第132話 線を引く前に
翌朝、ギルドの入口で声を掛けられたのは、依頼板へ向かおうとした時だった。
「あの、〈コンパス〉の皆さんですよね」
振り向くと、受付の脇に細長い図面筒を抱えた男性が立っていた。見覚えのある顔だ。以前、〈灰石の口〉の分岐を測りに行った地図係の人だった。
「お久しぶりです」
「はい。先日はありがとうございました。少しお時間、よろしいでしょうか」
「どうしました?」
「昨日の報告を見まして。第一分岐の壁に、隙間があったそうですね」
エルザが顔を上げ、ヴェラも足を止めた。
「はい。右壁の、岩が張り出しているところです」
「もしよければ、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか。現地で測った時の図面があるんです」
俺たちは顔を見合わせた。もともと今日は、依頼板を見てから買い物をするつもりだった。すぐに引き受けたい札が決まっているわけでもない。
「俺は大丈夫です。お二人は?」
「私も構いません」
「はい。手帳も持っています」
地図係の男性はほっとしたように頷き、受付の端にある卓へ案内してくれた。
◆
卓に広げられた地図には、見覚えのある通路が描かれていた。
第三道標から右へ曲がり、白墨印を通り過ぎて最初の分岐へ至る線。そこから左へ伸びた道の先には、以前一緒に測った二本目の分岐も描かれている。
「この辺りは、以前皆さんと一緒に通ったところです」
男性が最初の分岐の少し手前を指した。
「今回の場所は、どの辺りでしょうか」
「こちらです。第一分岐の右壁で、二つ目の白墨印より少し手前です」
エルザが手帳を開き、自分で描いた図を並べる。岩の張り出しと、その裏側に見えた黒い隙間。見た位置からの絵なので、地図のように上から描かれてはいない。
男性は二枚の紙を行き来するように眺めた。
「なるほど。……この位置ですか」
「測り直した時、何か見えませんでした?」
俺が尋ねると、男性は首を横に振った。
「いえ。あの日は、奥の分岐までの距離と道の向きを調べるのが目的でした。こちらの壁の凹凸までは見ていません」
「そうでしたね」
「それに、普通に歩く位置からは見えにくかったんですよね?」
「ええ。岩が重なって、裏側が隠れていました」
ヴェラが答える。
男性は地図の右壁へ小さな印を置いた。線を引こうとして筆先を動かし、手を止める。
「隙間の幅は、どのくらいでしたか?」
「人が横向きなら通れそうでした。でも、実際に入って確かめたわけではありません」
エルザが答えた。
「床は手前から奥へ斜めに下がっていました。先の足場は見えず、天井がどこまで続くかも分かりません」
「その先が別の道へ続いているかは?」
「分かりません」
短い返事だった。
男性は何度か頷くと、地図の脇へ文字を小さく書きつけた。分岐の右壁に、ごく短い印が増えただけで、そこから先の線は伸びていない。
「あれ、道にはしないんですか」
「今のところは。壁に隙間があることと、人が奥まで進める通路があることは、まだ別の話ですから」
「なるほど」
実物を見た時は、暗い奥へ線が続いているように思えた。紙の上では、まだ点一つに近い。
「皆さんは、どうして岩の裏を見ようと思ったんですか?」
男性が手帳を置いて尋ねた。
エルザの指が、髪際へ触れる。そこではリンが、いつものように白い光を揺らしていた。
「この子が、岩の裏へ入ってしまって」
「この子、ですか?」
「はい。リンと言います。入ったきり、しばらく姿が見えなくなったので、探していたんです」
「ああ、そういうことでしたか」
男性はリンへ目を向け、それから俺たちの方を見た。
「戻ってきたんですよね?」
「はい。何事もなかったように」
エルザがそう答えると、リンがちりんと鳴いた。
「良かったですね」
「……はい」
エルザは小さく頷き、髪際の白い光から指を離した。
「偶然、見つけたということですね」
「そうなります」
俺が答える。
「何度も通っていた場所なんですけど、気づいたのは昨日が初めてです」
「私もです。自分で測りに行った場所なのに、見ていないところがあったんですね」
男性は少し笑った。悔しそうというより、自分でも意外そうな顔だった。
その時、横を通りかかった冒険者が卓の地図へ視線を寄せた。
「何だ、新しい道でも見つかったのか?」
