第119話 次が遅い
翌朝、稽古場へ入る。
板垣の内側には、まだ朝の冷えが残っていた。踏み固められた土の上には、昨日までについた足跡が薄く重なっている。
ドランは庇の下の腰掛けに座ったまま俺を見た。
「昨日はどうだった」
先に聞かれるとは思っていなかった。
「身体強化ですか?」
「他に何がある」
「使いすぎました。途中で手が少し震えて、腹も減って。休んで砂糖菓子を食べたら落ち着きました」
「何してた」
「荷運びです」
ドランの眉間に皺が寄った。
「何で荷運びでそこまで使う」
「楽だったので、しばらく掛けっぱなしにしてました」
「馬鹿」
「……はい」
今日は反論できなかった。
「使えば減るだろうが」
「そうなんですよね。途中で気づきました」
「途中まで気づかなかったから馬鹿だと言ってんだ」
その通りだった。掛けている間も魔力を使う。当たり前のことなのに、昨日は途中まで気づかなかった。
「帰りは使わずに歩きました」
「なら覚えとけ」
「はい」
ドランが立ち上がり、庇の脇から木剣を一本取った。こちらへ放られる。
片手で受ける。乾いた木の柄が掌へ当たり、少し遅れて木剣の重さが腕へ乗った。
「今日は剣なんですね」
「持て」
受け取り、いつもの位置へ立つ。
「強化は使うな」
「はい」
木剣を構える。
ドランは正面ではなく、少し横へ移動した。
「振れ」
踏み込んで、木剣を振る。
靴底が土を擦り、木剣が空気を切る乾いた音がした。
「戻れ」
剣を引き、足を戻して構え直す。
「もう一回」
同じように振る。
「左」
木剣を戻しながら、左へ動いた。
「戻れ」
元の位置へ戻る。
何を確認しているのかは、まだ分からない。
「強化しろ」
「はい」
身体の内側へ魔力を流す。昨日までよりは入りやすい。背中、腰、脚、腕まで感覚が広がった。
「振れ」
踏み込む。
木剣がいつもより速く下りる。
空気を切る音も、さっきより大きい。踏み込んだ右足の裏へ、土を強く押した感触が返ってきた。
「右」
声は聞こえた。右へ動こうとする。だが、身体はまだ振り下ろした姿勢に残っていた。
前へ出た右足に体重が乗り、木剣も低い位置にある。そこから身体を起こし、足を戻して右へ動く。
「遅い」
「はい」
「戻れ」
元の位置へ戻る。
今の遅れは分かった。
声を聞かなかったわけではない。右へ行こうとしなかったわけでもない。
ただ、右へ行く前に、一度振った身体を戻している。
「もう一回」
構える。
「振れ」
踏み込む。
「左」
今度は声を聞いた瞬間に左へ動こうとした。
右足へ乗っていた体重を無理に横へ変えようとして、腰だけが先にずれる。足がついてこなかった。
「止まれ」
動きを止める。
靴底が土を削り、足元に浅い跡が残った。
「今のは?」
「急いで次へ行こうとしました」
「だから崩れた」
「はい」
元の位置へ戻る。
振り終えてから動けば遅い。
急いで次へ行こうとすれば崩れる。
どこで切り替えればいいのかが分からない。
一度息を吐く。柄を握る右手が、少し汗ばんでいた。
「師匠」
「何だ」
「どこから次なんですか?」
ドランが俺を見る。
「知らん」
「教えてくださいよ」
「お前が勝手に分けてんだろ」
言われて、黙った。
振る。
戻る。
右へ動く。
俺は三つに分けて考えていた。
でも、強化を使っていない時も、本当にそうやって動いていたのだろうか。
「強化切れ」
「はい」
魔力を流すのをやめる。
全身に掛かっていた力が抜け、木剣の重さが少し戻ってきた。
「振れ」
いつものように踏み込み、木剣を振る。
「右」
木剣を戻しながら右へ動いた。
「今、何した」
構え直しながら考える。
「右へ動きました」
「その前だ」
さっきの感覚を思い返す。
振った。
右と言われた。
それから――。
「剣を戻しました」
「いつから」
答えようとして、止まった。
振り終わってからだと思う。
でも、はっきりしない。
「……分かりません」
「ならもう一回やれ」
「はい」
構える。
「振れ」
踏み込む。
木剣を下ろす。
「左」
今度は自分が何をしているのかを追ってみた。
剣先。
腕。
肩。
足。
一つずつ確かめようとした途端、全部が遅くなった。
「遅い」
「……考えました」
「考えるな」
昨日も言われた言葉だった。
昨日は足や腰を一つずつ動かそうとしていた。今日は、普段なら考えずにやっている動きまで確かめようとして、遅れている。
「もう一回」
構える。
今度は自分の身体を追わない。
木剣を握る感触も、足の位置も追わない。
「振れ」
木剣を振る。
「右」
ドランの声を拾って、そのまま右へ動く。
さっきよりは早かった。
「今のは?」
「聞くな」
自分で分からなければ意味がないらしい。面倒だからではないはずだ。
木剣を見下ろす。
何かは違った。
ただ、それが何なのかまでは分からない。
「強化しろ」
「はい」
もう一度、全身へ魔力を流す。
「いつも通り振れ」
木剣を構える。
「強くするな。速くするな」
「はい」
身体強化を使っているのに、強くも速くもしない。
まだ少し変な感じがする。
「振れ」
踏み込む。
「右」
声が飛ぶ。
剣を振る。
そこから右へ動こうとして、一瞬だけ身体が残る。
「遅い」
「はい」
「次」
何度か続ける。
木剣が空気を切る音と、靴底が土を擦る音が繰り返された。
次を意識しすぎると最初の一振りが崩れ、自分の身体を追えば今度は次が遅れた。
身体強化を使っていない時には考えていなかったことばかり気になる。
「止まるのと終わるのは違う」
ドランが言った。
「……違うんですか?」
「違う」
「どう違うんです?」
「振れ」
答えてくれなかった。
「はい」
構える。
踏み込む。
「左」
振る。
身体が前へ残りそうになる。
左へ動く。
「遅い」
「はい」
「でも止まるな」
もう一度。
今度は次へ急がない。
自分の足も追わない。
振る。
「右」
右へ動く。
「戻れ」
戻る。
「左」
左へ動く。
うまくいく時もあれば、途中で一度身体が止まる時もある。
それが何で違うのかは、まだ分からない。
繰り返すうちに、額に汗が浮いていた。柄を握る掌も湿っている。息を吐くたび、朝の冷たかった空気が少しだけ生ぬるく感じた。
しばらくして、ドランが片手を上げた。
「終わりだ」
木剣を下ろし、身体強化を解く。
「明日は?」
「仕事しろ」
「稽古は?」
「来たきゃ来い」
呼吸を整えながら少し考える。
身体強化は、使えるようにはなった。
歩くこともできる。
剣も振れる。
でも、何か一つやった後が遅い。
「……来ます」
「好きにしろ」
木剣を庇の脇へ戻し、鞄を持つ。
板垣へ向かったところで、後ろから声が飛んだ。
「ノワール」
振り返る。
ドランが俺の右手を見ていた。
「剣振った後に、剣がなくなるのか」
「……なくなりません」
「なら持ったまま次やれ」
「……はい」
それだけだった。
板垣を抜けると、職人区のどこかから槌を打つ音が聞こえてきた。朝より通りを行く人も増えている。
冒険者ギルドへ向かいながら、右手を一度握り直す。
言われたことは分かる。
できるかどうかは、まだ別だった。




