第130話 通れる幅
昼食の皿が運ばれてくると、俺は先ほど見せてもらった依頼札を思い出した。
街道脇の通行確認と、町の荷運び。どちらも急ぎではないらしい。エルザとヴェラは先にギルドで一通り目を通しているが、俺はまだ詳しい条件を聞いていなかった。
「ヴェラさんは、街道の方が良さそうですか?」
「はい。前に護衛で通った場所の近くですし、地上の道がどう管理されているのかも知りたいです」
「そういう仕事は、まだ少ないですからね」
エルザが頷く。食事を邪魔しないよう、手帳は膝の上に置いたままだ。
「依頼の範囲は、前に護衛で通った街道から北へ外れる脇道の一部です。古い石積みのあるところまで。荷車が通れる状態か、道の端が崩れていないかを見て、気になるところがあれば場所を記録するそうです」
「補修もするんですか?」
「いいえ。今回は確認だけです。危ないところを見つけても、自分たちで直したり、無理に確かめたりしないように、と書いてありました」
「それなら、俺たちでも受けられそうですね」
言ったところで、ヴェラが俺の顔を見た。
「ノワール様、荷運びでも構いませんよ」
「いえ、嫌だから避けているわけではありませんよ」
「本当ですか?」
エルザが重ねてくる。
「……しばらく箱は見たくない気持ちはありますけど」
二人が笑った。
皿の上の焼いた肉を切り分けて口に運ぶ。稽古の後だからか、少し濃い味付けがちょうどいい。隣の席でも昼食を取りながら依頼の話をしているらしく、聞き覚えのない地名がいくつか耳へ入ってきた。
「行くなら明日ですか?」
「はい。朝に出れば、昼を過ぎる前には戻れる範囲だと聞きました。ただ、実際に歩く時間は見ておいた方がいいと思います」
ヴェラは自分の杯を持ち上げてから続けた。
「路肩が悪ければ、その先を確かめることより、どこが通れないかを残した方が良いでしょうか」
「そうですね。無事に歩けたから荷車も通れる、とは限りませんし」
俺が答えると、ヴェラが少し嬉しそうに頷いた。
昼食を終えてギルドへ戻り、依頼がまだ残っていることを確認した。受付で細かな条件を聞き直し、三人で受ける。今日は必要な持ち物と道順だけ確かめて、翌朝から向かうことにした。
明日の予定が決まると、エルザが手帳を閉じた。
「では、ノワールさんは午後も稽古ですか?」
「今日はもう十分です。師匠にも、飯を食って寝ろと言われましたし」
「寝るのは夜ですよ」
「それは分かっています」
リンがエルザの肩から浮き、俺の方へ少し寄ってきた。
「……何です?」
ちりん。
答えになっているのかいないのか。エルザは笑いながらリンを指先で迎えた。
◆
翌朝、南東門の前には荷車が何台か並んでいた。
門を出て街道へ入ると、人と荷物の流れが少しずつ広がっていく。町へ向かう荷車には野菜の籠が積まれ、反対へ向かう一台は空の樽をいくつも重ねていた。車輪が固い道を踏む音に混じって、御者の呼び声が聞こえる。
「この道、前に馬車で通りましたね」
「ええ。あの時は荷台が随分揺れました」
俺が答えると、エルザが笑った。
「ノワールさん、最初は楽しそうでしたのに」
「馬車に乗れるのは嬉しかったですよ。現実を知るまでは」
現実と口にして少し変だと苦笑したが、訂正することでもない。
ヴェラが街道の北側へ目を向けた。
「脇道の入口は、この先だったと思います」
少し進むと、低い土の盛り上がりを挟んで、車輪の跡が二本続く道が見えてきた。街道ほど幅はないが、草の間に固く踏まれた地面が残っている。
エルザが手帳を開き、依頼書の簡単な図と見比べた。
「ここで合っていそうです。石積みは向こうの林の手前ですね」
「まず入口から見ましょうか」
三人で脇道の方へ移る。踏み固められた中央は歩きやすいものの、両端には草が伸び、土が柔らかそうな場所もあった。
ヴェラは盾を背負ったまま、道の端を覗き込んだ。
「ここは、車輪が少し外へ寄っても大丈夫そうです。ただ、もっと先は見てからですね」
