第131話 いつもの道の横
昼食に入ったのは、この前エルザとヴェラがお茶を楽しんだ店だった。俺が来るのは初めてだ。
入口の脇では丸いパンを焼いていて、店の中には肉を煮込んだ匂いが漂っていた。どうやら、食事もできるらしい。
「この匂いなら、外れはなさそうですね」
「食べる前から当たりはずれを決めるんですか?」
「食べた後では遅いでしょう」
エルザは何か言い返しかけて、やめたらしい。先に腰掛けたヴェラが、口元へ手を添えて笑っている。
昼食を頼むと、温かいスープと焼きたてのパンが運ばれてきた。朝から歩いた後だけに、最初のひと口がありがたい。
「そういえば、エルザさん。あの警笛、よく思いつきましたね」
エルザがパンをちぎる手を止めた。
「ニードルボアの時ですか?」
「ええ。俺の方を向いていたのに、ちゃんと振り向きました」
「前に会った時、音に驚いていましたから。今度も振り向くかと思ったんです」
「前は木を叩いた音でしたけどね」
「ですから、絶対にうまくいくとは思っていませんでした」
エルザは首元の警笛へ指先を添えた。
「もし向かなかったら、そのまま離れるつもりでした。ヴェラさんが盾を構えているのも見えていましたし」
「私は、エルザ様が鳴らすとは思っていませんでした」
「急でしたよね、すみません」
「いえ。右へ避けると聞けたので、追えました」
「あの音で振り向いてくれて、助かりました」
俺が言うと、エルザは首元の警笛を指でつまんだ。
「前はノワールさんを呼ぶために使ったのに、今度は魔物を呼んでしまいましたね」
「……魔物と同じ扱いになった気分ですね」
「ノワールさん、それはさすがに考えすぎです」
ヴェラが笑う。俺は残っていたパンをちぎり、スープに浸して口へ運んだ。まだ十分に温かい。焼きたてのパンには、やはり温かいスープがよく合う。
「ノワールさん」
「はい?」
「今、明らかに食べる方へ気持ちが移りましたね」
「冷める前に食べたいので」
「私もです」
ヴェラがパンを頬張る。リスみたい。
エルザは一瞬だけ目を丸くしてから、笑いながらスープへ向き直った。
◆
翌朝、ギルドの依頼板には見覚えのある仕事が出ていた。
〈灰石の口〉第一層、第三道標から最初の分岐まで。通路状態と白墨印の確認。薄れた印があれば支給品で補修し、変わったところがあれば記録する。
「ここ、前にも行きましたね」
俺が札を指すと、エルザが覗き込んだ。
「はい。でも、前回から時間も経っていますし、確認する人は必要なんでしょうね」
ヴェラも依頼の範囲を読んでいる。
「昨日のように、通れないところを探す仕事でしょうか」
「似ていますけど、こちらは歩いて通る場所ですね」
「なら、足元と壁の方も見ます」
「俺は天井を見ておきますか。みんなで下ばかり見ても仕方ありませんし」
受付で条件を聞いた。依頼の終点は最初の分岐で、その先の右と左へ進むことは含まれていない。白墨は元の印をなぞる分だけ支給され、未使用分は返却する。
「では、三人で受けます」
手続きを終えると、ヴェラが包んだ白墨を自分の荷袋へしまった。
「昨日は道の端を見ていましたけど、今日は壁ですね」
「足元もお願いします」
エルザが笑う。
「もちろんです。師匠に怒られるのは嫌ですからね」
◆
〈灰石の口〉の入口では、ガイルが帳面へ名前を書き込んだ。
「今日は第一分岐までか」
「はい。印と通路の確認です」
「何かあれば、余計なことはせずに持って帰れよ」
「分かりました」
木札を受け取り、石段を下りる。
第一道標、第二道標と過ぎ、第三道標を越えてからも、いつもの道が続いた。松明に照らされた壁は以前と変わらないように見えるが、足元には細かな石が増えている場所がある。エルザが位置を控え、ヴェラが先へ進む前に一度確かめた。
右へ曲がった先の壁に、最初の白墨印が見えてきた。
横線が二本。その下に短い縦線が一本。
「まだ読めますね」
「はい。薄れているところもなさそうです」
エルザが手帳へ形を写す。ヴェラが荷袋に手を掛けたが、白墨を取り出す必要はなかった。
「使わないなら、そのまま返せますね」
「そうですね。手間が減って助かります」
エルザが手帳へ確認結果を書き添えた。リンが髪際で小さく鳴いた。
少し先の分岐まで進むと、エルザが右壁の白墨印を見つけた。こちらも形は残っている。記録を終えたところで、ヴェラが通路の奥と戻ってきた方を順に見た。
「依頼の範囲は、ここまでですね」