「いえ、まだ道と分かったわけではありません。岩の隙間があったという報告です」
地図係の男性が答える。
「へえ。第一層でも、そんなことがあるんだな」
冒険者はそれだけ言うと、連れを待たせていたらしく入口の方へ行ってしまった。地図係の男性も引き止めず、手元の紙へ視線を戻す。
「これで昨日の報告と場所が合いました。ありがとうございます」
「現地は、もう一度調べるんですか?」
ヴェラが尋ねた。
「必要になると思います。ただ、まずはほかの地図や古い記録と照らしてからですね。現地確認の日程はまだ決まっていません」
「分かりました」
「また何か伺うことがあるかもしれません。その時はよろしくお願いします」
「こちらこそ。俺も、あの先がどうなっているのかは気になりますので」
男性が笑った。
「私もです。測りに行くと、先が気になるんですよね」
「分かります」
「ノワールさん」
エルザが横から声を掛けてくる。
「はい?」
「お仕事の話、終わりましたよ」
「……そうですね」
地図係の男性が、図面筒へ紙をしまいながら声を殺して笑っていた。
◆
ギルドを出て商業区へ向かうと、通りは朝の買い物客で賑わっていた。焼き菓子の店にはもう人が並び、その隣では布や革紐を扱う露店が品物を吊るしている。
「今日は何を買うんでしたっけ」
俺が言うと、エルザがこちらを見た。
「最初に決めたのは、手当て用の布と予備の紐です」
「そうでした。見事に忘れてましたね」
「私は覚えていましたよ」
ヴェラが荷袋を軽く叩いた。
「ありがとうございます。頼もしいですね」
「では、先に布屋へ行きましょう」
エルザが歩き出し、俺たちもその後へ続いた。
布の店では、厚さの違う布切れや、束ねた紐が並んでいた。手当て用の布と予備の紐を買い足したところで、ヴェラが端の棚にある薄紫色の布へ目を向けた。
「それも買います?」
「いえ。少し、見ていただけです」
「好きな色でしたよね」
「はい」
エルザが隣へ寄り、布を持ち上げて光へ透かした。
「この色、きれいですね。縁の縫い方も丁寧です」
「そうですね」
ヴェラの答えが、いつもより少し早かった。
俺が余計なことを言う前に、二人は布を広げたり畳んだりして、店の人と話し始めた。しばらくするとヴェラは薄紫の布を一枚、自分で選んで買った。
「手当て用ではないんですよね?」
「はい。自分で使います」
「良いですね」
ヴェラは買った布を丁寧に畳み、荷袋の内側へしまった。
◆
布屋を出ると、軒先の飾りが風を受けて鳴った。
細い糸に小さな金属の鈴がいくつも吊るされている。リンはその音に引かれたのか、エルザの髪際から離れ、飾りの周りをふわふわと回り始めた。
「あ」
エルザが顔を上げる。
リンは鈴の間を一度くぐり、少し高いところまで浮いた。エルザも目で追っている。昨日の岩陰を思い出したのか、口元がわずかに引き結ばれたように見えた。
「リン」
呼びかけると、白い光がこちらへ向き直る。金属の鈴が揺れる。
ちりん。
「今の、どっちでしょうね」
「……リンの方だと思います」
エルザが答えると、ヴェラが空を見上げた。
「私には、わかりませんでした」
「俺もです。エルザさんにはわかるんですね」
リンがもう一度飾りの周りを回った。金属の鈴が揺れ、またいくつか音を立てる。エルザは手を伸ばしかけたが、そのまま下ろした。
「昨日は、あのまま見えなくなった時、びっくりしました」
「そりゃ、しますよ。あんなところに入って、戻ってこないんですから」
「……はい」
エルザはリンを見上げたまま、短く答える。
しばらくすると、白い光は飾りから離れ、エルザの髪際へ戻ってきた。いつもの場所へ落ち着くのを見て、エルザが小さく息を吐く。
「もう買い物、終わりましたっけ」
俺が尋ねると、エルザは手帳を開き、ヴェラは荷袋を覗いた。
「布と紐は買いました。ほかには……」
「焼き菓子です」
エルザが口を挟んだ。
「それ、予定に入ってました?」
「そうですよ、忘れていたんですか?」
エルザは素早く手帳を閉じて鞄にしまう。絶対に嘘だ。
ヴェラが笑う。
「では、そちらへ行きましょう」
エルザが先に歩き出した。髪際のリンも、今度は大人しくついていく。
焼き菓子の店にはまだ列があった。俺たちは最後尾に並び、順番が来るまで店先の品書きを眺めた。