「荷車一台なら、十分な幅がありそうですけど」
「すれ違う時は別です」
俺が言うと、ヴェラは頷いた。
少し先で道は緩く右へ曲がり、街道は背後へ遠ざかった。右手には低い柵が続き、左には浅い溝がある。水は溜まっていなかったが、草の根元に湿った土が見えた。
「溝のそば、踏まない方がいいですね」
エルザが言う。
俺は中央から溝へ向けて目を動かした。二本の轍は溝から離れるように右へ曲がり、少し先で元の位置へ戻っていた。
「ここで右へ寄った荷車があるんですかね」
「かもしれません。でも、この跡だけではいつ付いたのか分かりません」
エルザがしゃがみ、土へ触れずに手帳へ線を引く。ヴェラは少し前へ進んでから、俺たちを振り返った。
「ノワール様、こちらから見ると分かりやすいです」
呼ばれた場所へ行くと、左の溝の縁が一か所だけ低くなっていた。轍が右へ寄っていたのは、この場所を避けるためらしい。
「……なるほど。溝を避けると、荷車が通れる幅がここだけ狭くなるんですね」
「はい。人なら避けられますが、荷車だと、端に寄り過ぎると危ないと思います」
ヴェラは道の上へ戻り、自分の足元と右側の柵を交互に見た。
「反対から来る荷車と、ここですれ違うのは難しそうです」
「実際に試す必要はありませんね。どちらかが手前で待てばいい場所もありますし」
エルザが曲がり角の先を指した。少し離れたところなら、道が広くなっている。
そこまでの位置関係を記録していると、背後から車輪の音が近づいてきた。
振り返ると、小さな荷車が脇道へ入ってくるところだった。御者台には年配の男が座り、後ろには薪の束が積まれている。
「おはようございます」
道の脇へ寄って声を掛けると、男は馬をゆっくり歩かせながらこちらを見た。
「おう。何かあったか?」
「ギルドの通行確認です。この先、溝の縁が少し低くなっていて、荷車がすれ違うには狭そうでした」
「そこか。知ってるよ。向こうから来たら、手前で待つようにしてる」
男は顎で曲がり角を示した。
「この荷なら通れるが、荷を高く積んだ車だと端が見えにくいんだ。少し前にも、車輪を落としかけた奴がいたな」
「実際に、そういうことがあったんですね」
エルザが聞くと、男は頷いた。
「落ちちゃいねえけどな。向こうから声を掛けてもらって止まったんだと。詳しいことは知らん」
「ありがとうございます。通れる範囲と一緒に報告しておきます」
「頼むよ。あんたらも気をつけてな」
男は馬へ声を掛け、車輪を道の中央へ乗せたまま、ゆっくり曲がり角の先へ進んでいった。
俺たちはその荷車が通り過ぎるのを待ってから、道の端に戻った。
「今の方、慣れていましたね」
「はい。通れることと、初めて通る人にも安全なことは、同じではないみたいです」
ヴェラが言いながら、もう一度広くなっている場所を見た。
「荷車が来た時に待てる場所も、書いておきませんか」
「それは助かりますね」
エルザが手帳を開いたまま答える。俺は二人が位置を確かめている間、街道側と林の方を見ていた。
◆
古い石積みは、林の手前の緩い上りにあった。
石は腰より低く積まれ、道の境を示すように続いている。脇道はその横を通って林の方へ延びていたが、今回の依頼はここまでだ。
「到着ですね」
エルザが懐中時計を開いた。予定していた時刻より早い。かといって、先へ入る理由はない。
「大きな崩れはありませんでした。気になるのは、溝の脇と入口の草ですね」
「はい。それから、荷車が待てる場所も」
ヴェラが指を折って確かめる。
エルザが手帳を広げている間、俺は石積みの先へ目を向けた。林との境に、土の色が一か所だけ濃いところがある。
石積みの脇からよく見ると、草が根元から倒れ、柔らかそうな土が掘り返されていた。その脇には泥のついた石が転がっている。
「……ここ、何か通りましたね」
エルザが顔を上げた。
「獣ですか?」
「そうかもしれません。あまり古い跡にも見えませんけど」
