第128話 正面の先
翌朝、パンをちぎろうとして手が止まった。
別に硬いパンではない。いつも〈鈍色亭〉で出してもらっている、外側だけ少し焼き目のついたパンだ。両手に力を入れた途端、腕の内側がじんとした。
「……昨日の仕事が、まだ効いてるな」
小さくこぼしていると、向かいの席へエルザが座った。椅子を引く動きが、いつもより慎重だ。
「おはようございます。ノワールさんもですか?」
「ええ。まだ箱を持っているみたいに、腕が重いんです」
「私は肩です。髪を結び直すのにも、少し時間が掛かりました」
そう言って、エルザは淡い黄色の髪紐に指を添えた。髪際にいたリンが、指先を追いかけるようにふわりと浮かぶ。
少し遅れて来たヴェラは、席へ着く前に一度膝を曲げ伸ばしした。
「おはようございます」
「ヴェラさんも、まだ疲れてます?」
「はい。階段を下りる時、脚が重かったです。脚具の当たりや痛みではありませんけど」
「それなら、今日は休みにしませんか」
俺が言うと、エルザはすぐに頷いた。
「賛成です。昨日の倉庫で、しばらく使う分まで働いた気がします」
「俺も同感です」
ヴェラは少し考えてから、水の入った杯を持ち上げた。
「次に行く場所は、もう決めてありますか?」
「まだです。前の分岐の正面側が気になっていますけどね」
「今日は、不足しているものを買い足しに行きませんか?」
「そうですね」
エルザの提案にヴェラが同意する。
「……そうですね」
久しぶりに動くのが面倒な自分が出てきた。
「ヴェラさんと私で買い出しに行ってきましょうか?」
俺の返答の歯切れの悪さで察したのだろうか。正直ありがたい。
「……お願いしてもいいですか?」
「良いですよ。二人で仲良く買い物を楽しみます」
エルザがクスクスと笑うと、ヴェラも笑みを浮かべて頷く。
「荷物持ちが出来ずすみませんが、よろしくお願いします……」
リンが俺のパンの上へ降りかけ、エルザに指で戻されていた。
二人が買い物に行くのを見送ってから、自室に戻り、ベッドに横になった。
「この感覚……ひさしぶりだな……」
◆
ドアを叩く音で目を覚ますと、窓から夕陽が差し込んでいた。
慌ててドアを開けると、エルザとヴェラが立っていた。
「ノワール様……寝ぐせついてますよ」
二人に笑われてしまった。
「すみません……ここまで寝てしまうとは思ってませんでした。買い物はどうでしたか?」
「買い物ついでに、雑貨屋巡りやお茶も楽しんできました」
エルザがそう言うと、ヴェラが小袋を差し出してきた。
「お土産のお菓子です」
「あ、ありがとうございます」
嬉しい。
お互い有意義な一日になったようで良かった。
◆
一晩明けると、剣を抜いても腕の重さは気にならなくなった。
朝食のあと、三人で次の行き先を相談する。エルザが手帳を開いたところへ、リンがちょこんと乗ろうとした。
「リン、そこはまだ書きますよ」
ちりん。
素直に退いたかと思えば、今度は懐中時計の鎖をつついている。エルザは時計を手の内へ隠し、少し笑った。
「前の分岐、左は広い場所まで見ましたね」
「正面は、入口から覗いただけでした」
ヴェラが手帳の線を指で辿る。第三道標を越えて進んだ先に、正面と左へ分かれる印がある。地図係と一緒に測ったのも、その分かれ目までだった。
「私は、正面へ行ってみたいです」
「俺もです。いつまでも気になってますからね」
エルザは手帳を閉じず、二人の顔を見た。
「では、今日は正面側ですね。ただし、初めて入る道です。どこまで行くか、先に決めましょう」
「最初の曲がり角まで、というのはどうですか?」
ヴェラが提案する。
「曲がり角がすぐそこだったら、随分短い探索になりますね」
「その時は、もう一度相談すればいいと思います」
「そうしましょうか」
エルザが頷く。
時計で帰還時刻を確かめること、通路が狭くなれば無理に進まないこと、足場が悪ければ引き返すこと。いつもの確認を済ませ、荷袋を整えた。
一昨日、倉庫で散々運んだ箱と違い、背負い慣れた荷物の重さは落ち着く。そう思ったところで、何だか妙な気もした。
◆
〈灰石の口〉の入口では、ガイルが登録用の木札を並べていた。
「今日はどこまでだ?」
「第三道標の先です。以前見つけた分岐の、まだ入っていない正面側を確認します」
