ寄せる。俺たちも同じように壁沿いを通った。
先へ進むと、通路が広がった。
以前、マッドクローと戦った場所だ。壁には剥がれたような岩肌があり、足元に乾いた砂が薄く積もっている。奥には、松明の光が途中までしか届かない道が続いていた。
「ここからですね」
エルザが手帳を閉じる。
「前は、この奥を見ている時に音がしました」
「今日は静かですね」
俺が言ってみると、ヴェラも耳を澄ませた。
奥から返ってくるのは、松明の燃える小さな音だけだった。
「行きましょうか」
俺たちは広い場所の奥へ進んだ。
通路は少しずつ細くなり、壁の片側が途中から腰の高さほど張り出していた。立って歩く分には頭をぶつけないが、丸盾を横へ開く余裕は小さい。ヴェラは一度盾を身体へ寄せ、そのまま通り抜けた。
俺も後へ続く。張り出しを越えると、床がわずかに上がっていた。ここまでとは違い、石の粒が大きく、靴底が時々引っ掛かる。
「この先、少し歩きにくいですね」
「はい。私が先を見ます」
ヴェラは二、三歩進み、足を止めた。俺も盾の脇から先を覗くと、床の右寄りで石が欠け、浅く落ち込んでいるのが見えた。
「右が窪んでいます。左側なら通れそうです」
左は壁に近いが、置けるだけの幅はある。剣の鞘が岩へ触れないよう向きを変え、ヴェラの後へ続いた。
エルザは松明を少し前へ出し、足元の陰が薄くなるようにして渡ってくる。リンはその髪際で静かに揺れていた。
窪みを越えた先で、通路は緩やかに曲がっている。その向こうにも石の床が続き、壁が急に途切れる様子はない。
「続いてますね」
「ええ。ここで終わり、という感じではなさそうです」
エルザは懐中時計を開いた。俺も来た道を頭の中でたどる。さっきの石、狭い壁、広い空間。戻る時にも同じだけ歩く。
「もう少しなら、時間はあります」
「では、あの曲がり角までにしましょうか」
俺が言うと、ヴェラが頷いた。
「そこなら、先の見える範囲も増えます」
曲がり角まで進む。通路の向きが変わるにつれ、正面にあった壁が横へずれ、その先にまた暗い道が見えてきた。床は今より少し下がっているようだが、ここからでは足場までは分からない。
「まだ先がありますね」
「はい」
エルザが松明を上げても、その先までは届かなかった。
俺は一歩出しかけ、止めた。
「……今日は、ここまでですね」
「はい」
ヴェラが横で答える。
「戻る道は分かっています。今なら余裕もあります」
エルザは手帳を開き、窪みと曲がり角の位置を簡単に書いた。記録が終わるのを待って、三人で来た方へ向き直る。
帰りは、右が窪んでいた場所を逆側から通る。ヴェラが先に見せてくれた足場を確かめ、一人ずつ進んだ。広い空間へ戻る頃には、さっきより少し息が上がっていた。
「今日は随分歩きましたね」
ヴェラが言う。
「ちょうどいい運動ですね」
「これから深く潜るようになると、そんなこと言えなくなりそうですね」
「そうですよね……フィロスさんたちはどこまで行ったんでしょうね」
「ノワール様は、追いつきたいんですか?」
「そんなことはないですが、興味はあります」
「私たちは私たちのペースで進みましょう」
エルザはそう答えてから、少しだけ笑った。
広い空間を抜けると、また壁が近くなる。平たい石の場所も、来た時と同じように脇を通った。
◆
入口へ戻ると、ガイルが木札を数え、帳面へ印を付けた。
「二本目の左はどうだった」
「広い場所の奥を少し進みました。途中に床の窪みがあって、先でまた曲がっています」
「魔物は?」
「会いませんでした」
「そうか。ギルドにも伝えとけ」
「はい」
ギルドでは、エルザの手帳を見せながら歩いた区間を報告した。新しく通ったのは広い空間の奥から曲がり角までで、その先は未確認のままだ。
手続きを終えて街へ出ると、エルザが鞄の中身を整えていた。薄い手帳の角が少し曲がっている。
「今日の分、いっぱい書けました?」
「必要なところは書けました。線はまだ短いですけど」
「十分じゃないですか。歩いたところまでですよ」
ヴェラが隣で頷く。
「次も、同じ道を通れます」
「そうですね」
エルザが手帳をしまう。
少し先の通りで、焼きたてのパンを抱えた人が横切った。朝から歩き通した腹が、途端に思い出したように鳴る。
「……今日は、どこで食べましょうか」
「さっきから、それを考えてました?」
「いえ。あのパンを見てからです」
「確かに、おいしそうでしたね」
ヴェラが笑い、リンも小さく鳴いた。
俺たちは昼の人通りへ混じり、食堂の並ぶ通りへ歩いていった。