林の方へ意識を向ける。木々の向こうから、俺たち三人とは別の反復が返ってきた。少し間を置いてもう一度確かめると、先ほどより近い。こちらへ向かっているらしい。
「この先に何かいます。少し戻りましょう」
俺が言うと、ヴェラは石積みから道へ出て、来た方を見た。
「さっきの広いところですね」
「ええ。ここだと、石と木の間に寄せられます」
エルザが手帳をしまい、短剣を抜く。ヴェラは背中の丸盾を外して短槍を手に取り、俺も剣を抜いた。
三人で来た道へ向き直ったところで、林から枝の折れる音がした。
低い唸り声が続く。
木の陰から出てきたのは、太い胴に短い脚を持つ獣だった。大型犬ほどの身体。背には灰色の硬い針毛が密に立ち、口の両脇から短い牙が突き出している。
「ニードルボア……!」
以前、エルザと二人で遭遇した魔物だ。あの時はエルザの警笛で駆けつけ、俺が木を叩いて注意を引いた。二人で街道へ退くと、追ってはこなかった。今回も、こちらから近づくつもりはない。
「下がりましょう。追ってこなければ、それで」
「はい」
俺たちはゆっくり距離を取った。まだ石積みの脇を離れきらないうちに、ニードルボアが頭を下げ、前脚で土を掻き始める。
鼻先がこちらへ向く。
「来ます!」
声を出した時には、ニードルボアが地面を蹴っていた。
ヴェラが俺たちの前へ入る。正面から受け止めるのではなく、丸盾を斜めに構え、身体をわずかに左へ外した。
牙が盾の縁を擦る。鈍い音とともに、獣の頭が右へそれた。
「ノワール様、右です!」
俺の方へ流れてくる。
横へ跳んで避けた。背の針毛が目の前を抜け、靴のそばで土が跳ねた。振り向いて斬ろうとした時には、もう獣の尻が先へ行っている。
追わない。
剣を前へ伸ばしかけた腕を戻し、足もその場で止めた。
ニードルボアは道の上で身体を捻り、こちらへ向き直る。鼻先には泥がつき、荒い息が聞こえた。
「エルザさん、もう少し下がってください!」
「分かりました!」
エルザが道の広い方まで下がる。ヴェラも盾を構え直した。
ニードルボアの鼻先はまだ俺を向いている。前脚が土を掻いた。
その時、エルザが首から下げた青銀色の警笛を口元へ寄せた。
――ピッ。
短く一度。鋭い音にニードルボアの耳が動き、頭がエルザの方へ向いた。
エルザは警笛から手を離し、短剣を構え直す。獣が身体を回して駆け出した。
「エルザさん!」
「右へ避けます!」
エルザは立ったまま迎えず、右斜め後ろへ足を運んだ。牙の先を外しながら、抜いていた短剣を獣の前脚へ走らせる。
刃が毛の下を掠め、ニードルボアが短く鳴く。踏ん張ろうとした前脚がずれ、身体が横へ傾いた。
だが、倒れない。
反転しようとする頭が、エルザを追う。
「こっちです!」
ヴェラが横から丸盾を差し込んだ。ニードルボアの牙が盾へ当たり、そのまま押してくる。ヴェラは一歩退いて勢いを逃がし、盾の縁を相手の顔へ向けたまま踏みとどまった。
俺は針毛を避け、獣の頭の脇へ回る。狙うなら、盾へ押し当てられた頭の下か、前脚だ。
身体強化をかけ、剣を構える。
昨日の稽古で何度も言われたことが頭をよぎった。速く振るな。届かないものを追うな。
獣が盾から顔を引いた。
その動きへ合わせ、一歩だけ入って前脚へ剣を振る。刃先が下りるより先に、足の位置が決まった。腕だけが前へ伸びないようにする。
手応えがあった。
ニードルボアが脚を引き、俺の方へ鼻先を振る。剣を戻しながら半歩退いた。今度は身体が前へ残らずに済んだが、二撃目を入れられる距離でもない。
「ヴェラさん、今です!」
ヴェラが盾を押し出し、魔物の顔を俺から外す。空いた脇から短槍が伸び、首の下へ入った。
ニードルボアが激しく身を捻る。ヴェラは短槍を引き抜いて一歩退き、盾を前に残した。俺も剣を構え直したが、獣はそこから踏み込んでこなかった。
前脚が折れ、石に腹をつける。短い鳴き声が止むと、荒い息も聞こえず反復もなくなった。