「左じゃなくて、正面か」
「はい。まずは最初の曲がり角まで。状況と時間によっては、そこで戻ります」
ガイルは行き先と帰還予定を記し、俺たちに札を渡した。
「向こうの報告はまだ少ない。奥の様子が分からんうちは、地図の線を当てにしすぎるなよ」
「分かりました」
三人の札を受け取り、石段を下りる。
地上の光が遠ざかり、松明の明かりが岩肌を照らし始めた。道標を一つずつ通り過ぎるうちに、先日の倉庫とは違う冷たい空気が服の隙間へ入ってくる。
「昨日だったら、ここまで歩くだけでも大変だったでしょうね」
エルザが言う。
「脚より先に腕が文句を言いそうです」
「私は昨日、階段を下りるのが一番つらかったです」
ヴェラがそう答え、少し笑った。
第三道標を越え、最初の分岐でいつものように左へ入る。壁の白墨印を過ぎ、曲がり角を抜けてからは、三人とも口数が減った。坂を下って右壁に湿り気のある区間を通り、天井の低いところを抜ける。見覚えのある岩の形が現れ、やがて通路の先が二つに分かれた。
「ここですね」
エルザが時計を開く。予定より早く着いているが、その分を全部奥へ使うつもりはない。
前に入った左側の入口は、すぐ先で曲がって見えなくなる。正面は、灯りが届くところまでは真っ直ぐ続いていた。
「行きますか」
「はい」
ヴェラが盾の位置を直し、俺が先へ目を向ける。エルザは少し後ろから灯りを上げた。
正面へ足を踏み出した。
通路は思ったより広かった。三人横に並ぶには狭いが、ヴェラが盾を構えたまま向きを変える余地はある。左側で見た乾いた砂は少なく、代わりに床の石がところどころ滑らかになっていた。
「こちらは砂が少ないですね」
「歩きやすそうですけど、濡れているところもあります」
エルザの松明が足元へ下がる。
右の壁際に、細い水の筋があった。岩の継ぎ目から滲んでいるのか、上から流れてきたのかは分からない。床の浅い溝へ集まり、通路を横切って左側へ消えている。
「足元、少し待ってください」
ヴェラが手を上げた。
溝の手前で止まり、灯りを寄せる。水自体は浅そうだが、周りの石まで黒く濡れていた。ヴェラは盾を下げずに足を半歩ずらし、乾いた部分を確かめる。
「ここなら、踏めそうです。向こう側も石が出ています」
「一人ずつ行きましょう。俺が先を見ます」
ヴェラが頷いた。俺は壁に寄り過ぎないよう足を置き、溝をまたぐ。靴の底が湿った岩に触れたところで滑りかけた。慌てて乾いた石へ踏み直し、向こう側へ渡る。
「……少し滑ります。こっちの高いところからの方がいいです」
足元を示すと、ヴェラは位置を変えて渡ってきた。エルザも松明を近くへ寄せ、同じ石を使う。三人が揃ったところで、靴底を軽く確かめてから先へ進んだ。
通路は少しずつ右へ向きを変えているらしい。奥の壁が近づいては、灯りの当たり方で形を変える。まっすぐに見えた道も、歩いてみるとそう単純ではなかった。
右前方に、俺たち三人とは別の生き物の反応がある。
「止まってください。この先に何かいます」
俺が声を落とすと、二人も足を止めた。
「どの辺りですか?」
「右の曲がり角の向こうです。まだ姿は見えません」
反応は動いているようだが、壁の向こうでは細かな位置までつかめない。何がいるのかも分からなかった。
「ここは床が濡れていますね。少し戻りましょう」
ヴェラが足元を見て言う。
さっき越えた溝までは戻らず、乾いた幅のある場所へ下がった。ヴェラが前、俺がその左斜め後ろ。エルザは松明を高くして、奥の壁が見える位置を取る。
かり。
右の曲がり角から、石を引っ掻くような音がした。反応も、先ほどより近い。
灯りの端に、灰褐色の前脚が現れる。
「マッドクローです」
エルザの声とほぼ同時に、魔物が身体を低くして飛び出してきた。
ヴェラの盾へ前脚がぶつかる。鈍い音とともに、盾の縁がわずかに下がった。ヴェラは足を踏み直し、押される分だけ半歩引く。
「右へ流します!」
盾が斜めになる。マッドクローの爪が表面を滑り、身体が右へ振られた。
俺は身体強化をかけ、空いた左側から一歩入る。剣を振った。
軽い。
いつものつもりで振った剣が、思っていたより早く前へ出た。足と腰がついてくるより先に刃先が届き、マッドクローの肩を浅く斬る。