「ええ。変わったところも、大きなものはありませんでした」
俺は右へ続く道へ目を向けた。あちらにも何度か入っているが、今日はその先を調べる仕事ではない。
「では、戻りましょうか」
エルザが手帳を閉じかけた時、リンが髪際から離れた。
肩の周りを飛ぶのかと思ったが、そのまま分岐の右壁へ向かっていく。二つ目の白墨印より少し手前、通路側へ張り出した岩の周りを小さく回ると、横から裏側へ入り込んだ。
「リン?」
エルザが顔を上げる。白い光が岩に隠れた。
すぐに反対側から出てくると思ったが、戻ってこない。
「リン、どこですか?」
エルザが岩の方へ一歩踏み出した。普段より声が大きい。
「ちょっと待ってください。こっちから見てみます」
俺も近づこうとすると、ヴェラが先に足元の石を確かめ、右壁から少し離れた場所を空けてくれた。
「こちらからなら、岩の裏が見えそうです」
エルザが松明を向ける。光が張り出した岩の縁を照らしたが、リンの姿はまだない。
「……奥へ行ったんでしょうか」
エルザは松明を持つ手を上げたまま、岩の陰を覗き込んだ。俺も身を寄せる。
岩の裏側に、黒い筋があった。
ただの亀裂にしては、手前の縁が大きい。奥側にも壁らしい面があり、その間には暗い隙間が続いている。床と同じような石が、二つの壁の間へ斜めに下がっていた。
「……隙間がありますね」
「リン! 聞こえますか!?」
エルザが大きな声で呼びかけた、その時だった。
ちりん。
奥からかすかな鈴の音がして、すぐに白い光が岩の脇へ現れた。リンだ。何事もなかったようにふわふわと浮かび、エルザの方へ戻ってくる。
「ああ、良かった……」
エルザが息を吐いて手を差し出す。リンはその指先の周りをひと回りしてから、いつもの髪際へ収まった。
「心配したじゃないですか」
ちりん。
返事は鈴の音だけだ。エルザはもう一度リンを見てから、松明を岩の方へ向け直した。
「こんなところ、空いていたんですね」
「前に通った時、気づきませんでした」
「俺もです。いつもの位置からだと岩が重なって、奥が見えなかったんでしょうね」
見える範囲では、人が横向きなら入れそうな幅がある。ただし、入口らしい形も、白墨印もない。天井がどこまで続くのかも分からなかった。
ヴェラが光の届かない隙間の奥へ目を向けた。
「この先へ入るのは、やめた方がよいと思います。下がった先の足場が見えません」
「俺もそう思います。そもそも、今日の依頼はここまでですから」
「では、見えたところだけ残しましょう」
エルザは手帳を開き直し、分岐と白墨印の位置を書いたあと、岩の張り出しと、その裏に見えた隙間を描き足した。
その間、リンはエルザの髪際で静かに揺れている。さっきどこまで行ったのかは、結局分からなかった。
俺はもう一度岩の陰を見た。
こちら側からは、奥の暗がりがほんの少し見えるだけだ。行き止まりなのか、先があるのか。確かめるには、あの隙間へ入らなければならない。
「戻りましょう」
俺が言うと、ヴェラが先に通路を振り返った。
◆
入口でガイルへ、道標と白墨印の状態を報告した。分岐の壁に見つけた隙間のことも伝えると、ガイルは帳面の端へ印を付けた。
「入ってないんだな?」
「はい。覗けるところまでです」
「なら、それでいい」
ギルドではエルザが手帳を広げ、依頼範囲の通路状態を先に説明した。次に、最初の分岐の右壁にあった岩の張り出しと、その裏に見える隙間を描いたページを見せる。
受付の人は位置を確かめ、別の紙を一枚取り出した。
「通常の通路確認とは分けて預かります。地図の担当にも確認してもらいますね」
「お願いします」
「入口があると確認できたわけではないんですよね?」
「はい。岩の隙間です。向こうへ抜けているかどうかまでは分かりません」
エルザが答えた。
その間、リンは彼女の髪の近くで静かに揺れている。
手続きを終えると、ヴェラが支給された白墨の包みを返した。
「全部、未使用です」
「確認しますね。……はい、ありがとうございます」
報酬を受け取り、三人でギルドを出た。
「結局、白墨は一度も使いませんでしたね」
「その方が良いこともありますよ」
エルザが言う。
「俺は少し描いてみたかったんですけど」
「ご自分の白墨でお願いします」
「……自分専用のものを買うんですね」
ヴェラが笑い、リンがエルザの肩から少しだけ浮いた。
街の通りには、荷車の音が響いていた。俺たちは行き交う人を避けながら、昼の店が並ぶ方へ歩いた。