すぐには近づかず、三人で林の方を確かめる。ほかに動くものは見えない。林の奥までは見通せないが、そちらへ意識を向けても、先ほどのような反復は捉えられなかった。
「……怪我はありませんか?」
「ありません」
「私も大丈夫です。ノワールさんは?」
「大丈夫です。ヴェラさん、盾は?」
「牙が擦ったところはありますが、割れてはいません」
ヴェラが丸盾を少し傾ける。鉄の縁に泥がついていた。革帯と腕にも異常はなさそうだ。
俺は身体強化を解き、剣を下ろした。息を吐く。
「前に会った時は、二人で下がるだけでしたね」
エルザが林の方を見た。
「今回も、下がって済むならその方が良かったですけどね」
「ええ。でも、追ってきましたから」
ヴェラが自分の槍へ目を落とし、布を取り出す。
俺は自分の剣を見た。
「今の一回だけは、剣の戻しが昨日の稽古よりもよくできた気がします」
「一回だけ、ですか?」
エルザが聞く。
「はい。偶然かも知れませんが」
「稽古の甲斐がありましたね」
そう言われると、なんだか照れ臭い。
エルザは手帳をもう一度開き、石積みの位置と、獣が出てきた林の場所を記録した。
「依頼の終点まで確認しましたが、ニードルボアの件も報告しておいた方がいいですね」
「はい。荷車の通る道の近くですし」
ヴェラの言葉に頷く。
魔物の身体には近づかず、道の通れる側を確かめてから、少し離れた木陰で水を飲んだ。さっきの溝の場所まで戻ることも含め、帰りは足元へ余計に気を配ることにした。
◆
戻る道では、来た時とは逆の向きから、記録した場所をもう一度眺めた。溝の縁の低さは、こちらからだとさらによく見える。ヴェラが荷車の待避場所を指し、エルザが手帳へ一行書き足す。
「これで、報告できますね」
「ええ。今度は魔物のこともありますけど」
エルザは林の方へ視線を送った。
「依頼を受けた時には、道幅の話だけだと思っていました」
「俺もですよ。道幅を確かめるのに剣を抜くとは思いませんでした」
ヴェラが小さく笑い、先に街道の方へ歩き出す。道に戻ってからも、林の近くでは三人で距離を詰めすぎないようにした。
◆
王都へ戻り、ギルドで通行確認の結果を伝えた。
受付では、エルザの手帳にある曲がり角の位置と溝の形を確認され、必要な箇所を帳面へ写してもらう。荷車の御者から聞いた話は、俺たちが実際に見たものとは分けて報告した。
「通行自体はできていますが、狭い部分で荷車がすれ違うのは避けた方が良さそうです」
「分かりました。担当へ回します」
「もう一つ、古い石積みのそばでニードルボアと遭遇しました」
俺が言うと、受付の人は筆を止めた。
「どの辺りですか?」
エルザが手帳を開き、林と石積みの位置を示す。
「ここから出てきました。こちらへ二度突進してきたので、三人で対処しました。倒した個体は現地に残しています」
「ほかにもいましたか?」
「確認できたのは一体だけです。林の奥までは入っていません」
受付の人が記録を分けて書き留めた。
「通行確認の報告はこれで足りています。魔物の件は脇道周辺の危険情報として担当にも伝えておきます」
依頼札へ印が付けられ、報酬を受け取った。
ギルドを出ると、朝より人通りが増えていた。門の方から来る荷車を避け、道の端を歩く。
ヴェラとエルザが並んで俺の前を歩く。
エルザがくるりと振り返ると、驚いたのか、髪際のリンがふわりと浮いた。
「この前、ヴェラさんとお茶をしたお店に、今度は三人で行きませんか?」
「いいですね、行きましょう。ノワール様」
ヴェラも振り返った。二人とも後ろ向きのまま、二、三歩進んでいる。
「二人とも危ないですよ……ぜひ、連れて行ってください」
俺がそう答えると、二人とも笑顔を見せる。そして前を向くと歩みを早めた。
リンが二人の間をひと回りして、エルザの肩へ戻った。
昼食の話は出ないんだな、と思ったが、口には出さなかった。
二人の後について通りを歩いた。