剣を戻そうとすると、今度は腕が遅れた。
追いかけて濡れた床へ入るのはまずい。踏み込んだ足を止め、剣先を向け直す。
マッドクローは短く鳴き、こちらへ向き直った。
「ノワールさん、下がって!」
エルザの声。
魔物が跳ぶ。俺は一歩退き、空けたところへヴェラの丸盾が入った。受けた衝撃で革が軋む。
マッドクローは前脚を盾に掛けたまま、さらに押し込もうとした。ヴェラの靴底が石を擦る。
「このまま押さえます!」
ヴェラが盾を押し返すと、魔物の身体がわずかに浮いた。
俺が退いた脇をエルザが抜ける。松明を身体から離し、横腹へ短剣を入れた。
マッドクローが短く鳴き、盾から前脚を外して身を捻る。エルザへ向き直ろうとしたところで、ヴェラが盾の縁を押し当て、進路を塞いだ。
「エルザさん、下がって!」
俺の声にエルザが後ろに下がる。盾の脇から魔物が顔を突き出したところへ、エルザが短剣を顎の下から突き入れた。
マッドクローは石を掻いて動きを止めた。
すぐには近づかず、もう一度周囲を見る。奥から続く音はない。聞こえるのは、松明が小さく燃える音と、水の滴る音だけだった。
「怪我はありませんか?」
「ありません」
「私も大丈夫です」
エルザが答えるのを聞いてから、身体強化を解いた。思ったより息が上がっていたが、手足は普通に動く。
「ノワールさん。さっき、剣が先に出ていませんでした?」
エルザが俺の剣へ目を向けた。しっかり見られていた。
「ええ。思ったより早く当たって、戻すのが遅れました。稽古でもやった失敗ですね」
「次の攻撃は、ヴェラさんが受けてくれましたね」
「本当に」
「濡れた床へ踏み込まずに済んで、良かったですね」
「はい。でも、もっと広いところへ下がっても良かったかもしれません」
ヴェラが足元を見た。
「次は、そうしましょう。まずは周りを確認します」
エルザが頷き、松明を曲がり角の方へ向け直した。
少し先まで進むと、通路ははっきりと右へ曲がっていた。曲がった先はゆるい上りになっていて、奥へ続いている。灯りの届くところに大きな崩れは見えないが、その先は暗くて分からない。
右壁には、白っぽい擦れ跡が残っていた。
「これ、白墨でしょうか」
エルザが近づき過ぎない位置から照らす。
古い印にも見える。けれど、線は途中で途切れ、元の形までは分からない。岩そのものの色が薄い部分もあって、何かが描かれていたのかどうかも怪しかった。
「見た目だけでは、分かりませんね」
「場所と、残っている形だけ書いておきます」
エルザが手帳を開く間、俺とヴェラは曲がり角と背後を見ていた。リンはエルザの肩口で、静かに揺れている。
「もう少し先も、歩けそうですね」
ヴェラが上り坂へ目を向けた。
「ええ。でも、今日は最初の曲がり角まででした」
「はい。では、ここで戻りましょう」
エルザが時計を確かめ、手帳を閉じる。帰りはさっきの水の溝をもう一度越えることになる。魔物がいたことも、忘れるわけにはいかない。
俺たちは来た道へ向き直った。
◆
入口へ戻ると、ガイルは三人の札を確かめてから、こちらを見た。
「正面はどうだった?」
「少し進むと右へ曲がっていました。途中で水の流れる溝があって、マッドクローが一体。倒しました。死体はそのままです」
「その先は?」
「曲がり角の先が上り坂になっています。そこから先は入っていません」
エルザが手帳を開き、溝と曲がり角の位置を示す。壁の白い跡についても、白墨とは断定できなかったことを添えた。
「分かった。ギルドにも、そのまま伝えておけ」
「はい」
その足で冒険者ギルドへ寄り、エルザの手帳を見せて同じ内容を報告した。
報告を終え、通りへ出る。陽の光が眩しくて、思わず目を細めた。
「今日は、ちゃんと腕が上がりますね」
エルザが言った。
「魔物にも会いましたけど、あの箱運びよりは短い仕事でしたから」
「箱は逃げませんし、襲っても来ませんけどね」
「でも、次々来ます」
ヴェラが真面目な顔で言う。
少し間が空いて、エルザが笑った。俺もつられて笑う。
リンが三人の間をひと回りして、先に通りの方へ飛んでいった。
「リン、今日はまだ歩けますよ」
エルザが声を掛ける。
ちりん、と返ってきた音を聞きながら、俺たちも歩き出した。




